オリジナル展開、オリジナルキャラの要素を多分に含みます。
<前解説>
卵から孵ったお空と、お燐を始めとした
仲間たちとの新たな関係を築いていくエピソード
今回はオムニバス形式です
育てるということは
何かを教えることだけではない。
出来るようになるまで待ち
失敗すれば、もう一度やらせ
泣き出したなら、その理由を考える。
時には叱り
時には褒め
必要ならば、ただ隣に座っている。
かつて自分へ向けられた言葉を
今度は別の誰かへ渡していく。
そうして初めて
教えられていた頃には分からなかった想いへ
気付くことがある。
◆
幼い空が卵から生まれて、幾日かが過ぎた。
最初に覚えたことは、あたいの名前だった。
正確には、名と呼べるほど整った音ではなかった。
初めは「りん」とも言えず、喉の奥から短い声を出すだけだった。
それでも、あたいが顔を近づけると同じ音を繰り返し、姿が見えなくなれば大きくなる。
何度も聞くうちに、それがあたいを呼ぶ声なのだと分かった。
次に覚えたのは、あたいの姿が見えなくなると、泣けば戻ってくるということだった。
『おりん!』
部屋を出ようとした途端、背後から声が飛んでくる。
片足は既に廊下へ出ていた。
水差しは朝から空のままで、そろそろ取り替えなければならない。
それでも声を聞けば、身体が先に止まった。
振り返る。
寝台の上に座っていたお空さんが、両腕を伸ばしている。
黒い翼は寝具の上へ広がり、身体が前へ傾くたび、倒れないよう忙しなく動いていた。
「あたいは、ちょっと水を取りに行くだけですよ」
『おりん』
「すぐ戻ります」
『おりん!』
声が大きくなる。
目には、もう涙が溜まっていた。
こちらの言葉を理解していないわけではない。
「すぐ」が、どれほどの長さなのか分からないのだろう。
扉の向こうへ消えた者が、本当に戻るという経験も、まだ少ない。
生まれ直してからのお空さんにとって、姿が見えなくなることは、そのまま世界からいなくなることに近いのかもしれなかった。
「……一緒に行きますか」
お空さんの顔が、ぱっと明るくなる。
涙は落ちる前に目の縁へ残った。
『いく!』
寝台へ近づき、身体の下へ腕を入れる。
抱き上げると、お空さんは待っていたように首へしがみ付いた。
まだ自分の足で長くは歩けない。
寝台から扉までの距離でも、途中で座り込んでしまう。
脚に力がないだけではない。
身体に対して翼が大きく、均衡を取ることへ慣れていなかった。
抱かれている間は、あたいの衣服を両手で強く掴んでいる。
少しでも腕の位置を変えると、離されると思うのか、すぐに顔を上げた。
「本当に心配性ですね」
そう言うあたい自身も、お空さんを部屋へ一人で残すことに慣れていない。
夜中に目を覚ませば、最初に呼吸を確かめる。
胸が小さく上下していることを見てからでなければ、もう一度目を閉じられなかった。
卵から生まれ直した身体に異変がないか、額へ触れ、翼の温度を確かめる。
食事を残せば、何処か具合が悪いのではと心配した。
眠る時間が少し長ければ、さとり様を呼びに行った。
自分が傍へいないと泣くお空さんと、傍を離れると何か起きるのではないかと考えるあたい。
どちらが離れられないのか。
今のところは、同じようなものだった。
◆
廊下の角を曲がったところで、さとり様と出会った。
『おはよう、お空』
さとり様は穏やかに声を掛ける。
お空さんの身体が、腕の中で強張った。
第三の目へ視線を向け、すぐに胸元へ顔を隠す。
心を読む瞳だから怖がっているわけではない。
まだ、身体から伸びた目というものを、どう受け取ればよいか分からないのだろう。
『今日も嫌われているわね』
「嫌っているわけじゃありません。まだ慣れていないだけです」
『分かっているわ』
さとり様は無理に手を伸ばさなかった。
