からすとこねこ   作:ビーグル

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この作品は、東方Projectの二次創作です。
オリジナル展開、オリジナルキャラの要素を多分に含みます。


<前解説>
地霊殿に仕えている動物たちのエピソード。ギャグ回。
メインがとある動物の視点となるため
掌編連作「地霊殿の噂」 を先にご覧になる事を強くお勧め致します。


外伝 「本日の担当」

 

 誰か一人へ懐いている幼子を

 その一人がいない日に預かる時。

 

 必要になるものは

 食事と遊び道具と、昼寝の場所。

 

 それから

 泣かれても慌てない心構え。

 

 もっとも

 どれだけ準備を重ねたところで

 幼子が予定どおり動くとは限らない。

 

 会議で決めた役割も。

 公平に組んだ当番も。

 本人が一匹を選んで抱きつけば

 大抵はその場で意味を失う。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 燐様が地霊殿を一日空ける。

 その報せは、前日のうちに動物達へ伝えられた。

 

 旧都で外せない所用があり、朝早く出て、戻るのは夕食より後になるという。

 屋敷の仕事だけなら問題はない。

 燐様がいない日にも、食事は作られ、洗濯物は干され、廊下の掃除も行われる。

 

 問題は、幼い空様だった。

 生まれ直してから、燐様と一日離れたことがない。

 短い用事で部屋を出ただけでも、姿が見えなくなれば名前を呼ぶ。

 戻りが少し遅ければ、扉の前まで歩いて探しに行く。

 夜になれば、燐様の袖を掴んだまま眠る。

 

 その燐様が、朝から夜まで戻らない。

 何も起きないと考える者はいなかった。

 

 そこで動物達は、共同部屋へ集まり、空様を寂しがらせないための会議を開くことにした。

 黒い犬が議長役を任された。

 年長である。

 声がよく通る。

 幼い動物達が騒いでも、一度吠えれば静かになる。

 

 それだけの理由だった。

 幼子の扱いに詳しいわけではない。

 むしろ、燐様が来る以前の地霊殿では、幼い者を世話する機会などほとんどなかった。

 それでも他に引き受ける者がおらず、部屋の中央へ伏せる。

 

 周囲には、茶色い兎、灰色の鼠、鼬、梟、白い小鳥、その他十数匹の動物達が集まっていた。

 机の上には、燐様が残した注意書きが置かれている。

 

 ─食事の時間

 ─昼寝の時間

 ─泣いた時に確かめること

 ─口へ入れてはいけない物

 ─翼を引っ掛けやすい場所

 

 最後には、大きな文字で「困ったら、さとり様を呼ぶ」と書かれていた。

 

 

「それでは、明日の役割を決めます」

 

 

 黒い犬が言うと、動物達が一斉に姿勢を正した。

 

 

『朝食の後は、私がお相手します』

 

 

 茶色い兎が前脚を挙げた。

 

 

『積み木なら、長く遊んで下さいます』

『昨日は三つ積んだところで全部倒してたよ』

 

 

 鼬が言う。

 

 

『倒すところまでが遊びです』

『じゃあ、積む必要なくない?』

『あります』

 

 

 兎の耳が立った。

 積み木への考え方には譲れないものがあるらしい。

 

 

「午前は兎殿と鼬殿で、積み木をお願いします」

『何で私も?』

「倒れた積み木を拾う者が必要でしょう」

『拾う係……』

 

 

 鼬は不満そうだったが、反対はしなかった。

 

 

『お昼は、私が食堂へ御案内します』

 

 

 灰色の鼠が言う。

 

 

『ただ、空様は歩く途中で別のものを見つけると、そちらへ行ってしまいます』

『紐を付ければ?』

 

 

 誰かが呟いた。

 共同部屋が静かになる。

 

 

「今、仰った方」

 

 

 低く呼び掛けると、黄色い小鳥が羽の陰へ隠れた。

 

 

『冗談です』

「燐様へ伝われば、紐を付けられるのは貴方でしょう」

 

