オリジナル展開、オリジナルキャラの要素を多分に含みます。
<前解説>
以前から地霊殿に仕えている動物たちのエピソード。
幼いお空を見て、かつて自分たちを導いた大きな存在との差に戸惑いながらも、新たな出会いを通じて変わっていく物語です。
噂というものは
誰かが広めようとしなくても、いつの間にか棲みついている。
廊下の隅に。
食卓の下に。
眠る前の小さな囁きに。
同じ屋敷で暮らしていても
見えるものは、住む者の数だけ違う。
だから、一羽の地獄烏が帰ってきたという出来事にも
一つではない物語が生まれる。
恐れた者の話。
待ち続けた者の話。
以前と同じ姿を探した者の話。
そして
違う姿の中へ、新しい名前を見つけた者の話。
◆
昔のお空様は、怖かった。
地霊殿の倉庫へ棲みついた灰色の鼠は、そう覚えている。
いつも怒っていたわけではない。
廊下で会えば、挨拶を返してくれた。
小さな身体では運べない荷を抱えていれば、何も言わずに片手で持ち上げてくれた。
倉庫の高い棚から箱を下ろしてほしいと頼んだ時など、梯子を使うより自分が飛んだ方が早いと言い、本当に一息で取ってきた。
礼を言えば、地霊殿で働く仲間なのだから当然だと答えた。
そういう時のお空様は、怖くなかった。
大きな黒い翼も、太陽のように熱を抱えた身体も、この屋敷を守る頼もしいものに見えた。
けれど、焦熱地獄の仕事に関わる時だけは違った。
声が低くなる。
冗談を言わなくなる。
普段なら見逃すような小さな乱れにも、直ぐに目を留めた。
鼠が燃料庫の戸を閉め忘れた日も、そうだった。
その日は、運び込まれた燃料の数が記録と合わなかった。
箱を一つずつ数え直し、帳面を確かめ、足りなかった分が別の棚へ置かれているのを見つけた。
ようやく仕事が終わったと安心し、そのまま燃料庫を離れた。
戸を閉めていないことには、呼び戻されるまで気付かなかった。
幸い、火は出なかった。
燃料へ近づいた者もいなかった。
何も起きていない。
だから初めは、少しくらい見逃してくれてもよいのではないかと思った。
焦熱地獄の管理者は、開いた戸の前へ鼠を立たせた。
『火の近くで「これくらい」は通用しない』
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
それなのに、倉庫の奥で反響する大声より重く聞こえた。
『今日、何も起きなかったからといって、明日も起きないとは限らない。分かったか』
「はい……」
早く話を終わらせたくて返事をした。
それも、見抜かれていたらしい。
『返事だけで分かった気になるな。もう一度、戸を閉めるところからやり直せ』
燃料庫へ戻った。
戸を引く。
金具が噛み合う音を聞く。
取っ手を押し、隙間がないことを確かめる。
もう一度開け、同じ手順を繰り返す。
お空様は、その全てを後ろで見ていた。
失敗したことより、失敗を軽く考えたことを叱られているのだと、二度目になってようやく分かった。
その日から、燃料庫の戸を三度確かめるようになった。
一度目は、閉めた直後。
二度目は、数歩離れてから戻る。
三度目は、廊下の角を曲がる前。
少し多過ぎる気もする。
他の動物から、さっき確かめただろうと笑われることもあった。
けれど、お空様の目が何処かから見ているようで、一度や二度では落ち着かなかった。
管理者が近くにいない日でも、低い声だけは思い出せた。
だから、お空様が巨釜から戻らなかったと聞いた後も。
黒い卵になって帰ってきたと聞いた後も。
燃料庫の戸を三度確かめた。
確認するたび、もう見張る者はいないのだと思った。
同時に、見張る者がいないからこそ、自分で続けなければならないとも思った。
やがて、卵から幼い地獄烏が生まれたという噂が屋敷中を巡った。
昔のお空様と同じ黒い翼。
けれど身体は小さく、言葉もほとんど知らない。
お燐様の姿が見えなくなると泣き、知らない者が近づけば隠れる。
食事も一人では上手く出来ず、廊下を歩けば何度も転ぶ。
