からすとこねこ   作:ビーグル

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この作品は、東方Projectの二次創作です。
オリジナル展開、オリジナルキャラの要素を多分に含みます。
それでも良いと言う方は、ぜひ一読下さい。

それでは、どうぞ


第十七話 「送火」

 

 火は、奪うものだ。

 

 家を焼き

 身体を灼き

 積み重ねたものを灰へ変える。

 

 火は、与えるものでもある。

 

 凍える者を暖め

 暗闇を照らし

 新たな命が芽吹く場所を作る。

 

 同じ炎であっても

 そこへ込められたものによって、その意味は変わる。

 

 ならば命を燃やす火は

 何を奪い

 何を残すのだろう。

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 火口の縁は、以前より大きく崩れていた。

 近づく度、足元の岩が軋む。

 遥か下では、無数の怨霊を含んだ炎が渦を巻いている。

 

 叫び。

 嘆き。

 憎しみ。

 

 それら全てが一つの音となり、巨釜の底から吹き上がっていた。

 怨霊を扱う火車であるアタシにも、一つ一つの声を聞き分けることは出来ない。

 ただ、苦痛と怒りが熱へ混じり、皮膚の外側だけでなく胸の奥まで焼こうとしていることは分かった。

 

 熱風に身体を煽られながら、火口の周囲を見回す。

 

 

「お空さん!」

 

 

 返事はない。

 轟音に掻き消されたのかもしれない。

 そう考え、さらに進む。

 

 火口の縁から中心へ向かって、岩盤が細くせり出している場所があった。

 以前の崩落で残ったものだろう。

 橋というには狭く、先端へ行くほど薄くなっている。

 

 溶けかけた石の表面へ、細い車輪の跡が続いていた。

 その先に車椅子が見えた。

 

 

「……お空さん」

 

 

 黒い長髪が、熱風に揺れている。

 右腕と両脚を失った大きな身体。

 左腕には黒猫のぬいぐるみ。

 

 車椅子の左右には、ヒダマとカゼダマが浮いていた。

 三つの姿が並ぶ光景は、あまりにも静かだった。

 今にも巨釜が全てを噴き飛ばしそうなのに、そこだけが既に別れの後へ取り残されているように見えた。

 

 

『来たか』

 

 

 お空さんが振り返った。

 その目を見た瞬間、足が止まる。

 隔離部屋で見た、何も知らない目ではない。

 

 アタシを見つけ。

 アタシだと認識し。

 僅かに笑う。

 

 かつてのお空さんが、そこにいた。

 

 

「お空……さん?」

『苦労を掛けたな、お燐』

 

 

 その言葉で分かった。

 記憶が戻っている。

 知性も戻っている。

 

 完全なのか、一時的なものなのかは分からない。

 それでも今、目の前にいるのは、アタシの名付け親であり、姉であり、友である霊烏路空だった。

 戻ってきてほしいと願い続けた相手が、本当に戻っている。

 なのに、その場所は火口の先端だった。

 

 

「何をしてるんですか」

 

 

 声が震えた。

 問いではない。

 答えを知りたくなかった。

 言い聞かせるように、なるべく優しく話そうとする。

 

 

「皆、避難するんです。お空さんも一緒に行きましょう」

『そうか』

「車椅子はアタシが押します。少し道は悪いけど、ゆっくり行けば大丈夫です」

『お燐』

「ヤマメさん達もいます。さとり様も、こいし様も、動物達も。皆で一緒に─」

『聞いてくれ』

 

 

 静かな声だった。

 命令する響きも、説得しようとする力もない。

 

 だからこそ、その先を聞けば戻れなくなると分かった。

 首を横へ振る。

 

 

「嫌です」

『まだ何も言っていない』

「分かります」

 

 

 お空さんの顔が僅かに曇った。

 

 

「お空さんがそういう顔をする時は、もう一人で全部決めた後です」

『……よく見ているな』

「誰の妹だと思ってるんですか」

 

 

 笑おうとした。

 出来なかった。

 

 

「一緒に帰りましょう」

 

 

 もう一度、手を差し出す。

 

 

「今度はアタシが、お空さんを連れて帰ります」

 

 

 お空さんは、その手を見つめた。

 左腕を伸ばしても届く距離ではない。

 

 車椅子のある先端と、アタシの立つ岩場の間。

 ほんの数歩。

 以前なら、お空さんが一歩で越えた距離だった。

 けれど、その距離は縮まらなかった。

 

 

巨釜(おおがま)は、もう保たない』

 

 

 お空さんが口を開いた。

 

 

『このままでは、ここだけでは済まない』

「だから逃げるんです!」

『逃げ切れない』

 