 

 黄色い小鳥は黙った。

 白い小鳥が机の上へ降り、注意書きを嘴で示す。

 

 

『昼寝の前には、絵本を読むとあります』

『誰が読む?』

『梟が適任では』

 

 

 全員が梟を見る。

 梟は目を閉じたまま動かない。

 

 

『寝ています』

『起きてるでしょう』

『寝ています』

「返事をしている時点で起きています」

 

 

 梟が片目を開けた。

 

 

『昼は眠い』

「空様も眠い時間です」

『なら、一緒に寝る』

『絵本は?』

『鼠が読む』

『何故、私へ戻すのですか』

 

 

 会議は進んでいるようで、ほとんど進んでいなかった。

 

 今一度、燐様の注意書きを見た。

 細かな字で、空様の好きなものまで書かれている。

 

 ─黒猫のぬいぐるみ

 ─丸い積み木

 ─燐様が読んでくれる絵本

 ─膝へ乗ること

 ─抱かれて廊下を歩くこと

 

 どれも燐様がいることを前提にしているように見えた。

 

 

『そもそも、さとり様へお願いすればよいのでは?』

 

 

 兎が言った。

 何匹かが頷く。

 

 地霊殿の主である。

 空様の家族でもある。

 燐様が困れば、最初に頼る相手だった。

 

 ただし、現在の空様は、まださとり様へ完全には慣れていない。

 第三の目を見ると身体を強張らせる。

 さとり様が近づけば、燐様の胸元へ顔を隠す。

 

 最近になってようやく、差し出された指先へ触れられるようになったところである。

 燐様がいない状態で、さとり様が代わりに抱こうとすれば、余計に泣く可能性が高い。

 

 

「さとり様には、何かあった時だけ御相談します」

『何かとは?』

「泣き止まない。食事を取らない。怪我をした。熱がある。その他、我々で判断出来ないことです」

 

『もう、泣き止まないへ入るんじゃない?』

 

 

 鼬が扉を見る。

 廊下から、小さな声が聞こえる。

 

 

『おりん……』

 

 

 共同部屋にいた全員が固まった。

 まだ燐様が出掛ける前日である。

 空様は部屋で昼寝をしているはずだった。

 ところが扉の向こうから、ぺたぺたと不安定な足音が近づいてくる。

 

 

『おりん……おりん……』

『泣いてる』

『どうして?』

『燐様が明日いないって、誰か話した?』

『そんなこと、空様に分かるの?』

 

 

 動物達が一斉に顔を見合わせる。

 

 扉がゆっくり開いた。

 幼い空様が立っている。

 

 黒猫のぬいぐるみを片手で引きずり、もう片方の手で目元を擦っていた。

 黒い翼は左右へ下がり、床を擦っている。

 髪も寝癖で大きく跳ねていた。

 

 昼寝から目を覚まし、燐様が見つからなかったのだろう。

 頬には涙の跡があり、今も新しい粒が落ちていた。

 

 

『おりん、いない』

 

 

 部屋の全員へ訴える。

 誰も声を出さなかった。

 

 今こそ会議の成果を見せる時である。

 兎が積み木を差し出すべきか。

 梟が絵本を読むべきか。

 鼠が燐様を探さなくてよいと説明するべきか。

 

 しかし、まだ役割は決まっていない。

 決まっていたとしても、明日の予定である。

 動物達は互いに相手が動くことを期待し、結果として全員が動かなかった。

 空様の目から、さらに涙が溢れる。

 

 

『おりん……』

 

 

 仕方なく身体を起こした。

 議長として、何か言わなければならない。

 

 

「燐様は、少し席を外しておられるだけです」

 

 

 まだ出掛けてはいない。

 恐らく厨房か、さとり様のところで明日の確認をしている。

 

 

「直ぐに戻られます。ですから」

 

 

 そこまで言った時、空様と目が合った。

 幼子は、その場で一度鼻を啜った。

 黒猫のぬいぐるみを床へ落とす。

 

