永遠に咲く一輪の初恋   作:ヨハネス

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 初めまして。ヨハネスと申します。


 人生初の恋愛小説ですが、楽しんで頂けるよう頑張ります。







prologue
美しい花が咲くこの場所で


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふとした時に見つけた、ちょうど一輪だけ咲いている、名前も知らない綺麗な花。

 

 嗅いでいるだけで気が安らぐような甘い香り、そして、溢れ出んばかりの高貴さを纏う紫色をしたその姿に、僕は魅了されてしまった。

 

 やがて散る定めと知っていながら、なお咲き誇るその花。

 

 その儚い姿は、僕の気を引くのには十分すぎた。

 

 

 

『人にはそれぞれの量の真実があり、その真実が尽きてしまえば人は死んでしまうのだ』

 

 

 

 とある人物が言ったその言葉が、僕の心の中で反芻された。

 

 初めて聞いた時からずっと心に引っかかり続けているその言葉。

 

 何人もの人を愛するには僕の中の真実はとても少ないように思えたのだ。

 

 もし仮に大切な人がいたとして、今日ここで別れても、また明日、大切な人と会うことは出来るのだろうか?

 

 僕の中の真実が尽きて、会えなくなったりはしないのだろうか?

 

 僕はそれだけが気がかりで、今まで誰一人として愛せないできた。

 

 きっと、その花がもつ真実は僕が持つ真実よりも少ないだろう。

 

 でも、短い生命の中で眩い輝きを放つその花に、その花が持つ真実という名の輝きに、僕は魅了されてしまっていた。

 

 

 

 

 ────綺麗なライラックの花ね。

 

 いつの間にか隣にいた名前も知らない女性が言った。

 

 このライラックという名の花と同じかそれ以上に魅力的な彼女の笑顔に、釘付けになってしまった。

 

 そして、花の名前を知る事さえ小さな思い出となる事に気がついた時、僕はこの先、この人以外の人を愛せないと思い知らされた。

 

 僕の中の真実の量は少ない。しかし、それをすべてこの人に捧げても構わない。何故だか分からないが、そう思えた。

 

 

 

 

 ──人にはそれぞれの量の真実があって、その真実が尽きてしまえば人は死んでしまう。

 

 僕の中で反芻されたあの言葉を、僕の心に、魚の小骨の如く引っかかっている言葉を、女性は僕に語りかけた。

 

 ──今日ここで別れても、また、あなたに会えるかどうかわからない。

 

 ──私の中の真実が尽きて、会えなくなったりはしないのかしら。

 

 ──私はそれだけが気がかりで誰一人として愛せないできたわ。

 

 ──そうね。私もあなたと同じ。

 

 ──だからまたきっと、会いしましょう。

 

 ──またここで、待ち合わせましょう。

 

 ──ライラックの花が咲く、細い道につらなる

 

 

 

 

 ────────この場所で。

 

 

 

 

 

 

 

 これがこの女性との初めての出会い。そして、僕が一番好きになる花の名前を知った瞬間。

 

 決して忘れる事のない、忘れるはずのない、僕の初恋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 プロローグ/美しい花が咲くこの場所で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「また、この夢か……」

 

 

 

 四月の初め、静岡県のとあるアパートの二階の一室。

 

 静岡県にある大学に合格し、地元から引っ越してきてかれこれ一週間。

 

 大学が決まってからというもの、俺は何度も同じような内容の夢を見ている。

 

 その夢は、名前も顔も分からない男性と女性がライラックの花の下で出会う、というもの。

 

 俺はそのどちらの立場でもなく、その出会いの様子を傍で見ているだけ。姿ははっきりと捉えられているのに、首から上だけ何故かモザイクがかかったように見えない。

 

 この夢に出てくるライラックの花の前で出会う2人は一体誰なのだろうか。そして、何故ライラックの花の下なのだろうか。

 

 合格発表で志望校に合格したことが分かったその日の夜に初めてこの夢を見て、今日でもう何度目になるか分からない。

 

 どうしてこんな夢を見るのかは謎だ。しかし、俺は初めてこの夢を見た時、夢の様子に既視感を覚えた。

 

 夢で見た様子を現実で追体験する正夢とは反対に、現実で見た様子を夢で追体験しているかのように感じられたのだ。

 

 もちろん俺に夢の中のような出会いをした記憶はない。それどころか、大学生になろうとしているなかで、恋をした事さえ1度もない。

 