少し離れた位置へしゃがみ、お空さんと同じ高さになる。
以前のお空さんなら、さとり様が近づけば姿勢を正した。
呼ばれる前から命令を待ち、役目を与えられることを喜んだ。
今のお空さんにとっては、まだ知らない相手である。
さとり様が、それを誰より理解していることは、穏やかな距離の取り方から分かった。
『お空。私はさとりよ』
返事はない。
『この地霊殿の主人で、貴女の家族』
お空さんは衣服へ顔を半分隠したまま、片目だけでさとり様を見ている。
『それから、お燐の主人でもあるわ』
その言葉には反応した。
『おりんの?』
『ええ』
お空さんが、あたいを見上げる。
知っている者と知らない者の間へ、一本だけ糸が繋がったようだった。
「さとり様は、あたい達の大切な御主人様です」
『ごしゅじん』
意味を理解しているようには見えない。
それでも、あたいが大切だと言うなら、危険な相手ではないと感じたらしい。
お空さんは僅かに顔を上げた。
さとり様が、ゆっくり片手を差し出す。
『触ってみる?』
お空さんは、またこちらを見た。
「大丈夫ですよ」
その言葉を待っていたように、恐る恐る手を伸ばす。
さとり様の指先へ触れた。
すぐに引っ込める。
けれど泣かなかった。
『今日は、ここまでね』
さとり様は立ち上がる。
『少しずつでいいわ』
お空さんはまた、胸元へ顔を隠した。
小さな頭を撫でながら、さとり様が表へ出さなかった寂しさについて考える。
卵から生まれたお空さんは、あたいの名だけを覚えていた。
さとり様のことは知らない。
地霊殿のことも知らない。
以前なら何より大切にした主人を、今は警戒している。
心が読めるさとり様には、その警戒も、あたいへ向けられる安心も、すべて伝わっている。
それでも急がせず、今日は指へ触れるだけでよいと言った。
だからこそ、あたいも急いではいけない。
以前のお空さんへ戻そうとするのではない。
もう一度、初めから家族になればいい。
◆
『お空、遊ぼう!』
こいし様は、相手の心の準備を待つということを知らない。
あたいが水を用意している間に、いつの間にか部屋へ現れていた。
扉が開いた音も、廊下から近づく足音も聞いていない。
お空さんの前には、色とりどりの積み木が広がっている。
『これはお城。これは橋。それで、これはお姉ちゃん』
こいし様が積み木を三つ重ねる。
形だけでは、どの部分がお姉ちゃんなのか分からない。
お空さんも同じらしく、あたいの膝へ座ったまま積み木を見つめていた。
『お空もやってみて』
こいし様が一つ渡す。
お空さんは受け取り、暫く眺めた。
色を見ているのか、形を確かめているのかと思った次の瞬間、口へ入れようとした。
「食べ物じゃありません」
慌てて手を押さえる。
『何でも口に入れる時期なんだね』
「面白がって変な物を渡さないで下さいよ」
『分かってるよ』
こいし様は次に、丸めた紙を渡した。
「こいし様」
『これは食べられる紙』
「食べさせないで下さい!」
紙を取り上げる。
お空さんは不満そうに口を尖らせた。
危険な物を取り上げられたのではなく、自分の物を奪われたと感じているらしい。
『おりん、けち』
「誰が教えたんですか、その言葉」
『私』
こいし様が手を挙げる。
悪びれる様子はない。
「余計なことを教えないで下さい」
『じゃあ、役に立つ言葉を教える』
こいし様はお空さんの正面へ座り直した。
嫌な予感がした。
『お腹が空いた時はね、「お姉ちゃん、ご飯」って言うの』
『おねえちゃん、ごはん』
「覚えるのが早いですね……」
お空さんは、音の意味より、こいし様の口の動きを真似している。
それでも一度聞いただけで、ほとんど同じ形へ出来た。
『眠い時は、「お姉ちゃん、抱っこ」』
『おねえちゃん、だっこ』
『遊びたい時は、「お姉ちゃん、仕事さぼって」』