 両腕を広げた。

 こちらへ向かって歩き始める。

 一歩。

 二歩。

 

 身体が左右へ傾く。

 受け止めるべきか迷った。

 自分のところへ来るとは限らない。

 背後には兎も鼠もいる。

 

 しかし空様は、真っ直ぐこちらの胸元へ来た。

 最後の一歩で足がもつれる。

 鼻先から倒れ込む直前、前脚を開いて受け止めた。

 

 

『くろ……!』

 

 

 小さな両腕が首へ回る。

 指が黒い毛を強く掴んだ。

 空様は胸元へ顔を埋め、堪えていたものを全部吐き出すように泣き始めた。

 

 

『おりん、いない! いないの!』

「直ぐに戻られます」

『いない!』

「今は、見えないだけです」

『やぁぁ……!』

 

 

 言葉では届かなかった。

 正直、困った。

 

 背を撫でるための手はない。

 人の姿を持つ動物なら抱き返せる。

 自分に出来るのは、空様が落ちないよう前脚で囲み、その場へ伏せることだけだった。

 

 泣き声が毛の中へ沈む。

 首へ回る腕は、緩まない。

 

 周囲を見る。

 助けを求めたつもりだった。

 ところが動物達は、こちらと空様を見比べた後、次々に頷き始めた。

 

 

『決まりだね』

 

 

 鼬が言う。

 

 

「何がでしょう」

『空様のお守り』

「会議はまだ終わっておりません」

『本人が決めた』

「本人は泣いておられるだけです」

『泣きながら黒犬を選んだ』

 

 

 兎も頷く。

 

 

『私達が交代で抱くより、安心なさっています』

「安心しているようには見えません」

 

 

 今も胸元で大声を上げている。

 

 

『でも、離れてない』

 

 

 灰色の鼠が指摘した。

 確かに、空様は泣きながらも毛を掴み、身体を預けている。

 他の動物が近づくと、さらに深く顔を埋めた。

 

 

『黒犬が空様を見ている間、私達で他の仕事を分担しましょう』

『賛成』

『洗濯は私が』

『食堂への連絡は任せて』

『積み木を片付ける』

『まだ出してもいないけどね』

 

 

 会議は急にまとまり始めた。

 先ほどまで昼寝の絵本一冊で揉めていた者達が、驚くほど手際よく役割を決めていく。

 

 

「お待ちなさい」

 

 

 黒い犬が声を上げても、誰も止まらない。

 

 

『お昼は食べやすいものを厨房へ頼む』

『おやつも必要では?』

『燐様の注意書きに量が書いてある』

『お昼寝の寝具は、ここへ運ぼう』

「何故、ここへ運ぶのです」

『黒犬から離れないでしょう』

「明日一日、私へ任せるつもりですか」

 

 

 全員の動きが止まった。

 今さら何を訊くのかという顔が、こちらへ向く。

 

 

『うん』

 

 

 空様まで返事をした。

 泣き声の合間に聞こえたため、意味を理解した返答かは分からない。

 動物達には十分だったらしい。

 

 

『御本人の了承も取れました』

「取れておりません」

『では、よろしく』

 

 

 動物達は、それぞれの仕事へ散ろうとする。

 

 

「待ちなさい!」

 

 

 吠えると全員が止まった。

 空様も驚き、泣き声を止める。

 直ぐに声量を落とした。

 

 

「……少なくとも、さとり様へ御相談します」

『空様、さとり様にはまだ慣れてないよ』

「抱いていただくのではありません。どうするべきか、御判断を仰ぎます」

 

 

 正論である。

 燐様の注意書きにも、困ったらさとり様を呼ぶとある。

 動物達は反対出来なかった。

 

 空様を胸元へ付けたまま立とうとした。

 幼子の足は床へ届かず、首へしがみ付いた身体が持ち上がる。

 

 

『くろ、いく?』

「さとり様のところへ参ります」

『おりん?』

「燐様ではございません」

 

 