 他人の恋バナを聞いたり、恋愛ドラマなどを観たりするのは好きなのに、自分の中で、誰かが好きだ、という気持ちは芽生えた事がない。

 

 友人に話しても、そんなのは嘘だと否定されるか、周りに比べて遅れすぎだ、と嘲笑われるだけ。

 

 誰かと出会って恋をして、別れて、成長する。それが人間にとって必要不可欠な事であるかのように周囲の友人達は言う。

 

 一般論としてなら、確かにアリだと思う。だが、一度付き合ってもすぐに別れてしまう事が人として成長に繋がる、とは俺は思わない。

 

 そんなのは人間性の成長ではなく、ただ恋愛経験を積んだだけに過ぎない。

 

 だいぶ考えが逸れた。まぁ今はそんな事はどうでもいいや。とにかく、身支度を済ませてしまおう。

 

 夢については寝起きに少し考える程度で、普段はほとんど考えることは無い。考えても答えが出ない事を考え続ける事程無駄なことは無いのだから。

 

 布団から起き上がり、洗面所で顔を洗って朝食の用意をする。引っ越してから一週間も経つと、キッチンやその他の水回りなどの勝手も分かってきて、動きも洗練されてきた。

 

 朝食を食べながら今日やる事を考える。

 

 実家から荷物が送られてきて、5日間かけてちまちま荷解きをしてようやく昨日すべて終わった。

 

 引っ越してきてから今まで、家の近くを歩き回るような事はしてこなかったので、少し散歩して、近所の人の様子、近くの飲食店などを調べてみよう。

 

 基本は面倒臭がって家にいたし、外出したのは家の真ん前にあるコンビニか、家の裏側にあるスーパーにご飯を買いに行く時くらいだったからな。あ、あとは初日の隣人挨拶の時もだ。

 

 本当なら近所の様子を知ることは早くやっておくべき事だったはずなのに、引越し当日に届くはずだった荷物が業者側の手違いで2日間届くのが遅くなってしまったために、今まで出来ずにいた。まぁ、やっぱり面倒臭かったってのが一番だけど。

 

 まだ必要な日用品や着替えなどは持参していたから良かったものの、布団などの荷物が無かったため、スーパーで貰ってきた段ボールを布団代わりにしてふた晩過ごすのを余儀なくされてしまった。

 

 地元に比べて暖かいし、服も着込んだからまだよかったけど段ボール布団で寝ると体中あちこち痛かった。

 

 俺は日頃から大小様々な不幸に巻き込まれる事が多いので、自分では不幸体質だと思っている。

 

 例を挙げるなら、自転車に乗ってる時に必ず顔に虫が当たるとか。たった500m自転車に乗るだけでクモの巣に三回くらい引っかかったり。

 

 あとは何故か、買った電子機器がだいたい不良品だったり、誰かと共用のパソコンやカメラが俺が使う時に限って不調になったり。

 

 自分で列挙してみるとなんかしょうも無い気がしてきたから、このくらいにしておこう。

 

 そうこうしているうちに朝食を食べ終わったので、ちゃちゃっと皿を洗って、お気に入りのパーカーとジーパンに着替える。

 

 近所を歩き回る程度だし、このくらいラフでも問題は無いだろう。

 

 スマホと財布、家の鍵を持って玄関を出る。ちょうど左隣の部屋に住んでる大学三年生くらいのお兄さんも外出するところだったので軽く会釈をした。

 

 通う大学は違うらしいけど、同じ大学生、そして少し歳上の兄貴分としてこれから頼りにさせてもらうこともあるはず。

 

 右隣の部屋に住んでるOLの人は既に出掛けているのか。学生で言う春休みにあたるこの時期でも社会人は普通に仕事があるはずだし。

 

 とりあえず行くあてもなく、アパートを出て右に歩き出す。

 

 春先の穏やかな日差しとどこからか聴こえてくる小鳥の囀りが心地良い。

 

 この辺は道がごちゃごちゃしていて、一度迷子になってしまうとなかなか大変そうだから、何か目印になるようなものがあればいいんだけど。

 

 そう思いながらしばらく歩き、なんとなく目に付いた曲がり角を気まぐれに曲がってみた。

 

 そしてまた歩いていると、家が建ち並ぶ中で、家と家の間に一本の細い道があるのを見つけた。

 

 ただ、それだけだったならまだ普通の小道だと考えて素通りしていたのだが、俺にはこの小道の前で思わず足を止めてしまう理由があった。

 

