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西住には虎がいる。
これは決して比喩的表現ではなく、彼の者達は本物の虎を自身の隣人として侍らせているのだ。
西住の者には一人につき一頭の虎がつく。
長女であるまほには母であるしほについていたヴィットマンという名の虎が傍に与えられていた。
このヴィットマンは賢さと勇猛さを秘め、そして静かな気性を兼ね備えており、正に主であるまほに良く似ていた。
いや、気性だけではなかった。
ヴィットマンはまほの虎である筈であったが、どちらかというとみほの傍にいる事の方が多かったのだ。
時間の割合的に言えばみほの虎という風に見えなくも無いが、西住の虎は主の忠実な友人でもあり相棒でもあり従者でもあるのだ。
そういった点から見れば、みほを守る為に傍にいるというのは主の意向を忠実に実践しているとも言える。
何せみほの傍にずっといて守っていたいのはまほ本人なのだから…。
一方でみほの虎はカリウスという若い虎であった。
いや、若いどころかみほが生まれてから一年に満たない程の間を空けて生まれたのだからみほとほぼ同年齢といっても良い。
このヴィットマンと同じ様にドイツの戦車乗りのエースで敵戦車を150輌を撃破したオットー・カリウスから名前を取られた虎は、ヴィットマンとは大きく性格が違っていた。
ヴィットマンもみほには懐いているが、みほよりも遥かに年上である事もあって傍から見れば妹か娘を愛する兄や父親の様な接し方であった。
其れに対してカリウスはまるで姉に懐く弟の様であった。
生まれて間も無いまだ小さな子猫の様な時から同じ様に小さな赤子のみほに纏わりついていたし、ベビーベッドでみほが寝ていればすかさず潜り込んでは横から抱きつくように一緒に寝るのだ。
その様子に西住の家の長老達は「昔から虎に好かれる者はよい武人になったという。きっとこの子は良い戦車乗りになる」と喜んで迎えたのだ。
かのように赤子の頃から一緒であったが、やはり西住の虎だけはあってその賢さは他の野の虎とは比較にならないものであり、カリウスもやはり赤子の頃からその爪や牙でみほに決して傷つく様な事はしなかった。
みほが這いずって移動出来る様になればその後ろをチョコチョコとついてきて、周囲の者の表情をにこやかに崩し、みほが歩けるようになればやはりその後を置いていかれぬようについていく姿に微笑ましいものを感じさせた。
みほが成長し更に活発になって行動半径が広まってもそれは変わらなかった。
付近の野山だろうと川だろうと何処へだろうと遊びに行く時もカリウスは必ずみほについていった。
唯一変わった点といえば後ろではなく横を歩く様になった事だろう。
尤もそれがカリウスの何らかの心境の変化を表したものなのか、それとも横を歩けばみほが無意識に空いた手で撫でてくれたりする事があったからなのかは解らなかったが。
無論、この一人と一頭だけではなく、みほは必ず遊びに行く時は姉を誘ったし、まほは妹の誘いを絶対に断らなかった。
もしこの子供三人だけであったら遊びに行くなどしほは絶対に許さなかったであろう。
許されなかった程度では諦めないのがみほではあるが、其れに加えて話術的にも行動的にもあらゆる面で一枚上手の菊代も阻止に動くので三人だけで遊びに行くのは不可能であった。
そこでこの三人にヴィットマンが加わる事になった。
ヴィットマンにしても主であるまほは勿論として、既に散々みほの面倒を見てきた彼がみほとカリウスが目の届かない所へ遊びに行くなどは許容できないものであったのだ。
故にこの四人組は何時も一緒に行動しており、特にみほが好んだ遊びである"冒険"ではみほをリーダーとした強固な絆のパーティーであった。
みほが笑いながら先頭を歩き、その横を同じ様に楽しそうにみほと一緒にはしゃぐカリウスが歩き、妹に手を引かれて笑顔を浮かべるまほと後ろを静かに見守るヴィットマンという光景が良く見られたものであった。
「わたしがせんしゃちょー!おねえちゃんがそうじゅうしゅでカリウスがほうしゅでヴィットマンがそうてんしゅね!