『おねえちゃん、しごと─』
「そこまでです」
こいし様の口を塞ぐ。
『むぐぐ』
「さとり様へ報告しますよ」
『お燐、告げ口はよくないよ』
「お空さんへ妙なことを教える方が悪いんです」
お空さんは二人を見比べている。
怒っているのか、遊んでいるのか判断出来ないようだった。
やがて、覚えたばかりの言葉を口にする。
『おねえちゃん、だっこ』
意味を理解しているか確かめるより早く、両腕がお空さんを抱き上げていた。
こいし様が、にやりと笑う。
『お燐、ちょろい』
「それも教えないで下さい!」
◆
地霊殿へ正式に戻った翌日から、ワタクシの刷り込み計画は始まっていた。
以前のお姉様が幼い姿で戻られた以上、最初に正しい関係を教える必要がある。
お姉様はお姉様であり、ワタクシはその妹分である。
今の身体が幼く、記憶がなくとも、その関係まで失われたわけではない。
少なくとも、そう考えていた。
「空。ワタクシが貴女のお姉様ですわ」
朝。
燐さんが食事を取りに離れた隙を狙い、幼い空の寝台脇へ座った。
空は黒猫のぬいぐるみを抱き、警戒した目でこちらを見ている。
以前のお姉様なら、ワタクシが近づけば名を呼んで下さった。
今は、知らない者が距離を詰めた時の目を向けられる。
胸が痛まないわけではない。
それでも、言葉を覚えれば関係も理解出来るはずだと思った。
「さあ。『お姉様』と呼んで下さい」
『……』
「お・ね・え・さ・ま」
『……おりん』
「違います」
思わず額へ皺が寄る。
今この場にいない燐さんの名だけは、迷わず出てくる。
「お姉様です」
『おりん』
「お姉様」
『おりん!』
空の声が大きくなる。
発音の練習ではない。
燐さんを呼んでいる。
「しっ。呼ばなくて結構ですわ」
『おりんー!』
『何をしているんですか』
背後から燐さんの声がした。
身体が固まる。
振り返ると、食事の盆を持った燐さんが立っていた。
「言語教育ですわ」
『刷り込みでしょう』
「滅相もありません」
『ヤマメさんに言いますよ』
「何故あの土蜘蛛の名が出るのです」
『この間、次にやったら天井から吊るすって言ってました』
「……野蛮ですこと」
立ち上がる。
ここで続ければ、空がさらに燐さんを求めて泣く。
一度退くことも教育には必要である。
「本日はこれで失礼致します」
『毎日来る気だったんですか』
「地霊殿の従者として、空の成長を見守るのは当然でしょう」
『お姉様と呼ばせようとしなければ、見守っても構いません』
「善処します」
『止めるとは言わないんですね』
答えず、部屋を出る。
扉が閉じる直前、空が燐さんへ両腕を伸ばした。
『おりん、だっこ』
『はいはい』
燐さんが空を抱き上げる。
空は安心したように胸元へ顔を寄せた。
扉の隙間から、その様子を見てしまう。
「妬ましいですわ」
『パルスィさんみたいなこと言わないで下さい』
自分でも不適切な言葉だとは思う。
けれど、燐さんの名を最初に覚え、抱かれれば安心する空を羨ましいと思う気持ちまで、否定することは出来なかった。
◆
お空さんを旧都の仲間へ会わせる日は、さとり様と慎重に決めた。
大勢で囲めば怖がる。
まずは一人ずつ。
少し離れた場所から。
相手が近づくのではなく、お空さんが興味を持つまで待つ。
以前のお空さんを知る者ほど、今の姿へ強い感情を抱いている。
嬉しさだけではない。
戸惑いも、悲しみも、確かめたい気持ちもある。
それを幼いお空さんへ一度に向ければ、何を求められているのか分からず怯えるだろう。
そう考えていた。
もっとも、約束どおりにする者ばかりではない。
『お空ー! 伯母ちゃんだよー!』
ヤマメさんは、あたいが止める前に両腕を広げて近づいてきた。
お空さんは腕の中で縮こまり、胸元へ顔を隠す。
「ヤマメさん。急に近づかないで下さい」