 

 

「ライラックの木……」

 

 

 

 そう、この場所は夢で出てくる男女が出会う場所とそっくりなのだ。

 

 いや、正確には、周囲の景色は全く違っていて、ライラックの木と小道の配置が夢と同じなだけである。しかも夢では木が一本、咲いているのは一輪だけなのに、今目の前には小道に沿ってライラックの並木道が広がっている。

 

 狭い道の両脇に植えられたその木の枝によって、その小道はまるでライラックのトンネルのようになっていた。

 

 一応開花を迎える時期ではあるが、まだ少し早いため、開花している花はそこまで多くはない。

 

 それでも、その4つに分かれた花弁から放たれる、嗅いでいるだけで気が休まるような香り、そして、溢れ出んばかりの高貴さを纏った紫色、触れるだけで消えてしまいそうな程透き通った白色のライラックは、言葉が出ない程美しかった。

 

 この小道の先に行ってみようかとも思ったが、まだ他の道を歩いていないので、今日はやめておくことにした。この並木道の木々が満開になる頃にもう一度来よう。

 

 見た感じ小道の奥には何かしらの祠っぽいものがあるから、個人的に少し気になるし。

 

 最初に考えていた、迷子にならない為の目印はこのライラックの並木道にしておけば大丈夫なはず。

 

 とりあえず散歩を再開しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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 あれから街中をうろうろ歩き回って、かなり沢山の道を歩いてみた。

 

 古本屋、雑貨屋、古着屋、骨董品店などの店の他に、チェーン展開しているファミレスやコンビニ、ファストフード店などの外食が出来るスポットも数多くあり、そこそこ栄えている様子だった。

 

 今は歩き疲れた体を癒すため、近くにあった喫茶店に来ている。

 

 既に注文を済ませ、少し早めの昼食を摂っているところだ。

 

 店内はこじんまりとしており、座席はカウンター席しかないためマスターとの距離も近く、常連客と思しき還暦くらいの男性と四十歳前後くらいのマスターとの間で会話が弾んでいるみたいだ。

 

 レトロな雰囲気を醸し出す蓄音機、壁に掛けられた独特な色彩の絵画もまた、この喫茶店のそれをより良いものにしている。

 

 もし仮に自分が喫茶店を経営するとしたら、俺もこんな感じの喫茶店を目指すだろう。

 

 料理も美味いし、こういう雰囲気の中で読書をしたりするのが個人的に好きなので、俺もこれから常連になるだろう。

 

 昼食を食べ終わったところで、マスターと話をしていた男性が会計を済ませて店から出ていくのが見えたので、食後のコーヒーを追加注文し、マスターに、今俺が気になっている事を聞いてみることにした。

 

 

 

「ちょっといいですか?」

 

「はいはーい、なんですか?」

 

 

 

 突然話しかけたのに、マスターは笑顔で応対してくれた。喫茶店の制服を着てカップを拭いているその姿はまさにジェントルマンと形容するに相応しいが、態度の方は意外とフランクだ。

 

 

 

「あの、少しこの辺りを歩いている時に綺麗なライラックの並木道を見かけたんですけど、ご存知ないですか?」

 

「ああ、あの道ね。知ってるよ。それがどうかしたの?」

 

「綺麗だったので通りかかった時に思わず足を止めてしまって。いつ頃からあるんですか? だいぶ手入れも行き届いてたと思ったんですけど」

 

「そうだねぇ。少なくとも二十五年前くらいからはあるかもなぁ」

 

「二十五年前、ですか?」

 

 

 

 予想してたよりかなり前からあったみたいで少し驚いた。

 

 マスターはカップを拭き終わったらしく、どこからか持ってきたイスをカウンターを挟んで俺の前に置き、続きを話し始める。

 

 

 

「そうそう。元々は一本しか植えられていなかったんだけど、この店の常連だったとある方があの小道に沿ってライラックの木を植えたんだ。最愛の人が亡くなったとかで供養の為に植えたらしいんだけど、植えた本人もしばらくして亡くなってねぇ、近隣の住民が二人の供養の為にここまで育てたそうなんだってさ」

 

「そう、だったんですか……」

 

 

 

 元々は一本だけだった、か。なんかますます分からなくなってきた。

 

 でもまぁ、一本だけ植えられてるライラックの木なんてライラックが植えられる地域なら数え切れない程あるだろうし、考えても仕方ないか。

 

