オリジナル展開、オリジナルキャラの要素を多分に含みます。
<前解説>
以前から地霊殿に仕えている動物たちのエピソード。その三。
その一、その二よりも少しだけ成長した空との話。
他よりも長く生きている動物たちがどう接して
どう変わっていったか。その物語。
◆
年老いた山羊は、燐が地霊殿へ来るよりも遥か前から、屋敷の仕事を支えてきた。
今では、地霊殿の階段を上ることも少なくなっている。
脚が弱り、長い廊下を歩くだけでも時間が掛かる。
若い頃には、厨房から倉庫まで荷車を引き、焦熱地獄の近くへ燃料を運んだ。
階段を一段飛ばしで上ることも出来た。
重い袋を背負っていても、他の動物へ道を譲らせるほど速く歩けた。
今は違う。
朝、寝台から立ち上がる時には、まず前脚へ力が入るか確かめる。
床の冷たさが蹄から関節へ昇り、身体が動くまで少し待たなければならない日もある。
普段は厨房近くの部屋で暮らし、軽い荷物の仕分けを手伝っていた。
野菜。
果物。
乾物。
届いた品を種類と傷み具合で分け、厨房へ渡す。
昔に比べれば小さな役目である。
それでも、誰かが行わなければ食材は無駄になる。
自分の脚で出来る範囲の仕事として、不満はなかった。
昔のお空様とは、何度も顔を合わせた。
若い頃には燃料を運び、焦熱地獄の近くまで同行したこともある。
お空様は、いつも歩くのが速かった。
巡回の途中で次に確かめる設備を思い出すと、こちらの歩幅など忘れたように先へ進んだ。
『遅いぞ。先に行く』
「お待ち下さい。荷物を置いて行かないでいただけますか」
『後で取りに戻る』
一度先へ飛んで行き、本当に戻ってくる。
戻る頃には、こちらが荷物を抱えたまま数歩しか進んでいないこともあった。
急いでいるのか、待ってくれるのか分からない方だった。
先へ行くなら、最初から荷物を持ってくれればよい。
そう言えば、頼まれなかったからだと答える。
では今頼むと言えば、何故もっと早く言わないのかと首を傾げる。
気遣いがないわけではない。
他者が助けを必要としていることへ、自分から気付くのが少し遅いだけだった。
山羊が重い荷を持てなくなってからは、何も言わず代わりに運ぶようになった。
初めて荷を取られた時は、まだ持てると抗議した。
お空様は、持てることと、持った後で脚を痛めないことは別だと言った。
以前なら頼まれるまで気付かなかった方が、こちらの歩き方を見て先に手を出した。
それが少し嬉しく、同時に、自分の老いを見抜かれたことが悔しかった。
礼を言えば、仕事だからと答えた。
それ以上の言葉はなかった。
けれど翌日からも、山羊の荷だけは自然に持つようになった。
そんなお空様が、巨釜から戻らなかった。
報せを聞いた日のことは、今も覚えている。
厨房へ運ぶ豆の袋を仕分けていた。
若い動物が駆け込み、途中で言葉を詰まらせた。
何を聞いても、お空様が帰らないという事実だけは変わらなかった。
それから暫くして、黒い卵になって帰ったと聞いた。
さらに時が経ち、幼い姿で生まれたという噂が広がった。
それでも、会いには行かなかった。
若い動物達は、競うように見舞いへ行った。
戻ってくるたび、顔を輝かせて話す。
可愛らしい。
小さい。
お燐様へ懐いている。
黒猫のぬいぐるみを離さない。
言葉を覚え始めた。
山羊には、その言葉が気に入らなかった。
若い者達が悪意を持っているとは思わない。
幼子を見て、感じたことを話しているだけだろう。
それでも、昔のお空様を可愛らしい幼子へ置き換え、それで帰還を喜んでいるように聞こえた。
お空様は、可愛らしいだけの方ではなかった。
強く。
不器用で。
時に無茶をし。
頼まれなければ気付かず、気付いた後は何も言わず荷を持つ。
焦熱地獄と地霊殿を守るため、誰より先へ飛んでいった。
幼子が同じ翼を持っているからといって、同じ相手として喜ぶことは出来なかった。
会えば、違う姿へ失望するかもしれない。
あるいは、似たところを探し、幼子へ昔と同じであることを求めるかもしれない。
どちらもしたくなかった。
だから、厨房近くの部屋で噂だけを聞いた。
◆
時が過ぎた。
幼かった空は成長し、一人で廊下を歩き、屋敷の外を飛ぶようになった。
厨房へ顔を出し、今日の食事を茶色い兎へ訊ねる姿を、遠くから見たことがある。
