オリジナル展開、オリジナルキャラの要素を多分に含みます。
<前解説>
以前から地霊殿に仕えている動物たちのエピソード。その二。
幼いお空を見て、かつて自分たちを導いた大きな存在との差に戸惑いながらも、新たな出会いを通じて変わっていく物語です。
◆
黒い犬は、燐が地霊殿へ迎えられるより前から、この屋敷に仕えていた。
何年前からいたのかは、自分でも正確に覚えていない。
地霊殿へ来たばかりの頃は、屋敷の広さと、地下へ幾重にも延びる道を覚えるだけで精一杯だった。
似た壁。
似た扉。
同じように熱を帯びた石の床。
けれど、匂いと風の向きは少しずつ違う。
焦熱地獄へ近づけば、乾いた熱の中へ燃料と金属の匂いが混じる。
地霊殿へ戻る道には、動物達の匂いと、厨房から流れる食事の匂いがあった。
その違いを覚えた頃、昔のお空様の巡回へ同行するようになった。
主釜。
排熱路。
燃料庫。
設備を一通り確かめ、地霊殿へ戻る道。
巡回中に交わす言葉は少なかった。
お空様が異常の有無を尋ねる。
犬が匂いや音の変化を答える。
それ以上の話をしない日も多い。
けれど、歩く順番は決まっていた。
お空様が前。
犬が後ろ。
お空様は、自分が先に危険を確かめる。
熱の強い通路では、翼を広げて犬の前を塞いだ。
崩れかけた足場があれば、自分で踏んで強度を確かめるまで進ませなかった。
待てと言われなくても、黒い翼が退くまで待った。
翼が動けば、安全だという合図である。
その背中を追うことが、犬の仕事だった。
巨釜で事故が起き、お空様が帰らなかった後も、巡回路には同じ匂いが残っていた。
主釜の熱。
排熱路を抜ける風。
燃料庫の乾いた煤。
ただ、前を歩く黒い翼だけがない。
別の者へ同行しても、無意識に一歩分の場所を空けてしまうことがあった。
そこは昔、お空様が歩いていた場所だった。
だから、黒い卵から生まれた空が一人で歩けるようになった頃。
犬は当然のように、その後ろへ付いた。
黒い翼が前にある。
以前より小さい。
床へ触れそうなほど不器用に揺れ、歩くたび左右へ傾いている。
それでも同じ翼だった。
ならば、自分の居場所も同じだと思った。
『ついてくる』
幼い空が振り返った。
後ろへ顔を向けたため、足まで止まる。
昔のお空様は、巡回中に振り返ることが少なかった。
足音と気配だけで、犬が付いていることを知っていたからだ。
「巡回へ御一緒します」
『じゅんかい?』
「お空様が、いつもなさっていた仕事です」
幼子は、言葉の意味が分かっていないようだった。
それでも自分の名に敬称を付けて呼ばれたことは分かったのか、少し嬉しそうに歩き始めた。
犬も後ろへ続く。
廊下を曲がる。
階段を下りる。
昔のお空様が通った道。
足が行き先を覚えている。
この先には、焦熱地獄へ繋がる管理区画がある。
幼子は、犬が道を示さなくても前へ進んだ。
黒い翼が、この道を覚えているように見えた。
実際には、廊下の先へ興味を持っただけだったのかもしれない。
その違いを、犬は考えなかった。
途中で何度も躓いた。
床の継ぎ目へ爪先を引っ掛ける。
壁の灯りへ気を取られ、横を向いたまま歩く。
石の隙間を這う小さな虫を見つければ、巡回路を外れて追い掛ける。
昔のお空様なら、立ち止まりもしなかったものばかりである。
巡回とは呼べない。
確認すべき設備を見ず、異常の音も聞いていない。
それでも犬は、昔と同じ順番を崩さなかった。
お空様が前。
犬が後ろ。
この順番を守れば、いずれ歩き方も巡回の意味も思い出すような気がしていた。
◆
管理区画へ続く扉の前で、幼子が止まった。
扉の向こうから、熱気と低い稼働音が伝わってくる。
犬には聞き慣れた音だった。
異常を知らせる振動ではない。
設備は通常どおり動いている。
幼子が取っ手へ手を伸ばす。
犬は止めなかった。
昔のお空様なら、何の問題もなく開けられた扉だ。
巡回なら、この先へ進む。
犬は、そう覚えていた。
『おもい』
幼子が両手で引く。
小さな足が床を滑る。
扉は動かない。
『あかない』