Ⅱ号戦車に乗る時は戦車長であるみほからそれぞれ通信手や操縦手や砲手の役目を拝命して動かしていた(本来なら鉄と硝煙の匂いを嫌うのが獣であるが、西住の虎は当然ながらそんな事は気にしていなかった)。
それをカリウスは嬉しそうに吼えて受け、まほも顔を綻ばせながら解ったと操縦席に収まり、ヴィットマンは一声鳴いて了承を伝えると速やかに自分の席へと動いた。
尤もⅡ号戦車は本来なら三人乗りで戦車長は砲手を兼任するものであるから、カリウスはもっぱらコマンダーであるみほの傍にいたが。
野山だけではなく人里もみほ達の遊び範囲内であった。
この辺り一帯の名主である西住の御嬢様と現代の今なお神獣として信仰深い虎の組み合わせはよく歓迎され、先祖代々住んでいた老夫婦の家庭等からは特に可愛がられていた。
このみほとカリウスの関係性は4~5年程で成体となる雄虎であるカリウスが大きくなっても変わらなかった。
身体はみほよりも遥かに大きくなってもその甘えん坊なところは変わらなかったし、何時だってみほの良い子分であり弟分あった。
のしのしとみほの横を歩き続けたし、みほがその名を呼べば嬉しそうに近寄ってみほの小さな胸の中に頭を擦り付けて甘えていた。
何処かへ遊びに行く時はみほが一声かければさっと伏せ、みほをその背に乗せて嬉しそうに駆けていった。
このより機敏な相棒を手に入れてからみほの活動範囲と内容は著しい広まりを見せ、よりヴィットマンとしほを苦労させたのだ。
このみほの忠実な相棒が始めてみほに叛旗を翻したのはみほが小学校に進学する様になってからであった。
即ち、それまでは寝る時でも一緒だった二人が始めて一日の内の数時間を離れ離れになってしまう事になったのだ。
勿論、みほも寂しかったが去年に同じ様に離れ離れになってしまった姉であるまほと同じ学校に通える事を嬉しく思っていたので其れほど反発しなかった。
一方でカリウスの方は絶対に認められなかった。
みほが登校しようとすれば服の端を噛んで引き止めたし、みほがこらっと叱ればクゥーン…と悲しそうな声を出しつつもその巨体で道を塞いだ。
みほの言う事を聞かないのはこれが初めてだったし、みほを困らせたのも初めてであった。
ただ二人の関係や絆は強固であり、その心は深い所で繋がっていたのだ。
「わたしとカリウスは離れていても離れていないよ。
だからさみしがることはないんだよ。
わたしのかえりをまっていてね」
みほはそっと優しくカリウスの頭をと背を撫でながら言った
それだけでカリウスはクゥーンとまた一声鳴いて静かに道を譲ったのだ。
それからみほが学校に行っている間、カリウスはずっと正門前でみほの帰りを待っていた。
雨が降る日でも雪が降る日でも常にそこから動かず、道の先にみほの姿が見えればやはり嬉しそうに駆け寄って大きな体を精一杯縮こませてみほの小さな体に精一杯甘えるのが日常であった。
やがてみほが小学校を卒業し、中学へ進学する為に黒森峰女学院の学園艦に移る時に虎二頭も当然の様についてきた。
無論、これも通常の学園艦であれば問題であるが、熊本を本拠地とし西住によって創立された黒森峰女学院であるから遥か昔より代々の西住の関係者が虎を連れてくるのは公認されていた事であり、特に今回の事が特例であった訳ではない。
尤も、まほの進学にあわせてヴィットマンも艦にあがるのが道理であった筈であった。
これはまほが自分がみほの傍にいられない代わりにみほをよろしく頼むと命じた事もあって、ヴィットマンも残ったのだ。
ヴィットマン自身もこの自己完結して成熟している主人ならばともかく、あの何をしでかすか解らないみほが自分の目の届かないところにいるのが不安でたまらなかったのだ。
性格的な面で言えばみほは昔の活発な頃から打って変わって大人しく控えめな性格になったが、ヴィットマンに思わせれば根っこの部分は変わっておらず、ここぞという時に"やんちゃ"をするのは何時までもヴィットマンの心配の種であった。
