オリジナル展開、オリジナルキャラの要素を多分に含みます。
それでも良いと言う方は、ぜひ一読下さい。
※この回は特に、痛々しい表現が強いです
予めご了承願います
後悔は目の前に立っていない
後ろから追いかけてくる
それでは、どうぞ
炎にも、機嫌というものがある。
人間が薪をくべて起こすような、小さな火の話ではない。
地の底を流れ、岩を熔かし、時に妖怪さえも呑み込む獄炎。
永い年月を燃え続けた其れは、既に一つの生き物と呼んでも差し支えない。
穏やかな時は、深く眠る獣のように静かである。
僅かに空気を震わせながら、与えられた場所に留まり続ける。
しかし一度でも機嫌を損ねれば
管を軋ませ
岩盤を砕き
己を閉じ込める全てを焼き尽くそうとする。
だからこそ、火を扱う者は炎を侮ってはならない。
見慣れた色だからと安心してはならない。
昨日と同じ音だからと、今日も同じだと思ってはならない。
小さな違和感を見逃さず
異常を認めたなら、直ぐに誰かへ伝える。
─ 一人で出来ることと、一人でやっていいことは違う。
それは、アタシがつい先日教わったばかりの言葉だった。
◆
その日、お空は朝早くから地霊殿を離れていた。
”
放置すれば、溜まった熱が地霊殿の側へ逆流する可能性がある。
調査だけなら他の者に任せることも出来たけれど、巨釜の内部構造を知る者は少ない。
何より、以前あの釜を封じたのはお空自身。
自分が行くのが一番早いと、あの子は考えていた。
言うが早いか、私が止める暇すら与えずに飛び去ってしまった。
『調査だけです。危険と判断したら直ぐに戻ります』
出掛ける前、お空はそう言っていた。
言葉だけを聞けば殊勝なものだ。
しかし、あの子が思い浮かべていた“危険”の基準は、私の想定より遥か彼方にあった。
岩盤が少し崩れた程度なら安全。
火に巻かれても羽根が残っていれば安全。
片腕が使えなくとも、もう一方が動けば続行可能。
大方、そんな基準だろう。
追い掛けて叱りつけることも考えたけれど、”巨釜”の件に伴って集まった報告書が机上に山を作っていた。
加えて、旧都側との連絡、地霊殿に暮らす動物達の避難経路の確認、近隣区画の再調査。
私自身が動くべき案件は、お空への説教だけではなかった。
「全く……。帰ってきたら覚えてなさい」
誰もいない執務室で呟き、次の報告書へ手を伸ばした。
その時。
机の端に置かれていた紅茶の表面が、ほんの僅かに波打った。
地の底から響いた、小さな揺れ。
最近では珍しくもなくなった其れに、第三の目を向ける。
しかし揺れは直ぐに収まり、それ以上の異変は感じられなかった。
「……嫌な静けさね」
私の呟きに、答える者はいなかった。
◆
地霊殿の東側。
普段使われる巡回路から外れた場所に、第四補助釜と呼ばれる設備がある。
焦熱地獄の主要な釜で生じた余剰の熱を受け入れ
一時的に蓄えた後、複数の排熱路へ分散させる。
釜という名こそ付いているものの、主な役割は巨大な熱溜まりに近い。
本来であれば、大きな火勢を生む設備ではない。
だからこそ、常駐する管理者も置かれていなかった。
定刻ごとに担当者が計器を確認し
異常がなければ記録を残して帰る。
危険度の低い、初歩的な管理区画。
お空さんが、アタシへ制御の仕事を教えるにあたり
最初に実地訓練を行う場所として考えていたのも、この第四補助釜だった。
『お燐、お燐! どこだァ!』
『カシラぁ! 居ねぇのかよォ!』
赤と青、二つの火が何かを騒ぎながら、廊下を慌ただしく飛び回っている。
「どうしたんだろ……?」
『カシラが居ねぇなら、メガネの姉ちゃんに伝えるか?』
『あいつの前に出たら、オイラ達まで燃料にされちまわァ』
『オイラ達ァ、もう燃えてんじゃねぇか』
『そりゃそうだ』
二匹で一頻り笑った後、直ぐに揺らめきを小さくした。
笑っている場合ではないらしい。
