オリジナル展開、オリジナルキャラの要素を多分に含みます。
<前解説>
改めて地霊殿の従者となったクレスタが、幼い空と対面する話。
同じ火から生まれたものでも
まったく同じ形に燃えることはない。
消えた炎の跡へ
新しい火が灯ったとして。
それを、失った火の続きと呼ぶのか。
別の火が生まれたのだと考えるのか。
どちらか一つを選ばなければならないと思うほど
その答えは遠ざかっていく。
違う形をしていても
受け継がれている温かさはある。
けれど、それへ触れるためには
まず目の前で燃えている火を
過去の影ではなく、今ここにあるものとして
見つめなければならない。
◆
地霊殿へ戻ってから、三日が過ぎた。
以前と同じ部屋。
以前と同じ寝台。
以前と同じ机の上には、巨釜の記録帳と、修理を終えた計器が並んでいる。
それでも、ここは以前と同じ場所ではなかった。
廊下を歩けば、動物達が道を空ける。
露骨に逃げる者は減ったものの、警戒する視線はまだ残っている。
当然のことだった。
ワタクシは、燐さんを殺そうとした。
地霊殿の主人を罵り、ここへ暮らす者達を見下し、お姉様以外の全てを拒絶した。
それでも戻ると決めたのは、ワタクシ自身だ。
受け入れられるまでに時間が掛かることも、覚悟していた。
ただ一つだけ。
未だに覚悟の出来ていないことがあった。
『クレスタさん』
扉の向こうから、燐さんの声がした。
手にしていた記録帳を閉じる。
「何です」
『今、少しいいですか』
「用件を先に仰って」
返事が止まった。
扉一枚を隔てた向こうで、燐さんが言葉を選んでいる。
その沈黙だけで、何を伝えに来たのか分かった。
『お空さんが、起きています』
指先へ力が入った。
記録帳の表紙が、僅かに軋む。
「そうですか」
『今日は機嫌も良くて。さとり様が、会わせるなら今がいいだろうって』
「ワタクシは、会いたいと申しておりません」
『はい』
「ならば、お帰り下さい」
『でも、会わないとも言っていません』
顔を上げた。
扉の向こうは見えない。
それでも、燐さんが逃げずに立っていることだけは分かる。
「屁理屈ですわね」
『ヤマメさんから教わりました』
「自慢することではありません」
また沈黙が落ちた。
遠くで、幼い声が聞こえる。
何を言っているのかまでは分からない。
けれど、その声が誰のものかは考えるまでもなかった。
胸の奥に残る穴が、強く痛んだ。
お姉様の声とは違う。
高く、拙く、まだ言葉の形も整っていない。
分かっていた。
卵から生まれた者には、過去の記憶がない。
身体も幼く、以前とは似ても似つかない。
三つ目入道からも、さとり様からも聞いている。
それでも。
会えば、何かが戻るのではないかと思ってしまう。
ワタクシを見て、名前を呼んで下さるのではないか。
制御室で交わした言葉を思い出して下さるのではないか。
そんなことは起こらないと知りながら
心の何処かで期待している。
その期待を否定されることが、怖かった。
『クレスタさん』
「何です」
『会うか会わないかは、クレスタさんが決めて下さい』
燐さんは、扉を開けようとしなかった。
『あたいは、どっちでも待ちます』
「随分と余裕があるのですね」
『ありませんよ』
返事は直ぐに来た。
『お空さんが泣いたらどうしようとか、クレスタさんが倒れたらどうしようとか、ずっと考えてます』
「ワタクシを幼子と同列に扱わないで」
『心配してるって意味です』
「余計なお世話です」
『知っています』
その言葉に、思わず溜息が出た。
診療所へ毎日押し掛けていた頃から、何も変わっていない。
燐さんは、こちらが拒んでも引き下がらない。
ただし、以前とは違い、最後の一歩だけはワタクシへ委ねている。
戻ると決めた時と同じだった。
選ばなければならない。
過去のお姉様を待ち続けるのか。
目の前にいる幼い地獄烏へ会うのか。
「……少し、身支度をします」
扉の向こうで、衣擦れの音がした。
『待ってます』
鏡の前へ立つ。
左の頬には、巨釜で負った火傷が赤黒く残っている。
翼の一部も焼け焦げ、左右で形が違っていた。
三つ目入道からは、時間を掛ければ傷を薄く出来ると言われた。
けれど断った。
この姿は、ワタクシが選んだものの結果だ。
隠すつもりはなかった。
しかし、幼い子供が見れば怖がるだろう。
鏡の前で髪を下ろし、左の頬を隠そうとする。
手が止まった。
傷を隠して近づけば、お姉様に似た者へ気に入られようとしているように思えた。
髪を元へ戻す。
翼も畳み過ぎず、普段どおりにした。
これで拒まれるなら、それが目の前の空の答えだ。
「お待たせしました」
扉を開ける。
燐さんは廊下に立っていた。
