強烈な熱気が辺りに漂い、湿気を帯びた空気が充満するその場所に、桜ちゃんはやってきました。もくもくと立ち上る水蒸気のせいで視界は若干悪く、見たところ人はまばらの様です。
時刻は朝──確かにここに来るには少し早すぎる時間でした。
今、桜ちゃんの頬はほんのりピンク色に上気しています。傷一つない白魚の様な肌は堂々と露出され、紫色の髪はしっとりと水気を帯びていました。
隠すものなんか何一つない、がちのすっぽんぽんです。
もっとも、桜ちゃんの大切な場所は、謎の光や湯気によってしっかりとガードされ、見ることは叶いませんが……。
すっぽんぽんなのは桜ちゃんの趣味……ではなくマナーだからです。そう、ここは『新都』にあるとあるスーパー銭湯。桜ちゃんは今、お風呂に入っているのでした。
無事、連続誘拐殺人事件を解決した桜ちゃんたちは、誘拐されていた子供たちを外に運び出す事にしました。
その最中、眠りから目覚めた一人の子が、寝ぼけた様子で桜ちゃんにこう言ったのです。「お姉ちゃん、くさい……」と。
いくら桜ちゃんが色気より食い気の花より団子ガールだとしても、桜ちゃんとて花も恥じらう可憐な乙女です。
つい最近までムシまみれになって乙女とは言えない仕打ちを受けていた気もしますが、こう見えても桜ちゃんは立派な家系に生まれた真のご令嬢なのです。
身だしなみには人一倍気を使って……そう言えば、前にお風呂に入ったのは何時だったでしょうか? 確かムシグラに入る前に一度入ったきりで……。
急に、桜ちゃんはとてつもなく恥ずかしい気持ちになりました。確かに、よくよく嗅いでみれば桜ちゃんは若干臭いです。
貯水槽の汚水や海魔の腐肉のせいでもあるのでしょうが、それ以外にも桜ちゃんからは少しばかり洗っていない犬の匂いがします。決して乙女が発していい匂いではないでしょう。
しかし、桜ちゃんの名誉の為にも一応言っておきますが、これは桜ちゃんが自らの体臭に無頓着な、乙女にあるまじきずぼらな性格だったという訳ではありません。原因は桜ちゃんの中にいる“女の子”にあるのです。
基本的に“女の子”にとって入浴という行為は只の趣味に過ぎず、気が向いたら時々入る程度の娯楽みたいなものでした。
それでも常に清潔で良い匂いを漂わせていたのだというのですから、桜ちゃんからしてみれば卑怯の一言ですが、そういった“女の子”の常識に毒されていた桜ちゃんも桜ちゃんです。
幼い子供の純粋な一撃は、桜ちゃんの乙女の純情を激しく傷付けました。
桜ちゃんは臭い──そんなどこぞの猫娘みたいにあり得ない風潮が広まってしまったら、もう大手をふって街を歩くことなんか出来なくなってしまいます。
なんて屈辱的な事態なのでしょう。とてもじゃないですがそんな事、か弱い桜ちゃんには堪えられそうにもありません。
そんな訳で、そんな不名誉なレッテルを貼られないためにも、桜ちゃんはお風呂屋さんに急ぐのでした。
大量生産された業務用のシャンプー(リンスイン)で頭をごしごしと洗い、受付で貰った洗いタオルで体を隅々まで洗っていく桜ちゃん。
乙女の名誉の為にどれだけの日数だったかはふせておきますが、そこそこ溜まった汚れを洗い流していきます。
たちまち桜ちゃんからは、洗剤だけでは発することの出来ないとても良い匂いが漂い始めました。うん、桜ちゃんは臭くない。これでこそ、真の美幼女ってなもんでしょう。
すっかりすっきり綺麗になった桜ちゃんは、早速このお風呂屋さんで一番大きな湯船に向かいます。少し高めに設定された湯加減は、優しく桜ちゃんの体を暖めていきました。いい湯だな、あははん。
