からすとこねこ   作:ビーグル

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この作品は、東方Projectの二次創作です。
オリジナル展開、オリジナルキャラの要素を多分に含みます。
それでも良いと言う方は、ぜひ一読下さい。

それでは、どうぞ


第十四話 「決裂」

 

 傷は、塞がれば終わりではない。

 

 血が止まり

 肉が繋がり

 痛みが薄れたとしても

 

 その時に生じた想いまで、同じように癒えるとは限らない。

 

 悲しみは、悲しみのまま留まることがある。

 悔恨は、行き場を失って澱むことがある。

 

 そして澱んだ感情は

 時に、全く関係のない誰かへ牙を剥く。

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 隔離区画を出てからも、暫く声を出すことが出来なかった。

 

 胸の奥に何かが詰まっている。

 息を吸えば痛み、吐けば嗚咽に変わりそうになる。

 それでも、もう謝り続けるのは止めようと思った。

 

 謝罪に意味がないわけではない。

 自分の判断が間違っていたことも、お空さんの教えを守らなかったことも、忘れてはいけない。

 

 けれど、ただ自分を責めて泣き続けることを、さとり様は厳しく禁じた。

 お空さんが守った命を粗末にするな。

 反省と自罰を混同するな。

 

 その言葉を、アタシは守らなければならない。

 それが今、自分に出来る唯一の恩返しだと思った。

 

 

「さとり様」

 

 

 隔離区画の扉が閉じた後、ようやく声を出した。

 

 

「お空さんのことは、皆には……」

 

 

 言葉を選び切れず、途中で止まる。

 秘密にするのか。

 知らせるのか。

 どちらが正しいのか、アタシには分からなかった。

 

 以前のお空さんを知る者が、今の姿を見れば傷つく。

 さとり様も、親しい者の心を守るために隔離していると言っていた。

 

 しかし、何も教えないこともまた、お空さんの存在を隠すようで嫌だった。

 

 

『秘匿するつもりはないわ』

 

 

 アタシの迷いを読み、さとり様が答えた。

 

 

『地霊殿の者達には、私から説明する。

 あの子達は、お空と同じ屋敷で暮らしてきた仲間よ。知る権利があるわ』

「でも、皆が怖がったり……」

『それも含めて、受け止めてもらうしかない』

 

 

 さとり様は、閉じられた鉄扉へ目を向けた。

 

 

『ただし、会わせる時期と相手は選ぶ。

 今のお空に、大勢の感情を一度に浴びせることは出来ないから』

 

 

 隣にいたヤマメさんが、小さく頷いた。

 

 

『旧都の連中には、私から話すよ』

「ヤマメさんが?」

『空と付き合いのある奴は多い。

 下手な噂だけが先に広がれば、押し掛けて来る馬鹿もいるだろうからね』

 

 

 勇儀さんの顔が浮かんだ。

 傷ついたアタシを責めたことを悔いて、何処かへ消えた鬼。

 今のお空さんを見れば、一体どんな顔をするのだろう。

 

 

『見たままを、必要な分だけ話す。余計な憶測はさせない』

 

 

 ヤマメさんはそう言ってから、アタシの頭を軽く撫でた。

 

 

『それと、私は一度戻るよ。キスメ達も待ってるからさ』

「はい……今日は、一緒に来てくれてありがとうございました」

『固い固い。友達なんだから、いちいち礼なんて言うんじゃないよ』

 

 

 いつもの笑い方だった。

 けれど、廊下の角を曲がる直前。

 ヤマメさんは一度だけ、隔離区画を振り返った。

 

 その横顔に浮かんだものを、アタシは言葉に出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 その日の夕刻。

 

 私は、地霊殿の動物達を大広間へ集めた。

 空の状態を伝え始めても、誰一人として騒がなかった。

 

 ある者は俯き。

 ある者は隣の仲間へ身を寄せ。

 空の帰りを待っていた小鳥は、話の途中から小さく震えていた。

 

 真実を伝えることが、常に優しさになるとは限らない。

 彼らの思考が、悲しみと困惑で埋め尽くされていく様子も、嫌というほど見えていた。

 それでも、隠すことは出来なかった。

 

 空は彼らの仲間だった。

 傷ついたからといって、存在しない者のように扱うことだけはしたくなかった。

 

 

「今は休ませることが最優先です」

 

 

 一通りの説明を終え、全員を見回す。

 

 

「順番に、様子を見られる機会を作ります。

 それまでは隔離区画へ近づかないこと。

 これはお願いではなく、命令です」

 