ワタクシの顔を見て、何か言い掛ける。
「何です」
『いえ。行きましょう』
燐さんは先を歩き出した。
その歩調は普段より遅い。
ワタクシが付いて来ているか、何度も確かめている。
「置いて行って構いません」
『逃げるかもしれないでしょう』
「逃げません」
『あたいがです』
足が止まりそうになった。
燐さんは振り返らない。
『クレスタさんがお空さんを見て、どんな顔をするのか。あたいも怖いんです』
「でしたら、連れて来なければ宜しかったでしょう」
『それでも、会ってほしかったから』
廊下の先に、以前お姉様が使っていた部屋があった。
今は幼子のために、寝台の高さも家具の配置も変えられている。
扉の前に立つと、中から小さな笑い声が聞こえた。
心臓が強く打つ。
燐さんが扉へ手を掛けた。
『入りますよ』
中から返事はない。
扉が開く。
◆
部屋の中央に、幼い地獄烏が座っていた。
黒猫のぬいぐるみを抱き、床へ並べられた積み木を眺めている。
小さな身体。
短い腕。
まだ十分に育っていない翼。
お姉様とは、何もかも違った。
けれど、頭を傾ける仕草だけが似ていた。
制御盤の前で分からない記号を見つけた時。
ワタクシの説明を聞きながら、同じように首を傾けていた。
息が詰まる。
『お空さん』
燐さんが、幼い空の傍へしゃがんだ。
『今日は、会ってほしいヒトがいるんです』
空が顔を上げた。
燐さんを見る。
それから、扉の前に立つワタクシへ視線を移した。
黒い瞳が大きく見開かれる。
視線は左の頬で止まり
次に、焼けた翼へ移った。
空の身体が強張る。
黒猫のぬいぐるみを胸へ抱き締め、後ろへ下がった。
『おりん』
不安そうな声だった。
胸の奥で、何かが崩れる。
予想していた。
怖がられると分かっていた。
それでも、実際に拒まれる痛みまで消えるわけではない。
『大丈夫ですよ』
燐さんが、空の背へ手を添えた。
『あのヒトは、クレスタさんです』
『くれ……?』
『クレスタさん』
空は、もう一度ワタクシを見た。
すぐに燐さんの背後へ隠れる。
これ以上ここへいるべきではなかった。
「失礼致しました」
踵を返す。
『待って下さい』
「必要ありません」
『クレスタさん』
「怖がっているではありませんか」
『初めて会ったヒトには、いつもこうです』
「慰めは結構です」
『慰めじゃありません』
燐さんの声が強くなる。
『さとり様にも、ヤマメさんにも、勇儀さんにも、最初は隠れました』
「だから何だというのです」
『怖がられたからって、クレスタさんだけ諦めるんですか』
振り返った。
「貴女に何が分かるのです」
『分かりません』
燐さんは、直ぐに認めた。
『クレスタさんがお空さんをどれだけ大切にしてたか、全部は分かりません』
「ならば──」
『でも、怖がられて苦しいのは分かります』
空は燐さんの後ろから、二人のやり取りを見ていた。
大きな声に驚き、今にも泣き出しそうになっている。
これでは、ワタクシが何をしに来たのか分からない。
目を伏せた。
「……申し訳ありません」
声を落とし、空へ向き直る。
近づかず、その場で片膝をついた。
少しでも目線を低くするために。
「ワタクシは、クレスタと申します」
空の表情は硬いままだった。
「貴女へ危害を加えるつもりはございません」
『……』
「以前、貴女と同じ名を持つ方に、大変お世話になりました」
言葉を選ぶ。
お姉様と呼び掛けることは出来た。
けれど、それを口にすれば、目の前の幼子へ過去の関係を押し付けることになる。
この子は、ワタクシを知らない。
知らないことを責められる理由もない。
「その方は、ワタクシにとって、何より大切な方でした」
『おくう?』
幼い空が、自分の胸へ手を置いた。
燐さんが息を呑む。
『そうです』
燐さんは、ゆっくり頷いた。
『クレスタさんが大切にしていたヒトも、お空さんです』
空は考えるように、首を傾けた。
その仕草に、また記憶が重なる。
今度は目を逸らさなかった。
『おなじ?』
問われても、簡単には答えられない。
同じ魂から生まれた者。
同じ名を持つ地獄烏。
けれど、記憶も、身体も、ワタクシとの関係も違う。
「分かりません」
正直に答えた。
「同じところも、違うところもあるのでしょう」
『ちがう?』
「ええ」
胸が痛む。
それでも、言葉を続けた。
「貴女は、ワタクシの知るお姉様ではありません」
燐さんが僅かに目を見開く。
空には、お姉様という言葉の意味も分からないようだった。
「ですから、貴女へ同じものを求めるつもりもございません」
言い切ると、胸の奥の穴へ冷たい風が吹いた。
お姉様は戻らない。
その事実を、もう一度自分の口で認めた。
けれど同時に、目の前の幼子から過去の影が少しだけ離れた。