中庭を黒い犬と歩く姿も見掛けた。
白い小鳥を名で呼び、指へ乗せていた。
山羊は声を掛けなかった。
空も、厨房の奥にいる年老いた山羊を気に留めなかった。
それでよいと思った。
黒い翼。
長く伸びた髪。
背丈も、少しずつ昔のお空様へ近づいていく。
廊下の角から現れた一瞬だけなら、以前のお空様が戻ったように見えることもあった。
けれど、歩き方は違う。
誰かとすれ違うたび挨拶をし、知らない物を見つければ立ち止まる。
急いでいても、後ろから呼ばれれば振り返る。
似た姿の中へ違いを見つけるたび、山羊は目を逸らした。
昔と違うことへ腹を立てているのではない。
ただ、どう呼べばよいのか分からなかった。
お空様と呼べば、以前の方と同じものを求めるように感じる。
空と呼ぶほど、今の相手を知っているわけでもない。
呼び方を決められないまま、距離だけが残った。
ある日。
厨房へ届いた食料を仕分けていると、廊下から大きな音がした。
木板が割れる音。
固い物が床へ落ち、幾つも転がる音。
続いて、慌てた声が響く。
『ごめんなさい!』
誰へ謝っているのかは分からない。
近くにいた者へ向けたのか。
落とした食料へ向けたのか。
山羊は作業台へ手を付き、ゆっくり身体を起こした。
廊下へ出るまでにも時間が掛かる。
その間、転がる音は何度も壁へ当たり、少しずつ止まっていった。
廊下へ出る。
成長した空が、壊れた木箱の前へしゃがんでいた。
果物が床一面へ転がっている。
赤いもの。
黄色いもの。
壁際まで転がったもの。
空は一つ拾っては箱へ戻し、また別の一つへ手を伸ばしている。
翼が邪魔になり、後ろの果物をさらに押しやっていた。
「何をなさっているのです」
声を掛けると、空が直ぐに顔を上げた。
昔のお空様なら、失敗を見られたことへ少し不機嫌な顔をしたかもしれない。
目の前の空は、助かったような顔をした。
『厨房へ運ぼうとしたら、箱の底が抜けたの』
言葉どおり、箱の底板は中央から外れている。
釘穴の周囲が黒く傷み、以前から弱っていたようだ。
ただし、箱へ一度に詰められた量も多い。
「お一人で持つには、重かったのでは」
『持てると思ったんだけど』
「思っただけですか」
『うん。間違えた』
あっさりと認めた。
言い訳を探さない。
箱が悪かったと責任を押し付けもしない。
自分の見積もりが間違っていたと、最初から分けて考えている。
昔のお空様なら、箱ごと持ち上げていた。
底が抜ければ、こんな量へ耐えられない箱の方が悪い、と言ったかもしれない。
どちらが正しいかは、簡単には決められない。
箱が傷んでいたのも事実である。
空が一人で運べると考えたのも事実だった。
『一緒に拾ってもらえる?』
山羊は、一瞬答えられなかった。
昔のお空様から、助けを求められた記憶はほとんどない。
荷を持つよう頼んだことはある。
けれど、お空様の方から、一緒にしてほしいと言われたことは思い出せなかった。
「私でよろしいのですか」
年老いた脚では、屈むだけでも時間が掛かる。
若い動物を呼んだ方が早い。
そういう意味で訊いた。
『一人より二人の方が早いでしょう?』
空は当然のように言った。
速く動ける者を探したのではない。
今ここにいる二人で拾えば、一人より早いと言っている。
山羊はゆっくり腰を下ろした。
関節が軋む。
直ぐ近くへ転がっていた果物を拾う。
二人で一つずつ箱へ戻していった。
『これは傷になってる』
空が、床へ当たって皮の裂けた果物を見せる。
「十分食べられます。厨房へ渡せば、煮込みに使うでしょう」
『じゃあ、こっちに分ける』
「そうして下さい」
傷のない物。
直ぐ使うべき物。
潰れてしまった物。
空は山羊の指示を素直に聞いた。
分からない果物があれば訊ねた。
見た目は無事でも、柔らかくなり過ぎたものを見つけると、指で押す前にこちらへ見せた。
箱へ戻すだけなら、一人でも出来ただろう。
けれど、厨房で使いやすいよう分けるには、長く仕分けをしてきた山羊の方が詳しい。
助けを求めるとは、自分に出来ない重労働を他者へ押し付けることではない。
相手に出来ることを知り、そこだけ頼ることでもあるらしい。
果物を拾い終える。
壊れた箱は使えない。
厨房から空箱を借り、二つへ分けて入れ直した。