……尤もヴィットマン自身は気づいていないだろうが、そういったみほの突発的な行動に手を焼かされる事をヴィットマンは決して嫌いではなかった。
そういった点からもこの主従は良く似ていると言えるだろう。
こうして学園艦に二頭の虎が乗り込むと生徒達は様々な反応を見せた。
西住流と関係が深い分家出身や西住流門下生は既に虎と出会った事もあるので特に驚かなかった。
地元出身であれば虎の事は当然知っており、時には神事や祭事に関する事で姿を見せるので知識としては知っていたが、いざ目の前にするとやはり平静で入られなく多少の動揺を見せた。
また黒森峰女学院は九州という日本の端にある学園艦であるものの、戦車道の名門校であるから全国から優秀な戦車道を歩む者が集う学校である。
そういった地方から来た生徒は西住の虎について知らない者も多く、そういった生徒は虎を間近で見ては悲鳴をあげて逃げ惑うのであった。
その姿は実は学園艦に長くいる者にとっては性質が悪いが密かな楽しみである伝統行事の一つであった。
そんな多種多様な生徒達の中に一人の新入生がいた。
切れ目に宿る強い光が強い意思を秘め、まるで孤高の銀狼の様であった。
その女生徒の名前を逸見エリカという。
-2-
逸見エリカは熊本の比較的裕福な家に次女として生まれた。
家庭は至って平穏で、子に対する親の態度と教育も人間であるから常に公平かつ誠実とは言えないだろうが、客観的に見て十分に愛情を注がれていた。
あえて欠点を挙げるとすれば二番目に生まれた娘に対して些か甘すぎたという点であろう。
尤もこれは親だけではなくエリカの姉もであるが。
ある日、そんなエリカが日が沈みかけてから装飾華美で見るからに高価な洋服を汚しながら息を弾ませながら帰宅してきた。
それを見てエリカの母親は高価な服を汚したことに対する憤りよりも、普段から年齢に対して大人しい娘が服を汚して日が暮れるまで遊びふけた事に対して喜びを感じたのだから親として立派である事の証左であろう。
「私!戦車道をしたい!」
そしてただいまの一言を言う前にその口から飛び出した台詞がこれであった。
何事かと興奮する娘を上手にあやしながら母親が事情を聞いた。
その証言自体は時系列もバラバラで要領を得ないものであったが、要約すると遊びに行った先で戦車に乗った姉妹と一緒に遊んだという事であった。
この熊本で子供だけで戦車に乗っているのだから恐らくは戦車道を嗜む家の娘なのだろう。
同年代の子供がエリカにとって完全に未知である世界の住民である事が彼女の好奇心だとかを刺激したのだ。
またエリカは自分の性格が災いして親しい友人とも言える知り合いがいなく、こんな風に時を忘れて無我夢中で同年齢の誰かと遊んだこともなかった。
そして彼女達はエリカに「また遊ぼうね!」と言ってくれた。
エリカは心からもう一度、名も聞かなかった彼女等会いたいと強く願った。
その為には戦車道を続けていれば恐らく会えるだろうという結論に至ったのだ。
これに関して母親と父親の間で話し合いが行われたがその結論は容易く導き出された。
見栄の為に子供に何かを強要させる気はないが、だからといって外部に対するそれへの欲求がない訳ではない。
華道や馬術等と並ぶ婦女子の嗜みとされる戦車道を娘が習うのは自慢の娘への箔になるだろう。
通常家庭ならば何かと金銭のかかる戦車道を習わせるのは大きな負担であるが、幸いにしてエリカの家はそれくらいな何とかなる程度に裕福であった。
かくしてエリカは近くの子供向けの戦車道の道場に入門する事となった。
元々素質があった事と生来の妥協を知らぬ性格によってエリカは同年代の同門生の中でめきめきと頭角を表した。
