間桐さんちの桜ちゃんは、とっても不幸な女の子です。
今日も今日とてお家の地下にあるムシグラで、気持ち悪いイモ虫たちに全身を舐め回されていました。それもすっぽんぽんで、です。
もしこの光景がご近所にバレでもしたら、確実に児童虐待や家庭内暴力、性犯罪者として即通報間違なしの、それはもう酷い有り様でした。
それがご近所でも名主として名高い、間桐家当主──つまり桜ちゃんのお爺さんである間桐臓硯の手によるものだというのですから、呆れを通り越して笑いさえ込み上げてきてしまいます。
こんな拷問とも呼べる責め苦は、おおよそ1年前から始まりました。
突如として臓硯さんがドSに目覚めたとか、実は救いようのないぺドフェリアだった、という訳では勿論ありません。もしかしたら本当はそうなのかもしれませんが、桜ちゃんが知る限りでは理由は他にありました。
実は、間桐さんのお家は『魔法使い』のお家だったのです。それも桜ちゃんにとっては残念な事に、
間桐さんは『悪い魔法使い』のお家──より正確に言えば『魔法使い』ではなく『魔術師』だそうですが、幼い桜ちゃんにはその区別が良く分かっていません。
何となく、杖とかを持ち、呪文を唱え、魔力とか言ったものを使って不思議な事を起こす、そういったおとぎ話や昔話に出てくる魔法使いみたいなものだと認識していました。
そういった昔話には、とっても不幸な女の子を救ってくれる『良い魔法使い』から、お城の地下室で何やら怪しいお薬を作っている『悪い魔法使い』まで色々と登場しますが、間桐さんちはどうやら後者の『悪い魔法使い』だったようです。
そもそも桜ちゃんは間桐さんちの桜ちゃんではなく、元々は遠坂さんちの桜ちゃんでした。それが約1年ほど前に間桐さんのお家に養子として出されたのです。
それからというもの、遠坂さんちの桜ちゃんを間桐さんちの桜ちゃんにするために、鍛錬と称した拷問が延々と続いていました。
何故、遠坂さんちが桜ちゃんを養子に出したのかというと、その理由は金銭的に桜ちゃんを養っていくことが出来なくなったという訳ではありません。桜ちゃんの本当の両親は今も元気に暮らしていますし、遠坂家は地元でも有数の名家で、お家は信じられないくらいに広く、また使用人も何人も雇えるくらい裕福な家庭でした。
桜ちゃんには凛ちゃんというお姉さんもいましたが、たった二人の姉妹を養っていけないほど家計が火の車であったとも思えません。まあ、少しばかりお金に困っている様子は確かにありましたが、桜ちゃんの感じる限りではそう緊迫した様子でもありませんでした。
では、何故遠坂さんちが桜ちゃんを間桐さんちに養子に出したのかというと、これはひとえに遠坂さんちも『悪い魔法使い』であったからに過ぎません。
血筋がどうの、血統がどうの、盟約がどうのこうの。桜ちゃんは養子に出される際に、お父さんである時臣さんから一通り理由を説明をされていましたが、幼い桜ちゃんにその全てが理解出来るはずもなく、ただただお父さんの決定に頷く事しか出来ませんでした。
とっても優しかったお母さんとお姉さんも、その時ばかりは何も言えず、ただ桜ちゃんを見送るしか出来ませんでした。
桜ちゃんの不幸はその時から……いえ、より正確には遠坂家という魔術師の家で育った時から、もっと言えば、そもそも生まれたこと自体が不幸であると言えました。
魔術師の秘伝や秘術は、基本的にその一族の中の一人にだけ受け継がれます。つまり遠坂家の魔術は、凛ちゃんか桜ちゃんかどちらかにしか伝承されないという事です。そしてその序列は、基本的に先に産まれた長子の方に優先されます。
勿論、後に生まれた子の方がより優秀であればその限りではありません。魔術師というものは実力主義なのです。
ですが桜ちゃんのお姉さん──凛ちゃんは、桜ちゃんとは比べ物にならないくらい文武共にとても優秀で、かつ魔術に対しても並々ならぬ関心と情熱を併せ持つ、魔術師として完璧と言えるほどの才覚を持つ天才でした。
それに比べ桜ちゃんは比較的控えめで大人しく、魔術というよりもおままごとやお人形遊び、お絵描きなどに興味を示す、そういう普通の女の子に近い感性の持ち主だったのです。魔術師の後継者としてどちらがより優秀かは、考えるまでもないでしょう。
(私がもっと
イモ虫たちに蹂躙されながら、桜ちゃんはそんな事を思ってしまいました。
でも直ぐにその考えは捨て去ります。だって、もしそうなったとしたら桜ちゃんの代わりにこのイモ虫の海に放り込まれるのは、大好きだったお姉さんになってしまうからです。