噂を運んできた動物達は、可愛らしいと口を揃えた。
昔のお空様を知らない若い者は、早く会いたいと言った。
鼠は、会いに行かなかった。
忙しいからではない。
幼子が嫌いだからでもない。
昔のお空様を知っているからこそ、見たくなかった。
火の前へ立てば、誰より大きく見えた姿。
黒い翼を広げ、地霊殿を守り、皆へ指示を出していた声。
鼠の失敗を見逃さず、危険を危険だと教えた者。
それが小さくなり、自分の名も、仕事も、交わした言葉も覚えていない。
同じ翼を持つ別の姿を前にすれば、いなくなったことだけを改めて見せられる気がした。
可愛いと笑える者達が、少し羨ましかった。
自分も何も知らなければ、素直に幼子の誕生を喜べたのかもしれない。
◆
ある日の午後。
燃料庫の戸を閉め、いつものように一度目を確かめた時だった。
取っ手から手を離す前に、背後で小さな足音がした。
一歩。
少し間を空けて、もう一歩。
廊下を走る動物の音ではない。
誰かの後を追い、見失わないよう慎重に歩く音だった。
振り返る。
黒い翼を持つ幼子が、廊下の角からこちらを見ていた。
噂に聞いたとおり、身体は小さい。
翼だけが少し不釣り合いに大きく、畳んだ先が床へ触れそうになっている。
両腕には黒猫のぬいぐるみ。
使い込まれた布の耳が、抱く腕の間から覗いていた。
鼠と目が合う。
幼子は逃げなかった。
少しだけ首を傾げる。
『ねずみ』
幼子が言った。
名前ではない。
見えたものを、そのまま口へしただけなのだろう。
それでも背筋が伸びた。
「は、はい!」
返事をしてから、自分が何故畏まったのか分からなくなった。
目の前にいるのは、昔のお空様ではない。
少なくとも、燃料庫の戸を閉め忘れたことも、長い説教をしたことも覚えていないはずだ。
黒い翼へ身体が先に反応したのかもしれない。
幼子は、鼠の返事より燃料庫の戸を気にした。
『なにしてるの?』
「戸が閉まっているか、確かめています」
『どうして?』
「開いていると、危ないからです」
幼子は戸へ近づいた。
黒猫を片腕へ抱え直し、鼠の隣へしゃがむ。
取っ手へ両手を重ね、力を込めて押した。
小さな腕では、重い扉はほとんど動かない。
それでも金具は音を立てず、隙間も出来なかった。
『しまってる』
「はい。ですが、もう一度確かめます」
『なんかい?』
「三度です」
『いっぱい』
「三度です」
幼子は黒猫を床へ座らせ、自分の指を見た。
三本立てようとしているらしい。
親指を折ると小指まで曲がり、人差し指を残そうとすると四本になる。
『さん』
「それは四本です」
『よん?』
「はい」
何故か、戸の確認ではなく、数の稽古が始まった。
鼠が指を一本ずつ折って見せる。
幼子も何度も真似をする。
一本。
二本。
三本。
黒猫の前足まで数え始め、途中で左右が分からなくなる。
ようやく三本を立てられた頃には、二度目の戸の確認どころではなくなっていた。
『いち、に、さん』
「お上手です」
幼子は嬉しそうに笑った。
昔のお空様は、鼠が今も戸を三度確かめていることを知らない。
目の前の幼子も、その理由を知らない。
過去の記憶がないのなら、鼠の習慣を見て、自分が教えたのだと思うこともない。
それでも、この習慣を止めるつもりはなかった。
昔のお空様から受け取った教えは、もう鼠自身のものになっている。
教えた者が覚えていなくても、受け取った側には残っている。
そして今日。
鼠は今のお空様へ、三という数を教えた。
火の危険を教わった返礼としては、小さ過ぎるかもしれない。
同じものを、同じ形で返す必要はないのかもしれない。
出来ることを、今いる相手へ渡せばよい。
『ねずみ』
「はい」
『よんも、おしえて』
「では、その前に戸をもう一度確かめましょう」
『どうして?』
「昔、お空様に教わったからです」
幼子は、黒猫を抱いたまま瞬いた。
『おくう?』
「ええ。お空様です」
同じ名を呼んだ。
昔の管理者を示す名。
目の前の幼子が、これから覚えていく自分の名。