「そんなに慌てて、どうしたの?」
『あっ、お燐!』
『カシラを見なかったかぃ?』
『どこにも居ねぇんだ』
「お空さんなら、巨釜の排熱路を調べに行ってるよ。今日は夕方まで戻らないって」
『なんてこったぃ』
『間が悪ィなァ』
二匹はアタシの頭上をぐるぐると回った。
何か困り事があるのは明白だった。
「お空さんに用事?」
『第四の補助釜が、どうにも妙でよォ』
『熱の流れが淀んでんだ。火も少し騒がしかった』
「第四補助釜……」
つい先日、お空さんに見せてもらった系統図を思い出す。
”巨釜”からは離れているが、複数の釜から余った熱を受け入れる場所。
構造は比較的単純で、異常が起きた際の操作も手引書に記されていた。
『カシラが戻ったら伝えてくれや』
『オイラ達ァ、もう一度向こうを見てくらァ』
「……待って」
飛び去ろうとした二匹を呼び止める。
「そのことは、アタシからお空さんに伝えておくよ」
『いいのかぃ?』
「うん。今日、お空さんが戻ったら制御記録を渡すことになってるから。その時に必ず話す」
『そいつァ助かる』
『やっぱカシラの妹分は頼りにならァ』
二匹は安心したように火勢を強め、アタシの頭上を一度回ってから去っていった。
「第四補助釜……」
もう一度、口に出す。
本来であれば、約束どおりお空さんの帰りを待つべきだ。
それが正しい。
お空さんも、異常を見つけた時はまず報告するよう言っていた。
─ 一人で出来ることと、一人でやっていいことは違う。
胸に抱えた記録帳の中には、預かった手引書が挟まれている。
第四補助釜の操作手順も、昨日のうちに何度も読み返した。
主要な計器は三つ。
温度。
圧力。
火勢。
異常時には小弁を開き、排熱路を一つずつ確認する。
お空さんが最初の実地訓練に選ぼうとしていた場所だ。
つまり、初心者でも扱える。
「様子を見るだけなら……」
自分に言い聞かせるように呟いた。
異常が大きければ、直ぐに戻って報告すればいい。
小さな異常なら、手引書に従って処置する。
何もなければ、それで済む。
お空さんは今、もっと危険な巨釜の対応をしている。
こんな小さな異常まで持ち帰れば、休む暇もなく働くことになる。
少しでも補佐をしたい。
少しでも負担を減らしたい。
そして。
アタシにも出来ると、証明したい。
「確認だけ。危ないと思ったら、すぐ帰る……から」
誰に向けるでもなく約束し
アタシは第四補助釜へ続く道を歩き始めた。
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第四補助釜の制御室は、普段お空さんが働いている場所より、確かに小さかった。
壁面に並ぶ計器も少なく、制御盤はこちらの胸ほどの高さしかない。
初めて入った者でも全体を見渡せるよう、必要な設備だけが簡潔に並べられている。
自分一人でも扱える大きさの鉄扉を閉じながら
最初に避難路を確認した。
入ってきた正面扉。
制御室の奥には、点検坑道へ続く細い通路。
その通路は途中で上方へ伸び、地表近くへ出られる。
お空さんから教わったとおり、まず逃げ道を二つ確保する。
「よし……」
それから制御盤へ向かった。
確かに、いつもとは違う。
温度計の針は、許容範囲の上限近くにある。
圧力は正常。
火勢だけが、一定の間隔で大きく揺れていた。
炎が強くなり
弱くなり
また強くなる。
まるで、釜の底で何かが呼吸をしているようだった。
「温度が高い。でも圧力は……まだ大丈夫」
声に出しながら、手引書を開く。
火勢が不規則に上昇し、圧力に変化がない場合。
排熱路の一部が詰まり、熱だけが内部へ戻っている可能性がある。
まず第一小弁を四分の一。
三十を数え、変化がなければ第二小弁を八分の一。
同時には開かない。
「第一小弁……これ」
何度も札を確認してから、把手へ手を掛けた。
固い。
両手で握り、ゆっくり力を込める。