 空様の目に、また涙が溜まった。

 

 

「戻ります。直ぐに戻りますから」

 

 

 自分が言うと、空様は毛を掴み直した。

 どうやら下りるつもりはない。

 

 仕方なく、首元へ空様をぶら下げたまま歩き始める。

 その後ろを、好奇心に負けた動物達が付いてきた。

 

 

「仕事へ戻るのではなかったのですか」

『さとり様の御判断を聞いてから』

『記録係です』

『見届ける責任がある』

 

 

 どれも嘘だった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 さとり様は執務室にいた。

 扉を三度叩く。

 

 

『どうぞ』

 

 

 中へ入る。

 

 さとり様は書類から顔を上げ、最初にこちらを見た。

 次に、首へ抱きついている空様を見る。

 最後に、扉の外から覗く動物達へ視線を向けた。

 

 第三の目が、ゆっくり一周する。

 

 

『説明してもらえるかしら』

「明日の空様のお守りについて、御相談がございます」

『そのようね』

「動物達が話し合っていたところ、空様がお目覚めになり、燐様を探して泣きながら来られました」

『ええ』

「何故か私へ抱きつかれまして」

『何故か』

 

 

 さとり様の声が、僅かに低くなった。

 第三の目が、空様の指と黒い毛の間を見ている。

 

 

「動物達は、明日一日、私が空様をお預かりすべきだと申しております」

『それで、貴方は嫌なの?』

「嫌ということではございません」

 

 

 言葉を選ぶ。

 

 

「しかし私は、幼子の世話へ慣れておりません。

 食事を与える手もなく、抱き上げる腕もございません。より適した者がいるかと」

『そう』

 

 

 さとり様は書類を置いた。

 空様を見る。

 

 空様も、毛の間から片目だけを出し、さとり様を見た。

 第三の目が近づくと、身体が僅かに強張る。

 首へ回った腕の力が増した。

 さとり様の表情は変わらない。

 

 ただ、第三の目の瞳孔が細くなった。

 

 

『お空』

『……さとり』

『私のところへ来る?』

 

 

 空様は答えなかった。

 こちらの胸元へ、顔を完全に隠す。

 さとり様の口元は笑っている。

 第三の目は笑っていなかった。

 

 扉の外で、動物達が一歩退く気配がした。

 

 

『そう。今日は黒犬がいいのね』

 

 

 穏やかな声だった。

 室内の空気だけが、何故か重くなる。

 

 

「さとり様」

『何かしら』

「御心が、少々騒がしく感じられます」

『貴方に心を読む力はないでしょう』

「読めなくとも、第三の目が私の毛を数えておられます」

 

 

 第三の目の視線が止まった。

 

 

『数えていないわ』

「左の首元だけで、七往復なさいました」

『観察していただけよ』

「何の観察でしょう」

『毛並みの』

 

 

 さとり様は即答した。

 空様が顔を少し上げる。

 

 

『くろ、もふもふ』

『知っているわ』

 

 

 声がさらに低くなった。

 第三の目が、今度は空様の頬と毛の接触面を見ている。

 

 

『空様は、そこをお気に召したようです』

 

 

 扉の外から、誰かが余計なことを言った。

 振り返ろうとしたが、空様が首へ付いているため動けない。

 

 

『随分と懐かれたのね』

「本日、初めて抱きつかれただけです」

『でも離れない』

「泣いておられますので、無理に下ろすわけにも参りません」

 

 

『……そう』

 

 

 御自身の問いに対する答えを、少し後悔しているらしい。

 

 さとり様は椅子から立った。

 一歩、こちらへ近づく。

 空様がまた身体を強張らせる。

 

 さとり様は止まった。

 近づけば怯えさせる。

 離れれば、空様は首に抱きついたままになる。

 

 第三の目が、右へ揺れた。

 左へ揺れた。

 背後で動物達が、さらに一歩退く。

 

 

『私は別に、羨ましいわけではないの』

 

 

 誰も訊いていなかった。

 