そして自分と一つだけしか違わない筈なのにテレビの向こうで活躍しながら中学生MVPに選ばれた西住まほに憧れて黒森峰中等部に入学した。
中等部での最初の戦車道活動にてエリカが大きく注目した一人の生徒がいた。
尤もそれは良い意味ではなく嘲笑の意を込めてである。
最初に集合した時、新入生たちはつい数ヶ月前までランドセルを背負っていたとは思えないほど整然と並んでいたが、その中の一人がその振る舞いも視線も絶えず浮つかせていた。
身を縮こまらせて不安そうに周囲を見渡す彼女を見ては、如何なる覚悟と信念を持って入学したのだろうかと疑問に思えたのだ。
無論、人にはそれぞれの心情があるべきであり、その多様性を飲み込むべきなのだろうが、エリカにとってこれまでもそしてこの場にいる同輩を見ても戦車道を歩む者たちは何かしらの信念を持って歩んでいたのだ。
それ相応の想いを込めてこの場にいるべきであるのに、その小柄な―――実際には身長はそう変わらないのだろうが、その姿勢と態度がそう見せていた―――少女はまるでこの場にいる事がその意では無いように見えたのがエリカをどうしようもなく腹立たせた。
そしてそれはエリカ自身の発言と態度にいっそ素直なほど表れた。
こういった事を飲み込んだり陰口を叩くのは不得意な性分だったのだから本人に直接隠すことなく言いたい事をぶちまけたのだ。
……ところがその少女は一度戦車に乗れば新入生の中で……いや、上級生を含む全生徒の中でも一際抜けた実力の持ち主であった。
実力だけではなく搭乗してキューポラから半身を出して指揮している姿は自信に満ち溢れていた。
ここに至ってエリカは自己嫌悪と恥ずかしさで頭がいっぱいであった。
上から目線で言葉を投げかけていた相手が実は自分より遥か上だったのだから当然であるだろう。
そして、その後に寮の二人部屋に行こうとすると扉の前に件の少女がいたのだ。
「あ!逸見さん!一緒の部屋みたいですよ!」
先ほどあんな言葉を投げかけていたというのに彼女はそれを全く気にすることなく声をかけてきた。
その点だけでもエリカはありがたかった。
「そ、そうね、これからよろしくね。えーっと…」
最初の自己紹介の機会では彼女に対して興味が湧かない…というより湧かないと自分に言い聞かせていたのでエリカは自らの意思を持って彼女の自己紹介が片側の耳から入ってはそのままもう片側の耳へと通過させていた。
故に彼女の名前すら知らないのだ。
幸いな事に部屋の前に既に自分の彼女の表札がかかっていた。
"逸見エリカ"と書かれた表札の横に目をやり彼女の名を確認した。
「西住さん、よろしくね。
……西住?……西住!?」
「中は結構広いんだね。二人部屋ならこんなものなのかな?
わっ!」
驚きで硬直しているエリカを余所に扉を開けて部屋の中身を確認するみほに大きな影が飛びついた。
「カリウス、先に入ってたんだ!
あ、そっか。だから広いのか」
大きな影―――カリウスと呼ばれた虎はその巨体をみほに押し付けるようにして甘え、みほもその頭を無造作に撫で付けた。
虎。そう、虎である。
カリウスを見てエリカはますます微振動しつつも固まったままであった。
それは突然目の前に大型肉食獣が現れた……からではない。
今、エリカは強烈なフラッシュバックを起こし、エリカにとっても重要かつ貴重で思い入れ深い思い出を更に10年弱の間に薄れかかっていた部分も含めて鮮烈に追体験していた。
脳内を様々なシーンが連続的に埋め尽くす。
その中には二人の姉妹と……そして虎と一緒に戦車に乗ったシーンが多分に含まれていた。
-3-
何故今まで考え付かなかったのか。
エリカの地元の九州では……特に熊本では西住の虎は非常に有名であった。
幼いにも拘らず戦車に乗っている時点で西住流に関係する家の者であろう。
そこまではエリカにも解っていた。
しかし、虎を連れているのであれば"関係する"ではなく西住本家の者に決まっている!