 

 言葉が止まる。

 

 

『旧都も、地霊殿も、避難先も呑まれる』

「だったら皆で方法を考えます! さとり様も、勇儀さんも、ヤマメさん達も!」

『もう時間がない』

「まだです!」

 

 

 声を張り上げた。

 

 

「まだ全部試してない! お空さんが死ぬ方法なんて、方法じゃない!」

 

 

 お空さんは怒らなかった。

 悲しそうに、アタシを見つめている。

 否定出来ない子供の言葉を聞くような眼差しが、余計に苦しかった。

 

 

『誰かが、底へ入らなければならない』

「何で……」

『今、それが出来るのは私だけだ』

「そんな身体で……?」

『地獄烏だからな』

 

 

 お空さんは、それ以上を語らなかった。

 

 何をするつもりなのか。

 何故、お空さんにしか出来ないのか。

 

 アタシには分からない。

 けれど、その声には、既に全てを確かめた者の響きがあった。

 

 

「戻って来られるんですか」

 

 

 返事はない。

 沈黙だけで、答えが胸へ入り込んできた。

 

 

「答えてください」

 

 

 お空さんは火口へ目を向けた。

 

 

『戻れない』

 

 

 胸の中で、何かが砕けた。

 

 

「嫌……」

 

 

 声が小さくなる。

 

 

「嫌です」

『お燐』

「嫌だ!」

 

 

 お空さんへ駆け寄ろうとした。

 その直後

 せり出した岩盤が大きく揺れ、亀裂が走る。

 

 

『来るな!』

 

 

 お空さんの声に、足が止まった。

 昔から、この声には身体が先に従ってしまう。

 

 

『お前まで落ちれば、私がここへ来た意味がなくなる』

「そんな意味、いらない!」

 

 

 涙が溢れる。

 

 

「アタシを助けるために、もう全部失ったじゃないですか! 右腕も、脚も、力も、記憶も!」

『ああ』

「まだ何を失うつもりなんですか!」

 

 

 お空さんは、静かに答えた。

 

 

『命だ』

 

 

 息を呑んだ。

 分かっていたはずの答えが、言葉になったことで逃げ場を失った。

 

 

『それで、地底の皆を助けられる』

「皆なんて……」

 

 

 言ってはいけない言葉が、口元まで出た。

 皆より、お空さんの方が大事だ。

 地底がどうなっても、一緒にいてほしい。

 

 けれど、言えなかった。

 お空さんが守ろうとしている「皆」の中には、さとり様も、こいし様も、ヤマメさん達も、動物達もいる。

 そして、アタシ自身もいる。

 

 

『お前を助けたい』

 

 

 お空さんが言った。

 

 

『さとり様を。こいし様を。地霊殿の皆を。勇儀達を。そして、お燐。お前を助けたい』

「アタシは……」

『お前が生きてくれれば、それでいい』

 

 

 もう何も言えなかった。

 どんな言葉も、お空さんの決意へ届かない。

 

 説得する言葉も。

 怒る言葉も。

 代わりになる案も。

 

 アタシに出来るのは、泣くことだけだった。

 

 

「約束したじゃないですか……」

 

 

 嗚咽の間から、ようやく言葉を絞り出す。

 

 

「アタシを、一人にしないって……」

 

 

 炎の中から拾い上げられ、名を与えられた時の約束。

 あの頃のアタシには、お空さんの言葉が世界の全てだった。

 今も、その約束だけは失われないと思っていた。

 

 お空さんは目を閉じた。

 

 

『済まない』

 

 

 短い謝罪。

 

 

『約束を守れそうにない』

「嫌です……」

『でも、お前は一人じゃない』

 

 

 お空さんは笑った。

 

 

『さとり様がいる。こいし様がいる。ヤマメも、キスメも、パルスィも、勇儀もいる』

「お空さんがいない……!」

『ああ』

「お空さんがいなきゃ、嫌なんです……!」

 

 

 お空さんの笑みが、少しだけ崩れた。

 泣きそうな顔だった。

 

 

『私もだ』

 

 

 熱風に掻き消されそうな声。

 

 

『もっと、お前といたかった』

 

 

 両手で顔を覆った。

 泣き声を止められない。

 止めたくもなかった。

 

 

『お燐』

 

 

 お空さんが、最後に名を呼ぶ。

 

 

『後は頼む』

 

 

 声に迷いはない。

 

 

『ありがとう』

 

 

 車椅子が、ゆっくりと前へ動く。

 ヒダマとカゼダマが、左右から車体を支えていた。

 

