からすとこねこ   作:ビーグル

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この作品は、東方Projectの二次創作です。
オリジナル展開、オリジナルキャラの要素を多分に含みます。


<前解説>
巨釜騒動後、自分の気持ちの整理をしようと
お空が使っていた部屋を訪れるさとりのエピソード


幕間 「主」

 

『主というのは、何なのでしょうね』

 

 誰かを従え。

 命じ。

 守り。

 その働きへ報いる者。

 

『きっと、模範的な答えなら幾らでもあるのでしょう』

 

 けれど。

 

 従者が傷ついた時、その痛みを代わってやることも出来ず。

 命を捨てようとする者を、最後まで止めることも出来ず。

 残された者達を抱えながら、それでも明日の指示を出さなければならない者を。

 

 本当に、立派な主と呼べるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 巨釜(おおがま)の火が静まってから、幾日かが過ぎた。

 

 地霊殿には、まだ焼けた岩と煤の匂いが残っている。

 崩れた東棟は立入禁止。

 地下倉庫には冷え切らない溶岩が残り、夜になっても赤い光を放っていた。

 

 昼の間は、槌の音や瓦礫を運ぶ声が絶えない。

 旧都から応援に来た妖怪。

 住処を直す動物達。

 釜の状態を確認するお燐。

 

 誰もが動き続けていた。

 

 手を止めれば、お空がもう戻らないことを考えてしまう。

 そう思っている者は、私だけではない。

 読もうとしなくても、行き交う心の端から似た痛みが届いた。

 

 だから私は、復旧の手順を定め、休憩の時刻を決め、負傷した者を作業から外した。

 悲しむ時間さえ指示によって区切るような振る舞いに、僅かな嫌悪を覚える。

 それでも、誰かが止めなければ皆は倒れるまで動き続ける。

 

 主として必要な判断だった。

 少なくとも、そう言い聞かせた。

 

 

--

 

 

 夜になり、最後の物音が消えた。

 

 復興作業に疲れた動物達は、仮の寝床で眠っている。

 お燐も自室へ戻らせた。

 眠れる状態ではないと、心を見れば分かった。

 それでも横になるよう、主として命じた。

 

 

 ─「自分を責め続けることと、反省は違うわ」

 

 

 お燐へ言い聞かせた言葉が、自分の中へ戻ってくる。

 

 お空が守った命を、自ら粗末にしてはいけない。

 それも伝えた。

 正しいことを言ったと思う。

 主としては。

 

 お燐が扉の向こうへ消えた後、自分も同じように眠らなければならないとは思えなかった。

 

 こいしは、今夜も見当たらない。

 夕食の時には姿を見せた。

 その後、何処かへ散歩に出たらしい。

 心を閉ざした妹を探すことは出来ない。

 

 いつものことである。

 

 いつもなら、少し心配しながらも帰りを待てた。

 今夜は、その「いつも」が妙に遠かった。

 

 お空もまた、そのうち帰ってくる者だった。

 帰りが遅ければ、巨釜の確認が長引いたのだと思った。

 黒い翼の音を聞けば、食堂へ一人分を追加した。

 

 その習慣だけが身体へ残り、待つ相手はいない。

 

 

「……眠れそうにないわね」

 

 

 独り言ちながら寝台を降りた。

 上着を羽織り、灯りを持たずに部屋を出る。

 地霊殿の廊下なら、暗くても歩ける。

 

 壁の亀裂。

 修復されていない床。

 通路の端へ積まれた資材。

 

 以前とは違うものが増えていた。

 以前からあったものは、一つ足りなくなった。

 

 足が向かったのは、西棟だった。

 お空が長く使ってきた部屋。

 

 今は、誰もいない場所。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 扉の前で、一度だけ立ち止まった。

 入る理由を考える。

 

 制御記録の回収。

 復興作業へ使える備品の確認。

 残された私物の整理。

 

 主として必要な用事なら、幾らでも挙げられる。

 だから、ここへ来た。

 それ以外に理由はない。

 

 

「まったく……誰に言い訳しているのかしら」

 

 

 扉を開けると思わず顔が緩みかけた。

 まだ、お空の匂いが残っている。

 

 煤。

 焦熱地獄の熱。

 古い紙。

 黒い羽根。

 