 

 皆が静かに頷いた。

 その中に、クレスタの姿はない。

 彼女は焦熱地獄の制御室にいる。

 空が戻れない今、調整業務を担える者は限られていた。

 

 私は既に、空の状態をクレスタへ伝えている。

 そして、看病を申し出た彼女を拒んでいた。

 

 

『私がお姉様のお世話を致します』

 

 

 報告を聞いた直後、クレスタはそう言った。

 表面上は普段と変わらぬ、丁寧な声だった。

 しかし内側では、切れかけた糸のような思考が幾重にも絡まっていた。

 

 

 ──ワタクシなら出来る。

 ──あの猫よりも長く、お姉様を支えてきた。

 ──今度こそ、ワタクシが御側に。

 

 

 私は許可しなかった。

 

 

「貴女には、焦熱地獄の維持をお願いします」

『ですが──』

「お空の看護は、医師と私が行います」

 

 

 クレスタの顔から、全ての表情が消えた。

 

 

『……畏まりました』

 

 

 その心に生まれた感情を、私は見ていた。

 

 怒り。

 悲しみ。

 嫉妬。

 

 そして燐へ向けられた、鋭い敵意。

 直ぐにでも、燐から引き離すべきだったのかもしれない。

 

 けれどクレスタは、命令に従って制御業務へ戻った。

 空が守ってきた釜を放置しなかった。

 

 僅かに残された理性を、私は信じようとした。

 今となっては、それが正しかったのか分からない。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 

 アタシはお空さんに代わり、焦熱地獄の制御室へ向かうことになった。

 傷はまだ完全には癒えていない。

 それでも主要な釜の状態を理解し、お空さんの記録を読める者は、アタシとクレスタさんしかいなかった。

 

 本来なら、もう少し休むべきなのだろう。

 しかし巨釜の異常は続いている。

 複数の釜が不安定となった今、担当者を欠いたままには出来ない。

 

 

『無理だと思ったら、直ぐに戻りなさい』

 

 

 出発前、さとり様は何度も念を押した。

 

 

『不測の事態が起これば、クレスタへ任せること。

 今度は一人で抱え込まないこと』

 

 

「はい」

 

 

 返事をしてから、さとり様の目を見た。

 

 

「必ず守ります」

 

 

 さとり様は暫くアタシの心を見つめ、静かに頷いた。

 制御室へ続く道で合流したクレスタさんは、普段と変わらないように見えた。

 

 

『おはようございます、燐さん』

「おはようございます。今日は宜しくお願いします」

『ええ。お姉様が戻られるまで、ワタクシ達で此処を守らなくてはなりませんもの』

 

 

 丁寧な言葉。

 穏やかな笑顔。

 

 アタシへ敵意を向けているようには見えなかった。

 だからといって、安心は出来ない。

 食事会で見せたクレスタさんの顔を、アタシは覚えている。

 

 けれど今日は仕事だ。

 個人的な感情を持ち込むべきではない。

 

 

「まず、昨夜までの記録を確認してもいいですか」

『勿論ですわ』

 

 

 制御室へ入り、クレスタさんから記録帳を受け取る。

 地霊殿直下の主釜は、第四補助釜の暴走以降も高い温度を維持していた。

 圧力は許容範囲内。

 火勢に小さな波があるものの、現状では調整可能な範囲。

 

 一つずつ、声に出して確認した。

 

 

「第一排熱路、異常なし。第二排熱路は温度が僅かに上昇……」

『昨夜、弁を八分の一だけ開いております』

「はい。記録と一致しています」

 

 

 クレスタさんは、アタシの確認を黙って見ていた。

 間違いを指摘することもない。

 露骨に苛立つこともない。

 これなら、今日一日は無事に終えられるかもしれない。

 

 

 そう、思いかけた時だった

 

 

『随分と落ち着いているのですね』

 

 

 制御盤を確認していた手が止まった。

 

 

「何がですか?」

『昨日、あれほど泣いていらしたのに。

 もう普段どおりお仕事が出来るなんて』

 

 

 声は穏やかなままだった。

 けれど、その言葉に込められたものは違った。

 

 

「普段どおりでは、ありません」

『そうは見えませんわ』

「今でも、苦しいです。でも──」

『でも?』

 

 

 一度、息を整えた。

 

 

「自分を責め続けるのは止めました。

 そうすることが、お空さんのためになるとは思えないからです」

 

 

 クレスタさんの頬が、僅かに引きつった。

 