 なんか今日はあの夢に思考が引っ張られ過ぎてる気がする。

 

 

 

「そういえば、お客さん、初めてのご来店だったよね?」

 

「あ、はい。先日近所に引っ越してきました。一応春から大学生になります」

 

「やっぱそうだったか。まぁ、あんまりこういう事を言われるのが好きじゃない人もいるかもしれないけど、お客さんがその亡くなった常連客の人とちょっと似てたから、実は最初少し吃驚しちゃったんだよね」

 

「俺なんてどこにでもいるような普通の男ですから、似てる人なんて世界中どこにだっていますよ」

 

「もっと自分に自信を持った方がいいと思うよ? 自分で思っているよりもお客さん、カッコイイから。自信を持てば必ず素敵な出会いだってあるし。……なんて、初対面の人に言われる筋合いはないよね」

 

「いえいえ、お世辞でもありがとうございます。気持ちだけでも受け取っておきますよ」

 

「そうしてくれ。それと、随分と花に詳しいみたいだけど、なんか育てたりしてるの?」

 

「実家が花屋を経営してまして。小さい頃から家の手伝いをさせられていたので、花の名前と花言葉くらいはだいたい言えます」

 

「ほう、そうだったのか。一番お気に入りの花とかってあるの?」

 

「実は、ハルジオンの花なんです」

 

「ハルジオンっていうと、その辺にも生えてるやつ?」

 

「そうです」

 

「そうかぁ。ライラックの花も好きではあるんだよね?」

 

「もちろんです。今度並木道の花が満開になる頃に、あの風景を写真にでも撮ろうかなと思ってます」

 

「それなら良かった。一つだけアドバイスをさせてもらうと、あのライラックの並木道の写真を撮るなら、夕方に撮るととても綺麗だよ」

 

「夕方に、ですか。分かりました、ありがとうございます」

 

 

 

 これはいい情報が聞けた。一、二週間後の夕方にあの並木道に行けばいい写真が撮れるかもしれない。

 

 いい頃合だったので、席を立って会計を済ませる。今度またここに来よう。次は本でも持ってきてしばらく読書をさせてもらえればいいな。

 

 

 

「お話を聞かせてくださりありがとうございました。料理とコーヒー、美味しかったです。今度また来ます」

 

「そう言ってもらえるとマスター冥利に尽きるってもんだよ。それじゃあ、またの御来店をお待ちしております!」

 

 

 

 最後に軽くお辞儀をしてから外に出る。この辺りはぐるりと歩いたし、そろそろ家に戻るかなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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 ねぇ、知ってる?

 

 ん?

 

 白いライラックの花にはね、花弁が五つに分かれてる花を見つけたら、誰にも言わずにそれを飲み込むと愛する人と永遠に過ごせるっていう言い伝えがあるのよ。

 

 へぇ、そうだったんだ。

 

 時々思う時があるの。永遠なんてもの、存在するのかしら、って。

 

 僕には分からないよ。

 

 もしも永遠があれば、ずっと○○といられるのにね。

 

 ふふっ、そうだね。僕も、ずっと●●といられるなら、永遠があればいいと思うな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 こんな会話をした時の君の笑顔と声を、僕は忘れる事が出来ない。

 

 どうしてこんなに懐かしく、そして苦しいのだろう。

 

 僕が他の女性を愛さないでいれば、きっとまた君に会える。

 

 そう信じて目を閉じてきた。

 

 君一人だけを覚えていたいんだ。

 

 ちょうどライラックの木の下で、君が小さく手を振ったその美しい指を、

 

 いつも思い出して慰めてきたように。

 

 人にはそれぞれの量の真実があって、それが尽きたら人は死んでしまう。

 

 僕もきっと、いつか死んでしまうんだ。

 

 あたりまえのことだけど、いつか。

 

 そのときまで覚えていたいんだ。

 

 君一人が僕の中に入ってきたことを。

 

 ライラックの木の下でさよならをした、君。

 

 

 

 

 ──────君だからこそ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ❂ ❃ ❅ ❆ ❈ ❉ ❊ ❋

 

 

 

 

 

 

 

 

「いったい……なんなんだよ……」

 

 

 

 はっと目覚めてすぐに、午前に外出した時と同じくスマホと財布と家の鍵を持って再び外に出た。

 

 体は自然とあの並木道へ向け走り出す。

 

 喫茶店から帰ってきて昼寝をして、初めてあの夢の続きと思しき内容の夢を見た。ただそれだけならまだ良かった。

 