「もっと強く引けば開きます」
幼子は取っ手を握り直した。
翼まで震わせ、全身へ力を込める。
昔のお空様なら片手で開けた。
だから、今の空にも出来るはずだと思った。
扉が僅かに開く。
隙間から、熱い空気が吹き出した。
焦熱地獄の熱を直接含んだ風。
犬は目を細め、鼻を低くした。
慣れた反応だった。
幼子の顔は強張った。
取っ手を掴んだ指へ力が入り、黒い翼が自分の身体を包むように縮む。
それでも犬は、昔のお空様なら入ったはずだと思った。
『あつい』
「お空様なら大丈夫です」
励ますつもりだった。
お空様は火を恐れない。
誰より熱へ強く、危険な場所では皆の前へ立つ。
そういう者だと知っていた。
幼子が犬を見る。
泣きそうな目だった。
昔のお空様には見たことのない目である。
『や』
「ですが、以前はいつも」
『や!』
幼子は扉から手を放した。
重い扉が音を立てて閉まる。
後ずさった身体が、犬の胸元へぶつかる。
そのまま首へ両腕を回し、毛へしがみ付いた。
小さな身体が震えている。
犬は動けなかった。
お空様なのに。
火を恐れないはずなのに。
自分達を守るため、先へ進むはずなのに。
今まで頼ってきた黒い翼が、自分へ隠れるように縮こまっている。
何処で間違えたのか分からない。
同じ道を歩き、同じ扉へ来ただけである。
『おりん!』
幼子が廊下へ向かって叫ぶ。
犬は慌てて周囲を見た。
お燐様へ知られれば、勝手に管理区画へ連れてきたことを叱られる。
その心配が先へ出たことを、後になって恥じた。
幼子は熱を怖がり、助けを求めている。
叱られるかどうかを考える時ではなかった。
直ぐに地霊殿へ連れ戻そうとした。
背へ乗せるべきか。
抱えるには犬の脚では難しい。
迷っている間に、赤い髪が廊下の向こうから現れた。
『お空さん!』
お燐様が駆け寄り、幼子を抱き上げる。
空は犬の毛から手を離し、迷わずお燐様の胸元へ縋り付いた。
『何処へ行っていたんですか。探したんですよ』
『あつい。こわい』
『もう大丈夫です。あたいがいますから』
お燐様は幼子の背中を撫でる。
一定の速さで、何度も。
身体の震えが収まるまで続けるつもりなのだろう。
黒い犬は、その場へ伏せた。
目線を低くし、耳を寝かせる。
「申し訳ありません。巡回をなさるものだと思って」
お燐様が、こちらを見る。
怒っている。
声を荒らげてはいない。
だから余計に、言葉を誤魔化せないと思った。
『この子は、まだ巡回を知らないんです』
「ですが、お空様です」
『そうです。今のお空さんなんです』
「同じでは、ないのですか」
お燐様は、直ぐには答えなかった。
腕の中の幼子を見下ろし、背を撫で続ける。
問いへ答える前に、今いる幼子が落ち着くことを優先している。
『同じところもあります。でも今は、出来ないことも、知らないことも沢山あるんです』
「いつか、以前のように?」
火を恐れず、犬の前を歩くように。
巡回路を覚え、管理区画へ入るように。
以前の姿へ戻る日が来るのかと訊いた。
『それは、お空さんが決めることですから』
犬には理解しにくかった。
同じ名前。
同じ翼。
同じ妖力の匂い。
近くにいれば、身体の奥へ残る熱まで昔と似ている。
それなのに、同じ道を歩くとは限らないらしい。
以前出来たから、今も出来るわけではない。
いつか出来るようになっても、それを仕事にするかは空自身が決める。
自分が守る者だと思っていたお空様が、今は守られる側にいる。
お燐様は幼子を抱いたまま、来た道を戻っていく。
犬は、その後ろへ続こうとした。
けれど、足が途中で止まった。
昔と同じ順番になっていたからだ。
お空様が前。
犬が後ろ。
ただし今、幼子は自分の脚で前を歩いているのではない。
お燐様の腕の中で、守られながら運ばれている。
犬は、二人の後ろを歩いている。
外側の並びだけは、昔と同じに見える。
役割はまるで違っていた。
同じ道でも、歩く者と並び方が変われば、意味も変わる。
その日から、幼い空を巡回へ連れ出すことは止めた。