 部屋の主人が帰らなくなっても、匂いまで直ぐに消えるわけではない。

 その当たり前のことを、扉を開けるまで考えていなかった。

 胸の内側が、遅れて縮む。

 

 寝台は整えられていた。

 事故に遭う前、お空自身が直したものか。

 部屋を掃除した動物が整えたのか。

 

 心の痕跡から確かめられるかもしれない。

 けれど、そこまで読み取る気にはなれなかった。

 

 枕元には畳まれた衣服。

 壁には焦熱地獄の区画図。

 机の上には、何冊もの制御記録。

 床には黒い羽根が二枚落ちていた。

 

 

「落とした羽根は、自分で拾いなさいと何度言ったと思っているの」

 

 

 返事はない。

 分かっていた。

 それでも口にした直後、一瞬だけ、いつもの返事を待った。

 

 

 ─畏まりました

 

 

 記憶の中にある声が、勝手に言葉を補う。

 実際には、何も聞こえない。

 第三の目を開いても、部屋に残っているのは古い思念の染みだけだった。

 

 お空が机へ向かった時の集中。

 計算を間違えた苛立ち。

 報告へ行く前の僅かな緊張。

 

 何日か前まで、ここには確かに心があった。

 今この瞬間に考えている心ではない。

 呼び掛ければ答える心ではない。

 

 薄れかけた痕跡を拾い集めることは、残された声を聞くことではなかった。

 

 

「片付けましょう」

 

 

 誰もいない部屋で、自分へ命じた。

 

 

 

---

 

 

 

 一冊目の制御記録を開く。

 

 ─第三圧力弁、異常なし

 ─主釜の火勢、安定

 ─第二排熱路、要確認

 

 大きく力強い文字。

 頁の余白には、別の覚え書きがある。

 

 ─さとり様へ東棟の床を直すようお願いする

 ─こいし様がお戻りになったら果物を出す

 ─クレスタへ休むよう言う

 ─お燐に弁の違いを教える

 

 制御記録のはずだった。

 途中から、地霊殿で気付いたことを全て書く帳面になっている。

 

 設備の異常と、住人の予定と、友人への心配が、同じ余白へ並んでいた。

 本人にとっては、どれも忘れてはならないことだったのだろう。

 

 

「報告書と日記は分けなさいと、言ったでしょう」

 

 

 また返事を待った。

 何もない。

 

 記録帳を閉じる。

 これは、捨てる物ではない。

 机の左へ置く。

 

 続いて二冊目。

 三冊目。

 お空の文字が続く。

 

 読もうと思えば、書いた時の思考を僅かに拾える。

 文字へ残った感情は、声より薄く、匂いより輪郭がある。

 読み取れば、お空がその日に何を気にし、誰を案じたか分かるかもしれない。

 けれど、第三の目を近づけることは出来なかった。

 

 本人が報告しなかった思考まで、死後に読み集める。

 許可を求める相手がいないからこそ、それはしてはならないことに思えた。

 

 過去の心を集めても、お空が戻るわけではない。

 巨釜へ沈む直前の心も、もう何処にもない。

 遠過ぎたから読めなかったのではない。

 

 お空は自分の命と妖力を燃やし、心を形作っていたものまで巨釜へ注ぎ切った。

 最後に何を思っていたのか。

 私には分からない。

 お燐へ何を告げたのかも。

 ヒダマやカゼダマと、どのような言葉を交わしたのかも。

 

 心を読める自分だけが、お空の最期を何も知らなかった。

 能力が届かなかったことより、その場へいなかった事実の方が痛かった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 机の引き出しには、用途の分からない物が多かった。

 

 短くなった鉛筆。

 欠けた石。

 古い金具。

 勇儀から貰ったと思われる盃。

 ヤマメが作った、小さな蜘蛛の飾り。

 キスメの桶から剥がれた木片。

 パルスィのものらしい、緑色の糸。

 

 使うわけでもない。

 飾るわけでもない。

 けれど、捨てずに残してある。

 

 お空は、物の価値を説明することが苦手だった。

 何故持っているのか尋ねれば、貰ったからと答えただろう。

 誰から貰ったかを忘れていないこと自体が、答えの続きだったのかもしれない。

 

 

「貴女は、本当に不器用ね」

 

 

 誰かを大切だと口にすることは少ない。

 そのくせ、受け取ったものは手放せない。

 