 

『止めた?』

「はい」

『もう、止めたのですか』

 

 

 制御室の空気が変わった。

 

 クレスタさんの表情は笑顔のまま。

 けれど周囲の熱とは別の冷たさが、背中へ這い上がる。

 

 

『お姉様は右腕を失った。

 両脚を失った。

 力も、記憶も、知性も失った』

 

 

 一つずつ数えるように、クレスタさんが言う。

 

 

『それを貴女は、たった一日泣いただけで終わりにしたのですか』

「違います」

『何が違うの』

「忘れたわけではありません。終わったとも思っていません」

 

『では何故、平然と此処に立っていられる!』

 

 

 クレスタさんが制御盤を叩いた。

 計器の硝子が震える。

 

 

『貴女が勝手な真似をしなければ、お姉様は今も此処にいた!

 ワタクシと共に働き、ワタクシへ指示を下さり、ワタクシの名を呼んで下さった!』

 

 

 思わず後ずさった。

 

 

『なのに貴女は何?

 反省は済みましたとでも言うような顔で、お姉様の場所へ立って!』

「反省を止めたとは言ってません!」

『同じでしょう!』

 

 

 クレスタさんの翼が大きく広がった。

 風圧で記録帳が床へ落ちる。

 

 

『貴女が薄情だから、そんなに簡単に前を向けるのよ!』

「……っ!」

 

 

 その言葉に、胸が痛んだ。

 

 昨日までなら、否定出来なかったかもしれない。

 

 アタシも同じことを考えていた。

 お空さんがあれほど傷ついたのに、生き残った自分が食事をし、眠り、仕事へ戻ることを罪のように感じていた。

 

 けれど、さとり様は言った。

 お空さんが守った命を粗末にするな、と。

 

 

「違います」

 

 

 逃げずに、クレスタさんを見た。

 

 

「アタシは、お空さんが守ってくれたから此処にいます」

『黙りなさい』

「お空さんが守ろうとしたものを、アタシまで捨てるわけにはいきません」

『黙れ!!』

 

 

 クレスタさんが床を蹴った。

 速い。

 

 反応するより先に、鋭い爪が喉元へ迫る。

 辛うじて身を捻る。

 爪は首を掠め、後方の制御盤へ深く突き刺さった。

 

 

「クレスタさん、止めて!」

『お姉様の名を口にするな!』

 

 

 振り払われた腕が、腹部へ叩き込まれる。

 身体が宙へ浮き、壁へ激突した。

 息が出来ない。

 

 床へ崩れ落ちたアタシの前へ、クレスタさんが歩み寄る。

 

 

『貴女さえ来なければ』

 

 

 足の爪が、肩を押さえ付けた。

 

 

『お姉様は変わらなかった』

「それは……」

『貴女さえいなければ、今もあの方はワタクシのお姉様だった!』

 

 

 爪へ力が込められる。

 骨が軋んだ。

 

 

『何が家族よ。何が妹よ。ただ拾われただけの猫が!』

 

 

 両手でクレスタさんの脚を押し返そうとした。

 動かない。

 傷の癒えていない身体では、力を出し切れない。

 

 

『お姉様が命を懸けた価値が、貴女の何処にあるの!』

 

 

 クレスタさんが片腕を振り上げた。

 指先には、獲物を引き裂くための爪が伸びている。

 

 

『返しなさい』

 

 

 その目には、アタシの姿が映っていないように見えた。

 

 

『ワタクシのお姉様を返せ!!』

 

 

 爪が振り下ろされた。

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 お燐の顔へ、クレスタの爪が届く寸前。

 横から伸ばした糸を、その腕へ幾重にも巻き付けた。

 

 

『──?!』

 

 

 クレスタの腕を強引に引く。

 体勢を崩した脇腹へ、キスメの桶が猛烈な勢いで激突した。

 

 鈍い音。

 

 クレスタの身体が床を滑り、制御盤へ背中から叩き付けられる。

 

 

「お燐!」

 

 

 直ぐに駆け寄った。

 

 

『ヤマメ、さん……どうして……』

「説明は後! 立てるかい?!」

 

 

 肩を支え、何とか身体を起こさせる。

 制御室の入口にはパルスィが立っていた。

 その隣で、キスメが桶を揺らしながらクレスタを睨んでいる。

 

 

『やっぱりね』

 

 

 パルスィが、嫌そうに吐き捨てた。

 

 

『食事会の時より酷くなってる。

 昨日なんて、見てるだけで胸焼けしそうだったわ』

 