『ごめんごめん。嬉しくってさ』
「それと、誰が伯母ちゃんですか」
『私』
「何でです」
『お燐が母親で、私はお燐の友達だから』
「あたいは姉です」
『じゃあ、お空のお姉ちゃんのお友達。大体伯母みたいなもんだろ』
「全然違います」
ヤマメさんは気にしなかった。
けれど、お空さんが顔を隠したことには気付いたらしい。
すぐに足を止め、少し離れた位置へ座る。
身体を低くし、お空さんと目線の高さを合わせた。
『私はヤマメ。お燐の友達だよ』
お空さんは顔を出さない。
『お燐から、私のこと聞いてないかい?』
「聞かせてますけど、まだ分かってないと思います」
『そっか』
ヤマメさんは無理に近づかなかった。
持ってきた小さな布人形を、二人の間へ置く。
『仲良くなったら、これで遊ぼう』
お空さんが少しだけ顔を上げる。
布人形を見る。
蜘蛛を模したらしく、脚が八本付いていた。
一本だけ、長さが違う。
『手作りだから、不格好なのは勘弁しておくれ』
お空さんは暫く見つめた後、腕の中から片手を伸ばした。
人形へ触れる。
すぐに引っ込める。
『お、脈ありだね』
「慌てないで」
『分かってるよ』
ヤマメさんが笑う。
その日のうちに抱かせてもらうことは出来なかった。
帰り際、お空さんは布人形を握ったまま離さなかった。
ヤマメさんは、それだけで満足そうに笑っていた。
自分へ懐かなくても、自分が渡した物を受け取ってくれればよい。
急に近づいた最初の失敗から、ヤマメさんなりに距離を学んだのだと思う。
◆
勇儀さんの場合、慎重さの方向が間違っていた。
『ほら、まずは匂いを覚えろ』
お空さんの鼻先へ、徳利を近づける。
「勇儀さん」
『飲ませてないぞ』
「何をしているんですか」
『将来のための教育だ』
「必要ありません」
徳利を取り上げる。
酒の匂いが、こちらの鼻にまで強く届いた。
幼いお空さんへ嗅がせるものではない。
『匂いくらい良いだろ』
「駄目です」
『昔のお空は、私が酒を教えたんだぞ』
「だから余計に駄目です!」
お空さんは膝の上で、取り上げられた徳利を目で追っている。
興味を持たせてしまった時点で、勇儀さんの目的は半分達成されたようなものだった。
『あれ、なに?』
「お水です」
『酒だ』
「勇儀さん!」
『嘘を教える方が悪い』
「今は知らなくていいんです」
『さけ』
お空さんが覚えてしまった。
頭を抱える。
「忘れて下さい」
『さけ』
「忘れて」
『さけ!』
勇儀さんが豪快に笑う。
『物覚えが良いじゃないか!』
「余計な言葉だけ覚えるんですよ、この子は!」
その日の夜。
お空さんがさとり様へ向かって「さけ」と言い、勇儀さんは地霊殿への出入りを一時禁止された。
さとり様は処分を告げる間、穏やかな顔を崩さなかった。
第三の目だけが、かなり険しかった。
◆
キスメさんが訪ねて来た日は、お空さんの機嫌が悪かった。
朝から、あたいの姿が少しでも見えなくなるたびに泣く。
食事もほとんど口へ運ばない。
抱き上げても身を反らし、寝台へ置けば、また泣いた。
「どうしたんですかねぇ」
困り果てていた。
熱はない。
怪我もない。
さとり様に見てもらっても、心は不安で埋まっているだけだった。
その理由までは、幼いお空さん自身にも分からないらしい。
生まれ直した身体には、言葉にならない不快や恐怖があるのかもしれない。
あたいが傍へいても消えない不安があることへ、少し傷ついている自分もいた。
キスメさんは部屋の隅から、あたい達を眺めていた。
いつもの桶に入り、何も言わない。
『うぁぁ……!』
お空さんがまた泣き出す。
背を撫でる。
「大丈夫。あたいは此処にいますよ」
泣き止まない。
キスメさんが静かに近づき、袖を引いた。
「抱いてみますか?」
頷く。
「でも今日は、あたいから離すと余計に……」