 一つずつ、小さな箱へ移す。

 誰へ返すべきか、今夜決める必要はない。

 

 盃を勇儀へ返せば、受け取らないと言うかもしれない。

 蜘蛛の飾りをヤマメへ見せれば、お空にやった物だと笑うかもしれない。

 緑の糸についてパルスィへ尋ねれば、知らないと顔を背ける気がした。

 持ち主がいなくなったからといって、贈られた関係まで送り返せるわけではない。

 

 次の引き出しを開ける。

 中には、形の良い黒い羽根が束ねられていた。

 

 

「これは何に使うつもりだったの…?」

 

 

 問い掛ける。

 答えはない。

 

 羽根へ触れる。

 お空の妖力が、ほんの僅かに残っていた。

 まだ全盛期に近かった頃のもの。

 最初の巨釜の暴走を鎮める前かもしれない。

 

 力強く。

 迷いがない。

 私の命令へ応えることを、誇りにしていた頃の気配。

 

 

 ─さとり様のお役に立てるのであれば

 

 

 何度も聞いた言葉だった。

 

 お空は、自分を立派な主だと思っていた。

 何があっても正しく判断し。

 従者を導き。

 地霊殿を守る者。

 

 私が少し褒めれば、それを絶対の評価として受け取った。

 命じられれば、どれほど危険でも迷わず実行した。

 

 さとり様の命令ならば間違いない。

 さとり様のためならば、何を失っても構わない。

 その思いへ気付いていた。

 

 気付いていながら、忠誠を美しいものとして受け取った。

 

 

「馬鹿ね…」

 

 

 羽根を手に取る。

 

 

「私は、貴女が思うほど立派な主ではないわ」

 

 

 声が、静かな部屋へ落ちた。

 この手の震えを、声の掠れを、誰かに知られない事だけが救いだった。

 

 

「最初の巨釜の暴走を防げなかった」

 

 

 お空へ対処を任せた。

 当時は他に方法がなかったと、そう判断せざるを得なかった。

 その結果、お空は妖力の半分近くを失った。

 

 正しい判断だったという説明は出来る。

 正しい判断で傷ついた者の痛みを、無かったことには出来ない。

 

 

「今回も、何一つ間に合わなかった」

 

 

 第四補助釜へ向かったお燐。

 お燐を助けに行ったお空。

 右腕と両脚を失い、記憶と知性まで損なったお空。

 

 それでも最後には隔離区画から抜け出し、一人で自分の役目を決めた。

 そのどれにも、私は間に合わなかった。

 

 

「貴女が無茶をすることを、知っていたのに」

 

 

 誰かのためなら、自分を平気で差し出すこと。

 止められても、必要だと思えば動くこと。

 命令へ従順でありながら、守りたい者のためには主の意向さえ越えていくこと。

 

 知っていたから負担を減らそうとした。

 仕事を分け、お燐へ手順を教えさせ、休ませようとした。

 けれど、お空が自分自身を役目の一部として扱う考えまで、変えられなかった。

 

 

「最後まで、止められなかった」

 

 

 主として正しい判断を重ねたつもりだった。

 巨釜を調査させること。

 お燐へ仕事を教えること。

 お空の負担を減らすこと。

 どれも必要だった。

 

 けれど、お空は死んだ。

 

 地底を救うために。

 お燐を生かすために。

 自分達の家を守るために。

 

 

「それでも貴女は、きっと私へ謝るのでしょうね」

 

 

 さとり様の御期待に沿えず、申し訳ありません。

 御心配をお掛けして、申し訳ありません。

 

 自分が死ぬことより、主へ迷惑を掛けることを悔やむ。

 お空なら、そう言う。

 

 

「私が謝るべきでしょう」

 

 

 返事はない。

 

 

「貴女の忠誠へ、甘えていた」

 

 

 お空が望んでいるから。

 お空なら出来るから。

 そう考え、危険な仕事を任せた。

 

 褒めれば喜ぶ姿を可愛いと思った。

 真っ直ぐな敬意を、当然のように受け取った。

 

 

「主たるもの、従者の働きに報いなければならない」

 

 

 以前、自分で口にした言葉。

 従者へ寵愛を与え。

 労い。

 相応の愛情を返す。

 

 

「私は、貴女へ何を返せたのかしら」

 

 

 部屋を与えた。

 仕事を与えた。

 名を与えた。

 お空は、それだけで満足していた。

 