 二匹は何も言わない。

 赤と青の火を強く保ち、揺れる車体を真っ直ぐ先端へ運んでいく。

 その沈黙が、もう引き返さないという三人の決意を何よりはっきり示していた。

 

 

「待って!」

 

 

 手を伸ばす。

 届かない。

 

 さっきまでほんの数歩だった距離が、車輪一つ分ずつ遠ざかっていく。

 ヒダマもカゼダマも、こちらを振り返らなかった。

 お空さんだけが、最後までアタシを見ていた。

 

 車椅子の前輪が、岩盤の先端を越える。

 支えを失った車体が前へ傾く。

 

 

「お空さん!!」

 

 

 振り返ったお空さんは、左腕に黒猫のぬいぐるみを抱いていた。

 熱風に髪を乱されながら、それでも穏やかに笑っている。

 

 

『お燐』

 

 

 名前を呼ぶ。

 その声だけが、轟音の中でもはっきり聞こえた。

 

 

『大好きだ』

 

 

 車椅子が火口へ落ちた。

 赤と青の火も、迷いなくその左右へ寄り添う。

 初めて、二匹も一緒に行くつもりだったのだと分かった。

 

 呼び止めるには遅過ぎた。

 赤い火も。

 青い火も。

 黒い翼も。

 三つの影は急速に小さくなり、渦巻く獄炎の中へ呑み込まれていく。

 

 

「お空さぁぁぁん!!」

 

 

 アタシの叫びが、巨釜へ響いた。

 返事はなかった。

 

 火口の底から吹き上がる轟音だけが、三人の消えた場所を塞いでいた。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 落下しながら、私は目を閉じた。

 火口の縁は、瞬く間に遠ざかっていく。

 最後に見えたお燐の姿が、赤い光の向こうへ小さくなる。

 

 もう、お燐の声も届かない。

 下から吹き上がる轟音が、上に残した全てを遮っていた。

 私達の姿も、火口の縁からは間もなく見えなくなる。

 

 ここまで来て、左右の二匹が離れる気配を見せていないことへ気付いた。

 

 

「ヒダマ。カゼダマ」

 

 

 赤と青の火が、同時に揺れる。

 

 

「車椅子から離れろ。お前達は上へ戻れ」

『嫌だ』

 

 

 ヒダマが即座に答えた。

 

 

『オイラ達も、最後まで連れてってくれ』

「何を言っている」

『巨釜の火から生まれたんだ。オイラ達にも出来ることがある』

 

 

 右側の赤い火が、車体へさらに強く張り付く。

 落下の勢いで揺れていた車椅子が、僅かに安定した。

 

 

『途中で置いてくなんて、今更なしだぜ』

 

 

 カゼダマも、左側から身体を寄せる。

 

 

「お前達まで来る必要はない」

『必要があるかどうかじゃねぇ』

 

 

 青い火が強く燃えた。

 

 

『行きたいんだ』

 

 

 二匹を見た。

 顔と呼べる形は、激しい風の中で絶えず崩れている。

 それでも、ここへ来ると決めた意思だけは揺らいでいなかった。

 

 お燐へ向けたものと同じ言葉で、二匹だけを追い返すことは出来ない。

 私自身が、誰にも止められずここへ来た。

 ならば、二匹の選択だけを否定することも出来なかった。

 

 

「……分かった」

 

 

 二匹の火が、一度大きく揺れる。

 

 

「最後まで頼む」

『任せろ、カシラ』

 

 

 右側から、ヒダマの声がした。

 左側で、カゼダマが続ける。

 

 

『今度こそ落とさねぇからな』

「今度も落としていないだろう」

 

 

 二匹の火が、可笑しそうに揺れた。

 張り詰めていたものが、ほんの僅かに緩む。

 最後まで、いつもと変わらないやり取りだった。

 

 この二匹を残していくつもりだった。

 巨釜から生まれた火であっても、ここで消える必要はないと思っていた。

 しかし二匹は、自分で選んでここまで来た。

 

 熱い。

 

 地獄烏であっても、身体が焼けていくのが分かる。

 皮膚の感覚が剥がれ、残された翼の羽が一枚ずつ火へ変わっていく。

 それでも、恐怖はなかった。

 

 右側にヒダマ。

 左側にカゼダマ。

 二匹の火が、この身に残された妖力へ溶け込んでいく。

 

 巨釜の奥底。

 怨念に覆われた、よく知る火が私を待っていた。

 以前、私が残したもの。

 

 封印を支えるため、釜へ押し込めた妖力。

 守るために残した力が、今は怨念へ呑まれ、地底を焼こうとしている。

 自分で始めたものなら、自分で終わらせる。

 それだけは、最後まで私の役目だった。

 

