からすとこねこ   作:ビーグル

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この作品は、東方Projectの二次創作です。
オリジナル展開、オリジナルキャラの要素を多分に含みます。


<前解説>
卵から孵ったお空と、お燐を始めとした
仲間たちとの新たな関係を築いていくエピソード

今回はオムニバス形式です


後日譚 「ひな烏」

 

 育てるということは

 何かを教えることだけではない。

 

 出来るようになるまで待ち

 失敗すれば、もう一度やらせ

 泣き出したなら、その理由を考える。

 

 時には叱り

 時には褒め

 必要ならば、ただ隣に座っている。

 

 かつて自分へ向けられた言葉を

 今度は別の誰かへ渡していく。

 

 そうして初めて

 教えられていた頃には分からなかった想いへ

 気付くことがある。

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 幼い空が卵から生まれて、幾日かが過ぎた。

 

 最初に覚えたことは、あたいの名前だった。

 正確には、名と呼べるほど整った音ではなかった。

 

 初めは「りん」とも言えず、喉の奥から短い声を出すだけだった。

 それでも、あたいが顔を近づけると同じ音を繰り返し、姿が見えなくなれば大きくなる。

 何度も聞くうちに、それがあたいを呼ぶ声なのだと分かった。

 

 次に覚えたのは、あたいの姿が見えなくなると、泣けば戻ってくるということだった。

 

 

『おりん!』

 

 

 部屋を出ようとした途端、背後から声が飛んでくる。

 片足は既に廊下へ出ていた。

 水差しは朝から空のままで、そろそろ取り替えなければならない。

 それでも声を聞けば、身体が先に止まった。

 

 振り返る。

 

 寝台の上に座っていたお空さんが、両腕を伸ばしている。

 黒い翼は寝具の上へ広がり、身体が前へ傾くたび、倒れないよう忙しなく動いていた。

 

 

「あたいは、ちょっと水を取りに行くだけですよ」

『おりん』

「すぐ戻ります」

『おりん!』

 

 

 声が大きくなる。

 目には、もう涙が溜まっていた。

 

 こちらの言葉を理解していないわけではない。

 「すぐ」が、どれほどの長さなのか分からないのだろう。

 扉の向こうへ消えた者が、本当に戻るという経験も、まだ少ない。

 生まれ直してからのお空さんにとって、姿が見えなくなることは、そのまま世界からいなくなることに近いのかもしれなかった。

 

 

「……一緒に行きますか」

 

 

 お空さんの顔が、ぱっと明るくなる。

 涙は落ちる前に目の縁へ残った。

 

 

『いく!』

 

 

 寝台へ近づき、身体の下へ腕を入れる。

 抱き上げると、お空さんは待っていたように首へしがみ付いた。

 

 まだ自分の足で長くは歩けない。

 寝台から扉までの距離でも、途中で座り込んでしまう。

 脚に力がないだけではない。

 身体に対して翼が大きく、均衡を取ることへ慣れていなかった。

 

 抱かれている間は、あたいの衣服を両手で強く掴んでいる。

 少しでも腕の位置を変えると、離されると思うのか、すぐに顔を上げた。

 

 

「本当に心配性ですね」

 

 

 そう言うあたい自身も、お空さんを部屋へ一人で残すことに慣れていない。

 夜中に目を覚ませば、最初に呼吸を確かめる。

 胸が小さく上下していることを見てからでなければ、もう一度目を閉じられなかった。

 

 卵から生まれ直した身体に異変がないか、額へ触れ、翼の温度を確かめる。

 食事を残せば、何処か具合が悪いのではと心配した。

 眠る時間が少し長ければ、さとり様を呼びに行った。

 

 自分が傍へいないと泣くお空さんと、傍を離れると何か起きるのではないかと考えるあたい。

 どちらが離れられないのか。

 今のところは、同じようなものだった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 廊下の角を曲がったところで、さとり様と出会った。

 

 

『おはよう、お空』

 

 

 さとり様は穏やかに声を掛ける。

 お空さんの身体が、腕の中で強張った。

 第三の目へ視線を向け、すぐに胸元へ顔を隠す。

 