錆び付いた金属が悲鳴を上げ、僅かに動いた。
「一、二、三……」
数を数える。
壁の向こうで、何かが流れ始める音がした。
温度計の針は動かない。
火勢も変わらず、不規則に揺れ続けている。
「……二十八、二十九、三十」
第二小弁を探し、こちらも八分の一だけ開く。
今度は天井の管が小さく震えた。
一瞬、釜の底から重い音が響く。
アタシは直ぐに計器へ視線を戻した。
温度が、下がっている。
ほんの僅かではあるが、上限近くにあった針が左へ戻り始めた。
不規則だった火勢も、次第に揺れ幅を小さくしている。
「出来た……?」
思わず笑みがこぼれた。
まだ終わってはいない。
お空さんは、操作が反映されてからもしばらく全体を見るよう言っていた。
逸る気持ちを抑え、他の計器にも目を向ける。
圧力、正常。
排熱量、徐々に上昇。
温度、低下を継続。
手引書に書かれたとおりの動きだった。
「アタシにも、出来た……」
お空さんへ報告したら、褒めてくれるだろうか。
初めは、勝手に来たことを叱られるかもしれない。
けれど異常を見逃さず、手引書どおりに処置した。
釜も正常へ戻った。
少しくらいは、認めてもらえるかもしれない。
アタシはもう、守ってもらうだけではない。
お空さんの仕事を手伝える。
お空さんが居ない時は、代わりに地底の火を守れる。
「……よし」
記録帳を開き、時刻と数値を書き込む。
─その時だった。
筆先が、紙の上で僅かに跳ねた。
「地震……?」
床が揺れている。
最近よく起こる、地の底からの小さな振動。
そう思った直後、制御盤の中で何かが弾けた。
温度計の針が、一気に右へ振り切れる。
「…………え?」
圧力計が遅れて跳ね上がった。
火勢を示す針は左右へ激しく振れ、目盛りへ何度も打ち付けられている。
警告を知らせる鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
止まらない。
「何で……さっきまで下がって……」
考えるより先に、第一小弁を閉じようとした。
しかし把手は先ほどより固く、全く動かない。
管の中を、何か巨大なものが通り抜けた。
轟音と共に制御室全体が揺れ、天井から細かな石片が落ちてくる。
「落ち着いて……全体を見る……!」
圧力が上昇している。
火勢も上昇。
排熱量は。
「逆流……?」
本来なら外へ流れるはずの熱量を示す計器が、負の値を指していた。
排熱路から、熱が戻ってきている。
第四補助釜へ接続された全ての経路から
許容量を遥かに超える熱と霊気が、一斉に流れ込んでいる。
「そんな……」
手引書をめくる。
頁をめくる。
しかし、該当する項目が見つからない。
複数の排熱路から同時に逆流が起きた場合。
温度と圧力と火勢が、全て一度に上限を超えた場合。
どこにも書かれていない。
これは、第四補助釜だけの異常ではない。
底で繋がる何かが。
遥か離れた巨大な何かが。
他の釜へ向かって、炎を押し出している。
「”
黒く塗り潰された系統図が、脳裏へ浮かんだ。
直ぐに逃げなければ。
記録帳と手引書を抱え、正面扉へ走った。
取っ手を掴む。
しかし、動かない。
「開いて……! 開いてよ!」
両手で引く。
足を壁へ当て、全身を使って引く。
外側の岩盤が崩れ、扉を塞いでいるのか。
それとも熱で枠が歪んだのか。
僅かな隙間すら生まれない。
ならば奥の点検坑道だ。
振り返った時、通路の天井が崩れ落ちた。
岩塊が床へ叩き付けられ、細い逃げ道を完全に塞いだ。
「そんな……」
二つの避難路が、同時に失われた。
床の排水溝から、赤い光が漏れ始める。
最初は細い筋だった。
それが一瞬で広がり
金属の格子を熔かしながら、粘りつく溶岩が室内へ溢れ出した。
「ひっ……!」
思わず後ずさる。
火車であるアタシは、炎には強い。
焦熱地獄の近くで死体を運ぶことも、日常の一部である。
