関西将棋会館三階の棋士室には、今日も駒音が響いている。
「…………ちっ、参ったよ、オレの負けだ」
「ありがとうございましたっ!!」
ちょっとヤンキー風なお姉さんが苦々しく駒を投げると、向かいに座っていた可愛らしい小学生は嬉しそうに声を弾ませながら、勢い良く頭を下げた。
それを俺と一緒に黒髪ロングの京美人が眺めているというのが、今のこの部屋の状況だった。
ヤンキー風お姉さんは超攻撃的な棋風が持ち味の女流玉将『月夜見坂燎』。
小学生は俺の愛弟子で圧倒的な終盤力を持つ女流二級『雛鶴あい』。
京美人は強固な囲いで相手の攻めを受け潰す棋風の山城桜花『供御飯万智』。
お姉さん二人は、この世界にいる者なら知らない者などいないくらいの有名人だし、小学生のあいも、この年で女流棋士になった将来有望な竜王の弟子という事で既に相当名も売れている。
あいは頬を紅潮させて興奮した様子でこっちを振り向いて。
「師匠、勝ちました! わたし、タイトルホルダーの方に勝ちましたよ!」
「うん、ちゃんと見てたよ。良い将棋だった」
「えへへー」
褒めながら頭を撫でてあげると、あいは顔をふにゃふにゃに緩ませて気持ち良さそうに目を細める。かわいい。
一方で、月夜見坂さんはイライラとした様子で。
「調子乗ってんじゃねえよ、何局も指した中の一局だけだろうが。これが女流玉将戦だったら余裕でオレが防衛してるっつの」
「へぇ、お燎はもうあいちゃんとのタイトル戦を想定したはるんやねぇ。えらい評価高いやないの」
「ばっ、ちげーよ! 今のは言葉の綾っつーか……」
「はは、でも月夜見坂さんみたいな実力者に教われるなんて、弟子にとって幸せなことです。な、あい?」
「あ、は、はいっ! ご指導ありがとうございます!」
あいは以前までは俺とばかり指したがったが、最近では棋士室で色々な人と積極的に指そうと心がけている。いい傾向だ。
月夜見坂さんは照れくさそうに視線を逸らして頬をかきながら。
「んな改まって礼言われることでもねえよ。まぁ、その、なんだ……オレもマイナビでは大人げないことしちまったしな」
あいはマイナビ女子オープンの本戦一回戦で、月夜見坂さんに盤上でも盤外でもこっ酷くやられてしまった。
ただ、その時は月夜見坂さんも虫の居所が悪かっただけのようで、罪悪感もあったのか今では関西に来た時はいつもあいの相手をしてくれるようになった。まぁ、月夜見坂さんが悪い人じゃないっていうのは俺もよく知っている。
するとここで、供御飯さんがニタァと怪しげな笑みを浮かべて。
「あの頃は、大好きな竜王サンが名人サンにボコボコにされとって、メディアも完全に竜王サンを悪役扱いで、お燎も荒れに荒れとったどすなぁ」
「ぶっ!? おい万智テメっ、何適当なこと言ってんだ!! 別にクズなんて関係ねえよ、オレはただ……」
「はいはいツンデレツンデレ」
「誰がツンデレだコラァ!!」
そんな感じに盛り上がってる二人を見て、あいはニッコリとこちらを向く。
笑顔なのに、迫力がすごい。
「師匠…………またですか?」
なにこれこわい。
というか、何でこの流れで俺が責められてるの……。
とにかく、このまま放っておいたら収集がつかなくなりそうなので、フォローを入れることにする。
「大丈夫ですよ月夜見坂さん、ちゃんと分かってます。その好きっていうのは、“九頭竜八一の将棋が”っていうことですよね」
「そうだよ! ったく、万智テメェ、妙な誤解されるような言い方してんじゃ…………いや待て、ちげーよ!! オレは別にお前の将棋だって好きでも何でもねえからな!!」
この人面倒くせえ……。
でも、俺が負けていたせいで、そこまで荒れてくれる人がいたというのは素直に嬉しかった。あの時は本当に日本中が敵に回ったような気分だったからなぁ。
「その、ありがとうございます。正直、あの竜王戦は精神的にもかなりキツくて、俺も月夜見坂さんのこと言えないくらい荒れてましたよ。あの状況でも戦えたのは、やっぱり皆のお陰でした。対局中に皆の顔や声が浮かんだりもしたんですよ」
「……けっ、何だそりゃ。別に嬉しくも何ともねえよ」
