オリジナル展開、オリジナルキャラの要素を多分に含みます。
<前解説>
お空が卵となって地霊殿に帰ってきた後。
卵の世話をするうちに、お燐が自分のことを「あたい」と呼び始める話。
誰かの言葉を覚えていることと
誰かと同じ言葉を使うことは、少し違う。
何度も呼ばれ。
何度も聞き。
すぐ傍で、長い時間を過ごした言葉は
いつしか自分の内側へ根を下ろす。
真似をしようと思わなくても。
その者になろうと願わなくても。
失った声が残したものは
記憶の中だけにあるとは限らない。
自分の口から零れた時に初めて
受け取っていたのだと知る言葉もある。
◆
卵は、まだ名前を呼んでも返事をしなかった。
当たり前だ。
淡い熱を持つ殻の中で、お空さんがどんな姿になっているのかさえ分からない。
耳を当てても、聞こえるのは小さな音だけだった。
鼓動なのか。
殻の内側で身体を動かした音なのか。
それとも、アタシがそう聞こえてほしいと思っているだけなのか。
「お空さん」
呼び掛ける。
返事はない。
「朝ですよ」
窓のない地霊殿では、朝も夜も火の明るさで決める。
それでも、今までと同じように声を掛けた。
「今日は、少し暖かいですね」
卵を包む布へ触れる。
熱過ぎない。
冷たくもない。
さとり様から教わった温度を保っている。
「アタシは、これから仕事へ行ってきます」
立ち上がる。
部屋を出ようとして、振り返った。
卵は、寝台の中央に置かれている。
一人で残すのが怖い。
けれど、ずっと傍にいるわけにもいかない。
怨霊の管理も、燃料の運搬も止められない。
「直ぐ戻りますから」
もう一度、布へ触れる。
「待っていて下さい」
お空さんは、待つことが苦手だった。
思い立てば先へ進む。
止めても聞かない。
アタシが追い付く前に、危険な場所へ入ってしまう。
今度は、何処にも行かない。
行けないだけだと分かっていても
同じ場所で待っていてくれることへ、少し安心してしまう自分が嫌だった。
◆
卵になってから、三日が過ぎた。
アタシは毎日、同じことを話した。
朝になれば、仕事へ行くと言う。
戻れば、今日あったことを話す。
「旧都で、勇儀さんに会いました」
卵の隣へ座る。
「お空さんのことを訊かれましたけど、まだ話していません」
何と説明すればよいのか分からなかった。
死んだ。
卵になった。
また生まれるかもしれない。
どれも本当なのに、並べると嘘のように聞こえる。
「ヤマメさんには、少し気付かれてるかもしれません」
殻へ耳を当てる。
小さな音。
昨日より、少し強い気がした。
「聞いてますか」
もちろん返事はない。
「聞いてなくても、話しますけど」
以前も、同じだった。
お空さんは機械の音を聞きながら、アタシの話へ相槌を打つ。
半分くらいは聞いていなかった。
それでも、後から大事なところだけ覚えている。
「今日、怨霊が一体逃げました」
殻を指で軽く叩く。
「直ぐ捕まえましたよ。アタシだって、もう一人で出来ますから」
褒めてほしかった。
返事がないと分かっている相手へ、そんなことを考えた。
「……お空さん」
名前を呼ぶ。
小さな音がした。
顔を上げる。
「いま、動きました?」
布を外し、殻へ両手を置く。
もう一度。
内側から、微かな振動が伝わる。
「さとり様!」
部屋を飛び出しかける。
扉の前で戻った。
卵を一人に出来ない。
「さとり様! 聞こえますか!」
廊下へ向かって叫ぶ。
暫くして、足音が近づいた。
『どうしたの、お燐』
さとり様が部屋へ入る。
「動きました。いま、殻の中で」
『落ち着きなさい』
「でも!」
『心音は、昨日より強くなっているわ』
第三の目が、卵へ向けられる。
殻の内側へあるものは、まだ言葉で考えていないらしい。
さとり様にも、はっきりした心は読めない。
「もう直ぐ、生まれますか」
『それは分からない』
「いつ分かるんです」
『生まれる時になれば』
「それじゃ遅いですよ」
『生まれる前に生まれる時を知って、どうするの?』
「準備します」
『準備なら、もう十分しているでしょう』
小さな衣服。
柔らかい布。
水と食事。
寝台の周りには、必要になるかもしれない物を並べてある。
何が必要か分からないため、動物の子を育てた者へ片端から話を聞いた。
鳥と猫では違うと言われても、使えそうなものは全て集めた。
「足りないものがあるかもしれません」
『その時は、皆で探すわ』
「間に合わなかったら」
『お燐』
さとり様の声が、少し強くなる。
『この子は、まだ生まれてもいないのよ』
分かっている。
分かっているのに、考えてしまう。