 心を読む瞳だから怖がっているわけではない。

 まだ、身体から伸びた目というものを、どう受け取ればよいか分からないのだろう。

 

 

『今日も嫌われているわね』

「嫌っているわけじゃありません。まだ慣れていないだけです」

『分かっているわ』

 

 

 さとり様は無理に手を伸ばさなかった。

 少し離れた位置へしゃがみ、お空さんと同じ高さになる。

 以前のお空さんなら、さとり様が近づけば姿勢を正した。

 呼ばれる前から命令を待ち、役目を与えられることを喜んだ。

 

 今のお空さんにとっては、まだ知らない相手である。

 さとり様が、それを誰より理解していることは、穏やかな距離の取り方から分かった。

 

 

『お空。私はさとりよ』

 

 

 返事はない。

 

 

『この地霊殿の主人で、貴女の家族』

 

 

 お空さんは衣服へ顔を半分隠したまま、片目だけでさとり様を見ている。

 

 

『それから、お燐の主人でもあるわ』

 

 

 その言葉には反応した。

 

 

『おりんの?』

『ええ』

 

 

 お空さんが、あたいを見上げる。

 知っている者と知らない者の間へ、一本だけ糸が繋がったようだった。

 

 

「さとり様は、あたい達の大切な御主人様です」

『ごしゅじん』

 

 

 意味を理解しているようには見えない。

 それでも、あたいが大切だと言うなら、危険な相手ではないと感じたらしい。

 

 お空さんは僅かに顔を上げた。

 さとり様が、ゆっくり片手を差し出す。

 

 

『触ってみる?』

 

 

 お空さんは、またこちらを見た。

 

 

「大丈夫ですよ」

 

 

 その言葉を待っていたように、恐る恐る手を伸ばす。

 さとり様の指先へ触れた。

 

 すぐに引っ込める。

 けれど泣かなかった。

 

 

『今日は、ここまでね』

 

 

 さとり様は立ち上がる。

 

 

『少しずつでいいわ』

 

 

 お空さんはまた、胸元へ顔を隠した。

 小さな頭を撫でながら、さとり様が表へ出さなかった寂しさについて考える。

 

 卵から生まれたお空さんは、あたいの名だけを覚えていた。

 さとり様のことは知らない。

 地霊殿のことも知らない。

 以前なら何より大切にした主人を、今は警戒している。

 

 心が読めるさとり様には、その警戒も、あたいへ向けられる安心も、すべて伝わっている。

 それでも急がせず、今日は指へ触れるだけでよいと言った。

 

 だからこそ、あたいも急いではいけない。

 以前のお空さんへ戻そうとするのではない。

 もう一度、初めから家族になればいい。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

『お空、遊ぼう!』

 

 

 こいし様は、相手の心の準備を待つということを知らない。

 あたいが水を用意している間に、いつの間にか部屋へ現れていた。

 

 扉が開いた音も、廊下から近づく足音も聞いていない。

 お空さんの前には、色とりどりの積み木が広がっている。

 

 

『これはお城。これは橋。それで、これはお姉ちゃん』

 

 

 こいし様が積み木を三つ重ねる。

 形だけでは、どの部分がお姉ちゃんなのか分からない。

 お空さんも同じらしく、あたいの膝へ座ったまま積み木を見つめていた。

 

 

『お空もやってみて』

 

 

 こいし様が一つ渡す。

 お空さんは受け取り、暫く眺めた。

 色を見ているのか、形を確かめているのかと思った次の瞬間、口へ入れようとした。

 

 

「食べ物じゃありません」

 

 

 慌てて手を押さえる。

 

 

『何でも口に入れる時期なんだね』

「面白がって変な物を渡さないで下さいよ」

『分かってるよ』

 

 

 こいし様は次に、丸めた紙を渡した。

 

 

「こいし様」

『これは食べられる紙』

「食べさせないで下さい!」

 

 

 紙を取り上げる。

 お空さんは不満そうに口を尖らせた。

 危険な物を取り上げられたのではなく、自分の物を奪われたと感じているらしい。

 