 

「左様でございますか」

『お空が安心出来るなら、それが一番よ』

「御尤もです」

『主として、従者が一匹の犬へ抱きついて離れない状況を、公平に判断しているだけ』

「はい」

『私へはまだ指先へ触れるだけなのに、とも考えていないわ』

「はい」

『黒犬には自分から抱きつくのね、とも思っていない』

「さとり様」

『何かしら』

「先ほどから、思っていないことを全て口になさっています」

 

 

 沈黙が落ちた。

 第三の目が大きく見開かれる。

 扉の外で、鼬が吹き出した。

 直後、兎が口を塞いだ。

 

 

『……貴方達』

 

 

 さとり様が扉を見る。

 動物達は一斉に散った。

 足音が廊下の左右へ遠ざかる。

 記録係も、見届ける責任がある者もいなくなった。

 

 自分だけが逃げられない。

 首へ空様がいるためである。

 

 

『黒犬』

「はい」

『明日は、貴方が見てあげなさい』

「やはり、そうなりますか」

『お空が選んだのだから、仕方ないでしょう』

 

「御助力をお願い出来ますか」

『近づけば、お空が貴方へもっとしがみつくわ』

「では、食事は」

『兎達へ用意させます』

「着替えは」

『燐が戻るまで、汚さないよう努力して』

「無理では」

『無理でも』

 

 

 私情が混じっている。

 間違いなく混じっている。

 第三の目が再び毛並みへ向いた。

 

 

『それから』

「まだ何か」

『必要以上にもふもふさせないこと』

「必要な量が分かりません」

『私にも分からないわよ』

 

 

 とうとう声を上げた。

 空様が驚き、顔を上げる。

 さとり様は直ぐに口元を押さえた。

 

 

『……ごめんなさい、お空』

 

 

 さとり様の第三の目が閉じる。

 

 

『今日は、もう下がっていいわ』

「承知致しました」

 

 

 これ以上ここにいると、事態が悪化する。

 一礼し、執務室を出た。

 背後で、さとり様が机へ額をぶつけるような鈍い音がした。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 翌朝。

 燐様は何度も注意事項を確認した。

 

 

『食事は兎さんが用意してくれます。熱いものは、冷ましてから』

「承知しております」

『お昼寝は、眠くないと言い始めたら眠い合図です』

「逆では」

『お空さんの場合は、そうなんです』

『ねむくない』

 

 

 空様が黒い犬の背へ乗ったまま言う。

 朝食を終えたばかりである。

 

 

『今は、本当に眠くないでしょうね』

 

 

 燐様がお空さんの頭を撫でる。

 出掛ける支度をしていることに、本人も気付いていた。

 黒い翼が少し下がる。

 

 

『おりん、いく?』

『はい。夜には戻りますよ』

『おくうも』

『今日は、お留守番です』

 

 

 空様の顔が曇る。

 燐様は抱き上げた。

 少し長く抱き締め、額へ頬を寄せる。

 

 

『必ず帰ってきます』

『ほんと?』

『本当です』

 

 

 空様は、燐様の衣服を掴んだまま離さなかった。

 その様子から、昨夜の会議がすべて無意味だったことを悟った。

 好きな相手と離れる不安は、積み木でも絵本でも消せない。

 出来るのは、戻るまで傍にいることだけである。

 

 

『お空さん』

 

 

 燐様が静かに呼ぶ。

 

 

『黒犬さんと待っていてくれますか』

 

 

 空様がこちらを見る。

 しばらく考える。

 やがて燐様の腕から下り、よちよちと歩いてきた。

 首へ抱きついてから燐様へ振り返った。

 

 

『まつ』

 

 

 燐様の顔へ、安堵と何か別の感情が浮かんだ。

 昨日のさとり様と少し似ていた。

 

 

『……随分懐きましたねぇ』

「偶然でございます」

『昨日から離れないって聞きました』

「泣いておられたため、受け止めただけです」

『あたいがいない間だけですよ』

「何の話でしょう」

『別に』

 