 

『知ってたんですか……?』

『嫉妬を隠せると思わないことね』

 

 

 クレスタが立ち上がった。

 

 口元から血を流している。

 それでも視線は、お燐だけへ向けられていた。

 

 

『何故、貴女方が此処に……』

「お燐が心配だったからさ」

 

 

 お燐を背後へ庇い、クレスタの前へ立つ。

 

 

「空がいなくなって、アンタがお燐に何をするか分からなかった。

 だから勝手について来た」

 

 

 実際には、勝手というだけでもなかった。

 地霊殿を出る前から、私達の存在に古明地が気付かないはずはない。

 声を掛けられることもなく、止められることもなかった。

 それが何を意味するのか、私には分かっていた。

 

 

「クレスタ。止めな」

 

 

 努めて静かな声で言った。

 

 

「アンタが空を大事に思ってるのは知ってる。

 その空があんなことになって、誰かを恨みたくなる気持ちも、分からなくはない」

『分かったような口を利かないで』

「でも、お燐を傷つけて空が喜ぶと思うかい?」

 

 

 クレスタの表情が歪んだ。

 

 

『お姉様は、もう何も分からない』

「だから、何をやってもいいって?」

『あの方が苦しむこともない!』

「アンタは苦しんでるじゃないか」

 

 

 私の言葉に、クレスタは一瞬黙った。

 

 

「今のアンタは、空のために怒ってるんじゃない。

 自分が選ばれなかったのが悔しいだけだよ」

 

『黙れ……』

 

「空が最後に選んだのは、お燐だった。

 命も、力も、何もかも使って守った。

 それを認めたくないから──」

 

『黙れ!!』

 

 

 クレスタが飛び掛かってきた。

 鋭い爪が振るわれる。

 

 半歩だけ身を引き、攻撃を避けた。

 

 

『貴女なんかに、ワタクシの何が分かる!』

「分からないさ」

 

 

 続く蹴りを糸で受け止める。

 

 

「でも、少なくとも空のことはアンタより知ってる」

『何ですって……!』

「あいつは、お燐を傷つける奴を絶対に許さない」

 

 

 その一言で、クレスタの顔から理性が消えた。

 

 

『下賤な土蜘蛛風情が!』

 

 

 制御室に突風が巻き起こる。

 壁の記録紙が千切れ、計器の針が一斉に揺れた。

 

 

『お姉様に纏わり付くだけの卑しい虫が、ワタクシへ意見するな!

 あの猫も! 桶の化け物も! 橋の下で腐った女も!

 貴女達のような汚らわしい妖怪が、お姉様の傍にいること自体が──』

 

 

 最後まで言わせなかった。

 

 私の拳を、クレスタの顔面へめり込ませる。

 床を転がった身体が、壁へ激突した。

 

 

「……今、何て言った」

 

 

 自分でも分かるほど、声が低くなっていた。

 先ほどまでの諭すような響きは、もう残っていない。

 

 

「お燐を何て呼んだ」

 

 

 クレスタが起き上がろうとする。

 

 その前に、腹部へ蹴りを入れた。

 身体が浮く。

 天井と床へ張り巡らせた糸が四肢へ絡み付き、逃げ道を奪う。

 

 

「自分が辛いからって、誰を傷つけてもいいと思ってんのか」

 

 

 拳。

 

 

「空が守った相手を殺そうとして」

 

 

 もう一度。

 

 

「その上、キスメとパルスィまで侮辱した」

 

 

 クレスタの顔が横へ跳ねる。

 

 

「随分と偉くなったもんだねェ!」

 

 

 腕を振るうたび、鈍い音が響いた。

 クレスタは抵抗しようとした。

 

 翼を広げる。

 風を起こす。

 しかし、そのたびに糸を締め、身体を床へ引き戻す。

 

 

『ヤマメさん! もう止めて!』

 

 

 お燐が駆け寄ろうとした。

 パルスィが腕を掴み、引き留める。

 

 

『でも、このままじゃクレスタさんが!』

『放っておきなさい』

 

 

 パルスィの声は冷たかった。

 

 

『あの蜘蛛は加減を知ってる。殺しはしないわ』

『それでも……!』

『今止めれば、あの女はまたアンタを狙う』

 

 

 パルスィは、床へ押さえ付けられたクレスタを見ていた。

 

 

『自分が被害者だと思い込んでる奴には、一度、自分が何をしたのか身体で分からせるしかない時もあるのよ』

 