「なるほど、竜王サンはこなたのバニー姿でも思い出して覚醒した、っちゅうことどすな。そないゆうことなら、こなたが竜王戦の賞金の半分くらいもろても」
「んなわけあるか!! ちょっ、あい、違うって! あの状況でそんなもん思い浮かべたりしないから!!」
……供御飯さんのバニー姿が凄く良かったのはよく覚えてるけども。
ただ、その言葉を口にすると弟子が大変なことになりそうなので、ちゃんと黙っておく。
あいは不満気にぷくーと頬を膨らませながら。
「でも、やっぱり師匠にとって一番力になったのは、あいのことを思い浮かべた時ですよねっ!? だって、あいは師匠の一番弟子なんですからっ!!」
「あ、あぁ、もちろん! なんたって、あの最後の審判の形に持っていく順が見えたのだって、あいとの会話を思い出したからだしな! それ以外だって、俺はいつもあいに助けられてるし、本当に弟子に取って良かったと思ってるよ。ありがとう」
「えへへ……わたしも、師匠と一緒に暮らせて将棋を指せて幸せです!」
あいはすっかり機嫌を戻してくれて、満面の笑みを浮かべている。
その笑顔は眺めているだけで、自然とこっちの胸も暖かくなっていく……あぁ、幸せだなぁ……。
そんな俺達の様子を見ていた月夜見坂さんと供御飯さんは呆れた様子で。
「ったく、なんだよその腑抜けた面は。イチャつくのは家でやれ家で」
「お熱いどすなぁ。こないな堂々と見せつけたはるんやから、ロリコン言われても仕方おざりまへんよ」
「……はは、確かにそうかもしれませんね。まぁでも、その内お互い恋人とかできれば自然とそういう話もなくなっていくんじゃないですかね。ウチの弟子は二人共凄い美少女ですし、周りの男も放っておかないでしょう。ただ、その時は俺も父親面して『お前なんぞに可愛い弟子はやらん!』とか言っちゃいそうですけど」
俺は学習した。
小学生を二人も弟子にとって、周りからロリコンロリコン言われるのは仕方ない。俺だって、周りの立場だったら同じことを思うだろう。
それならもう堂々としていよう。
だって、実際俺にはやましい事なんて何もないんだから。
むしろ、ムキになって否定すると余計怪しく見えるかもしれない。
そう、これがオトナの対応というやつだ。
俺も今年は竜王を防衛して最高段位の九段にもなった。そろそろ新進気鋭の若手棋士から、風格あるタイトルホルダーへと心構えを変えていく頃だろう。
それに、もう俺には姉弟子という心に決めた人がいる。
まだ恋人というわけではないが、お互い両想いだと知っていて、将来付き合う約束だってしている。
だから、そういう変な噂をたてられても慌てふためく必要なんてどこにもないんだ。
というか、妙な誤解を生むような反応を見せたりしたら、姉弟子に殺される。これからは容赦しないとか恐ろしいこと言ってたからなあの人……。
いつもと違う俺の反応を見て、月夜見坂さんは鼻で笑いながら。
「はっ、何いっちょ前に達観してますって空気出してんだよ。オレから見りゃお前なんかまだガキだガキ。せめて18になって一緒に酒飲めるくらいになってから大人ぶりやがれ」
「い、いや、飲酒は20歳からでしょ…………というか、俺と月夜見坂さんってそんなに年変わらないじゃないですか」
「ちっちっ、オレとクズじゃ、なんつーの? オーラってもんがちげーんだよ」
「……老けてるってことですか?」
「よし、そこ動くなよ。オトナになる前にここで頓死させてやる」
「じょ、冗談です冗談!! 月夜見坂さんみたいな若くて美人なお姉さんに向かって、本気でそんな事言うわけないじゃないですかー!」
「けっ、調子いいこと言いやがって。おい、万智もなんか言ってやれよ。クズが大人ぶるのなんざ百年早いって…………万智?」
供御飯さんに話を振った月夜見坂さんだったが、そっちを見て首を傾げる。
あれ、そういえばさっきから俺と月夜見坂さんしか話してなかったな。
あいや供御飯さんが静かなのは珍しいと思い、俺も二人の方を見てみると。
「「…………」」
二人共、無言で探るような目付きでじーっと俺の方を見ていた。
な、なんだ……?
