かすかに揺れている。
体全体、というよりも床そのものが揺れているような感覚がする。
(ああ、懐かしい。海の揺れのようだ。まだ私は夢の中にいるのか)
陸地を離れ、目的地まで何日も波とともに過ごしていた日々を思い出す。
陸地を離れる時の奇妙な寂しさ、そして戦場へ近づく高揚感と緊張が混じった複雑な胸中。
(この揺れはいつの出撃だろう。上海だろうか、それともラバウルか・・・)
私はしばらくの間、懐かしい感覚に身を委ねていた。
次第に、私は覚醒していることを自覚した。
(本当に揺れてる?)
気のせいではない。わずかだが一定のリズムで揺れているのを体で感じる。
意識がはっきりしてくるにつれて、違和感を感じる。
私が目を開けると、そこはいつもの私の部屋ではなかった。
天井は低く、曲がりくねったダクトが何本も通っている。壁は鉄骨に塗装がされているだけの簡素な作りだ。
私が寝ていたベッドは横幅が狭く、壁にくっつくように設置されている。
ベッドはカーテンで囲われていた。
体を起こすと、先程までの寝間着姿ではなく、いつもの袴姿になっていた。
(どういうこと?)
ここは医務室だろうか。私は演習か何かで、負傷して医務室に運ばれたのだろうか。
記憶が全くない。
体を動かしたり触ったりするが、痛む箇所はなさそうだ。
それに鎮守府の医務室はこんな部屋ではない。こんな無骨な造りではないし、もっと広い。
そしてこの揺れは明らかに海上だった。
私はベッドから起き上がり、カーテンを開いた。
窓のない、狭い部屋だった。
壁には大きな棚が並んで埋め尽くされ、中には薬瓶が並んでいる。棚の上にも応急用の鞄などが載せられていた。
横には水道と流し台があり、そこによくわからない器具がたくさん置いてある。天井の蛍光灯は弱く、人工的で白い光が部屋に陰影をつけていた。
部屋にはメガネを掛けた白衣姿の中年の男が一人いた。彼は小さめの、いかにも間に合わせの机で何か書いていたようだが、私に向き直った。
「おお、起きたか」
短髪に丸みを帯びた顔。見覚えのない顔だった。
「あの、ここは」
私が状況を掴めずにいると、男は近寄ってきた。
「いやあ、驚いたが・・・何にせよ、起きてくれてよかった。とりあえずここに座りな。そうだ、どこか具合悪いところはあるか?」
私は勧められた椅子に座る。
「いえ、特にはありません。多分ですが」
この部屋と様子からして、この男は医者だと思った。
「そうかそうか。それはよかった。いやあ、女が倒れてるって運ばれて来た時はたまげたぞ。水飲むか?」
男は私の返事を待たずに流しに歩いていき、蛇口をひねってコップに水を注いで持ってきた。
私はそれを受け取った。
アルミ製のコップだった。シンプルで妙に古いデザインだ。
別に喉が乾いている感じはない。
私がコップを見ていると医者が告げる。
「心配せんでも大丈夫じゃ。それは真水だ」
(真水以外に何があるっていうの?)