でも、これは違う。
火を操ることと
地獄そのものの熱へ耐えることは、同じじゃない。
床へ流れ込んだ溶岩が、靴の底を焦がしていく。
熱気を吸い込むたび、喉と肺が焼けるように痛む。
「誰か……!」
声を上げる。
警告鐘と炎の轟音に掻き消され、自分の耳にさえ届かない。
「お空さん……!」
呼んではいけないと思った。
お空さんは巨釜の対応中だ。
こんな場所へ来てはいけない。
それでも、口から出た名前は一つだけだった。
「お空さんッ!!」
◆
それは、”巨釜”から伸びる排熱路の亀裂を塞いでいた時だった。
あり合わせの材料で作った被せ物のため、完全に修繕することは出来ない。
それでも、少なくとも地霊殿側への逆流は防げるはずだった。
作業を終え、僅かに息を吐く。
その瞬間。
巨釜の底から、今までとは明らかに異なる脈動が伝わった。
「何だ……?」
火口の表面が大きく波打つのを感じる。
溶岩が爆ぜるのではない。
内部に押し込められた何かが、行き場を求めて別の経路へ流れ込んでいる。
直ぐに系統を思い浮かべた。
地霊殿直下の主釜。
旧都側の排熱溝。
第一、第二、第三補助釜。
そして。
「第四……!」
あそこは熱を受け入れるための釜だ。
複数の経路から逆流が起きれば、真っ先に負荷が集中する。
通常なら無人の時刻。
誰かが巻き込まれる可能性は低い。
そう考えた直後、胸騒ぎがした。
理由は分からない。
分かりたくもなかった。
けれど、頭の中に浮かんだのは赤い髪と二本の尾だった。
「まさか……お燐!」
翼を広げる。
地面を蹴った衝撃で、修理したばかりの配管が再び軋んだ。
しかし振り返る余裕はない。
狭い坑道を、壁へ羽根を擦りながら飛ぶ。
外へ出てから第四補助釜へ回るより、古い排熱路を抜けた方が早い。
普段は火と蒸気を逃がすための経路。
今は逆流する熱風が、真正面からあたいの身体へ叩き付けられている。
羽根が焦げる。
皮膚が焼ける。
それでも構わない。
「退けっ!!」
進路を塞いだ岩を拳で砕く。
右肩へ破片が突き刺さる。
抜く時間すら惜しい。
頭の中では、同じ言葉だけが繰り返されていた。
居るな。
あそこに居るんじゃない。
どうか、あたいの思い違いであってくれ。
◆
制御室の半分が、既に溶岩へ呑み込まれていた。
床には、もはや踏み場がない。
アタシは制御盤の上へ逃れていた。
しかし金属で出来た盤は熱を伝え、膝を付くことさえ出来ない。
立っている足元から、じわじわと熱が這い上がってくる。
壁の配管が破裂した。
炎と蒸気が横殴りに噴き出し、アタシの身体を吹き飛ばす。
「――っ!」
床へ落ちる寸前、辛うじて別の管へ爪を掛けた。
下には赤く煮えた溶岩が流れている。
腕に力を込めるが、熱で指先の感覚が失われていく。
もう、無理。
そう思った時だった。
正面扉が、外側から大きく歪んだ。
一度。
二度。
三度目の衝撃で、扉そのものが室内へ吹き飛んだ。
『お燐!!』
炎を割って、黒い翼が現れた。
「お空、さん……?」
お空さんは室内の状況を一瞥するなり、溶岩を蹴って跳んだ。
靴底が一瞬で燃え落ちる。
露出した足が獄炎に焼かれているのに、顔色一つ変えない。
管から手を離したアタシの身体を、左腕で受け止めた。
『怪我は?!』
「どうして……何で来たんですか!」
『怪我はないのかと聞いている!』
「だ、大丈夫です。少し火傷しただけで……」
『少しじゃない!』
お空さんはアタシを抱いたまま、侵入してきた扉へ向き直った。
しかし、来た時に使った排熱路は崩れていた。
吹き飛ばした扉の向こうでは、天井と壁が一緒に落ち、通路を完全に塞いでいる。
別の逃げ道も、岩塊の下。
溶岩は腰の高さまで迫り
室内の温度は一息ごとに上がっていく。
『……間に合わなかった』
お空さんの声が、初めて震えた。
「ごめんなさい……アタシが勝手に来たから」
『今は話すな。出口を探す』