 ならどうして俺はこんな風になってしまっているのか。

 

 それは、夢が覚める直前、最後に見た光景が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 いくらなんでも偶然が過ぎる。睡眠から完全には覚醒していない頭で素直にそう思った。

 

 傍から見たら馬鹿げていると思われるかもしれない。しかし、俺はどうしても、すぐにでも並木道に行かなければならない気がしてならなかった。

 

 寝起きすぐに走ったので体が思うように動かず、息が苦しい。あの並木道に到着するために、最後に曲がらなければならない曲がり角を目前にして俺は足を止めて膝に手をついた。

 

 肺がまるで包丁で刺されたかのように痛い。そして、まるで縄で首が絞められているかのように息が苦しい。全身が酸素を欲している。大した距離ではないのに、寝起きな上に、部活をしていた中学生以降は、ほとんど日課として運動をしていない俺にとって、走るという行為がここまで辛いとは思わなかった。

 

 しばらくして呼吸が整ってくると、徐々に頭も冴えてきた。

 

 そしてそれと同時に、走りながら考えていた事が本当に馬鹿馬鹿しく思えてきた。

 

 夢というのは、自分が無意識に抑圧している願望と、その願望に結びついた、生活中の体験の残滓が作り出したものだという。

 

 もしかしたら、俺は夢の中のように、女性と出会って恋をしてみたいのかもしれない。これまで生きてきてそういった経験がないのだから、深層心理下でそう考えてしまっていても不思議ではないはずだ。

 

 それに、生活中の体験が夢に影響を及ぼすのなら、夢から覚める直前に満開の並木道を見たのも、午前中に見たライラックの並木道が印象的過ぎたからだろう。

 

 なんか冷静になって考えてみると、今日の自分は本当にどこかおかしい。今まであの夢について深く考える事をしなかったのに、どうして今日に限ってこんなに夢に囚われているのだろう。

 

 完全に呼吸が整ったところで、とりあえず家に帰ろうかと思ったが、せっかくここまで来たのであの並木道をもう一度見ていこうと思った。

 

 外に出たついでに今日の晩御飯の食材を買って帰れば無駄足ということにはならないはずだ。

 

 そう思い曲がり角を曲がると、並木道の前で俺と同い年くらいの一人の女性が佇んでいるのが見えた。

 

 その女性は並木道の美しさに目を奪われているのか、その場で完全に固まってしまっていた。

 

 横から見ただけでも端正な顔立ちだと分かるその女性の事が少し気になり、俺は歩いて近づいてみようと思った。

 

 女性に対して興味を持つことさえなかった俺がこんな考えを持つことは珍しいが、今日の俺は少しおかしいので気にしないことにする。

 

 女性に近づこうと歩き出したところで、俺はその場で立ち止まってしまった。

 

 

 

 なぜなら──────女性が泣いていたからだ。

 

 

 

 どうして泣いているんだ? あまりの美しさに魅了されているのか? 

 

 いや、確かに並木道は綺麗ではあるが、まだ満開になっていないのだから、そんな泣くほど素晴らしいという訳では無いはずだ。

 

 ライラックの花になにか思い入れがあるのだろうか。もしかしたら、大切な人との思い出の花なのかもしれない。

 

 まとまらない思考を繰り返していた時、それまで穏やかだった風が突然強くなった。

 

 頭の右側に大きめのお団子がある長く美しい青みかがった黒髪が風に靡く様子が、夕方の空の色と相まってこの上なく美しいと思った。

 

 そして、風に乗ってやってきたライラックの花の甘い香りが鼻腔をくすぐってきたことで、ようやく我に帰ることができた。

 

 と、同時に女性がこちらの存在に気付いたようだ。

 

 泣いているのを見られたからなのか、単に人見知りしているのかは分からないが、あたふたとしながら着ていたセーターの袖口で涙を拭いている。

 

 横から見て相当美人であるその女性は、正面からみてもすごく綺麗で、まるで世界の時間が止まったかのように、俺の視線は女性に釘付けになった。

 

 しかし、流石にこのままでいる訳にもいかないし、かといって背を向けて歩き出すのもどうかと思ったので、女性に話しかけることにした。

 

 ただ、話しかけるための言葉が浮かんで来ない。

 

 今度は俺があたふたとする番だった。このままじゃ突然やってきた挙動不審な男という扱いを受けてしまうかもしれない。引っ越してきて早々、そんな扱いを受けるのは避けたいところだ。