「えっと、あい? 供御飯さん? お、俺の顔に何かついてる?」
「……師匠、最近ちょっと変わりましたよね」
「えっ?」
「せやな。なんやろ……余裕? みたいなもんを感じますわ」
……な、なんか、よく分からないけど嫌な予感がする。
対局中でも、ぱっと見では嫌な変化はないように思えても、本能的に何かありそうな感じがする局面が出てくる時があるが、それに近い。
一方であいと供御飯さんは、二人で何か意味深なアイコンタクトをとっている。
それを見て、俺の中の不安は増々膨れ上がっていく。
そして、あいはにっこりと微笑みながら。
「少し前から供御飯先生とも話していたんですけど…………師匠、最近何かありました?」
「な、何か? 何かって言われてもな……」
「たぶん、何か“ええ事”どす。心当たりありますやろ?」
「い、いい事……? うーん、そうだなぁ……」
やばい……これはやばい!
最近あった良い事といえば、浮かんでくるのは一つしかないんだが、まさか勘付かれてるのか!? あいと供御飯さんは前もって話し合ってたみたいだけど、もしかして詰みまで研究済みなのか!?
い、いや、落ち着け。
ここは一手間違えれば頓死する局面だ。焦っても何もいいことはない、落ち着いて、適切な受けを探すんだ。
そうやってダラダラと冷や汗を流しながら、対局中に匹敵する程集中して言葉を選んでいると、月夜見坂さんが面白くなさそうに。
「最近クズにあった良い事って、そりゃ対局のことだろ。竜王防衛してからずっと連勝で、順位戦も昇級候補の筆頭ともなれば調子にも乗るわな」
「そ、そうそう! 良い事といえばもちろんそれですよ!! いやー、俺も一応タイトルホルダーとして、いつまでもC2にいるわけにもいきませんし、今年は上がりたいですからね!」
月夜見坂さん、ナイス!
これで上手く切り抜けられたら姉御って呼ばせてもらおう!
しかし、あいは瞬きもせずに瞳に怪しい光を灯らせて、じっと俺を見たままだ……こ、こわい。
「……師匠、本当のことを言ってください」
「ほ、本当だって! この時期の棋士にとって一番重要なのは順位戦の昇級降級だし、やっぱり俺も」
「ズボン、ゴシゴシしてますよ?」
「ほああっ!?」
俺はビクッと全身を震わせながら、慌ててズボンから両手を離す……が、遅すぎた!
俺には、何か隠し事があると両手でズボンをゴシゴシする癖がある。
以前にも、あいにその癖を見抜かれて窮地に追い込まれたことがあったのだが、それから何も成長してない……いや、でも癖って意識してどうにかできるものじゃないだろ……。
あいの追撃は続く。
「実は、この前お部屋をお掃除している時に、あるものを見つけたんです」
「あ、あるものって……?」
「銀色の髪の毛です。ベッドの上にありました」
心臓が飛び出るかと思うほどに跳ねた。
お、おかしい……絶対におかしい。
確かにあの日は、結局俺と姉弟子の二人でベッドで寝たけど(あくまで寝ただけ)、その痕跡は念入りに消したし、もちろん髪の毛だって残していないはずだ。何度も確認した。
でも、現にあいは見つけてしまった。
あれだけ確認したのに見落としたってのか……!