(ど、どうしよう!私、あの時の子に折角会えたのに…再会できたのにあんな態度とっちゃった…!)
エリカは自分の迂闊を呪ったがこれは致し方が無いものであった。
当時はエリカも幼い子供であったからその様な推察をするには知識も経験も足りなかった。
その頃にそういった論理思考から結論を導き出せなければ、仮に成長したとしても何かの切欠が無い限り改めて考えを及ばせるといった事はそうできないものであった。
ところがみほは"初対面"の時のエリカの態度について一切の言及をしなかった。
普通なら嫌うなり少なくとも苦手意識を持つなりするであろうが、みほはその様な負の感情を見せず、むしろ正の感情をこれでもかというくらいにエリカにぶつけてくるのだ。
自らの失態によって絶望していた所をその対象人物そのものから優しい言葉をかけられてエリカはますますみほに傾倒した。
尤もエリカは自分でも自覚している様に困難な性格をしており、一言謝罪をしたいと思っていても中々それができなかった。
また本心ではとっくにみほに対して素直に親しくありたいのに、あの時の高圧的な態度から一変させるのが行い難い性分であった。
それでも周囲からすればエリカはまるで主人に呼ばれればまるで仕方が無い風に寄ってくるものの、その実は懐く飼い犬の様にしか見えなかったのだが。
「えへへ、エリカさんありがとうね!」
「全く……もう少しシャキっとしたらどうなの」
口ではこの様にキツイ言い方ではあったが
(はぁ…ハニカミながら笑顔で礼を言うみほ可愛い…)
内心ではこの通りであった。
ともかくもエリカにとってこの黒森峰の生活は幸せであった。
何せ長年想い続けて再開できるかどうかも解らなかった相手と一緒に暮らしているのだから。
ところが、そんなエリカの生活にも一点だけ大きな不満点があった。
ある時、エリカがみほと一緒に暮らす自室に帰ってくるとその不満点が早速目に付いた。
「あ、エリカさんおかえりなさい!
もう、はいはい解ってますよ」
大きな虎がみほの膝枕にその巨体の一部を預けていたのだ。
みほは右手に持ったブラシでその背を梳くってやりながら左で優しくその頭や喉を撫でており、帰ってきたエリカに挨拶を言う為に手を止めると虎は少しだけ甘えるように唸って催促するとみほは苦笑しながらその行為を再開した。
(こ、こいつ!畜生の分際で何て羨ましい!)
エリカは漫画等の擬音表現として"ごろにゃ~ん"という表現があるのは知っていたが、実際に猫科の動物が甘える時は本当にそう聞こえるのだなと何処か冷静な部分で得心のだった。
大型の猛獣が自分より二回りも小さな少女に身を委ねて、それを柔らかな笑顔を浮かべながら撫でる少女の構図はいっそ幻想的でもあっただろう。
しかし、この虎―――カリウスはエリカにとって不倶戴天の敵であった。
そう思っているのは何もエリカだけの一方通行ではない……少なくともエリカはそう信じている。
その証左としてこの憎らしくも賢しい獣は今もエリカを見遣るとふふんと鼻を鳴らし、まるで見せ付ける様にみほのお腹に頭をこすり付けて甘えてみせた。
その人間くさい動作はどう見てもエリカに対して「どうだ、羨ましいだろう」と言っている様だった。
(ぐぬぬ…!)
当初こそは如何に熊本民とはいえ間近に見る大型肉食獣に恐れおののいたが、今ではもはやそんな気持ちは消え去っており、エリカにとっては憎きライバルであった。
「貴女、行きたい所があるんでしょう?