 

『おりん、けち』

「誰が教えたんですか、その言葉」

『私』

 

 

 こいし様が手を挙げる。

 悪びれる様子はない。

 

 

「余計なことを教えないで下さい」

『じゃあ、役に立つ言葉を教える』

 

 

 こいし様はお空さんの正面へ座り直した。

 嫌な予感がした。

 

 

『お腹が空いた時はね、「お姉ちゃん、ご飯」って言うの』

『おねえちゃん、ごはん』

「覚えるのが早いですね……」

 

 

 お空さんは、音の意味より、こいし様の口の動きを真似している。

 それでも一度聞いただけで、ほとんど同じ形へ出来た。

 

 

『眠い時は、「お姉ちゃん、抱っこ」』

『おねえちゃん、だっこ』

『遊びたい時は、「お姉ちゃん、仕事さぼって」』

『おねえちゃん、しごと─』

「そこまでです」

 

 

 こいし様の口を塞ぐ。

 

 

『むぐぐ』

「さとり様へ報告しますよ」

『お燐、告げ口はよくないよ』

「お空さんへ妙なことを教える方が悪いんです」

 

 

 お空さんは二人を見比べている。

 怒っているのか、遊んでいるのか判断出来ないようだった。

 やがて、覚えたばかりの言葉を口にする。

 

 

『おねえちゃん、だっこ』

 

 

 意味を理解しているか確かめるより早く、両腕がお空さんを抱き上げていた。

 こいし様が、にやりと笑う。

 

 

『お燐、ちょろい』

「それも教えないで下さい!」

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 地霊殿へ正式に戻った翌日から、ワタクシの刷り込み計画は始まっていた。

 

 以前のお姉様が幼い姿で戻られた以上、最初に正しい関係を教える必要がある。

 お姉様はお姉様であり、ワタクシはその妹分である。

 今の身体が幼く、記憶がなくとも、その関係まで失われたわけではない。

 

 少なくとも、そう考えていた。

 

 

「空。ワタクシが貴女のお姉様ですわ」

 

 

 朝。

 

 燐さんが食事を取りに離れた隙を狙い、幼い空の寝台脇へ座った。

 空は黒猫のぬいぐるみを抱き、警戒した目でこちらを見ている。

 以前のお姉様なら、ワタクシが近づけば名を呼んで下さった。

 

 今は、知らない者が距離を詰めた時の目を向けられる。

 胸が痛まないわけではない。

 

 それでも、言葉を覚えれば関係も理解出来るはずだと思った。

 

 

「さあ。『お姉様』と呼んで下さい」

『……』

「お・ね・え・さ・ま」

『……おりん』

「違います」

 

 

 思わず額へ皺が寄る。

 今この場にいない燐さんの名だけは、迷わず出てくる。

 

 

「お姉様です」

『おりん』

「お姉様」

『おりん!』

 

 

 空の声が大きくなる。

 発音の練習ではない。

 

 燐さんを呼んでいる。

 

 

「しっ。呼ばなくて結構ですわ」

『おりんー!』

『何をしているんですか』

 

 

 背後から燐さんの声がした。

 身体が固まる。

 振り返ると、食事の盆を持った燐さんが立っていた。

 

 

「言語教育ですわ」

『刷り込みでしょう』

「滅相もありません」

『ヤマメさんに言いますよ』

「何故あの土蜘蛛の名が出るのです」

『この間、次にやったら天井から吊るすって言ってました』

「……野蛮ですこと」

 

 

 立ち上がる。

 

 ここで続ければ、空がさらに燐さんを求めて泣く。

 一度退くことも教育には必要である。

 

 

「本日はこれで失礼致します」

『毎日来る気だったんですか』

「地霊殿の従者として、空の成長を見守るのは当然でしょう」

『お姉様と呼ばせようとしなければ、見守っても構いません』

「善処します」

『止めるとは言わないんですね』

 

 

 答えず、部屋を出る。

 扉が閉じる直前、空が燐さんへ両腕を伸ばした。

 