「……ま、待ってくれ。話を聞いてほしい。それには深い理由があって、その」
「すみません、師匠。あいは嘘をつきました。ベッドには何もありませんでしたよ」
「…………え?」
「でも今、師匠は『それには深い理由があって』と言いましたよね? つまり、あいがいない間に、銀色の髪の毛がベッドに残っていてもおかしくない事があったんですよね? ベッドがやけに綺麗だったのも、師匠が念入りに後始末をしたからなんですよね?」
あ、これ、ひょっとしなくても…………詰んだ?
あいの将棋と同じくらいに凄まじい寄せで頭が真っ白になりかけていると、思考の端ではぼんやりと供御飯さんや月夜見坂さんの声が聞こえてくる。
「この前の竜王サンの順位戦で、銀子ちゃんが記録係してたっちゅうのはもう掴んでおざります。そんで順位戦で夜遅うなる日は、あいちゃんをお師匠サンとこに預けておざるんやろ。つまりその日の帰りに銀子ちゃんを家に連れ込めば一晩二人きり……ということどすなぁ」
「けっ、なんだそういう事かよ。童貞卒業したから大人ぶってみるとか、これだから盛りのついたガキは単純っつーか、バカっつーか」
「ま、待って待って、話を聞いてくださいってば!!」
このまま黙っていては勝手に話は進んでいくだけで、最悪の結末は避けられない!
俺はほとんど思考停止に追い込まれている頭を無理矢理動かして、何とか少しでもマシな落とし所を探る。
これはもう、姉弟子を泊めたという事実は誤魔化せない。
だから、そこに関しては自分の悪手を認め、これ以上被害が拡大しないように方針の転換を試みることにした。将棋ではそういったことを“謝る”といったりする。
「分かりました、白状します。確かにこの前の順位戦のあと、俺の部屋に姉弟子を泊めました。でも、それだけです! 姉弟子は記録係で疲れててすぐ寝ちゃいましたし、やましい事なんて何もしていません!!」
「嘘です」
「嘘どす」
「嘘だろ」
「ほ、本当ですってば、信じてくださいよ!」
三人共明らかに疑いの目を向けてきているが、ここはこう凌ぐしかない。
それに、まるっきり嘘というわけでもない。
少なくとも、月夜見坂さんが言うような一線を越えるようなことはしなかったのだから。
「大体、俺と姉弟子は師匠の内弟子として何年も一つ屋根の下で暮らしてたんですし、ちょっと俺の部屋に泊まるくらいそんな大した話でもないですって!」
「そんなことないです! 鈍感師匠はともかく、空先生は絶対下心あります!! それに、最近は師匠だって空先生を見る目が変わってきてるじゃないですかー!! あいは師匠の一番弟子ですから、分かりますよ!!」
「せやなぁ、記者として竜王サンを追ってるこなたから見ても、最近の竜王サンと銀子ちゃんは何かあるとしか思えんわぁ。二人の噂は随分前からやけど、桜ノ宮でデートっちゅうのはもう完全に黒どす」
「……師匠? わたし、その話初めて聞いたんですけど、またあいに黙ってデートしたんですか? 天ちゃんの時といい、原宿の時といい、もう師匠を縛って部屋に閉じ込めるしかないのかなぁ……」
あいは可愛らしく首を傾げているけど、言ってることが恐ろしすぎる!