それでもキスメさんは手を伸ばした。
迷いながら、お空さんを預ける。
途端に声が大きくなった。
『おりん! おりんー!』
「やっぱり、あたいが─」
キスメさんは、お空さんの身体を桶の中へ抱き込んだ。
白無垢の袖で包む。
言葉は掛けない。
背を叩くこともしない。
ただ、桶ごとゆっくり揺れた。
右へ。
左へ。
一定の間隔。
お空さんの泣き声が、少しずつ小さくなる。
誰かに何かを求められることも、泣き止むよう宥められることもない。
同じ動きを繰り返す揺れの中で、呼吸だけが整っていく。
やがてキスメさんの胸元へ顔を埋め、しゃくり上げながら目を閉じた。
「凄い……」
小声で呟く。
キスメさんが微笑んだ。
理由を説明することはない。
あたいも訊かなかった。
キスメさんは、言葉を使わずに相手を理解する。
幼いお空さんにとって、何も求めず、何も教えず、ただ同じリズムで一緒に揺れる相手が必要だったのかもしれない。
守ることは、いつでも自分の腕へ抱き戻すことではない。
別の誰かの腕の方が落ち着く時もある。
そのことを少し寂しく思いながら、眠ったお空さんを起こさないよう、黙って二人の傍へ座った。
◆
私は、お空の世話になど興味がないと言っていた。
「面倒なだけでしょう。子供なんて」
旧都の橋へ遊びに来たお燐へ、そう言い放つ。
お空はお燐の手を握り、まだ覚束ない足取りで隣を歩いていた。
歩幅は小さい。
一歩ごとに身体が左右へ揺れる。
橋の石へ出来た僅かな段差にも足を取られそうになるため、お燐は自分の歩みをほとんど止めるほど遅くしていた。
正直に言えば、少し可愛らしいとは思った。
認める気はない。
皆がお空の一挙一動へ浮かれていることも、あの子が誰かへ手を伸ばすだけで喜ぶことも、見ていて妬ましかった。
『そうですか』
「ええ」
『なら、少しだけ見ていて下さい』
「人の話を聞いてた?」
『ヤマメさんに呼ばれたので、直ぐ戻ります』
「待ちなさい」
止める前に、お燐は走り去った。
橋の上へ残されたのは、私とお空だけ。
お空はお燐の背中を見失い、不安そうに辺りを見回した。
握っていた手が急になくなったことで、自分だけ取り残されたと思ったらしい。
「あの猫、本当に……」
溜息を吐く。
「泣かないでよ。私は慰めないから」
言ったそばから、お空の目へ涙が溜まる。
「だから泣くなって言ったでしょう」
『おりん……』
「すぐ戻ってくるわよ」
お空の手を引き、橋の端へ座らせた。
落ちないよう、自分が外側へ座る。
慰めるつもりはない。
谷へ落ちられれば寝覚めが悪いだけである。
「ほら、あそこを見て」
橋の下を指す。
暗い谷底。
時折、青白い地霊が浮かび上がる。
「一つ、二つ……数えていれば戻ってくるわ」
『いち』
「そう。次は?」
『に』
「その次」
『……いっぱい』
「何でそうなるのよ」
一と二の次が全部になる理屈は分からない。
呆れながらも、地霊が現れる度に指を差した。
三。
四。
お空は途中で混乱し、また一へ戻る。
その度に教え直す。
お燐が戻るまでの間、お空へ数を教え、風で乱れた服を直した。
途中で座り込めば抱き上げた。
橋の石は冷たい。
身体を冷やして体調を崩されれば、さらに面倒だからである。
『随分仲良くなりましたね』
戻ってきたお燐が笑う。
「誰が」
『パルスィさんとお空さん』
「仕方なく面倒を見ていただけよ」
お空は私の服を掴んでいた。
指を外そうとすると、さらに強く握る。
「離しなさい」
『や』
「……お燐。早く引き取りなさい」
『でもお空さん、離れたくないみたいですよ』
「妬ましいわね。本当に」
私より、お燐へ懐いていることが妬ましい。
皆から大切にされていることも妬ましい。
それなのに、僅かな時間だけ面倒を見た自分から離れたくないと言われ、悪い気がしないことが最も妬ましかった。