「でも……」
『黙って、あたいに掴まっていろ』
左腕で抱えられたまま、まだ残っている足場を渡った。
お空さんが壁を殴る。
岩盤へ拳がめり込み、亀裂が走る。
もう一度。
けれど、その向こうから新たな溶岩が噴き出した。
退路を作るどころか、室内へ流れ込む量が増しただけだった。
『くそっ……!』
悪態が聞こえる。
見上げると、制御室の奥に備え付けられた資材棚があった。
岩壁へ直接打ち込まれた、分厚い鉄骨製の棚。
下段は既に溶岩へ沈んでいるが、最上段だけは天井近くに残っている。
『お燐、少し我慢しろ』
「えっ──」
返事を待たず、お空さんはアタシを抱えたまま翼を広げた。
片翼が天井へぶつかり、黒い羽根が散った。
それでも強引に身体を持ち上げ、棚の最上段へアタシを乗せる。
棚は大きく軋んだが、岩壁へ固定された基部はまだ耐えている。
「お空さんも、早く!」
『待っていろ』
お空さんは棚へ上がろうとしなかった。
膝ほどの高さまで溶岩へ浸かりながら、両手を棚へ掛ける。
その右腕を、アタシの頭と胸を覆うように回した。
「何を……」
『お燐。よく聞け』
お空さんの声は、不思議なほど静かだった。
『これから防壁を張る。お前は絶対に此処から動くな』
「だったら、お空さんも中に!」
『二人を完全に覆うだけの力は残っていない』
「そんな……」
『お前を中心に張る。その方が長く保つ』
「嫌です! それじゃ、お空さんが……!」
お空さんは答えなかった。
左手を棚の縁へ食い込ませ、右腕でアタシをさらに強く抱き込む。
足元では、溶岩が太腿へ達しようとしている。
服が燃え、黒い羽根が次々と火へ呑まれていく。
「止めて! アタシなら火には強いから! だから二人を守って!」
『この火は、お前が知っている炎とは違う』
「でもっ!」
『お燐!!』
怒鳴り声に、身体が強張った。
ただ叱りたいわけではないことは、分かっている。
『……済まない。だが、今だけは言うことを聞いてくれ』
「お空さん……」
『あたいが必ず守る』
その言葉と同時に、二人の間から光が溢れた。
白く、薄い光。
普段、お空さんが放つ妖力のような激しさはない。
炎を押し返す力強さもない。
ただアタシの輪郭に沿うように集まり
幾重にも重なって、半透明の膜を作っていく。
防壁は、アタシを中心に張られていた。
棚の最上段。
アタシの身体。
そして頭を庇う、お空さんの右腕。
それ以外は、光の外にある。
「嫌……嫌ですっ! お空さんも入って! お願いだから!」
『大丈夫だ』
「嘘です! そんなの、嘘に決まってる!」
『あたいは地獄烏だ。この程度の火で、どうにかなるものか』
「だったら、何で震えてるんですか……!」
お空さんの腕が震えていた。
恐怖ではない。
妖力を防壁へ注ぎ続けるため、身体に力が残っていないのだ。
アタシを覆う光が強くなるほど
お空さん自身を守っていた妖気が薄れていく。
皮膚が焼ける。
肉が焦げる。
溶岩へ浸かった両脚からは、既に感覚が消え始めているはずだった。
それでも、お空さんは右腕を退けなかった。
『お燐』
「……はい」
『目を閉じろ』
「嫌です」
『頼む』
「嫌……です……」
泣きながら、首を振った。
目を閉じれば、次に開いた時
お空さんが居なくなっている気がした。
だから見ていたかった。
何が起ころうとも。
『困った子だ』
お空さんが、ほんの少しだけ笑った。
その顔を見た途端、目から涙が溢れた。
熱気に触れ、頬を流れる前に乾いていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい、お空さん……」
『謝るな』
「アタシが、勝手なことをしたから……」
『違う。あたいがもっと早く教えていれば良かった』
「違います! お空さんは言ってた! 一人でやっていいことは違うって! アタシが……アタシが守らなかった!」