 さとり様に拾われて良かった。

 何度も、心の中でそう言っていた。

 けれど、それはお空の側の答えだ。

 

 私が自分の行いへ満足出来るかは、別だった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 随分と昔。

 旧地獄が、今より荒れていた頃。

 

 私は一羽の地獄烏を見つけた。

 

 黒い翼。

 痩せた身体。

 今より獣に近い目。

 

 傷つき、岩陰へ伏せているにもかかわらず、近づく者へ牙を剥くような思念を向けていた。

 

 

 ─来るな

 

 

 言葉は持っていない。

 けれど心は、はっきりと拒絶していた。

 

 私は立ち止まらなかった。

 他者の心を恐れ。

 他者から心を恐れられてきた自分にとって、むき出しの拒絶はむしろ分かりやすかった。

 怯えながら好意を装う心より、近づくなと叫ぶ心の方が信じられた。

 

 

「貴女、酷い怪我ね」

 

 

 地獄烏が翼を広げる。

 威嚇。

 しかし片翼は折れ、満足に動かない。

 

 

「治療をしないと死ぬわ」

 

 

 ─構わない

 

 

「私は構うの」

 

 

 ─何故

 

 

「私の屋敷の近くで死なれると、後始末が面倒だから」

 

 

 嘘だった。

 心を読む者が、言葉では嘘をつく。

 だが、地獄烏には分からない。

 分かっていたなら、あの鳥はついて来なかったかもしれない。

 

 

「それに、貴女は強そうね」

 

 

 ─強い

 

 

「なら、私の従者になりなさい」

 

 

 地獄烏の心が揺れた。

 従者。

 言葉の意味は分からない。

 

 

「私のもとで働く者よ」

 

 

 ─何をする

 

 

「生きるの」

 

 

 それだけを答えた。

 当時の私も、その鳥へ何をさせるかなど決めていなかった。

 ただ、生きろと言った。

 

 命令と呼ぶには身勝手で。

 救いと呼ぶには、こちらの都合が混ざり過ぎていた。

 それでも、死なせたくなかった。

 

 地獄烏は長い間私を警戒し、最後には差し出された手へ嘴を寄せた。

 噛まれるかと思った。

 そうではなかった。

 指先へ、そっと触れただけだった。

 

 

「来る?」

 

 

 黒い頭が、僅かに動く。

 それが最初の返事だった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「貴女を拾った日のことは、覚えていた?」

 

 

 誰もいない部屋へ尋ねる。

 

 お空が最期に何処まで記憶を取り戻していたのか、今となっては確かめようがない。

 記憶が戻らなくても、私の名だけは最後まで残っていたという。

 それを喜んでよいのか、今も分からない。

 

 

「あの日の貴女は、今よりずっと小さかった」

 

 

 痩せていた。

 警戒心が強く、食事を与えても直ぐには口にしなかった。

 私が見ていない時だけ食べた。

 

 見ていないふりをしながら、第三の目で確かめたこともある。

 空腹へ負けて嘴を動かすたび、安堵した。

 その安堵を悟られないよう、翌朝も同じ量を無言で置いた。

 

 

「名前を付けた時も、随分嫌がったわね」

 

 

 霊烏路お空。

 深く考えて決めた名だった。

 

 最初のうち、お空は自分の名だと理解しなかった。

 何度呼んでも振り向かない。

 食事を与える時だけ名前を呼び続け、ようやく反応するようになった。

 

 初めて振り返った時、偶然かもしれないと思った。

 もう一度呼び、再びこちらを見た時には、抱き締めたい衝動を堪えた。

 触れれば逃げる時期だった。

 主になるより先に、待つことを教えられた。

 

 

「貴女は、私を特別な主だと思っていた」

 

 

 命を救った。

 名を与えた。

 居場所と仕事を与えた。

 だから絶対の忠誠を向けるに値する者だと。

 

 

「本当は、そんなに立派な理由ではなかったのよ」

 

 

 放っておけなかった。

 自分と同じように、誰かから恐れられ、独りでいる鳥を。

 

 

「寂しかったのは、私の方だったのかもしれない」

 

 

 こいしは心を閉ざし、何処にいるかも分からなくなった。

 動物達は大勢いた。

 それでも、言葉を交わせる相手は少なかった。

 