空は一箱を見下ろし、両腕を掛ける前に一度重さを確かめた。
先ほどの失敗を、その場で次へ生かそうとしている。
『今度は、二人で持とう』
「私の脚では、速く歩けませんよ」
『ゆっくりでいいよ』
空が箱の右側を持つ。
山羊は左側へ回った。
高さが違うため、空は少し腰を落とす。
自分が持ちやすい位置へ箱を上げるのではなく、こちらの前脚が届く高さへ合わせた。
歩みは遅い。
一歩進むたび、箱の中で果物が小さく動く。
昔のお空様なら、先へ飛んで行っただろう。
荷を持つと言えば、一人で全部抱え、こちらの歩幅を待つ必要をなくしたはずだ。
今の空は、山羊の歩幅に合わせている。
『重くない?』
「貴女がそちらを支えて下されば」
『疲れたら言ってね』
「貴女もです」
『うん』
厨房までの短い廊下を、随分と時間を掛けて歩いた。
途中で何度か箱を置く。
山羊の脚を休め、空も持ち方を変えた。
空は先へ行かなかった。
急かしもしない。
箱を置くたび、次は持てるかと確認した。
昔のお空様が何も言わず荷を持ってくれたことを思い出す。
あの方なりの気遣いだった。
今の空は、隣で歩きながら問い掛ける。
気遣い方が違う。
どちらかが優れているのではない。
受け取る側に残るものが、それぞれ違うだけだった。
厨房へ着くと、茶色い兎が驚いた顔をした。
『二人で運んできたの?』
『うん。途中で落としたから、手伝ってもらった』
「箱の底が傷んでいました」
『お空が力を入れ過ぎたんじゃないのかい?』
『それもあるかも』
空は、また直ぐに認めた。
兎が笑う。
山羊も、少しだけ口元を緩めた。
同じお空様ではない。
昔のお空様へ戻ったわけでもない。
黒い翼と名が同じでも、助けを求めることも、他者と歩く速さも違う。
けれど、だから失望する必要はなかった。
昔のお空様から受け取ったものは、山羊の中に残っている。
何も言わず荷を持ってくれたこと。
遅いと先へ飛びながら、本当に戻ってきたこと。
仕事だからと答えた不器用な優しさ。
それを、今の空へ再現させる必要はない。
今の空とは、これから新しいものを受け取ればよい。
『手伝ってくれてありがとう』
空が頭を下げた。
頼んだ相手へ礼を言う。
その声を、初めて正面から受け取った。
「どう致しまして、お空様」
初めて、自分からその名で呼んだ。
昔のお空様へ使っていた呼び方と同じである。
けれど、同じ者だと言い聞かせるためではなかった。
今ここで一緒に箱を運んだ相手へ、自然に出た名だった。
空が顔を上げ、嬉しそうに笑う。
昔と同じ笑顔ではない。
似ているかどうかを確かめる必要もない。
山羊には、それでよかった。
◆
地霊殿には、様々な噂がある。
誰かが屋敷中へ知らせようとしたわけではない。
厨房で交わされた話が、食器を運ぶ動物へ渡る。
燃料庫で見た出来事が、荷車を押す者の耳へ入る。
中庭の散歩を眺めていた小動物が、共同部屋で仲間へ話す。
そうして、一つの出来事は廊下から廊下へ移り、話した者の見たものを少しずつ加えながら、屋敷の中へ棲みついていく。
今のお空様は、昔より食が細い。
最初は柔らかい豆しか食べられず、香辛料の利いた肉を嫌がった。
今のお空様は、分からないことがあれば直ぐに訊く。
出来ると思って失敗した時も、誤魔化すより先に間違えたと認める。
今のお空様は、数字を三つまで数えるのに随分時間が掛かった。
四本の指を三だと言い、灰色の鼠と何度も数え直した。
今のお空様は、名もなかった白い小鳥へ妙な名前を付けた。
本人にはその鳴き声が「チチ」と聞こえたらしい。
今のお空様は、荷物を落とすと一人で片付けたふりをせず、近くにいた者へ助けを求める。
今のお空様は、昔のことをほとんど覚えていない。
誰に何を教えたのか。
何処を巡回していたのか。
誰の荷を持ったのか。
昔のお空様を知る者が覚えている出来事を、本人は知らない。
それでも、火の近くへ行けば、時折、誰より早く異変へ気付く。
まだ教えられていない設備の音へ耳を澄ませ、流れる熱の違いへ顔を上げる。
その時だけは、昔のお空様と同じだと言う者がいる。
まるで違うと言う者もいる。
違うところを数え始めれば限りがない。
同じところを探そうと思えば、黒い翼だけでも十分だ。