1年前の──初めてムシグラに放り込まれた時だったら、もしかしたらお姉さんを身代わりにしてでも自分だけ助かろうとしたかもしれません。事実あの時はあまりの苦しさにお姉さんを恨んだ時期さえありました。お姉ちゃんさえいなければ、“こんな目”には会わなかった、と。
しかしそんな余計な感情や感傷は、とっくの昔に消え去ってしまっていました。1年という歳月は、幼い桜ちゃんにはあまりにも巨大で長すぎたのです。
何も考えず受け入れられるほど幼くはなく、全てを諦めきれるほど大人でもなかった桜ちゃんは、ただ自分の感情を押し込めて、閉じ込めて、お人形の様に無感情になることでしか自分を守れませんでした。
そんな中でも桜ちゃんは自らの境遇を嘆いたとしても、誰かを恨んだり呪ったりはしませんでした。
桜ちゃんは気付いていたのです。これは
哀れみと、諦めと、後悔と、そして……『代替品』として桜ちゃんを見つめているという事を。
そうです。所詮、桜ちゃんは大人たちにとって『代替品』に過ぎなかったのです。
遠坂家当主としての『代替品』。間桐の魔術師の『代替品』。後継者を産み落とすための『代替品』。そして……大好きな
桜ちゃんを見つめる瞳はそんなものばかりでした。隠しても隠しきれないその感情を、確かに桜ちゃんは感じ取っていたのです。子供だからと気を緩めた、大人たちの失態です。
そしてその瞳に応えるべく、桜ちゃんはそういった“役割を演じた”のです。子供であるが故に、純粋無垢な気持ちで、大人たちに喜んで欲しいというただその一心で……。だからこそ、これは
「でも……もぅ、イヤだよぉ……」
イモ虫たちの凌辱にも慣れ、適応し、快楽すら生まれ始めていたにも関わらず、突如として桜ちゃんに絶望が襲いかかりました。
ずっとこんな生活が続くの? おばあちゃんになるまでずっと?
押さえ付けていた感情が激しく揺さぶられます。無くしていたと思っていた感情が、こんなにも爆発しそうになった原因は、定かではありません。
元々子供とは情緒不安定なものです。何かが切っ掛けで封印していた心の蓋が開いてしまう事もあるでしょう。
もしかしたら、昨晩は修練が久々に無く、柔らかいベッドの上で安眠出来た事が原因なのかもしれません。もしくは、間桐さんちの優しい方のおじさん──雁夜おじさんとした昨日した会話で、忘れかけていたお父さんと母さんとお姉さんとの思い出が蘇ってしまったからなのかもしれません。
「誰か……誰か、助けて……」
少しだけ目に涙を浮かべ、消え入るくらいか細い声で桜ちゃんは“誰か”に助けを求めました。
解放されたい。自由になりたい。痛いのは、苦しいのはもうイヤだ……もし、この世界に『悪い魔法使い』だけじゃなく、『良い魔法使い』もいるのなら──お願い! 私を、助けてっ!!
それはとてもとても小さくて、しかしとてもとても純粋な願いの声でした。
ですが、誰もいないムシグラの中ではその“誰か”に届くはずもなく、目に溜まった一筋の涙が静かに零れ落ちるだけです。
その一滴の涙は桜ちゃんの頬を伝い、イモ虫たちの体を流れ、下へ下へと下っていき、遂にはムシグラの底にまで到達しました。
その瞬間──奇跡は起きたのです。それは、無限に連なる平行世界でも、たった一度だけ起きた小さな奇跡でした。
突然、ムシグラの中に強烈な光が生まれます。太陽の如く輝く閃光はムシグラのイモ虫たちを全て吹き飛ばし、支えるものが無くなり落下し始めた桜ちゃんを優しく包み込みました。
ゆっくりゆらゆらとまるでゆりかごに抱かれているかの様にゆったりと落ちていく桜ちゃん。やがて光は桜ちゃんをそっと地面に降ろすと、次第に人の形を取っていきます。
最初は巨人と見間違える程の大きな姿、次に角と尻尾の生えた悪魔の様な姿、続いて手足と耳の長いスレンダーな姿、桜ちゃんが良く知るヒトの姿、猫の様な耳と尻尾の生えた姿へと形を変え、そして最後は桜ちゃんと同じくらいの背丈の小さな女の子の姿になりました。
その女の子は全身を覆う真っ黒な衣装で身を包み、頭にはとんがり帽子、手には大きな杖を握っています。その姿は万人がイメージする“魔法使い”の姿そのものでした。
とんがり帽子から僅かに覗く髪は紫色で、片目だけ見えるその瞳はまるでガラス玉を埋め込んだかのように感情を失っていて空っぽみたいです。その瞳に桜ちゃんは見覚えがありました。今朝、鏡の中に見た自分の瞳にそっくりです。