そう言いながら、お空の頭を優しく撫でた。
◆
お空さんが初めて、自分で飛ぼうとした日。
あたいは中庭で洗濯物を干していた。
お空さんは少し離れた場所で、黒猫のぬいぐるみを抱いて座っている。
「そこから動かないで下さいね」
『うん』
返事はよい。
最近では一人で歩ける距離も伸びてきた。
しかし転ぶ回数は、まだ多い。
衣服を一枚干し、次の衣服へ手を伸ばした時。
お空さんは、庭を飛んでいた小鳥を見た。
目でその動きを追う。
次に、自分の翼を見る。
自分の背にも、同じものがあると気付いたのかもしれない。
黒猫を地面へ置き、翼を広げる。
何度か羽ばたく。
身体が僅かに浮いた。
『……!』
お空さんの顔が輝く。
もっと強く羽ばたく。
足が地面から離れた。
「お空さん?!」
『おりん、みて!』
お空さんは確かに飛んでいる。
ただし、真っ直ぐではない。
右へ傾く。
今度は左へ回る。
翼の動きが左右で揃っていない。
そのまま洗濯物の方へ突っ込んでくる。
「止まって!」
『とまれない!』
「翼を閉じて!」
『どっち?!』
「両方!」
お空さんは慌てて翼を畳んだ。
当然、落ちる。
洗濯物を巻き込み、籠を蹴飛ばし、最後には頭から地面へ突っ込んだ。
「お空さん!」
駆け寄る。
土煙の中。
お空さんは逆さまになり、脚だけを動かしていた。
『ぬけない』
「動かないで!」
両脚を掴み、身体を引き抜く。
顔は泥だらけ。
髪には洗濯物が絡み付いていた。
怪我がないか確かめる。
額に小さな赤み。
翼の骨にも異常はない。
それ以外は問題なさそうだった。
安堵した瞬間、遅れて怒りが込み上げる。
「もう……勝手に飛んだら危ないでしょう!」
お空さんの目へ涙が溜まる。
『とべた』
「飛べましたけど、落ちたでしょう」
『とべた!』
嬉しそうだった。
あたいが叱っていることなど、半分も聞いていないらしい。
泥だらけの顔で笑う。
『おりん、みた?』
深く息を吐く。
「見ましたよ」
絡まった衣服を外し、頭を撫でる。
「ちゃんと飛べてました」
お空さんはさらに笑った。
成功したことは褒めたい。
危険な飛び方は叱らなければならない。
二つを同時に伝えることの難しさを、初めて知った。
「でも、次はあたいと一緒に練習します。勝手に飛ばないこと」
『うん!』
「返事だけで分かった気にならない」
口から出た言葉に、一瞬動きを止めた。
遠い昔。
教育係だったお空さんが、何度もあたいへ言った言葉。
危険な仕事を軽く考え、早く話を終わらせたくて返事だけをした時に叱られた。
今度はあたいが、幼いお空さんへ同じことを伝えている。
教えられていた頃は、何度も言わなくても分かっていると思った。
今なら、返事の後で本当に理解したか確かめたくなる気持ちが分かる。
『おりん?』
「何でもありません」
もう一度、お空さんの頭を撫でる。
「言ってみて。勝手に飛ばない」
『かってに、とばない』
「飛びたい時は?」
『おりん、よぶ』
「よし。良い子です」
褒められたことが嬉しかったのか、その場で翼を広げようとした。
「今は飛ばない!」
『うにゅ』
聞いたことのない声を出す。
恐らく、こいし様から教わったのだろう。
◆
その夜。
泥を落とし、翼の傷をもう一度確かめ、夕食を終えた後。
お空さんを膝へ座らせ、一冊の帳面を開いた。
表紙には、大きな文字で名前が書かれている。
以前のお空さんが使っていた記録を、そのまま見せるつもりはなかった。
これは、今のお空さんのために新しく用意した帳面である。
最初の頁へ、さとり様が名前を書いた。
「今日は、自分のお名前を覚えましょう」
『なまえ』
「そうです」
帳面の文字を指す。
「霊烏路」
『れー……』
「れい・う・じ」
『れい、うじ』
「空」
『そら?』