 

 実家の花屋の手伝いのおかげでコミュニケーション能力は備わっている筈なのに、何故か言葉が出てこない。しつこいようだが、今日の俺は本当におかしい。

 

 考えた挙句、ろくな言葉が出てこなかった。どうにか言葉を絞り出そうとしたその瞬間、

 

 

 

「……綺麗なライラックの花ね」

 

 

 

 いつの間にか泣き止んでいた女性に、先に話しかけられてしまった。

 

 とても綺麗な声だ、と思ったが、同時に先に話しかけられなかった自分の情けなさを実感した。オレンジ色の空を、カラスが俺を嘲笑うかのように鳴きながら飛び去って行った。

 

 

 

「……そうだね」

 

「ライラックの花は、好き?」

 

「一番好きってわけじゃないけど、好きな花ではあるかな」

 

「そう。私はこの花、一番好きよ」

 

「どうして?」

 

「大切な、思い出の花だから……」

 

 

 

 そう言って女性は目を伏せた。どうやら俺の予想は当たっていたらしい。

 

 

 

「ごめん。辛いこと思い出させちゃったか」

 

「いえ、大丈夫よ。もちろん楽しかった思い出も沢山詰まっているしね」

 

「そう、なのか……」

 

 

 

 この女性にとってライラックの花は、大切な思い出の花であり、同時に辛い思い出の花でもあるのか。

 

 また、風が強くなった。誰かの悪戯だろうか。根元が折られていて、今にも風で飛ばされてしまいそうになっている一輪の白いライラックの花が目に入った。

 

 

 

「ところで、君、名前は?」

 

「名前……ね。今はまだ……言いたくないわ」

 

「そうか……それもそうだよな」

 

 

 

 初対面の男に名前を聞かれて簡単に答えるのは確かに不用心だ。答えたくないのは至極当然だと思う。

 

 

 

「……ねぇ、知ってる? 人にはね、それぞれの量の真実があって、その真実が尽きてしまえば人は死んでしまうのよ」

 

「え……?」

 

 

 

 それは、何度も夢で見たあの言葉。夢の中の男性がずっと気にしていた言葉を、女性は語り出した。

 

 考えてみれば、最初に女性から話かけられた言葉も、夢とそっくりだ。俺は今、夢を見ているのか。それとも、正夢となった現実を見ているのか。

 

 自分に問いかけても分からない。夕暮れの空やライラックの花に問いかけてみたら分かるのだろうか、と訳の分からないことを思った。

 

 

 

「ずっと昔に聞いた言葉よ。私はね、この"真実"という言葉は、"運命"とか"寿命"とかっても言い換えられるんじゃないか、って思うの」

 

「運命……寿命……」

 

「何を言っているのか分からないって顔をしてるわね。大丈夫よ。そのうち分かる時が来るわ」

 

「どういうこと?」

 

「それは教えないわ。自分で考えなさい」

 

「なんでだよ、教えてくれてもいいじゃん」

 

「いつか気が向いた時に、私の名前と一緒に教えてあげるわ。だから、またきっと会いましょう」

 

「うーん、まぁいいや。でも、会うって……どこで?」

 

「この場所よ。こうやってまた会えたんだから、次だって会えるはず。だからまたここで、待ち合わせましょう。ライラックの花が咲く────この並木道で」

 

 

 

 そう言い、彼女はにっこりと笑いかけてきた。つられて俺も微笑む。

 

 ただ、一つ引っかかる言葉があった。俺はこの人とは初対面のはずだ。

 

 人違いをしているのか、それともどこかで会ったことを俺が覚えていないのか。でも、こんなに綺麗な女性の事は、一度見たら忘れられないはずだ。

 

 初対面じゃないのなら名前を教えてくれるはず。なのに名前を教えようとはしない。だが、まるで以前どこかで会ったことがあるような口ぶり。

 

 訳が分からない。

 

 

 

 

 

 

 ふと並木道の方に体を向けた時、また風が強くなり、俺の思考を中断した。

 

 

 

 

 それは、飛ばされかけていた一輪の白いライラックの花を散らし、今俺が中断された思考と一緒に、背中に乗せて俺と女性の間を吹き過ぎて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 散っていったその花の花弁の数が、五枚だったような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 お読み頂き、ありがとうございました。



 遅筆なので投稿感覚はかなり空くかと思いますが、お待ち頂ければ幸いです。


では、次回もよろしくお願いします。
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