以前なら、その二つが重なることを恐れていた。
けれど、同じでなければならないわけではない。
鼠が受け取ったものは昔のお空様から。
今日、鼠が渡すものは今のお空様へ。
過去が消えず、今を過去の代わりにもせず、両方を覚えていることは出来る。
そう思えた時、初めて目の前の幼子を真っ直ぐ見ることが出来た。
◆
厨房で働く茶色い兎は、食べ残しが嫌いだった。
作った物を残されると、自分の腕まで否定されたように感じる。
身体の大きな者へ出した一皿なら、量が多過ぎたのだと考えられる。
味の好みが違ったなら、次から変えればよい。
それでも、手を付けられないまま冷めていく料理を見ると、腹の底へ小さな棘が残った。
地霊殿で暮らす者は多い。
妖怪。
動物。
地霊。
食べる量も、好む味も違う。
だから厨房では、一人一人の好みを覚えることも仕事のうちだった。
昔のお空様については、難しく考える必要がなかった。
よく食べた。
出された物は大抵残さない。
味より量。
見た目より熱。
焦げた肉を出した時でさえ、燃料に近い味がすると笑って平らげた。
料理を作る側としては、少し複雑な褒め方だった。
それでも皿が綺麗に空になるのは気持ちがよかった。
だから、卵から生まれた幼い空へ初めて食事を運ぶ役目を頼まれた時も、真っ先に好物を確かめた。
同じ地獄烏なら、似た味を好むと思ったからだ。
『まだ分からないの』
お燐様は、困った顔で答えた。
幼子の世話を始めてから、以前より眠る時間が減っているらしい。
目の下へ薄く疲れが見える。
それでも、食事について訊けば、前の日に何をどれだけ食べたか直ぐ答えた。
『柔らかい物なら少し食べるよ。でも、その日によって違ってさ』
「肉は?」
『昨日は食べたよ。今日は匂いだけで嫌がってる』
「穀物は?」
『薄く煮れば、多分ね』
「果物は?」
『口へ入れるけど、噛まずに出す時があるんだ』
注文の多い客だ。
兎は腕を組んだ。
空腹なら食べる。
腹が満ちれば残す。
それくらい単純なら、料理を作る側も困らない。
昨日食べた物を今日は嫌がり、口へ入れた物を噛まずに出すとなれば、何を用意すればよいのか判断出来ない。
お燐様は、無理に食べさせたくないと言う。
けれど、何も食べなければ身体は育たない。
幼子の食事を難しいものとして考えるより、既に分かっている好物から始める方が確実に思えた。
昔のお空様が好んだ、香辛料を強く利かせた肉の煮込み。
舌へ残る辛さと、身体の内側から熱くなる味を、昔のお空様は気に入っていた。
幼子へ同じまま出すわけにはいかない。
肉は細かく刻んだ。
筋が残らないよう、いつもより長く煮た。
香辛料も少し減らした。
残した分は、肉の旨味で補った。
幼子でも食べられ、昔の好みにも近い。
完璧だと思った。
部屋へ運ぶまでは。
◆
『おくう、ごはんですよ』
お燐様の膝に座った幼子は、差し出された皿を見た。
鼻を僅かに動かす。
湯気へ混じる香辛料の匂いには気付いたらしい。
昔のお空様なら、それだけで皿へ手を伸ばした。
幼子も肉を一欠片、指で摘まんだ。
柔らかさを確かめるように潰す。
次に匂いを嗅ぐ。
兎は、その一連の動きを見守った。
口へ入れれば大丈夫だと思った。
ところが、幼子は顔を顰めた。
『や』
たった一言だった。
兎の耳が垂れた。
食べてから嫌だと言うなら、味が合わなかったと納得出来る。
一口も食べずに拒まれれば、料理として判断されるところまで届いていない。
折角、昔の好みに合わせたのに。
「昔のお空様は、これが好きだったんです」
『この子は、今のお空さんだよ』
お燐様の声は穏やかだった。
叱ってはいない。
けれど、間違いを見逃さない時の響きがあった。
『昔と同じ物が好きとは限らないさ』
「ですが、同じ地獄烏でしょう?」
『同じところもあるし、違うところもあるんだよ』
同じ黒い翼。
同じ名前。
同じ者の帰還だと聞いている。
それなのに好物が違うと言われても、直ぐには納得出来なかった。
生まれ直したため、幼い舌には刺激が強いだけではないか。