 

『おりん、だっこ』

『はいはい』

 

 

 燐さんが空を抱き上げる。

 空は安心したように胸元へ顔を寄せた。

 扉の隙間から、その様子を見てしまう。

 

 

「妬ましいですわ」

『パルスィさんみたいなこと言わないで下さい』

 

 

 自分でも不適切な言葉だとは思う。

 けれど、燐さんの名を最初に覚え、抱かれれば安心する空を羨ましいと思う気持ちまで、否定することは出来なかった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 お空さんを旧都の仲間へ会わせる日は、さとり様と慎重に決めた。

 

 大勢で囲めば怖がる。

 まずは一人ずつ。

 少し離れた場所から。

 相手が近づくのではなく、お空さんが興味を持つまで待つ。

 

 以前のお空さんを知る者ほど、今の姿へ強い感情を抱いている。

 嬉しさだけではない。

 戸惑いも、悲しみも、確かめたい気持ちもある。

 それを幼いお空さんへ一度に向ければ、何を求められているのか分からず怯えるだろう。

 

 そう考えていた。

 もっとも、約束どおりにする者ばかりではない。

 

 

『お空ー! 伯母ちゃんだよー!』

 

 

 ヤマメさんは、あたいが止める前に両腕を広げて近づいてきた。

 お空さんは腕の中で縮こまり、胸元へ顔を隠す。

 

 

「ヤマメさん。急に近づかないで下さい」

『ごめんごめん。嬉しくってさ』

「それと、誰が伯母ちゃんですか」

『私』

「何でです」

『お燐が母親で、私はお燐の友達だから』

「あたいは姉です」

『じゃあ、お空のお姉ちゃんのお友達。大体伯母みたいなもんだろ』

「全然違います」

 

 

 ヤマメさんは気にしなかった。

 けれど、お空さんが顔を隠したことには気付いたらしい。

 

 すぐに足を止め、少し離れた位置へ座る。

 身体を低くし、お空さんと目線の高さを合わせた。

 

 

『私はヤマメ。お燐の友達だよ』

 

 

 お空さんは顔を出さない。

 

 

『お燐から、私のこと聞いてないかい?』

「聞かせてますけど、まだ分かってないと思います」

『そっか』

 

 

 ヤマメさんは無理に近づかなかった。

 持ってきた小さな布人形を、二人の間へ置く。

 

 

『仲良くなったら、これで遊ぼう』

 

 

 お空さんが少しだけ顔を上げる。

 布人形を見る。

 蜘蛛を模したらしく、脚が八本付いていた。

 一本だけ、長さが違う。

 

 

『手作りだから、不格好なのは勘弁しておくれ』

 

 

 お空さんは暫く見つめた後、腕の中から片手を伸ばした。

 人形へ触れる。

 すぐに引っ込める。

 

 

『お、脈ありだね』

「慌てないで」

『分かってるよ』

 

 

 ヤマメさんが笑う。

 

 その日のうちに抱かせてもらうことは出来なかった。

 帰り際、お空さんは布人形を握ったまま離さなかった。

 ヤマメさんは、それだけで満足そうに笑っていた。

 

 自分へ懐かなくても、自分が渡した物を受け取ってくれればよい。

 急に近づいた最初の失敗から、ヤマメさんなりに距離を学んだのだと思う。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 勇儀さんの場合、慎重さの方向が間違っていた。

 

 

『ほら、まずは匂いを覚えろ』

 

 

 お空さんの鼻先へ、徳利を近づける。

 

 

「勇儀さん」

『飲ませてないぞ』

「何をしているんですか」

『将来のための教育だ』

「必要ありません」

 

 

 徳利を取り上げる。

 酒の匂いが、こちらの鼻にまで強く届いた。

 幼いお空さんへ嗅がせるものではない。

 

 

『匂いくらい良いだろ』

「駄目です」

『昔のお空は、私が酒を教えたんだぞ』

 

 

「だから余計に駄目です!」

 

 