このままでは大事な弟子がとんでもない道へと進んでしまいそうなので、慌てて弁解する。
「だから原宿の時も桜ノ宮の時も、研究会だったんだって! ほら、原宿には釈迦堂さんと歩夢がいるし……」
「はっ、おいおいクズ、原宿は百歩譲って信じてやるけど、桜ノ宮で研究会ってのは苦し過ぎんだろ。将棋を指す前に別のモンを」
「言わせねえよ!! 下品過ぎるだろあんた、シューマイ先生かよ!! 違うんですよ、前にも言いましたけど、元々は京橋で生石さんと研究会してて、それで」
「……師匠、桜ノ宮ってどんな所なんですか? どうしてそんなに慌ててるんですか? 確か京橋の隣っていうのは知ってるんですけど……」
「知らなくていい! 小学生にはまだ早い!!」
しかし、すかさず供御飯さんがニヤニヤと。
「あいちゃんだってもう十歳なんやし、このくらい教えたってええやろ。桜ノ宮っちゅうのはな」
「わーわー!! ちょっと、勝手にウチの弟子に変なこと教えないでくださいよ!!」
「なんでダメなんですか師匠! 子供扱いしないでください! というか、変なことする所なんですか桜ノ宮って!?」
「そりゃそうだろ。ラブホ街なんだし」
「…………」
「ああああああああ!!!!! 何さらっと暴露してんだあんたああああああ!!!!!」
もうやだこのダメなお姉さん二人!
恐ろしくてあいの方を見ることができない。
俺としては今すぐにでもこの部屋から逃げ出したいところだが、結局俺もあいも帰る場所は同じなので、その場しのぎにしかならない。
……待てよ?
そもそも、あいはラブホと言われて何のことだか分かるのだろうか。
少なくとも俺は、十歳の時にその単語を聞いても意味なんて全然分からなかったはずだ。
よし、それなら。
「……あいちゃんや。ラブホというのはね、仲の良い人達で気軽に入れるホテルで、お値段もお手頃な」
「知ってますよ。男の人と女の人がえっちな事するホテルですよね?」
「…………そ、そういう事するカップルもいるみたいだけど、必ずしもそうじゃなくて、安いから女の子が友達同士で泊まったりも」
「でも、本来はカップルがえっちな事する場所ですよね?」
「…………はい」
「そういうホテルが沢山あるのが桜ノ宮なんですね? そこで師匠と空先生がデートしてたんですね? そのままホテルに入って、えっちな事したんですね?」
「し、してない! 何もせずにただ寝ただけだから!! 本当だぞ!?」
「そうですか、ラブホには入ったんですね。空先生と」
「あっ……」
あいの目からは一切の光が消え失せていて、その目を真っ直ぐ向けられた俺は震えが止まらない……!
そして、そんな洒落にならない状況を、お姉さん二人は楽しんでいる様子で。
「まぁまぁ、竜王サン。そろそろ楽になってええんやで? というか、竜王と女王が一緒にラブホ入ったっちゅう時点で、記者的には特大スクープやし、早速記事にしてもええくらいなんやけど」
「ちょっ、待った待った待った!! あんたが書くのは観戦記でしょ、いつからゴシップ記者になった!!」
「いいから白状しろっつってんだろ。いいじゃねえか、銀子とそういう関係だってんなら、とりあえずロリコン疑惑は払拭できるじゃん。それにお前、神鍋先生や山刀伐先生、あと椚創多ともやけに仲良いから、そっちの疑惑も生まれ始めてるんだぜ?」
「はぁぁぁぁ!? な、なんですかそれ、誰がそんな噂流してるんですか!? なんか俺が老若男女関係なく手を出すヤバイ奴みたいになってるじゃないですか!!」
「えっ、し、ししょー……JSでも巨乳のお姉さんでも、可愛い子なら誰でも手を出すとは思ってましたけど、まさか男の人まで……?」
「ちーがーいーまーすー!! あと、そんなナンパ野郎だと思われてたの俺!?」
もはや三人は俺の言うことなど少しも聞かない。
これはいよいよ収集がつかなくなってきたと本気で焦り始めた、その時。
ガチャっと、ドアが開く音が部屋に響いた。
それは俺にとって光明に思えた。
こうして棋士室でギャーギャー騒ぎまくっている俺達だが、流石に誰か他の棋士なんかが部屋に来たら気を使って自重する。
つまり、強制的にこの話題を終わらせることができる!