貴女一人で行かせたら地元でも迷子にでもなるんでしょうから仕方が無いからついていってあげるわよ」
例えば熊本の港に寄港する時にみほをデートに誘った時も(本人は少なくともそのつもりであった)、いざその時になれば二人だけではなく虎二頭がついてくるのだ。
ヴィットマンに関しては敬愛する隊長の虎であるし、ヴィットマン自身もまるで西住まほの気高さと誇り高さと凛々しさをそのまま受け継いだような(出生順で言えばまほが受け継いだというべきなのだろうが)虎であったからエリカも敬意を持って接していたか問題は無い。
ところがカリウスはエリカがみほの横を歩き、さりげなく手をとろうとすれば間に割って入ってエリカが掴もうとしたその手に頭をこすり付けて甘えるのだ。
いっそ自然なまでに無意識にカリウスの頭を撫でながらエリカとの会話を継続させるみほの姿に、この両者の関係がエリカとのそれよりももっと長く深い物である事を理解させられる物であった。
それが故に割って入り返す事もできずに悔しそうにするエリカとそれを得意げに見つめ返すカリウスの姿にヴィットマンはやれやれとこれまた人間臭い動作をするのが常であった。
尤もエリカだって負けてはいない。
本州の港に寄港する時は流石に虎を降ろす訳には行かないから二人きりのデートが楽しめる。
また、戦車に搭乗する時までは戦車道活動の授業中ですらカリウスは傍にいるが(これはカリウスだけではなくヴィットマンもであり、更に言えば西住しほが在学中もそうであった)、いざ戦車に乗るとなれば流石に一緒にいられる訳ではない。
かつての頃はⅡ号戦車に乗る時は二人はあんなに一緒だったのに、時の流れによってもはや夕暮れは違う色になった事をカリウスは寂しそうにしながらも理解していた。
一方で戦車に乗っている時はエリカがみほの傍にいられる番であった。
無論、乗車している車両は別であるし時には物理的な距離で言えば離れている場合も少なくは無かった。
それでもエリカはこの時間の最中は互いに傍にいるという精神的充実を十分に感じていた。
「ありがとうエリカさん!」
「いいのよ、大体今回の事だって私は何もしていない。
貴女の作戦と指示のおかげなんだから」
「ううん!違うよ!
エリカさんがいるからできたんだよ!」
「あっ…あっ…!」
手を握り、僅かに上目遣いで礼を言い、そして抱きついてくるみほにエリカは既に幸福の絶頂であった。
そしてちらりとカリウスの方を向きふふんと鼻を鳴らしてやると今度はカリウスが悔しげな表情をするのだ。
それを見てエリカは胸のすくう様な気持ちになるのだが、こういう時は学校が終わって自室に帰るとカリウスは普段にもましてべったりと甘えるのが常であった。
散々擦り寄って抱きしめられて撫でられた後はみほの布団の中に入り込んで同衾しては今度はエリカを悔しがらせるのだ。
こうした関係を周囲は密かに笑いながら見守っていた。
「副隊長には可愛い狼と虎がいて、その寵愛を巡って争っている」
とクスクスと笑いながら噂するのが黒森峰機甲科生徒達の密かな楽しみであった。
エリカ本人がこれを耳にすれば憮然としていただろうが、同時にエリカに対する印象の緩和に繋がっていた。
これはこれまで他人にも自分の水準を求めていた気難しい性格によって周囲から孤立していたエリカの環境の改善に一役買っていたという事になるとも言える。
尤もカリウスのおかげ等とエリカ自身は決して認めないだろうが……。
ともかくもこのトムという名の狼とジェリーという名の虎の喧嘩は黒森峰のダイヤモンドの様な雰囲気を少しではあるが硬度を下げるのに成功していた。
それがずっと続くのだと誰もが思っていた……。
-4-
雨が降っていた。
ざぁざぁと雨が降っていた。
雨に打たれながらエリカはのそりのそりと足を動かしていた。
全国大会が終わり、機甲科全体が休暇となっていたが、誰もがそのもたらされた時間を暗く過ごしていた。
既に全身が雨に塗れたエリカは凍えるような寒さを感じていたが、果たしてそれが雨水に体温を奪われたからなのかそれとも心が凍てついているからなのか自身でも判断がつかなかった。