この子は、お姉様の代わりではない。
ワタクシが失ったものを埋めるために生まれたのでもない。
「もし許されるなら」
空を真っ直ぐに見る。
「初めから、貴女と知り合いたいと思っています」
『しりあう?』
「まずは、名前を覚えていただくところから」
『くれ……すた』
拙い声だった。
それでも確かに、ワタクシの名を呼んだ。
胸の奥が、大きく揺れる。
「はい」
それ以上を言おうとすれば、声が震えそうだった。
空はまだ燐さんの後ろにいる。
けれど先ほどより、身体を覗かせていた。
『くれすた』
「はい。クレスタです」
空の視線が、再び左の頬へ向く。
小さな手が、自分の頬へ触れた。
『いたい?』
火傷痕のことだと気付くまで、少し時間が掛かった。
「もう、痛くはありません」
『ほんと?』
「ええ」
空は焼けた翼を見る。
『はねも?』
「こちらも大丈夫です」
空は暫く考えた後、黒猫のぬいぐるみへ顔を埋めた。
まだ近づくことは出来ないらしい。
けれど、もう泣きそうな顔はしていなかった。
「本日は、これで失礼致します」
立ち上がろうとする。
『まって』
動きが止まった。
空が、ぬいぐるみの前脚を掴んで持ち上げる。
黒い布で作られた猫の手が、こちらへ向けられた。
『くろねこ』
「そのようですわね」
『おりん』
「それは、ぬいぐるみでしょう」
空は首を横へ振った。
ぬいぐるみを燐さんの顔の横へ並べる。
『おりん』
『あたいに似てるって言いたいんですよ』
燐さんが苦笑する。
「本人より、随分と大人しそうですわ」
『何ですって?』
思わず、口元が緩んだ。
その変化を、空は見逃さなかった。
ぬいぐるみを抱いたまま、少しだけ前へ出る。
燐さんの背後から、半歩。
まだ手の届かない距離。
それで十分だった。
◆
部屋を出ると、廊下の壁へ背を預けた。
脚から力が抜けそうになる。
胸の奥へ押し込めていたものが、今になって溢れ出してきた。
泣くつもりはなかった。
けれど視界が滲む。
『クレスタさん』
燐さんが、空を抱いて部屋から出てきた。
「見ないで下さる?」
『見てません』
「こちらを向いているでしょう」
『第三の目はありませんから、見なければ分かりません』
「屁理屈ばかり」
袖で目元を拭う。
空は燐さんの腕の中から、ワタクシを見ていた。
泣いていることが不思議なのか、首を傾けている。
『いたい?』
「違います」
『かなしい?』
答えに迷った。
悲しい。
お姉様が戻らないことを、また思い知らされた。
嬉しい。
目の前の空が、ワタクシの名を呼んだ。
どちらかだけではなかった。
「悲しくて、嬉しいのです」
『ふたつ?』
「ええ。二つです」
空には難しかったらしい。
燐さんの顔を見上げる。
『おりんも?』
『あたいも、よくありますよ』
燐さんは穏やかに答えた。
『お空さんを見てると、嬉しくて、悲しくて。それでも、やっぱり嬉しいです』
その言葉に、初めて燐さんを真っ直ぐ見た。
同じではない。
燐さんとワタクシが、お姉様へ抱いていた感情は違う。
失ったものも、背負っている後悔も違う。
それでも、目の前の空へ過去を重ねてしまう苦しさだけは、互いに知っている。
「燐さん」
『はい』
「一つ、お願いがございます」
『何ですか』
「次に会う時も、同席して下さい」
燐さんは少し驚いた後、笑った。
『もちろんです』
「ただし、必要以上に口を挟まないで」
『善処します』
「止めるとは言わないのですね」
何処かで交わしたような会話だった。
空が二人を見比べる。
『つぎ?』
「ええ」
空へ向き直る。
「また、お会いして下さいますか」
空は直ぐには答えなかった。
黒猫のぬいぐるみを抱き直す。
それから、小さく頷いた。
『また』
たった二文字。
けれど、それは過去から返ってきた言葉ではない。
今ここにいる空が、ワタクシへくれた約束だった。
「はい。また」
お姉様と過ごした火は、もう消えている。
その名残は、ワタクシの中から無くならない。
目の前に灯った新しい火は
かつての炎とは違う形で揺れている。
同じものとして抱き締めるのでもなく。
別のものとして背を向けるのでもなく。
その違いを見つめながら
もう一度、傍へ近づいていけばいい。
初めから。
名前を呼ぶところから。
『くれすた』
幼い空が、もう一度呼んだ。
「はい」
今度は、震えずに答えることが出来た。
クレスタの心情としては
自分が敬愛した「お姉様」はただ一人であり、既にこの世にはいない。
この幼子はよく似た別人である。
それならば、改めて関係を築くべきなのでは、と。
慎重な彼女らしいですね。
それがどうして刷り込みを狙う行動に繋がったのかは一切不明です。