管理区画へ近づく時は、必ずお燐様か、今の管理を預かる者へ知らせた。
代わりに、中庭を一緒に歩くようになった。
焦熱地獄へ続く扉も、重い設備もない。
石畳と、小さな植え込みと、動物達が遊ぶ場所。
空が立ち止まれば待つ。
壁の虫を追い掛ければ、一緒に行き先を見る。
転べば、傷を確かめてお燐様を呼ぶ。
知らない道へ向かえば、前へ回って塞ぐ。
最初、空は不満そうに犬を見た。
『いきたい』
「こちらは、まだ一人で行ってはなりません」
『どうして?』
「危ないからです」
以前、同じような言葉を聞いたことがある。
危険な場所では、お空様が翼を広げて犬の道を塞いだ。
犬は、その背中が動くまで待った。
今度は犬が、幼い空の前へ立つ。
昔のお空様がしてくれたことを、同じ相手へ返しているようにも思えた。
けれど、本当は少し違う。
昔のお空様へ返すのではない。
今ここで、自分の前にいる空を守る。
それが、新しい歩く順番だった。
◆
白い小鳥には、名前がなかった。
地霊殿で暮らす動物の多くがそうである。
さとり様は、名前がなくても一羽ずつ見分けていた。
羽の乱れ。
鳴き方。
心へ浮かぶ癖。
何処で暮らし、誰と親しく、何を怖がるのか。
こちらが名乗る前から、必要な時には間違えずに呼び止めてくれる。
仲間同士でも、鳴き声や匂いで区別出来た。
白い鳥と言われれば、自分以外にもいる。
小さい鳥と言われても、同じくらいの者は何羽もいる。
けれど、普段の暮らしで困ることはなかった。
誰かへ仕事を頼む時は、近くの者へ声を掛ければよい。
自分が呼ばれているか迷えば、相手の顔を見れば分かる。
だから、名前がなくても困らなかった。
幼い空の遊び相手を任されるまでは。
黒い卵から生まれた地獄烏は、まだ知っている言葉が少なかった。
目に入ったものを、そのまま呼ぶ。
猫。
鼠。
鳥。
色や大きさが違っても、翼と嘴があれば、全部同じ言葉になった。
『とり』
空は、小鳥を見るたびにそう呼んだ。
「はい」
『とり、こっち』
「はい」
『とり、まって』
「待っています」
呼ばれれば飛んでいく。
空が積み木を落とせば、嘴で拾った。
黒猫のぬいぐるみが寝台の下へ転がれば、狭い隙間へ入り、耳を咥えて引き出した。
お燐様が部屋を離れる時は、戻ってくるまで空の近くへいた。
一緒にいる時間は、他の鳥より長かった。
それでも空は、別の鳥が来ても同じように「とり」と呼ぶ。
黄色い小鳥も。
大きな梟も。
時折窓へ止まる地上の雀も。
皆、とり。
最初は何も思わなかった。
空が言葉を知らないことは分かっている。
鳥という音を覚え、自分へ向けて呼べるようになったことだけでも嬉しかった。
けれど、呼ばれるたび他の鳥まで一斉に振り向く。
窓辺の雀を呼んだ声へ返事をしてしまい、空から違うと首を振られたこともあった。
自分は毎日、空と遊んでいる。
黒猫を運ぶ。
積み木を拾う。
燐が来るまで傍にいる。
眠くなった空が翼へ顔を埋めれば、起こさないよう動かずに待つ。
他の鳥とは違うはずだ。
同じ「とり」の中へ全部を入れられることが、少しずつ不満になった。
名前が欲しいというより、自分だけを呼ぶ音が欲しかった。
空がこちらを探している時、迷わず返事を出来る音。
他の鳥ではなく、自分に来てほしいと分かる呼び声。
「私は、他の鳥とは違います」
ある日、小鳥は空へ訴えた。
空は床へ座り、積み木を一つずつ並べていた。
小鳥の声を聞くと、手を止めて顔を上げる。
『ちがう?』
「毎日、お空様と一緒にいます」
『うん』
「黒猫を運ぶのも、積み木を拾うのも私です」
『うん』
「私だけを呼ぶ言葉が欲しいです」
空は困ったように首を傾げた。
言っていることが伝わっているのか、分からない。
まだ、名前というものを完全には理解していない。
お燐様。
さとり様。
自分の名。
幾つかの音が、誰か一人を示すことは知っている。
けれど、名前のない者が自分の名を欲しがる理由までは、考えたことがないのだろう。
『とりじゃ、だめ?』
「他の鳥も、とりです」
空は真剣に考え始めた。