桜ちゃんが呆然と女の子を見つめていると、女の子が桜ちゃんに向かって手を差し伸べてきました。その手を見て、桜ちゃんは直感的に悟ります。これは、これまで望めども誰一人として差し伸べてくれなかった救いの手です。きっとこの手を取れば、たちまち桜ちゃんは救われる事でしょう。
ですが一瞬、桜ちゃんは迷いました。
これまで誰も助けてくれなかったのは、誰も救いの手を差し伸べてくれなかったのは、桜ちゃんがそう口にして来なかったからです。何も言わず、大人しく従順であろうとしてきた桜ちゃん自身が招いた事だったのです。この手を取る資格が自分にあるのか、桜ちゃんには分かりませんでした。
「何事じゃ、桜!!」
蟲たちを消し去られ、異変を感じ取った臓硯お爺さんが、ムシグラの中に駆け込んで来ました。まるで妖怪の様な不気味な姿です。
臓硯お爺さんを見たとたん、恐怖からか、あるいはなけなしの勇気を振り絞ってなのか、桜ちゃんは意を決して女の子の手を取りました。臓硯お爺さんの驚きの声が遠く遥か彼方に聞こえます。
「あっ──」
桜ちゃんと女の子の手が触れ合い、掌を重ね合わせると、桜ちゃんは、女の子が自分の“中”に入って来るのを感じました。ですがそれは不快な物では無く、優しくて、心地良くて、まるでお母さんに抱かれているかの様な安らぎを桜ちゃんに与えてくれます。
女の子が桜ちゃんの中に入って来るにつれ、1年かけて穢され、傷つき、作り変えられてきた体が癒されていくのが分かります。桜ちゃんの中にしぶとく巣食っていた最後のイモ虫たちも瞬く間に浄化され、代わりに女の子が持つ知識と知恵、経験と技能が流れ込んで来ました。
その中で桜ちゃんは、さっきまで女の子がとっていた黒装束の魔法使いの姿を思い浮かべます。桜ちゃんを救ってくれた『良い魔法使い』の姿を……。
すると丸裸だった桜ちゃんは全身を覆い隠す黒い衣装へと変わり、頭にはとんがり帽子、そしてその手には大きな杖が現れました。その姿はまるで鏡写しの様に、さっきまで目の前にいた女の子そっくりです。
「まさか桜ッ! 貴様、サーヴァントを!?」
そう臓硯お爺さんが叫びます。同時に、桜ちゃんは行動を起こしました。不思議と次に取るべき事が分かります。桜ちゃんは手を顔に近づけ、祈るように詠唱を開始しました。恐怖はもう微塵もありません。代わりに勇気と希望、そういった光の意思が湧き上がってきます。
驚くほどの魔力の奔流に桜ちゃんの体は浮かび上がり、それを見た臓硯お爺さんは警戒を露にしました。
もし桜ちゃんがサーヴァントを召喚したとしたら、真っ先に狙われるのはここにいる自分です。相当恨まれている筈ですし、それぐらいの事は仕出かしたと思ってもいます。むしろこのシチュエーションに至っては、それぐらいの事を仕出かしてくれないと困るというものです。
「良かろう来るがいい、桜。いくらサーヴァントを召喚しようとも、貴様と儂とでは年期が違うという事を思い知らせてやるわッ!!」
そう威勢よく啖呵を切った臓硯お爺さんでしたが、その覚悟と期待はあっさり裏切られました。
「いいえ、お爺様。これで……さようならです」
桜ちゃんは魔力が最高潮に達するとそう言い残し、光の粒子となってこの場から消え去りました。去り際に見た呆気に取られる臓硯お爺さんの顔が、とても印象的でした。
桜ちゃんはそのまま地脈を伝い、霊脈を進み、かつて無い衝動に身を任せ流れていきます。気がつくと、桜ちゃんは何処かの山のお寺の前に立っていました。このお寺には見覚えがあります。昔、家族揃ってお参りにいったお寺の筈です。
目の下には麓へと続く階段。時間はもう深夜、周りには誰もいないようです。
ふと桜ちゃんは目線を前へと向けました。
眼下には桜ちゃんが住んでいた街が広がっていて、ぽつぽつとですが明かりが見えます。キラキラとキラキラと揺らめいて輝いて……。
その光が桜ちゃんにはとても綺麗で、優しくて、愛しくて、まるで宝石の様に映りました。無色で色褪せていた桜ちゃんの世界に、様々な彩りが満たされていきます。
桜ちゃんの頬を冬の風が撫でました。その冷たいはずのそよ風すらも、今の桜ちゃんにはとても素敵なものに思えます。
地獄から解放された少女は生まれて初めて自由を得て、街の美しさを知りました。その美しく尊い世界に向け、薄幸の少女が高らかに人生で二度目の産声を上げます。
斯くして──桜ちゃんの一世一代の家出はこうして始まったのです。
助けを呼ぶ幼女のためなら次元すらも超えざるをえないッ!!