 心を読めば、相手が口にする前に答えが分かる。

 便利であるほど、会話の必要は失われた。

 

 そこへお空が来た。

 

 自分を恐れず、真っ直ぐに慕うようになった。

 読まなくても、顔と声で伝えようとした。

 救われたのは、どちらだったのか。

 

 

「私は貴女へ、立派な主のふりをしていただけ」

 

 

 正しい言葉を選び。

 導く者らしい態度を取り。

 時には命令という形で、愛情を押し付けた。

 

 けれど、ふりを続けるうちに、本当に守りたいものが増えた。

 主らしく振る舞ったからお空が信じたのか。

 お空が信じたから、主であろうとしたのか。

 

 今では、どちらが先だったのかも分からない。

 

 

「それでも貴女は、私を信じた」

 

 

 お空の机へ手を置く。

 

 

「最後まで」

 

 

 声が僅かに掠れた。

 口を閉じる。

 

 窓の外では、焦熱地獄の火が揺れている。

 巨釜から戻った火は静かだった。

 お空の心だけが、何処にもなかった。

 

 机へ額を近づける。

 泣くつもりはなかった。

 誰も見ていない場所でさえ、泣けば主でなくなるような気がした。

 

 その考えが、ひどく馬鹿らしいことも分かっている。

 お空が信じた主は、涙を流さない偶像ではない。

 それでも、長く作り続けた顔を一晩で外すことは出来なかった。

 

 黒い羽根を胸元へ抱え、呼吸が鎮まるまで待った。

 それだけで、長い時間が過ぎた。

 

 

 

---

 

 

 

 整理を終えた頃には、机の上へ幾つかの箱が並んでいた。

 

 制御記録。

 私物。

 友人達から受け取った品。

 黒い羽根。

 

 捨てたものは一つもない。

 

 

「整理になっていないわね」

 

 

 場所を移しただけだった。

 

 僅かに口元を緩める。

 お空なら、片付いたように見えるなら片付けだと言ったかもしれない。

 箱の一つへ蓋をする。

 残りはそのままにした。

 

 お空は死んだ。

 戻る保証はない。

 奇跡を待つ理由も、今の私にはなかった。

 

 それでも今夜、すべてを片付ける必要はない。

 お燐がお空の品を見たいと言うかもしれない。

 勇儀やヤマメへ返すべき物もある。

 こいしが持っていきたいものを選ぶかもしれない。

 

 そういう理由なら、幾らでも作れた。

 

 本当は、自分がまだお空の部屋を空にしたくないだけだった。

 その理由だけは、声にしなかった。

 

 

「おやすみなさい、お空」

 

 

 部屋を出る前に、声を掛ける。

 返事はない。

 

 灯りを消す。

 扉を閉める。

 廊下へ出ても、もう第三の目を何処かへ向けることはしなかった。

 

 お空の心はない。

 それを確かめる必要は、もうなかった。

 

 

「……明日も、忙しくなるわ」

 

 

 地霊殿の主が、立ち止まっているわけにはいかない。

 お燐がいる。

 こいしがいる。

 多くの動物達がいる。

 クレスタのことも考えなければならない。

 

 地霊殿を直し。

 旧都と連携し。

 残された者達を守る必要がある。

 やるべきことは、まだ山ほどあった。

 

 自室へ戻る。

 長い夜の間、誰かが私の姿を見ることはなかった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 翌朝。

 決められた鐘が鳴る前に、執務室へ入った。

 

 机上には、今日処理すべき報告書。

 旧都の復旧状況。

 地霊殿の修復計画。

 主釜の観測記録。

 

 昨夜とは違う服へ着替え。

 髪を整え。

 第三の目を普段の高さへ戻す。

 

 鏡に映る顔には、夜の痕跡が僅かに残っていた。

 消すことは出来ない。

 見られても、問題ないと言える程度へ整える。

 

 いつもと同じ位置へ座ったところへ

 扉が叩かれる。

 

 

「入りなさい」

 

 

 お燐が入ってきた。

 

 まだ火傷の痕が残っている。

 歩幅も完全には戻っていない。

 それでも姿勢を正し、仕事へ向かう準備を整えていた。

 

 

『おはようございます、さとり様』

「おはよう、お燐」

 

 

 いつもと同じ声が出た。

 それを安堵と呼んでよいのかは分からない。

 

 