大きくなれば、昔と同じ味を求めるのではないか。
そう考えている間に、幼子は肉の欠片を皿へ戻した。
代わりに、付け合わせの柔らかな豆へ手を伸ばす。
煮崩れた豆を、指先でさらに潰す。
形がなくなることを不思議そうに眺めてから、口へ入れた。
『おいしい』
兎は豆を見た。
味付けもしていない。
肉の煮込みへ添えるため、ただ柔らかく煮ただけの豆だった。
香辛料の加減も、肉の刻み方も考えた自慢の煮込みより、何も工夫していない豆が選ばれた。
少し腹立たしい。
大いに悔しい。
しかし幼子は、もう一つ欲しそうに皿を見ている。
料理を残されるのは嫌いである。
けれど、作り手の意地のために、食べられない物を押し付ける方がもっと悪い。
「豆を、もう少し持ってきます」
『頼むよ』
皿を持って厨房へ戻った。
鍋には、まだ豆が残っている。
先ほどより長く火へ掛け、舌で潰せるほど柔らかくした。
味を濃くしない。
幼子が嫌がった香辛料も入れない。
ただし、何も考えず煮るのは癪だった。
野菜の煮汁を少し加え、匂いだけを穏やかに整えた。
今度は、昔のお空様が好きだった味ではない。
目の前の幼子が、もう一口食べたいと思った豆を作る。
それだけを考えた。
再び運ぶと、幼子は一口ずつ時間を掛けて食べた。
口へ入れる。
舌と上顎で潰す。
飲み込んでから、次へ手を伸ばす。
昔のお空様のような勢いはない。
けれど、食べたくない物を無理に飲み込んでいる様子でもなかった。
半分ほど食べたところで、匙を置く。
「もう終わりですか?」
『おなか、いっぱい』
昔のお空様なら、皿まで食べかねない勢いだった。
同じ地獄烏なのに、と思いかける。
お燐様の言葉を思い出し、口を閉じた。
同じところもある。
違うところもある。
今の幼子が腹一杯だと言うなら、昔の量を基準にしても意味がない。
「御馳走様は?」
『ごち……』
『ごちそうさま、ですよ』
お燐様が隣で教える。
『ごちそう、さま』
「お粗末様でした」
幼子が笑った。
皿には豆が少し残っている。
以前なら、残った量ばかりを見ただろう。
今は、最初の皿より多く食べたことが分かった。
嫌がったものと、食べられたものも分かった。
残りは失敗ではない。
次の食事を作るための記録になる。
その日から、幼い空へ食事を運ぶ役を自分から引き受けるようになった。
昔のお空様の好物は、参考にはした。
肉を食べられるようになれば、以前好きだった味を少しずつ試せるかもしれない。
けれど、同じ物をそのまま作ることは止めた。
今日の空が何を食べるか。
何を嫌がるか。
昨日より何を噛めるようになったか。
匙を何度使えたか。
温かい物と冷ました物では、どちらを先に口へ運ぶか。
一つずつ覚えた。
厨房の帳面へも、幼子の食事欄を作った。
昔のお空様の記録を消したわけではない。
その下へ、新しい頁を増やした。
初めて豆を完食した日。
初めて肉を自分から選んだ日。
辛くない煮込みなら、二口食べられた日。
初めて匙を落とさず、最後まで自分で持てた日。
初めて兎の料理を指して、また食べたいと言った日。
昔とは違う食卓の記憶が、少しずつ増えていった。
ある日、幼い空が厨房へ顔を出した。
戸口から中を覗き、鍋を見つける。
『きょう、なに?』
「豆とお肉の煮込みです」
香辛料は弱くした。
肉は以前より少し大きく切ってある。
幼子が噛めるようになったと、昨日の食事で分かったからだ。
『おくう、たべる』
「ええ。空様のために作りました」
昔のお空様のためではない。
同じ好物を再現するためでもない。
今日ここへ来た空様が食べる料理を作った。
そう言えることが、少し誇らしかった。
追加エピソードを作るにあたり、私が思ったことが
スポットが当たらない者たち、視点が無かった者たちにも
ちゃんと一つ一つのエピソードがあるはずだと。
全てを書き出すことはできない。
ならばせめて、こういうお話があると面白いかもと。
そう思っての連作です。
全三作、お付き合いください。