俺は感謝を込めて、今部屋に入ってきた救世主の方を見る…………が。
「…………なによ、その目は。私は棋士室に来ちゃいけないわけ?」
そこにいたのは救世主ではなく、俺に止めを刺しに来た死神だった。
いつものセーラー服に身を包んだ銀髪の少女は、不満そうに俺の方を見ている。
姉弟子のご入室だった。
タイミングが悪いにも程がある……!!
ここにきて当事者が揃い、もう何か一言で頓死するような絶望的な状況に、俺は頭が真っ白になって呆然とする。
その隙を、供御飯さんが見逃さなかった。
「いいところに来やはったなぁ。実は今、竜王サンが銀子ちゃんとキスまでいったっちゅう話で盛り上がってたところどす」
「なっ……!?」
「ちょっ、何言ってんですかあんた! 俺はそんなこと一言もいでえっ!?」
言葉の途中で、姉弟子の強烈なローキックが膝に入り、俺は床に転がされる。
姉弟子は真っ赤な顔で、ゲシゲシと何度も追撃の蹴りを入れながら。
「このバカ! バカ八一!!」
「いてててっ!! ちょ、ちょっと待ってください、話を聞いてくださいって! 俺はまだ」
「なに早速バラしてるのよ! どうせ得意気に自慢してたんでしょ!! まさか行く先々で話してるんじゃないでしょうね!?」
「あ、姉弟子ストップストップ!! 罠ですって!!」
「……は?」
慌てて姉弟子の言葉を止めようとするが、遅すぎた。
俺達のやり取りを聞いていた供御飯さんと月夜見坂さんは、二人してニヤァと嫌な笑みを浮かべ。
「ほうほう、やっぱりキスまでは行ったんやな。まぁ竜王サンと銀子ちゃんのことやから、一気に最後までっちゅうことはおざらんと予想しとったけど、その反応を見るにどうやら当たりどすな」
「んだよ、キスまでかよ、つまんねーの。クズも男だったらそこはガッといけよな、情けねえ」
お、終わった……。
そんな二人の様子を見て姉弟子もだんだんと状況を理解してきたのだろう、俺を蹴るのをやめて、恐る恐る尋ねてくる。
「…………や、八一、もしかしてこれって」
「その、実は今、俺と姉弟子の間に何かあったんじゃないかって疑われてたんです……それで、俺の部屋に姉弟子が泊まったってところまではバレちゃって、それでも何もなかったって言い張ってたんですけど……その……」
「要するにこなたがカマかけたっちゅうことどす。竜王サンを問いただしても、どうせ何もなかったの一点張りやと思ったんでなぁ。上手くいって良かったどす」
「はっはっはっ、良い機転だぜ万智。将棋ではいつも銀子に散々いいようにやられてるからな、たまにはこういうのも悪くねえな!」
「…………」
姉弟子は耳まで赤くして俯いて黙ってしまった。
い、いや、そこで黙らないでほしいんだけど……どうすんだよこれ……。
そして当然、この二人はここで攻めを緩めてくれる程甘くもなく。
「で、で? お姉さんにもっと詳しく聞かせてみ? キスっつっても、色々あんだろ。ベロは入れたのかよベロは」
「なななな、何言ってんすか、入れるわけないでしょ! 俺も姉弟子も初めてだったんですから、いきなりそんな…………おいそこ、供御飯さん!! 何パソコン取り出してる!! なぜメガネをかける!!」
「あ、ちょっと記者モードになっているだけなので、お気になさらず。それより九頭竜先生、キスは初めてだったとのことですが、何も問題はありませんでしたか? 私の予想では、歯がぶつかるといった定番の失敗をやっているんじゃないかなと」
「っ……そ、それは」