「うつほ、と読みます」
『うつほ』
「全部合わせて、霊烏路空」
『れーうじ、うつほ』
「もう少しですね」
何度も繰り返す。
文字を読むことより、音を一つずつ覚えることから始める。
途中でお空さんは飽き、帳面の角を噛もうとした。
慌てて止める。
お空さんは黒猫のぬいぐるみで遊び始めた。
名前より、今は猫の耳を引っ張る方が面白いらしい。
もう一度、こちらへ意識を戻す。
「お空さんのお名前は?」
『おりん』
「それはあたいです」
『おりん!』
「嬉しそうに言っても違います」
それでも、あたいの名を呼ばれると嬉しい。
訂正する声が少しも厳しくならないのは、そのせいだった。
さらに繰り返す。
窓の外の火が、少しずつ弱くなる。
お空さんの瞼も重くなってきた。
今夜は飛んで、落ちて、泣いて、笑った。
身体も頭も疲れているのだろう。
「もう一度だけ」
お空さんを抱き直す。
「お名前は?」
眠そうに目を擦る。
『れい……うじ』
「はい」
『うつほ』
思わず顔がほころぶ。
「そうです。霊烏路空」
『うつほ』
お空さんは自分の胸へ手を置いた。
名前の音と、自分自身を結び付けようとしている。
『おくう』
息を呑んだ。
教えていない呼び方だった。
昔から、皆がお空さんをそう呼んだ。
卵から生まれた後も、あたい達が何度も口へしている。
眠っている時に聞いたのかもしれない。
抱かれている間の会話から、自分へ向けられる音だと覚えたのかもしれない。
記憶が戻ったわけではない。
以前のお空さんが、自分の内側から名乗ったのでもない。
今のお空さんが、皆から呼ばれる音を自分の名として拾い上げた。
それで十分だった。
「はい」
笑う。
「貴女は、お空さんです」
『おくう』
「そして、あたいは?」
『おりん』
「正解」
お空さんは満足そうに笑い、胸元へ身体を預けた。
『おりん』
「はい」
『おくう』
「はい」
二人分の名前を、何度も交互に呼ぶ。
呼ばれるたびに返事をする。
ここにいると伝えるために。
お空さん自身も、ここにいるのだと覚えてもらうために。
やがて声が小さくなり、腕の中で眠りに落ちた。
幼い地獄烏を抱き上げ、寝台へ運ぶ。
黒猫のぬいぐるみを隣へ置く。
「おやすみなさい、お空さん」
眠ったお空さんは答えない。
それでも袖だけは、しっかり掴んでいた。
離れようとすると、指先へ力が入る。
「仕方ありませんね」
寝台の脇へ座る。
かつて、お空さんがあたいの眠りを見守ったように。
今度はあたいが、お空さんの傍にいる。
以前のお空さんは、何を考えていたのだろう。
幼かったあたいが眠るまで傍へ座り、何度言っても同じ失敗をする姿を見て、それでも次の日にまた教えた。
あの頃は、それが教育係の仕事だからだと思っていた。
今なら、仕事という言葉だけでは足りないと分かる。
無事に眠ることを確かめたい。
明日も目を覚ましてほしい。
少しずつ出来ることが増える姿を、傍で見ていたい。
教えることは、まだ沢山あった。
言葉。
歩き方。
飛び方。
地霊殿での暮らし。
さとり様達が家族であること。
そして何より、お空さんが誰からも大切にされていること。
それは言葉だけで教えるものではない。
泣いた時に戻り。
失敗した時に叱り。
出来たことを褒め。
眠るまで隣にいる。
毎日の積み重ねによって、いつか本人の中へ残るものなのだろう。
「ゆっくり覚えていきましょう」
答えの代わりに、お空さんの翼が小さく動いた。
その手を握る。
やがて窓の外の火がさらに弱くなり、地霊殿の夜が深まっていく。
夜が明けるまで、隣に座り続けた。
クレスタさんが愉快すぎる
以前のがんじがらめだった生活に比べれば
今の方がきっと精神的にも楽なんでしょうね。
一番の心の支えは失ったが、その支えを今度は複数手に入れた
そんな気がします。