 お空さんは膝の上で、取り上げられた徳利を目で追っている。

 興味を持たせてしまった時点で、勇儀さんの目的は半分達成されたようなものだった。

 

 

『あれ、なに?』

「お水です」

『酒だ』

「勇儀さん!」

『嘘を教える方が悪い』

「今は知らなくていいんです」

『さけ』

 

 

 お空さんが覚えてしまった。

 頭を抱える。

 

 

「忘れて下さい」

『さけ』

「忘れて」

『さけ!』

 

 

 勇儀さんが豪快に笑う。

 

 

『物覚えが良いじゃないか!』

「余計な言葉だけ覚えるんですよ、この子は!」

 

 

 その日の夜。

 

 お空さんがさとり様へ向かって「さけ」と言い、勇儀さんは地霊殿への出入りを一時禁止された。

 さとり様は処分を告げる間、穏やかな顔を崩さなかった。

 第三の目だけが、かなり険しかった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 キスメさんが訪ねて来た日は、お空さんの機嫌が悪かった。

 

 朝から、あたいの姿が少しでも見えなくなるたびに泣く。

 食事もほとんど口へ運ばない。

 抱き上げても身を反らし、寝台へ置けば、また泣いた。

 

 

「どうしたんですかねぇ」

 

 

 困り果てていた。

 熱はない。

 怪我もない。

 

 さとり様に見てもらっても、心は不安で埋まっているだけだった。

 その理由までは、幼いお空さん自身にも分からないらしい。

 生まれ直した身体には、言葉にならない不快や恐怖があるのかもしれない。

 あたいが傍へいても消えない不安があることへ、少し傷ついている自分もいた。

 

 キスメさんは部屋の隅から、あたい達を眺めていた。

 いつもの桶に入り、何も言わない。

 

 

『うぁぁ……!』

 

 

 お空さんがまた泣き出す。

 背を撫でる。

 

 

「大丈夫。あたいは此処にいますよ」

 

 

 泣き止まない。

 キスメさんが静かに近づき、袖を引いた。

 

 

「抱いてみますか?」

 

 

 頷く。

 

 

「でも今日は、あたいから離すと余計に……」

 

 

 それでもキスメさんは手を伸ばした。

 迷いながら、お空さんを預ける。

 途端に声が大きくなった。

 

 

『おりん! おりんー!』

「やっぱり、あたいが─」

 

 

 キスメさんは、お空さんの身体を桶の中へ抱き込んだ。

 白無垢の袖で包む。

 言葉は掛けない。

 背を叩くこともしない。

 ただ、桶ごとゆっくり揺れた。

 

 右へ。

 左へ。

 一定の間隔。

 

 お空さんの泣き声が、少しずつ小さくなる。

 誰かに何かを求められることも、泣き止むよう宥められることもない。

 

 同じ動きを繰り返す揺れの中で、呼吸だけが整っていく。

 やがてキスメさんの胸元へ顔を埋め、しゃくり上げながら目を閉じた。

 

 

「凄い……」

 

 

 小声で呟く。

 キスメさんが微笑んだ。

 

 理由を説明することはない。

 あたいも訊かなかった。

 キスメさんは、言葉を使わずに相手を理解する。

 

 幼いお空さんにとって、何も求めず、何も教えず、ただ同じリズムで一緒に揺れる相手が必要だったのかもしれない。

 守ることは、いつでも自分の腕へ抱き戻すことではない。

 別の誰かの腕の方が落ち着く時もある。

 

 そのことを少し寂しく思いながら、眠ったお空さんを起こさないよう、黙って二人の傍へ座った。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 私は、お空の世話になど興味がないと言っていた。

 

 

「面倒なだけでしょう。子供なんて」

 

 

 旧都の橋へ遊びに来たお燐へ、そう言い放つ。

 お空はお燐の手を握り、まだ覚束ない足取りで隣を歩いていた。

 

 歩幅は小さい。

 一歩ごとに身体が左右へ揺れる。

 橋の石へ出来た僅かな段差にも足を取られそうになるため、お燐は自分の歩みをほとんど止めるほど遅くしていた。

 