同じか違うかなど、もうどうでもよいと言う者もいる。
答えは、一つになっていない。
これからも、きっと一つにはならない。
地霊殿で暮らす者の数だけ、昔のお空様との関係も、今の空を見る位置も違うからだ。
管理者として叱られた鼠。
料理を平らげてもらった兎。
巡回の背中を追った犬。
役目だけで呼ばれていた小鳥。
荷を持ってもらった山羊。
同じ翼を見ても、思い出すものはそれぞれ違う。
だから、同じ答えへ揃える必要もなかった。
朝になれば、空は廊下を歩く。
まだ誰も起きていない時間に目を覚ます日もある。
お燐の腕を抜け出そうとして失敗し、結局二人で起きてくる日もある。
厨房へ行けば、茶色い兎へ今日の食事を訊ねる。
鍋の中を覗き込み、食べられる量より多く欲しがって止められる。
以前食べられなかった物を一口試し、やはり嫌だと戻すこともある。
兎は顔を顰めながら、次の献立のためにその反応を覚えておく。
燃料庫の近くでは、灰色の鼠と一緒に戸を確かめる。
一度で閉まっていると分かっても、鼠が三度確かめる理由を知っているので待つ。
時には自分も取っ手を押し、一、二、三と数える。
白い小鳥を見つければ、名前で呼ぶ。
チチは何処にいても返事をし、空の指へ飛び乗る。
他の鳥の名も少しずつ覚えた。
それでも、最初に名を付けた小鳥を呼ぶ声だけは、少し得意そうに響く。
中庭へ出れば、黒い犬が前を歩く。
昔とは逆の順番である。
空が知らない道へ向かえば、犬が立ち止まり、身体で進路を塞ぐ。
理由を説明されれば、空は別の道を選ぶ。
時々は納得せず、お燐へ訊きに行く。
厨房近くで年老いた山羊を見つければ、荷物を持つ。
一人で全部運ぼうとして止められることもある。
二人で持つ時は、山羊の歩幅へ合わせる。
短い廊下へ長い時間を掛けても、今は先へ行かない。
そうして一日が終われば、お燐のいる部屋へ帰っていく。
途中で別の用事を見つけ、帰りが遅くなることもある。
お燐は探しに出る。
見つければ叱りながら手を繋ぐ。
その光景もまた、誰かに見られ、翌日の噂になる。
◆
噂をする者達も、やがて自分の目で今の空を見る。
怖がった者も。
過去を重ねた者も。
距離を置いた者も。
噂で聞いた姿と、実際に会った姿が違うことへ気付く。
可愛らしいと聞いていたのに、意外に頑固だった。
何も知らないと聞いていたのに、火の流れだけは誰より早く読んだ。
昔と違うと聞いていたのに、ふとした声がよく似ていた。
昔と同じだと聞いていたのに、助けを求めることを躊躇わなかった。
一度会えば、噂の空ではなく、自分が見た空の話をするようになる。
少しずつ、自分なりの呼び方を見つけていく。
帰ってきたお空様。
新しく生まれた地獄烏。
昔のお空様とは違う方。
今のお空さん。
ただの空。
それでも、同じ家で暮らす仲間。
呼び方が違っても、指している相手は一人だった。
過去を何処まで重ねるかは、呼ぶ者によって違う。
違いを残したまま、同じ食卓へ着くことは出来る。
地霊殿の噂は、今日も廊下から廊下へ渡っていく。
けれど以前とは、少しだけ内容が違っていた。
初めの頃は、誰もが同じことを訊いた。
あの子は本当に、お空様なのだろうか。
黒い翼が同じなら、昔の方が戻ったことになるのか。
記憶がないなら、別の者と呼ぶべきなのか。
答えの出ない問いは、何度も囁かれた。
やがて、その声は少しずつ減った。
代わりに、別の話が増えていく。
今日はお空様が、何を覚えただろう。
明日は、誰の名前を呼ぶだろう。
次は、何を一人で出来るようになるだろう。
何を一人でせず、誰へ助けを求めるだろう。
過去の答えを確かめる噂から、これから起きることを待つ噂へ。
その続きを楽しみにする声の方が、少しずつ増えていた。
噂は消えない。
ただ、同じ場所へ棲みついたまま、そこへ新しい話を重ねていく。
地霊殿で暮らす空もまた、そうして一日ずつ、皆の中へ新しい姿を増やしていった。
ネズミ、ウサギ、犬、小鳥、ヤギたちは
特に古参に位置する者たちであり、生まれ変わった空を
ありのまま受け入れられなかった者たちでもありました。
そこにあったのは小さくなった空を残念に思う気持ちではなく
ただ敬意と寂しさがあっただけでした。
そして新たな”出会い”となり、別の思い出が始まるのです。