「昨夜は眠れた?」

『はい。さとり様は?』

「ええ。問題ないわ」

 

 

 お燐は少しだけ、私の顔を見つめた。

 心には、問いと疑いが浮かんでいる。

 眠れたという返答が嘘であることにも、恐らく気付いている。

 

 けれど、問い質さなかった。

 私が主の顔を選んだことを、そのまま受け取ったのだろう。

 従者へ気遣われ、それに甘えている。

 昨夜と同じ過ちではないかと、一瞬だけ思う。

 

 今は朝で、皆が動き始める時間だった。

 後で話す機会を作ればよい。

 全てを今ここで打ち明けないことと、永遠に隠すことは違う。

 

 

「今日の予定を確認します」

 

 

 報告書を開く。

 

 

「午前中は主釜の状態確認。貴女は一人で行かず、必ず二名以上で行動すること」

『はい』

「異常を見つけても、その場で独断の処置はしないで。記録し、戻って報告すること」

『分かりました』

 

 

 お燐の心が僅かに痛む。

 一人で動いた結果を思い出したのだろう。

 

 責めるための指示ではない。

 今後、生きて戻るための手順である。

 

 

「午後は旧都側との連絡。勇儀かヤマメへ、復旧資材の一覧を渡して」

『承知しました』

「それから─」

 

 

 一冊の記録帳を差し出す。

 昨夜、お空の部屋から回収したもの。

 

 

「お空が残した制御記録よ。貴女に預けます」

 

 

 お燐は両手で受け取った。

 表紙を撫でる。

 大切なものへ触れた喜びと、受け取ってよいのかという迷いが一緒に届く。

 

 

『宜しいのですか』

「貴女が持つべきものよ」

 

 

 命令ではなく、自分の判断として伝えた。

 お燐は記録帳を胸元へ抱く。

 

 

『大切にします』

「ええ」

 

 

 そこへ余計な注意を加えそうになり、止めた。

 汚さないこと。

 持ち出す時は届けを出すこと。

 読み終えた後は所定の場所へ戻すこと。

 

 言わなくても、お燐は分かっている。

 今必要なのは、管理手順ではなかった。

 

 

「お燐」

『はい』

「昨日、貴女へ休むよう命じたでしょう」

『はい』

「私は、あまり眠れなかったわ」

 

 

 お燐が目を見開いた。

 主の顔を整えた後で、それでも一つだけ真実を渡す。

 立派であるよう装うことと、弱さを一切見せないことは同じではない。

 

 

『……そうでしたか』

「けれど、今朝は仕事が出来ます。今夜は眠るよう努力するわ」

『約束して下さい』

 

 

 従者から主へ向けられた言葉だった。

 命令ではない。

 それでも、軽く扱ってよい願いではなかった。

 

 

「ええ、約束ね」

 

 

 お燐の肩から、僅かに力が抜ける。

 お空なら、同じように心配しただろうか。

 恐らく、もっと強く休めと言った。

 主へ命令出来ないと悩んだ末、クレスタやお燐を連れてきたかもしれない。

 

 その姿を思い浮かべても、今度は胸を塞がれなかった。

 

 

「今日も、気を付けて行ってらっしゃい」

『はい。行って参ります』

 

 

 お燐が一礼し、部屋を出る。

 扉が閉じた。

 

 一人になった執務室で、報告書へ目を落とす。

 地霊殿の主。

 従者へ指示を出し、皆が進むべき方向を決める者。

 

 立派であるかは分からない。

 お空が信じたほど、正しい者でもない。

 それでも、主であることを止めるわけにはいかなかった。

 

 止められないから続けるのではない。

 お燐が戻る場所を守るため。

 こいしが帰ってきた時、食事を出せる家を残すため。

 動物達が明日も眠れる場所を作るため。

 

 そして、お空が守ったものを、お空の死と共に終わらせないため。

 

 次に何をすべきか。

 誰を何処へ配置するか。

 迷いを抱えたまま、考え始めた。

 

 いつもの古明地さとりとして。

 お空が信じた主へ、これから少しずつ近づく者として。

 




本編後のさとり様追加エピソード

お空やお燐の心情をメインとしてきたため
それ以外のキャラが考えていること、過去の話などは
基本的に省いていました。
これから追加していくエピソードはそういったものも多く含みます。


『そういうの世間では自己満足というのですよ』
「よかろうもん」
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