 

 扉が閉じられ、足音が遠ざかる。

 空様は追い掛けなかった。

 ただ黒い毛を掴み、扉を見ている。

 

 

『おりん、かえる?』

「夜には戻られます」

『ほんと?』

「本当です」

 

 

 燐様と同じ答えを返す。

 空様は少しだけ安心したように、背へよじ登った。

 

 

『くろ、いく』

「何処へでしょう」

『おりん、まつ』

 

 

 恐らく玄関で待つつもりである。

 夜まで、まだ随分と長い。

 

 

「食堂で待ちましょう」

『げんかん』

「食堂です」

『げんかん!』

「……まずは、玄関へ参りましょう」

 

 

 初めの押し問答で負けた。

 これから一日、似たことが何度続くのだろう。

 空様を背へ乗せ、玄関へ向かった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 午前中。

 空様は背から下りなかった。

 

 兎が積み木を持ってきても、背の上で遊んだ。

 一つ積む。

 二つ積む。

 三つ目を置く前に、こちらの呼吸で背が動き、全部倒れる。

 

 

『くろ、うごいた』

「呼吸を止めることは出来ません」

『もういっかい』

 

 

 また積む。

 また呼吸で倒れる。

 空様は何度でも笑った。

 

 積むことより、倒れることが面白いらしい。

 鼬は拾う係として、朝から忙しかった。

 

 

『会議どおりになったの、私だけじゃない?』

「御苦労様です」

『代わって』

「空様が下りません」

『知ってる』

 

 

 昼食。

 

 ヒトのような手のない犬には、匙を持てない。

 兎が食べさせようと近づくと、空様は首へしがみ付いた。

 

 

『いや』

『お空様、お食事です』

『くろ』

『黒犬は匙を持てません』

『もって』

「不可能でございます」

 

 

 結局、兎が匙を持ち、こちらの背に乗った空様へ食べさせることになった。

 兎は椅子の上へ立ち、腕を伸ばす。

 空様は一口食べるごとに、黒い毛へ顔を擦り付けた。

 汁が毛へ付いた。

 

 

「燐様から、汚さないよう申し付けられております」

『空様ではなく、黒犬が汚れています』

「それなら問題ありません」

『問題では?』

 

 

 昼寝。

 

 梟が絵本を読んだ。

 自分は床へ伏せ、空様は横腹へ寄り掛かる。

 

 

『ねむくない』

「燐様の仰ったとおりです」

『まだ一頁目ですが』

 

 

 梟が言う間に、空様の目は閉じた。

 黒い毛を両手で掴み、頬を埋める。

 寝息が聞こえ始めた。

 

 動物達が、遠巻きに集まった。

 

 

『可愛い』

『場所、代わってほしい』

『私も毛があるのに』

『黒くないから?』

『大きさだと思う』

「静かになさい」

 

 

 小声で叱る。

 動物達は離れたが、羨ましそうな視線だけは残した。

 

 通り掛かったさとり様も、足を止めた。

 眠る空様を見る。

 黒い犬を見る。

 第三の目が、昨日と同じ動きを始める。

 

 

『……よく眠っているわね』

「はい」

『私の膝も、寝心地は悪くないと思うのだけれど』

「空様がお目覚めになった後、御提案なさっては」

『そうするわ』

 

 

 さとり様は去った。

 三歩進んで、また振り返る。

 さらに三歩進み、また振り返った。

 

 結局、空様が目覚めるまで近くの部屋で仕事をしたらしい。

 提案は出来なかった。

 目覚めた空様が、そのままこちらの背へ登ったためである。

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 夜。

 

 玄関の扉が開いた。

 

 

『ただいま戻りました』

 

 

 燐様の声が響く。

 空様は背でうとうとしていた。

 声を聞いた瞬間、顔を上げる。

 

 

『おりん!』

 

 

 背から飛び降りた。

 着地で足をもつれさせながら、それでも自分で立ち直り、燐様へ走る。

 今度は誰も、走るなとは言わなかった。

 