 正直に言えば、少し可愛らしいとは思った。

 認める気はない。

 

 皆がお空の一挙一動へ浮かれていることも、あの子が誰かへ手を伸ばすだけで喜ぶことも、見ていて妬ましかった。

 

 

『そうですか』

「ええ」

『なら、少しだけ見ていて下さい』

「人の話を聞いてた?」

『ヤマメさんに呼ばれたので、直ぐ戻ります』

「待ちなさい」

 

 

 止める前に、お燐は走り去った。

 橋の上へ残されたのは、私とお空だけ。

 

 お空はお燐の背中を見失い、不安そうに辺りを見回した。

 握っていた手が急になくなったことで、自分だけ取り残されたと思ったらしい。

 

 

「あの猫、本当に……」

 

 

 溜息を吐く。

 

 

「泣かないでよ。私は慰めないから」

 

 

 言ったそばから、お空の目へ涙が溜まる。

 

 

「だから泣くなって言ったでしょう」

『おりん……』

「すぐ戻ってくるわよ」

 

 

 お空の手を引き、橋の端へ座らせた。

 落ちないよう、自分が外側へ座る。

 

 慰めるつもりはない。

 谷へ落ちられれば寝覚めが悪いだけである。

 

 

「ほら、あそこを見て」

 

 

 橋の下を指す。

 暗い谷底。

 時折、青白い地霊が浮かび上がる。

 

 

「一つ、二つ……数えていれば戻ってくるわ」

『いち』

「そう。次は?」

『に』

「その次」

『……いっぱい』

「何でそうなるのよ」

 

 

 一と二の次が全部になる理屈は分からない。

 呆れながらも、地霊が現れる度に指を差した。

 

 三。

 四。

 お空は途中で混乱し、また一へ戻る。

 その度に教え直す。

 

 お燐が戻るまでの間、お空へ数を教え、風で乱れた服を直した。

 途中で座り込めば抱き上げた。

 橋の石は冷たい。

 身体を冷やして体調を崩されれば、さらに面倒だからである。

 

 

『随分仲良くなりましたね』

 

 

 戻ってきたお燐が笑う。

 

 

「誰が」

『パルスィさんとお空さん』

「仕方なく面倒を見ていただけよ」

 

 

 お空は私の服を掴んでいた。

 指を外そうとすると、さらに強く握る。

 

 

「離しなさい」

『や』

「……お燐。早く引き取りなさい」

『でもお空さん、離れたくないみたいですよ』

「妬ましいわね。本当に」

 

 

 私より、お燐へ懐いていることが妬ましい。

 皆から大切にされていることも妬ましい。

 

 それなのに、僅かな時間だけ面倒を見た自分から離れたくないと言われ、悪い気がしないことが最も妬ましかった。

 そう言いながら、お空の頭を優しく撫でた。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 お空さんが初めて、自分で飛ぼうとした日。

 あたいは中庭で洗濯物を干していた。

 お空さんは少し離れた場所で、黒猫のぬいぐるみを抱いて座っている。

 

 

「そこから動かないで下さいね」

『うん』

 

 

 返事はよい。

 

 最近では一人で歩ける距離も伸びてきた。

 しかし転ぶ回数は、まだ多い。

 

 衣服を一枚干し、次の衣服へ手を伸ばした時。

 お空さんは、庭を飛んでいた小鳥を見た。

 目でその動きを追う。

 次に、自分の翼を見る。

 

 自分の背にも、同じものがあると気付いたのかもしれない。

 黒猫を地面へ置き、翼を広げる。

 何度か羽ばたく。

 

 身体が僅かに浮いた。

 

 

『……!』

 

 

 お空さんの顔が輝く。

 もっと強く羽ばたく。

 足が地面から離れた。

 

 

「お空さん?!」

『おりん、みて!』

 

 

 お空さんは確かに飛んでいる。

 ただし、真っ直ぐではない。

 

 右へ傾く。

 今度は左へ回る。

 翼の動きが左右で揃っていない。

 そのまま洗濯物の方へ突っ込んでくる。

 