『なら、次は守れ』
炎の音に混じりながらも
その言葉だけは、はっきりと聞こえた。
『今日のことを忘れるな。次は必ず、誰かを頼れ』
「一緒に帰って、もう一度言ってください……」
『ああ』
「明日も教えてくれるんでしょう……?」
『約束したからな。
だから今は、じっとしていろ』
防壁の表面へ、溶岩が押し寄せた。
光が大きく歪む。
お空さんの身体が衝撃を受け、棚へ叩き付けられた。
右腕だけは、アタシの頭を庇ったまま動かない。
『ぐっ……!』
「お空さん!」
『平気だ……』
平気なはずがない。
溶岩は既に、お空さんの腰を越え、腹部へ達している。
棚に掛けた左手だけで身体を支えながら
残る妖力の全てを、アタシへ注ぎ込んでいる。
防壁の内側だけが、辛うじて呼吸の出来る温度を保っていた。
外側では、制御盤が熔け落ちた。
計器の硝子が弾け、管という管が炎を吹き出す。
天井が崩れ、大きな岩塊が二人の上へ落ちてきた。
岩がお空さんの右腕と肩へ直撃する。
頑強なはずの肌の表面が破け、血が噴き出す。
「──っ!」
『見るな!』
視界が、黒い腕に遮られた。
光の膜が何度も揺れる。
その度に、お空さんの身体から力が抜けていく。
右腕越しに、お空さんの鼓動を感じていた。
速く。
強く。
そして少しずつ、弱くなっていく。
「お空さん……」
返事はない。
「お空さん?」
腕は動かない。
けれど防壁は消えていない。
お空さんが意識を保ち、今も力を注いでいる証だった。
「お願い……返事をしてください」
しばらくして、頭上から掠れた声が落ちてきた。
『……ここに、いる』
たった一言。
それだけで、また涙が溢れた。
お空さんの腕へ縋り付きたかった。
しかし動けば、彼女が必死に張った防壁を乱してしまう。
だからアタシは、胸元で両手を握った。
幼い頃、お空さんに抱き上げられた時のように。
「お空さん」
『……何だ』
「アタシ、お空さんと一緒に働きたかったんです」
『知ってる』
「もっと役に立ちたかった」
『もう、十分……役に立ってる』
「嘘ばっかり」
『嘘じゃない』
途切れ途切れの声。
それでもお空さんは、アタシの言葉へ答え続けた。
「帰ったら、さとり様に叱られますね」
『あたいが……一緒に、謝ってやる』
「クレスタさんにも、怒られるかな」
『あいつは……あたいが、止める』
「ヤマメさんにも、無茶するなって言われそうです」
『その通りだ……よく、聞いておけ』
何でもない話を続けた。
明日の仕事。
地霊殿へ帰った後の夕食。
まだ覚えていない弁の名前。
お空さんから借りたままの手引書。
話していれば、きっと朝が来る。
誰かが助けに来る。
そう信じるために。
やがて、制御室を満たしていた轟音が遠くなっていった。
炎が弱まったわけではない。
アタシの意識が、少しずつ薄れているだけだった。
「お空さん……眠いです」
『寝て、いい』
「でも……」
『あたいが、見てる』
「本当に……?」
『ああ』
頭を守る右腕が、僅かに動いた。
撫でようとしたのかもしれない。
けれど、指先まではもう動かなかった。
『おやすみ……お燐』
いつもと同じ声だった。
仕事を終えた夜。
眠る前に部屋を訪れ、灯りを消してくれた時と同じ。
「おやすみなさい……お空さん」
アタシは目を閉じた。
最後に感じたのは
焦げた羽根の匂いと
自分を覆う右腕の重み。
そして、炎の中でも失われなかった
お空さんの温もりだった。
◆
夜が明ける。
陽の届かない地底であっても
定められた鐘が、新たな一日の始まりを告げる。
一度。
二度。
三度。
その音は崩れた坑道を抜け
熔け落ちた管の隙間を通り
炎に閉ざされた第四補助釜へ、微かに届いた。
防壁は、まだ消えていない。
棚の最上段。
光に包まれた燐へ覆いかぶさるように
黒く焼け焦げたなにかが、動かぬまま其処に居た。
(次に続く)