 

 お燐は納得出来ていないようだった。

 けれど、私の顔を見た途端、何も言わなくなった。

 

 怒っている。

 

 お燐を傷つけられたことに。

 キスメとパルスィを侮辱されたことに。

 そして何より、空の想いを自分勝手に利用したクレスタへ。

 

 自分の中にある怒りが、今ははっきり分かった。

 

 

「空を理由にするな」

 

 

 動けなくなったクレスタの胸倉を掴む。

 

 

「お燐を憎いのはアンタだ。空じゃない」

 

 

 クレスタから返事はない。

 腫れた顔で、荒い呼吸を繰り返している。

 

 漸く手を放した。

 床へ倒れた身体は、もう起き上がらなかった。

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 暫くして、クレスタの意識が戻った。

 

 身体を起こすことは出来ない。

 腕も翼も、私の糸で幾重にも固定してある。

 

 その傍らへ、しゃがみ込んだ。

 

 

「アンタに選ばせてやる」

 

 

 クレスタの腕へ触れる。

 先ほどの戦いの中で、爪先を浅く食い込ませていた。

 その箇所を中心に、皮膚の色が僅かに変わっている。

 

 

「土蜘蛛の毒だ」

 

 

 淡々と告げた。

 

 

「今は軽い痺れだけ。その気になれば、もっと深く回せる」

 

 

 背後で、お燐が息を呑んだ。

 

 

「お燐に協力しな。

 空が戻れない間、釜の調整を支えるんだ」

『……断れば?』

「毒が回る」

 

 

 笑う気にはなれなかった。

 

 

「アンタの知識は必要だ。

 でも、またお燐へ手を出すなら容赦しない」

 

 

 クレスタは、自分の腕を見た。

 毒を受けた箇所。

 そして、お燐へ視線を向ける。

 その目に、迷いは見えなかった。

 

 

『お断りします』

 

 

 クレスタの翼が、一度だけ大きく震えた。

 隠していた爪が伸びる。

 

 

『なっ──』

 

 

 お燐の声が上がる。

 

 クレスタは、自らの腕へ爪を振り下ろした。

 血が床へ飛び散る。

 毒を受けた箇所より上から、傷ついた腕を切り離していた。

 

 

「馬鹿!」

 

 

 慌てて手を伸ばした。

 その瞬間、クレスタが残る力の全てで風を放った。

 

 身体が纏めて後方へ押し流される。

 拘束していた糸が千切れた。

 クレスタは血を流しながら立ち上がり、ふらつく身体で出口へ向かう。

 

 

『クレスタさん!』

 

 

 お燐が呼び止める。

 クレスタは一度だけ振り返った。

 その顔には、怒りも悲しみも浮かんでいなかった。

 全てを捨てたような、空白だけがあるように見えた。

 

 

『貴女を許すことはありません』

 

 

 それだけを言い残し

 クレスタは暗い通路の向こうへ消えた。

 追い掛けようとしたお燐を、パルスィが止める。

 

 

『今は無理よ。あの傷で遠くまでは行けない』

『だからこそ、早く見つけないと!』

『見つけてどうするの』

 

 

 お燐は答えられなかった。

 助けたいのだろう。

 しかしクレスタは、お燐を殺そうとした。

 そして今も、許さないと言った。

 

 

「お燐」

 

 

 切り離された腕を拾い上げた。

 ずしりと重い。

 

 あと少し反応が遅ければ、お燐が傷ついていた。

 そう思うだけで、指先が僅かに震えた。

 

 

「アンタが、あいつの分まで背負う必要はない」

『でも……』

「あいつが選んだことだ」

 

 

 突き放すような言葉になった。

 けれど、今はそう言うしかなかった。

 

 自分の毒で追い詰めたことも。

 腕を切り落とすまで拒絶されるとは考えなかったことも。

 胸の奥へ重く残っている。

 

 

「古明地には、私から話す」

 

 

 立ち上がる。

 

 

「今は釜を安定させよう。

 空が守ってきた場所を、これ以上壊すわけにはいかない」

 

 

 お燐は、制御盤を見た。

 

 先ほどの争いで、幾つかの計器が破損している。

 それでも主要な針は動き続け、地底の火が未だ生きていることを示していた。

 

 クレスタの姿は、もう見えない。

 

 廊下へ残された血の跡だけが

 あの女が確かに此処にいたことを物語っていた。

 




分かる人には分かるかもしれませんが
私が個人的に好きなのは、クレスタです
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