 抗わなかった。

 荒れ狂う炎を押し潰そうとも、怨霊を力で焼き払おうともしなかった。

 ただ、自らの命を火へ変えた。

 

 焼くためではなく、高ぶったものを鎮めるために。

 ヒダマとカゼダマの火が、その流れへ寄り添う。

 

 赤と青。

 二筋の火が、暴れる炎の中に細い道を作っていく。

 私の火だけでは、怨念と封印の残滓を切り分けることは出来なかったかもしれない。

 二匹が左右から流れを整えるたび、絡み付いていた声が一つずつ解けていく。

 

 

 

 叫びは、少しずつ遠ざかった。

 憎しみは形を失い、釜の底へ静かに沈んでいく。

 

 火は消えない。

 あるべき場所へ戻るように、穏やかな流れを取り戻していく。

 地底を暖める火。

 焦熱地獄を支える火。

 奪うだけではない、本来の火へ。

 

 身体の感覚が消える。

 黒猫のぬいぐるみを抱いていた左腕も、もう分からない。

 形が残っているのかさえ確かめられなかった。

 

 

『カシラ』

 

 

 ヒダマの声だ。

 

 

『あったけぇな』

「ああ」

 

 

 火から生まれた者が、最後に暖かいと言った。

 痛みではなく、共にある火として感じてくれたのなら、それでよかった。

 

 

『最後まで一緒だ』

「ああ」

 

 

 三つの火が重なった。

 赤と青と、私の黒い火。

 境目がなくなり、一つの流れとなって巨釜の底へ広がっていく。

 

 最後に浮かんだのは、お燐の顔だった。

 泣いている顔ではない。

 初めて名を与えた時。

 小さく手を動かし、与えられた名前を喜んだように見えた、あの日の顔。

 幼いお燐を一人にしないと約束した。

 

 守れなかった。

 それでも、あの子がこれから生きる場所だけは残したかった。

 

 

 お燐へ。

 さとり様へ。

 残された皆へ。

 あるいは、これからも燃え続ける巨釜の火へ。

 

 炎が、巨釜の底へ広がった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 最初に変わったのは、音だった。

 

 地底全体を揺らしていた轟音が、少しずつ遠ざかっていく。

 火口から吹き上がっていた炎が低くなる。

 渦巻いていた溶岩の表面が、ゆっくりと平らになった。

 

 火口の縁へ立ち尽くしたまま、呼び続ける。

 お空さんの名を。

 ヒダマとカゼダマの名を。

 

 返事はない。

 声が枯れても、呼ぶことを止められなかった。

 止めれば、本当に三人がいなくなったことを認めるような気がした。

 

 巨釜の温度が、急激に下がり始める。

 熱風が止む。

 地面の亀裂から噴き出していた炎も、次々と消えていく。

 

 遠く離れた主釜。

 第四補助釜の残骸。

 旧都近くの流路。

 

 そこまで見えるはずはない。

 けれど、巨釜へ繋がる火の気配が、連鎖するように静まっていくことだけは感じられた。

 

 巨釜の火は消えていない。

 底には、まだ火が残っている。

 地底を暖め、焦熱地獄を支え、必要な場所へ熱を送り続ける火。

 けれど、暴れる気配は失われていた。

 

 長い眠りへ入ったかのように、深く、静かに沈んでいる。

 お空さんが成し遂げたのだと分かった。

 アタシの願いではなく、最後に選んだ役目を果たした。

 

 

「お空さん……」

 

 

 その場へ膝を付いた。

 足元の岩は、もう揺れていない。

 アタシだけが震えていた。

 

 もう涙も出なかった。

 胸の中に空いた場所が大き過ぎて、悲しいという感情さえ形を保てない。

 ただ、最後に託された言葉だけが残っている。

 

 ─後は頼む

 

 了承した覚えはない。

 それでも、お空さんはアタシへ残した。

 

 火口の底へ届かない手を、ゆっくり下ろす。

 何も掴めなかった手で、これから残されたものを支えなければならない。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 先ほどまで続いていた揺れが止まった。

 

 溶岩の流れが鈍くなり、噴き出していた炎が次々と消えていく。

 住民達が足を止め、互いの顔を見合わせた。

 先ほどまで前へ進むことだけで精一杯だった者達の間へ、戸惑い混じりの安堵が広がっていく。

 

 

『止まった……?』

 

 

 ヤマメが、崩れかけた天井を支えていた糸を握ったまま呟いた。

 

 

「ああ」

 

 

 自分の声が、酷く重く聞こえた。

 火の勢いだけではない。

 地の底から伝わっていた、敵意にも似た気配まで消えている。

 