 

「止まって!」

『とまれない!』

「翼を閉じて!」

『どっち?!』

「両方!」

 

 

 お空さんは慌てて翼を畳んだ。

 当然、落ちる。

 洗濯物を巻き込み、籠を蹴飛ばし、最後には頭から地面へ突っ込んだ。

 

 

「お空さん!」

 

 

 駆け寄る。

 土煙の中。

 お空さんは逆さまになり、脚だけを動かしていた。

 

 

『ぬけない』

「動かないで!」

 

 

 両脚を掴み、身体を引き抜く。

 顔は泥だらけ。

 髪には洗濯物が絡み付いていた。

 

 怪我がないか確かめる。

 額に小さな赤み。

 翼の骨にも異常はない。

 それ以外は問題なさそうだった。

 

 安堵した瞬間、遅れて怒りが込み上げる。

 

 

「もう……勝手に飛んだら危ないでしょう!」

 

 

 お空さんの目へ涙が溜まる。

 

 

『とべた』

「飛べましたけど、落ちたでしょう」

『とべた!』

 

 

 嬉しそうだった。

 あたいが叱っていることなど、半分も聞いていないらしい。

 泥だらけの顔で笑う。

 

 

『おりん、みた?』

 

 

 深く息を吐く。

 

 

「見ましたよ」

 

 

 絡まった衣服を外し、頭を撫でる。

 

 

「ちゃんと飛べてました」

 

 

 お空さんはさらに笑った。

 成功したことは褒めたい。

 危険な飛び方は叱らなければならない。

 

 二つを同時に伝えることの難しさを、初めて知った。

 

 

「でも、次はあたいと一緒に練習します。勝手に飛ばないこと」

『うん!』

「返事だけで分かった気にならない」

 

 

 口から出た言葉に、一瞬動きを止めた。

 

 遠い昔。

 教育係だったお空さんが、何度もあたいへ言った言葉。

 危険な仕事を軽く考え、早く話を終わらせたくて返事だけをした時に叱られた。

 

 今度はあたいが、幼いお空さんへ同じことを伝えている。

 教えられていた頃は、何度も言わなくても分かっていると思った。

 今なら、返事の後で本当に理解したか確かめたくなる気持ちが分かる。

 

 

『おりん?』

「何でもありません」

 

 

 もう一度、お空さんの頭を撫でる。

 

 

「言ってみて。勝手に飛ばない」

『かってに、とばない』

「飛びたい時は?」

『おりん、よぶ』

「よし。良い子です」

 

 

 褒められたことが嬉しかったのか、その場で翼を広げようとした。

 

 

「今は飛ばない!」

『うにゅ』

 

 

 聞いたことのない声を出す。

 恐らく、こいし様から教わったのだろう。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 その夜。

 泥を落とし、翼の傷をもう一度確かめ、夕食を終えた後。

 お空さんを膝へ座らせ、一冊の帳面を開いた。

 

 表紙には、大きな文字で名前が書かれている。

 

 以前のお空さんが使っていた記録を、そのまま見せるつもりはなかった。

 これは、今のお空さんのために新しく用意した帳面である。

 最初の頁へ、さとり様が名前を書いた。

 

 

「今日は、自分のお名前を覚えましょう」

『なまえ』

「そうです」

 

 

 帳面の文字を指す。

 

 

「霊烏路」

『れー……』

「れい・う・じ」

『れい、うじ』

「空」

『そら?』

「うつほ、と読みます」

『うつほ』

「全部合わせて、霊烏路空」

『れーうじ、うつほ』

「もう少しですね」

 

 

 何度も繰り返す。

 文字を読むことより、音を一つずつ覚えることから始める。

 

 途中でお空さんは飽き、帳面の角を噛もうとした。

 慌てて止める。

 

 お空さんは黒猫のぬいぐるみで遊び始めた。

 名前より、今は猫の耳を引っ張る方が面白いらしい。

 

 もう一度、こちらへ意識を戻す。

 

 

「お空さんのお名前は?」

『おりん』

「それはあたいです」

『おりん!』

「嬉しそうに言っても違います」

 