殻が割れなかったら。
生まれても息をしなかったら。
生まれた姿が、お空さんではなかったら。
また、失ったら。
『そこから先を考えるのは止めなさい』
「心を読まないで下さい」
『読まなくても、その顔を見れば分かるわ』
以前にも、誰かから似たことを言われた気がした。
『大丈夫よ』
さとり様が、アタシの手へ自分の手を重ねる。
『いまは、生きている』
いまは。
その言葉を、何度も心の中で繰り返した。
◆
七日目の夜。
卵の熱が、急に下がった。
アタシは寝台の傍で目を覚ました。
手を伸ばす。
冷たい。
「お空さん?」
布を剥がす。
殻へ頬を当てる。
音が聞こえない。
「お空さん」
返事はない。
胸の奥が、一瞬で冷えた。
「さとり様」
声が上手く出なかった。
卵を抱き上げる。
「さとり様!」
今度は叫ぶ。
扉を開け、廊下へ出る。
走り出す前に、さとり様が角から現れた。
寝衣の上へ羽織を掛けている。
『どうしたの』
「冷たいんです」
『見せて』
「音も聞こえない。さっきまで、ちゃんと」
『お燐。貸して』
卵を渡せなかった。
腕へ力が入る。
『大丈夫。取り上げたりしないわ』
「でも」
『二人で確かめましょう』
さとり様の手が、殻へ触れる。
第三の目が閉じる。
長い沈黙。
「何か、聞こえますか」
『待って』
「さとり様!」
『待ちなさい』
待てなかった。
腕の中にあるものが、また動かなくなったように思えた。
巨釜の前で、届かなかった背中が蘇る。
最後に掴めなかった手。
燃え上がる光。
何も残らなかった場所。
「嫌です」
卵を抱き締める。
「また置いていかないで下さい」
誰へ言っているのか、自分でも分からなかった。
「アタシを一人にしないで…」
声が震える。
「今度は、アタシが守りますから」
殻へ額を付ける。
「何処にも行かないで」
言葉を重ねても、温度は戻らない。
「アタシが─」
息が詰まった。
次の言葉が、喉の奥で形を変えた。
「あたいが、今度こそ守るから」
口から零れた。
自分の声なのに、少しだけ懐かしく聞こえた。
次の瞬間。
腕の中で、卵が動いた。
「……え」
こつ、と小さな音がする。
殻の内側から、何かが触れた。
もう一度。
先ほどまで聞こえなかった鼓動が、ゆっくり戻ってくる。
『休んでいただけみたいね』
さとり様が息を吐いた。
「休む?」
『成長の途中で、熱の巡りが変わったのでしょう。心は、ちゃんとここにあるわ』
「だったら、先に言って下さいよ!」
『確かめていたの』
「遅いです!」
怒鳴りながら、脚から力が抜ける。
廊下の床へ座り込んだ。
卵だけは落とさないよう、両腕で抱えている。
「良かった……」
涙が殻へ落ちた。
『部屋へ戻りましょう』
「はい」
さとり様は、アタシの口から出た言葉について何も言わなかった。
─あたい
それが、お空さんの一人称だったことにも。
アタシ自身が気付いていないことにも。
ただ、廊下へ座り込んだアタシの隣へしゃがみ
立ち上がれるまで待っていてくれた。
◆
それからも、毎日は続いた。
朝になれば仕事へ行く。
戻れば、卵へ話をする。
「あたいが戻りましたよ」
自然に言葉が出る。
「今日は、怨霊が大人しくて助かりました」
殻を撫でる。
「勇儀さんが、また酒を持ってきたんです。卵へ飲ませるなって、何度も言っておきました」
卵が小さく動く。
「飲みたいんですか?」
もう一度、動いた。
「駄目です。生まれて大きくなってからです」
返事の代わりのように、殻の中で音がする。
「あたいが、ちゃんと見てますからね」
その一人称へ、違和感はなかった。
最初から自分のものだったように使っていた。
動物達も、さとり様も、誰も指摘しなかった。
◆
気付いたのは、十日ほど後だった。
さとり様の執務室で、卵の状態について話していた時。
「あたいが仕事の間は、誰か一人、傍にいてもらえると助かります」
『分かったわ。動物達にも頼んでおきましょう』
「出来れば、同じ方がいいです。毎日違うと、落ち着かないかもしれません」
『卵が?』
「あたいがです」
『そう』
さとり様が書類へ何かを書き込む。
その横で、口にした言葉が遅れて耳へ戻ってきた。
「あたい?」
声に出す。
さとり様の筆が止まった。
「いま、あたいって」
『言ったわね』
「いつからですか」
『さあ?』
「知ってたでしょう」
『気付いてはいたわ』
「どうして言わなかったんです」
『言ってほしかった?』
答えられなかった。
言われていたら、止めただろうか。
お空さんの真似をしているようで、怖くなったかもしれない。
「アタシは」
言い直す。