積み木を脇へ退け、立ち上がる。
小鳥の周りを一周した。
白い羽を見る。
丸い身体を見る。
細い脚を見る。
見たものを、まだ知っている少ない言葉へ当てはめようとしている。
『しろ』
「色ですね」
白と呼ばれれば、白い羽の動物が皆振り向く。
『まるい』
「体形です」
否定した声へ、少しだけ力が入った。
食事の後は確かに丸くなる。
けれど、それを名にされるのは納得しにくい。
『ちいさい』
「お空様よりは」
小鳥より小さい動物もいる。
どの案も、自分だけを示す音にはならない。
空はさらに考えた。
眉を寄せ、翼を小さく動かす。
その姿を見て、少し申し訳なくなった。
名前がなくても、昨日までは暮らせていた。
幼子へ難しいことを要求しているのかもしれない。
もう鳥でよいと言おうとした時、空が顔を上げた。
小鳥の鳴き声を真似る。
『ちち』
「そのようには鳴いていません」
実際の鳴き声とは違う。
もっと高く、短い。
少なくとも二つ同じ音を続けてはいない。
『ちち』
どうやら、空にはそう聞こえるらしい。
もう一度鳴いてみせる。
空は嬉しそうに同じ音を返した。
『ちち、とり』
「長いです」
『ちち』
空が小鳥を指した。
『ちち、こっち』
その瞬間。
先ほどまで違うと否定していた音が、自分だけへ向けられた呼び声になった。
白でもない。
丸いでもない。
小さいでもない。
空が自分の声を聞き、自分を指して作った音。
他の鳥は振り向かない。
空の目も、他の誰かではなく、真っ直ぐこちらを見ている。
「……はい」
返事が少し遅れた。
空は急かさず、伸ばした指を待たせている。
小鳥は、その指先へ飛び乗った。
『ちち』
「はい。私はチチです」
正式な名なのか。
幼子の思い付きなのか。
地霊殿の帳面へ記録されるものなのか。
そんなことは、どうでもよかった。
呼ばれた時、自分が返事をしてよいと分かる。
空も、自分を呼べたと分かって笑っている。
それで十分だった。
その日から、小鳥には名前が出来た。
地霊殿の皆も、面白がってその名で呼ぶようになった。
最初は、幼い空だけが使う呼び名になると思っていた。
けれど、お燐様が空へ遊び相手を呼ぶ時に使った。
動物達も、伝言を頼む時に使った。
さとり様は、一度聞いただけで覚えた。
呼ぶ者が増えるたび、その音は小鳥のものとして屋敷へ馴染んでいった。
お燐様だけは、初めて聞いた時、少し困った顔をした。
『乳と間違えないかな』
『ちち、ちち』
空は意味を知らず、嬉しそうに小鳥を呼ぶ。
「ここにいます」
『本人が気に入ってるなら、いいでしょう』
さとり様が微笑んだ。
心を読まれたのかもしれない。
小鳥がこの音を気に入っていることは、言葉にしなくても伝わったらしい。
昔のお空様は、動物達を個別に呼ぶことが少なかった。
仕事を任せる時も、そこの鳥、伝令役、と役目で呼ぶことが多い。
それで困ったことはない。
指示は正確で、誰が何をすべきか直ぐに分かった。
昔のお空様にとって、仕事中の動物達は役目を持つ者だった。
小鳥も、その呼ばれ方を不満に思ったことはなかった。
今の空は、まだ難しい仕事を知らない。
焦熱地獄の設備も、伝令の手順も知らない。
けれど、小鳥へ自分だけの呼び声をくれた。
昔のお空様に足りなかったということではない。
今の空が優れているということでもない。
二人が見ているものは違う。
昔は役目を見て呼ばれた。
今は羽の色と形と声を見て、考えてもらった。
同じお空様ではない。
それでも小鳥にとっては、今のお空様も大切な相手になった。
名前を呼ばれるたび、何度でも空の指へ飛び乗った。
やがて空が言葉を増やし、他の鳥の違いも分かるようになってからも、その名は変わらなかった。
『チチ、こっち』
「はい」
返事をすれば、空がこちらを見る。
大勢の動物が同じ部屋にいても、迷わず目が合う。
名前があるとは、多分そういうことだった。
追加エピの中で一番好きなのが、黒い犬の話です。
大きい犬の首に、幼い子がしがみ付くシーンを想像すると
心がほんわかします。