 

 それでも、あたいの名を呼ばれると嬉しい。

 訂正する声が少しも厳しくならないのは、そのせいだった。

 

 さらに繰り返す。

 窓の外の火が、少しずつ弱くなる。

 お空さんの瞼も重くなってきた。

 今夜は飛んで、落ちて、泣いて、笑った。

 

 身体も頭も疲れているのだろう。

 

 

「もう一度だけ」

 

 

 お空さんを抱き直す。

 

 

「お名前は?」

 

 

 眠そうに目を擦る。

 

 

『れい……うじ』

「はい」

『うつほ』

 

 

 思わず顔がほころぶ。

 

 

「そうです。霊烏路空」

『うつほ』

 

 

 お空さんは自分の胸へ手を置いた。

 名前の音と、自分自身を結び付けようとしている。

 

 

『おくう』

 

 

 息を呑んだ。

 教えていない呼び方だった。

 

 昔から、皆がお空さんをそう呼んだ。

 卵から生まれた後も、あたい達が何度も口へしている。

 眠っている時に聞いたのかもしれない。

 抱かれている間の会話から、自分へ向けられる音だと覚えたのかもしれない。

 

 記憶が戻ったわけではない。

 以前のお空さんが、自分の内側から名乗ったのでもない。

 

 今のお空さんが、皆から呼ばれる音を自分の名として拾い上げた。

 それで十分だった。

 

 

「はい」

 

 

 笑う。

 

 

「貴女は、お空さんです」

『おくう』

「そして、あたいは?」

『おりん』

「正解」

 

 

 お空さんは満足そうに笑い、胸元へ身体を預けた。

 

 

『おりん』

「はい」

『おくう』

「はい」

 

 

 二人分の名前を、何度も交互に呼ぶ。

 呼ばれるたびに返事をする。

 

 ここにいると伝えるために。

 お空さん自身も、ここにいるのだと覚えてもらうために。

 

 やがて声が小さくなり、腕の中で眠りに落ちた。

 幼い地獄烏を抱き上げ、寝台へ運ぶ。

 黒猫のぬいぐるみを隣へ置く。

 

 

「おやすみなさい、お空さん」

 

 

 眠ったお空さんは答えない。

 それでも袖だけは、しっかり掴んでいた。

 離れようとすると、指先へ力が入る。

 

 

「仕方ありませんね」

 

 

 寝台の脇へ座る。

 かつて、お空さんがあたいの眠りを見守ったように。

 今度はあたいが、お空さんの傍にいる。

 

 以前のお空さんは、何を考えていたのだろう。

 幼かったあたいが眠るまで傍へ座り、何度言っても同じ失敗をする姿を見て、それでも次の日にまた教えた。

 あの頃は、それが教育係の仕事だからだと思っていた。

 今なら、仕事という言葉だけでは足りないと分かる。

 

 無事に眠ることを確かめたい。

 明日も目を覚ましてほしい。

 少しずつ出来ることが増える姿を、傍で見ていたい。

 

 教えることは、まだ沢山あった。

 言葉。

 歩き方。

 飛び方。

 地霊殿での暮らし。

 さとり様達が家族であること。

 

 そして何より、お空さんが誰からも大切にされていること。

 それは言葉だけで教えるものではない。

 

 泣いた時に戻り。

 失敗した時に叱り。

 出来たことを褒め。

 眠るまで隣にいる。

 

 毎日の積み重ねによって、いつか本人の中へ残るものなのだろう。

 

 

「ゆっくり覚えていきましょう」

 

 

 答えの代わりに、お空さんの翼が小さく動いた。

 その手を握る。

 

 やがて窓の外の火がさらに弱くなり、地霊殿の夜が深まっていく。

 夜が明けるまで、隣に座り続けた。

 




クレスタさんが愉快すぎる

以前のがんじがらめだった生活に比べれば
今の方がきっと精神的にも楽なんでしょうね。
一番の心の支えは失ったが、その支えを今度は複数手に入れた
そんな気がします。
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