口の中で、少しだけ遠い。
「……アタシは、お空さんになりたいわけじゃありません」
『知っているわ』
「同じ言葉を使ったら、皆がそう思うかもしれない」
『誰が?』
「地霊殿の皆が」
『皆がそう思っているなら、私には聞こえるわ』
「聞こえてるんですか」
『いいえ』
さとり様は筆を置いた。
『誰も、お燐をお空だとは思っていない』
「でも」
『同じ言葉を使う者が、同じ者になるわけではないでしょう』
分かっている。
それでも、胸の中が落ち着かない。
「じゃあ、どうして変わったんです」
『それを私に訊くの?』
「心が読めるでしょう」
『読ませてくれるなら』
普段なら、勝手に読まないでほしいと思う。
今は、自分でも分からなかった。
「……少しだけ」
第三の目が、こちらを向く。
胸の奥にあるものが、静かに掬い上げられる。
巨釜の前で聞いた声。
小さかった頃、何度も呼ばれた名前。
─『お燐、そっちは危ない』
─『あたいが先に見るから、ここで待ってな』
─『お燐は分かりやすいな』
─『大丈夫。あたいがいる』
失った声が、幾つも残っている。
どれも真似をするために覚えた言葉ではない。
傍にいたから、覚えている。
守られたから、残っている。
何度も聞くうちに、自分の中へ入り込んでいた。
『言葉は、誰か一人だけのものではないわ』
さとり様が言う。
『お空から受け取ったものが、お燐の中へ根付いたのでしょう』
「受け取った?」
『ええ』
「勝手に?」
『言葉とは、そういうものよ』
卵の中へいるものへ、アタシは毎日話し掛けている。
返事がなくても、言葉を渡している。
その子が覚えているかは分からない。
けれど、いつか同じように、何かが残るのかもしれない。
「お空さんは、もういないのに」
『だから消えるとは限らない』
「アタシが使っても、いいんでしょうか」
『それを決めるのは、お燐よ』
さとり様は、許可も命令もしなかった。
使いなさいとも、元へ戻しなさいとも言わない。
『ただし』
「何です」
『お空になるために使うのなら、止めるわ』
「なりません」
直ぐに答えた。
「あたいは、お燐です」
また、自然に言葉が出た。
今度は、自分で聞いていた。
「あたいは、お空さんじゃない」
『ええ』
「お空さんみたいに、全部一人で出来ません」
『ええ』
「怖い時は逃げます。分からなければ、さとり様を呼びます」
『それでいいのよ』
「あの子のことだって、一人では守れません」
卵のある部屋の方角を見る。
「だから、皆に手伝ってもらいます」
『ええ』
「それでも、あたいが守りたいんです」
さとり様の表情が、ゆっくり緩んだ。
『その言葉は、もう貴女のものね』
胸の奥へ、静かに落ちた。
お空さんから奪ったのではない。
お空さんの代わりになったのでもない。
貰ったとも違う。
長い時間を掛けて、自分の中に根を下ろした。
同じ言葉でも、口にする者が違えば、そこへ込める約束も違う。
お空さんの「あたい」は、前へ進むための言葉だった。
あたいの「あたい」は、ここへ残り、誰かを待つための言葉になる。
◆
その夜。
卵の隣へ横になる。
いつもより強く、殻の中から音がした。
「起きてるんですか」
こつ。
「今日は、さとり様と話をしました」
こつ。
「あたいの話です」
殻を撫でる。
「あたいは、昔からこう言っていたわけじゃありません」
答えはない。
「お空さんが、そう言っていました」
生前の姿を思い出す。
卵の中の子へ、その影を重ねないようにする。
「でも、貴女が同じ言葉を使う必要はありませんからね」
こつ、と小さく返る。
「好きな言葉を使って下さい」
生まれた子が、自分を何と呼ぶのか。
同じ声なのか。
違う声なのか。
まだ何も分からない。
「貴女は、貴女です」
殻へ頬を寄せる。
「あたいも、あたいです」
小さな音が、直ぐ傍で鳴った。
返事ではない。
それでも、聞いているように思えた。
「おやすみなさい、お空さん」
目を閉じる。
以前は、隣から同じ言葉が返ってきた。
今はまだ、何も返らない。
それでよかった。
呼び声は、届いた瞬間に返事を求めるものではない。
何度でも呼び。
何日でも待ち。
いつか目を開けた時に、自分の声で答えてもらえばいい。
「明日も、あたいがここにいますから」
最後にそう伝える。
卵の中で、微かな鼓動が続いていた。
お燐は原作ではもともと「あたい」と口にしています。
さすがに幼い頃から言うのも何だと思い、途中から変えるつもりでした。
そこに「お空が元々使っていた一人称を受け継ぐ」という形をとり
このエピソードを補完しました。