疑問に思ったが、とりあえず飲んでみる。一口だけ口にいれるとぬるく、何か鉄っぽい味がした。飲み込むと、喉を伝って体の中に流れ落ちていくのを感じる。
(夢じゃない)
「おまえさん、どうやってこの船に入ってきたんだ?柱島出てから一体どこに隠れてた?」
「柱島?」
かつて日本海軍の停泊地だった瀬戸内海の柱島だろうか。
「そうよ。そこから乗ってきたんだろ?まさか出発してからこの船に飛び乗ってきたわけじゃあるまい」
全く意味が分からなかった。
私のいた鎮守府とははるか離れた瀬戸内の島。そこから出発した船と言っているらしい。
私はついさっきまで自分の部屋で寝ていたのだ。
「なんじゃあ?何か様子がおかしいな。ん?」
医者は不審そうにメガネの奥から私を見る。
「お前さん、何も知らずに乗ってきたのか?もしや、誰ぞ将校殿の妾か?」
「め、めかけ・・・?」
「いや、海の上でいくら女が恋しいとは言っても、流石になあ・・・すぐバレるだろうし、どんな処罰を受けることやら」
「あの、ここってどこですか?他の鎮守府の仲間はどこへ?」
男は眉を寄せる。
「鎮守府?どこのことを言ってるのか知らねえが、ここは太平洋のど真ん中よ」
「たい、へいよう?」
床が揺れている。このゆったりとした揺れは、覚えている気がする。
「本当に何も知らねえで乗ってきたのか?今乗ってるのは帝国海軍の空母、加賀。写真で見たことくらいあるんじゃねえか?」
頭が真っ白になった。
(空母・・・加賀・・・そんな馬鹿な)
現実とは思えなかった。
だが足元は私の知っているリズムで揺れていた。
医者はため息をついた。
「兵員は何しとったんじゃ、こんな娘が乗り込んで来て誰も気づかなかったんか」
辺りを見回した。誰かが隠れているんじゃないかと思った。
(きっと鎮守府のみんなが悪ふざけをしているんだ)
寝ている間にこんな所に運び込んだりして、手が込んだものだ。私が驚くのを見て笑うつもりなのだろう。
だが、周りを見ても、まさに軍艦そのものの武骨な作りの部屋には、誰かが隠れるようなスペースは見当たらなかった。
壁に妙に古いデザインのカレンダーが掛けられているのが見えた。
六月だった。
皇紀2602年と書いてあるのが見えた。
皇紀は確か西暦に直すと660引いたものだったはず。
(どこで見つけてきたのよ、こんなカレンダー・・・いたずらにしては手が込みすぎている)
「今から引き返すわけにもいかんからなあ。悪いが作戦中だからしばらくは日本には戻れんぞ」
「作戦中って、あの、今っていつですか?」
「今日は、確か六月四日だな」
「六月四日・・・年は、今年って何年ですか?」
「年?十七年だろ。覚えとらんのか?」
「十七年?」
十七年と言われてもよくわからなかった。2017年?1917年?
男は少し困った顔をした。
「はあ、記憶もあやふやになっとるようだな。ちょっと様子もおかしいし、もう少し寝てたほうがいいかもしれんな」
それから、大きな声で、ゆっくりと言った。
「今日は、昭和十七年の、六月四日」
私は医務室を出て、艦内を歩いた。
(そんな馬鹿な)
廊下は狭く、長く、暗かった。
廊下を進むと半袖半ズボンの兵隊とすれ違う。
「お、おお・・・?おい!女がいるぞ!」
「なんだと!」
私を見るたびに兵隊達が騒ぎ立てる。
これだけ大掛かりないたずらなど、もうありえなかった。
歩いているうちに汗が吹き出す。暑い。
機関室の近くか、それとも排煙口の後ろか。
(この居住性を犠牲にした狭さと暑さ)
通路は私の知っている通りの作りだった。
もう確信し始めていた。
(この船は私だ)
これが私だとすれば、もう一つ、確認しなければならないものがある。
懐かしい自分の体内を進み、飛行甲板を目指した。
細長い廊下を進み、曲がり、長いタラップを上へと登る。
太陽が見える。
タラップを登りきり、甲板へと立った。
広い。ひたすらに長い長方形。
木製の板目の上に白いラインが何本も引いてある飛行甲板。
私は艦尾に向かう。
全長二百四十八メートルの飛行甲板だ。艦尾までかなりの距離がある。
格納庫に収まりきらない艦載機が端に十機ほど並べられていた。
ガチャンガチャンと音を立ててエレベーターも動いている。
辺りには整備員や兵員が艦載機を並べていた。
途中、何本もの着艦用ワイヤーが張ってあるのを見ながら進む。
艦尾にそれはあった。
白く、大きく「カ」と書かれた文字。
紛れもなく空母加賀であることの証明だった。
(私が「私」に乗ってるなんて)
海を見ると本来は水平線が見えるはずだが、今は濃い霧が立ち込めていた。
(そうだ、六月四日は霧に覆われていた)
濃い霧の中、周囲の艦が見えなかった。
(そう、あのときは霧で二航戦とはぐれたんだ)
風と霧のせいでさっきまでの汗が、急に体を冷やし始めた。
海面を見下ろす。
濃い青色の海に白い航行跡を残して進んでいた。
(本当にあの時のミッドウェーに来ているんだ)