 何が起きたのか。

 考えたくはなかった。

 だが、分からない振りも出来なかった。

 

 空が何処にいるのか。

 何を選んだのか。

 答えは、静まり返った地底そのものが告げていた。

 

 

『やった……』

 

 

 ヤマメが笑った。

 

 

『収まったよ、姐さん。これで皆、助かった』

 

 

 声が明るい。

 明る過ぎた。

 笑みを作ることで、まだ誰も失っていない形へ留まろうとしている。

 

 

『地霊殿も、また直せる。旧都だって、ほら。これくらいなら直ぐ元どおりさ』

 

 

 何も言えなかった。

 直せるものの話だけをしている。

 直せないものへ触れないために。

 

 

『空も……きっと、何処かでさ。あいつは頑丈だから。火にだって強いし』

「ヤマメ」

 

 

 出来る限り、優しく名を呼ぶ。

 ヤマメの笑顔が止まった。

 

 

「もういい」

『何がだい』

「我慢しなくていい」

 

 

 煤にまみれた手を、ヤマメの頭へ置く。

 

 

「ここには私しかいない」

 

 

 周囲には多くの住民がいる。

 けれど誰も、こちらを見ようとはしなかった。

 鬼も妖怪も、それぞれの作業へ視線を落としている。

 

 聞こえていない振りをすることが、今出来る唯一の気遣いだった。

 ヤマメの口元が震える。

 

 

『……馬鹿だよ、あいつ』

「ああ」

『本当に……大馬鹿だ……』

 

 

 堪えていた涙が溢れた。

 胸元へ顔を押し付けてきたヤマメの背へ、腕を回す。

 強い背中だった。

 

 岩盤を支え、多くの住民を逃がした身体が、今は子供のように震えている。

 何も言わず、その背中を撫で続けた。

 

 空が守った命の中には、泣く時間も含まれている。

 ならば今だけは、立ち続けなくてよかった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 避難列の中で、足を止めた。

 

 巨釜の気配が変わった。

 荒れ狂っていた無数の思念が、静かに沈んでいく。

 火と怨念が絡み合った騒がしさが薄れ、地底へ不自然な静寂が広がった。

 

 同時に。

 よく知る心が、遠くで消えた。

 

 読むことは出来なかった。

 距離があり過ぎたからではない。

 もう、そこに読むべき形が残っていない。

 

 空の心は、昔から大きく、真っ直ぐだった。

 命令へ迷いなく従う忠誠。

 お燐へ向けた不器用な愛情。

 自分を後へ回すことへ、疑問さえ抱かない危うさ。

 

 その全てが、一つの火へ変わり、巨釜の中へ解けていった。

 

 

『お姉ちゃん』

 

 

 こいしが隣へ立っていた。

 いつ現れたのか、私にも分からなかった。

 

 

『終わったね』

「……ええ」

 

 

 短く答えることしか出来ない。

 

 主人として動物達へ指示を出さなければならない。

 姉として、こいしを安心させなければならない。

 それなのに、今は空の名を口にすれば声が崩れそうだった。

 

 動物達も、揺れが止まったことへ気付き始めている。

 安堵の思念。

 帰れるのだという喜び。

 何が火を鎮めたのかを知らない者達の、純粋な歓喜。

 

 それを責めることは出来ない。

 空は、その喜びを残すために行ったのだから。

 その中に、お燐の姿がない。

 

 

『お燐を迎えに行こう』

 

 

 こいしが言った。

 

 

『連れて、家に帰ろう』

 

 

 家。

 

 地霊殿は傷つき、幾つもの部屋が崩れている。

 空は、もういない。

 帰った先で、その不在を何度も知ることになる。

 

 廊下を曲がっても姿はない。

 執務室へ報告に来る足音もない。

 焦熱地獄の記録へ残る筆跡だけが、そこにいた時間を示す。

 

 それでも、帰らなければならない。

 残された者達が生きるために。

 空が残した場所を、失われた一人の墓にするのではなく、皆がまた暮らせる家へ戻すために。

 

 

「そうね」

 

 

 静かに答える。

 

 

「お燐を迎えに行きましょう」

 

 

 こいしが差し出した手を取る。

 手の温度が、今は有り難かった。

 

 動物達へ向き直る。

 不安と安堵の思念が、一斉にこちらへ集まった。

 皆、次に何をすべきかを待っている。

 

 空が最後に守った者達だった。

 あの子を行かせた主人として、今度は私が進む方向を示さなければならない。

 

 帰るべき家へ戻るため、口を開いた。

 

 




長かったストーリーもようやくフィナーレが見えてきました
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