「なるほど、その失敗もしっかり経験した、と。他にもお聞きしたいのですが、鈍感で優柔不断な九頭竜先生がアプローチをかけたというのは考えにくいので、やはり空先生の方から何かしらのアクションを起こしてキスまで至ったのでしょうか?」
「そりゃそうだろ、ヘタレのクズが自分からキスなんてできるわけねえって。どうせ銀子がグイグイ行ってやっとそこまで進んだんだぜ。ったく、これだから草食系のモヤシ野郎はよー、男なら自分から行けっての」
「うっ……い、いや、それは俺も情けないとは…………あの、鵠さん? 何をそんなに熱心にキーボード叩いてるんですか? い、一応聞いときますけど、これ記事にしたりは」
「お気になさらず」
「気にするよ!! おいちょっとマジでやめてくださいよ!? そんな事したら洒落にならないことに…………あの、姉弟子も黙ってないで何か言ってくださいって!!」
俺と姉弟子は互いの想いを確認してキスをしたが、まだ恋人となったわけではない。
いずれ姉弟子が四段になって、俺と公式戦で対局した暁には正式に恋人になって世間にも公表することになるのだろうが、まだ早い。というか、俺と姉弟子もまだ心の準備ってものができてない。
だから、その時までは表面上は以前までと変わらずいようと二人で決めていたのに、もう既にプラン崩壊の危機だ。じっくり指したかったのに、急戦を仕掛けられて焦る感覚と似ている。
とはいえ、この二人……特に供御飯さん相手に俺一人では捌ききれるわけもなく、この場で唯一の味方と言える姉弟子の助けを借りたいところなのだが、先程から顔を俯かせて黙り込んだままだ。
「やばいですって姉弟子! 鵠さんのことですから、このままだと本当に俺と姉弟子の記事を」
「……る」
「はい?」
「帰る!!」
バタン! と。
姉弟子は真っ赤な顔のまま、部屋から出て行ってしまった。
あまりにも唐突だったので、少しの間、姉弟子が出て行ったドアをポカンと見ていることしかできない。
しかし、次第に理解してくる。
この、絶望的な状況を。
う、嘘だろあの人、突然来て場をかき乱した挙句にさっさと帰りやがった……俺だけ置いて帰りやがった……!
もうダメだ、こんなのはどうにもならない。
好奇心旺盛な二人のお姉さん方からの凄まじい圧力を感じる。これから途切れることのない質問攻めを始める気満々だ!
即座にそこまで読んだ俺は、ここである一手を放った。
「よし、じゃあ俺も、今日は家でソフトでも使って研究するとしますか! それじゃ、お先に失礼します!」
そう、逃げの一手だ。
玉の早逃げ八手の得とも言うし、これは確実に好手のはず!
案の定二人が引き留めようと何かギャーギャー騒ぎ始めたが、俺は全く聞こえない振りをして颯爽と部屋を出る――――はずだった。
俺は部屋のドアの前で、立ち止まることになった。
何かを言われたからというわけではない。もっと直接的な……というか物理的要因によるものだ。
具体的に言えば、小さな手が、ぎゅっと俺の服の裾を握っていた。
ダラダラと、全身から冷や汗が噴き出るのを感じる。
その小さな手には、そこまで強い力は加わっていない。やろうと思えば簡単に振りほどけるだろう。
しかし、それを許さない、凄まじい圧力を背中に感じる。
そうだ、この場には、月夜見坂さんや供御飯さん以上にとんでもない存在がいた。
まるで獲物を狙う肉食獣のように、今までその気配を殺して機会を窺っていたが、ここにきて俺を逃がすまいと動いてきた。
その圧力に、俺は指一本動かすことができなくなり、当然振り返ることだってできない。
そんな俺に、背後から……低くて……異様に平坦な……声が…………。
「師匠…………きちんと全部説明してください…………ね?」