今すぐにでも帰ってシャワーでも浴びなければ風邪を引く事は間違いなく、悪くすれば肺炎にでもなってもおかしくは無いだろう。
それでもエリカは帰るつもりは一切無かった。
あのただでさえ広かったのに、住人が一人へって更に広く感じるようになった部屋に帰るのは様々な事を強制的に実感させられてしまうのが嫌で仕方が無かったのだ。
のそり……のそり……。
足を動かすのも億劫な気持ちの中で何とかたどり着いたのは格納庫であった。
特に意識もせず、自室に帰るのが嫌で彷徨っている内に辿り着いたのがここであった。
重い扉を全身を使って何とか開けて、エリカは中に入り込んだ。
ぽたりぽたりと服や髪から水滴が落ちて灰色のコンクリートの地面を湿らせていく。
雨名月で窓から月明かりすら差し込む事が無い暗い格納庫を奥へと歩いていくと、目の前にそこだけ雲がうごいて開いたのか、格子が嵌められた天窓から月の明かりが差し込んだ。
明かりによって照らされた其処にはみほが搭乗していた217の番号が記されたティーガーと……
「…カリウス?」
其処にはカリウスが尻だけ地に着けてティーガーを見上げていた。
そっと近づくとその全身は塗れた様子も無く、一体何時からここにいたのか解らなかった。
エリカが横に立って同じ様にティーガーを見上げると、カリウスはエリカを一瞥だけすると再び視線をティーガーに戻した。
……しばらくの間、場を沈黙が支配した。
それをまるでエリカは哀悼の意を示している様に感じてしまい、何とも言えない気持ちになった。
いや、それは決して間違いではないのかもしれない……。
エリカはカリウスの傍に静かに座ると彼の頭をそっと撫でた。
カリウスもそれを黙って受け入れていた……。
-5-
「それからエリカさんずっとカリウスの面倒見てたんですよ!」
「ちょ、ちょっと!別にこいつの面倒なんか…!」
あんこうの5人と席について一先ず落ち着いた後の歓談で赤星がみほに報告する様に告げるとエリカは顔を赤くしながら否定にもなっていない否定をした。
「そうなんだ…エリカさんありがとう!」
「…まぁ知らない仲じゃないし」
みほがかつてのように自分の膝の上に頭を預けて存分に甘えているカリウスを撫でながら礼を言うとエリカは久々のみほからの「エリカさんありがとう!」に内心では感慨深く懐かしさを感じて泣きそうになっていた。
実際、エリカはぶつくさ文句を言いながらもカリウスの食事を用意したり洗ったりブラッシングをしたりとみほがしていた事を代行していた。
カリウスの方もしょうがないからさせてやると言わんばかりの態度であったがそれを受け入れていた。
それは言ってみれば似た者同士による傷の舐めあいだったのかもしれない。
しかし、始まりと過程はなんであれ、兎も角も二人の間には奇妙な繋がりができたのであった。
実際、夜に何となく二人の気持ちが共有された時、特に打ち合わせる事もなく共に寮を出ては217と刻印されたティーガーの元へ行く事が何度もあった。
その間、二人は何も口には出さなかったが、そこには同類としての何らかのシンパシーが確かにあった。
「はぁ、逸見殿って意外と面倒見がいいんですね」
「本当、初対面の時のとイメージが違いますよね」
「あれは……悪かったと思ってるわよ!」
「エリカさんはとっても優しいんだよ。
私も何度も助けられたし…優しくしてくれたんだ……」
「うんうん、可愛さ余って憎さ百倍って奴だよね!
みぽりんの事が大好きだったからしょうがないよね!」
あなたね!と顔を真っ赤にしながら怒鳴るエリカを周囲は笑って迎えた。
そうして歓談に一区切りつくとふとエリカはカリウスに目を向けた。
久しぶりの再開とあって今までに見た事が無いくらいみほに飛びついて甘えていたカリウスはそれに気づくとこれまた昔の様にふふんと鼻を鳴らしてみせた。
それを見たエリカは
(……まぁ今日は良いわよ)
と寛大な心をもって許してやるのだった。
ただし、明日は自分がみほを独占させてもらうと内心でカリウスに語りかけながらであるが。
-了ー