 燐様が両腕を広げる。

 空様はその胸へ飛び込んだ。

 

 

『おりん、かえった!』

『はい。帰ってきましたよ』

 

 

 燐様が何度も頭を撫でる。

 空様は一日の出来事を、覚えた言葉で懸命に話し始めた。

 

 

『くろ、つみき、たおした』

「呼吸で倒れただけです」

『ごはん、け、ついた』

「空様が付けられました」

『ねむくない、ねた』

『楽しかったんですねぇ』

 

 

 燐様は笑った。

 空様を抱いたまま、此方へ来る。

 

 

『一日、ありがとうございました』

「無事に御返し出来て、安堵しております」

『大変だったでしょう』

「会議で予定した内容は、ほとんど役に立ちませんでした」

『そういうものですよ』

 

 

 燐様は当然のように言う。

 毎日それへ対応しているのかと思うと、初めて火車へ敬意に近いものを覚えた。

 空様が燐様の腕から手を伸ばし、其処の頭を撫でた。

 

 

『くろ、ありがと』

「恐れ入ります」

『あしたも』

「明日は燐様がおられます」

『いっしょ』

 

 

 燐様と黒い犬を交互に指す。

 

 

『おりんと、くろ』

 

 

 燐様の笑顔が一瞬止まった。

 廊下の奥では、様子を見に来たさとり様の第三の目も止まった。

 

 動物達が顔を見合わせる。

 何も見なかったことにした。

 

 

『……黒犬さん』

 

 

 燐様が穏やかに呼ぶ。

 

 

「はい」

『明日は、あたいが見ますから』

「承知しております」

『お休みになって下さい』

「そのつもりです」

『空様専用の札も、一度片付けましょうか』

「以前から撤去を希望しております」

 

 

 さとり様が廊下の奥から近づいてくる。

 

 

『業務の邪魔にならないなら、残してよいのではなくて』

『さとり様、どっちなんです?』

『主として公平に判断した結果よ』

 

 

 昨日とは反対の結論だった。

 空様が、三人の顔を順番に見る。

 

 

『みんな、へん』

 

 

 幼子の一言へ、誰も反論出来なかった。

 

 

 

 

 その夜、共同部屋へ戻り、ようやく一匹で伏せた。

 首の毛は空様の涙と昼食で固まり、背中には積み木の角が当たった跡が残っている。

 

 一日中、ほとんど動くことも出来なかった。

 幼子の世話は、巡回や設備点検より遥かに疲れる。

 もう二度と、一匹では引き受けない。

 そう決め、目を閉じた。

 

 直後、共同部屋の扉が僅かに開く。

 黒猫のぬいぐるみを抱いた空様が、隙間から顔を出した。

 

 

『くろ』

「燐様はどうなさいました」

『ねた』

「空様も御休み下さい」

『いっしょ』

 

 

 空様はよちよちと近づき、昼と同じように黒い毛へ顔を埋めた。

 後ろから、燐様が慌てて追ってくる。

 

 

『お空さん! 勝手に部屋を出たら駄目でしょう!』

 

 

 さらにその後ろから、何故かさとり様まで現れた。

 

 

『今夜は私の部屋へ来るか訊こうと思っただけよ』

 

 

 一日の担当は、まだ終わっていなかったらしい。

 




動物たちのエピソードを作るにあたり
偶然うまれた「黒犬(黒い犬)」という存在。

転生後の幼いお空を誤って巡回に行かせてしまった際、
熱気を怖がったお空が勢い余って黒犬の首にしがみついてしまう場面。
ここを想像したときに、黒犬という者の立ち位置が一気に定まりました。

動物たちの取りまとめのような(ある意味で損な)役割でありながら
さとりやお燐に対しても意見具申ができる貴重な存在です。
一応は妖怪扱いなので長生きしている設定ですが
あえて名前を付けずにこのまま「黒犬」として頑張ってもらいたいです。
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