冬木最大の脅威であった誘拐殺人事件も無事解決し、桜ちゃんの気分も上機嫌です。鼻歌だって歌っちゃいます。
あと残す事件は『図書館事件』と『未確認飛行物体』でしょうか? この調子でドンドン解決していけば、直ぐにでも冬木に平和が訪れる事でしょう。冬木の未来は実に明るいと言えます。
でも──桜ちゃんがそう考えると、鼻歌が止まり表情が少し固くなりました。平穏への進展はありましたが、同時に懸念材料も増えてきているのです。
『聖杯戦争』──ハサンさんから聞かされたその戦いは、果たして冬木の脅威となりうるのでしょうか? ハサンさんの言葉を信用するならその心配は無いようですが、そう安々と鵜呑みにするわけにもいきません。
ハサンさんは聖杯戦争の参加者である『サーヴァント』と呼ばれる存在だそうです。
それならば、ハサンさんと同じような気配を発していたジルさんもまた、『サーヴァント』だったという事なのでしょうか? さらにだとすれば、『図書館事件』の容疑者であるイスカンダルさんも同じ『サーヴァント』だということになります。
冬木に蔓延る大事件の真犯人が、殆どサーヴァントというのは果たして安心安全であると言い切れるのでしょうか? いいえ言い切れないでしょう。
なんせ『聖杯戦争』とは、なんだかんだ言っても『戦争』などという物騒な名前が付いてる戦いです。このまま平穏無事に何事もなく終わるとは到底思えません。街に被害を出さないためにも、慎重に推移を見守る必要があるでしょう。
それに──桜ちゃんはそう考えると、手の中で握っていた“ある物”を人差し指と親指で摘まみ、頭の近くに掲げました。
それは、淡い光を放つ紫色の小さな水晶でした。
不思議な輝きを讃え、奇妙な魔力が脈動するこの謎の結晶体を、桜ちゃんはジルさんとの戦闘跡から見つけていたのです。
この水晶からは、まるでジルさんがそのまま結晶化したかのような不可思議な雰囲気が漂っていました。それに、奇妙な事にあの“球体”に似た雰囲気もかもし出しています。
ここにきて、まさかのまさかの“球体”です。
『聖杯戦争』『サーヴァント』『謎の結晶』そして『球体』──もしかしたらこれら全てには、何か因果関係があるのかもしれません。
冬木に迫る怪事件にサーヴァントが関係しているならば、そして聖杯戦争にあの“球体”が関係しているならば、いずれ、桜ちゃんも聖杯戦争に関わらなくてはならないでしょう。
その予感を胸に、桜ちゃんは輝く水晶を握りしめ湯船から出ていくのでした。よっし、とりあえず、上がったら牛乳を飲もう。
お風呂から上がり、そのままそのお風呂屋さんで遅めの朝食を食べた桜ちゃんは、街の中をふらふらと散歩していました。
街の雰囲気は誘拐殺人事件が解決された事もあってかすこぶる良く、街ゆく人々には活気と笑顔が戻ってきています。
それを見た桜ちゃんも、充実した達成感を感じていました。自然と桜ちゃんの表情が緩んでいきます。
清々しい気分で街を歩いていると、桜ちゃんの目に一人の初老の女性が留まりました。何やら沢山の荷物を抱え、大変そうに歩いています。その頭上にはばっちしと黄色い『お願いマーク』が浮かんでいました。
さて、荷物運びやお使いは、もはや桜ちゃんの十八番です。そうじゃなくても、困っている人をどうして見過ごすことが出来るのでしょうか。そう考えた桜ちゃんは迷うことなく歩き出すと、お婆さんに声をかけます。
そのお婆さんの名前は、『マーサ・マッケンジー』といいました。
「本当助かっちゃったわ。わざわざお家にまで手伝ってくれてありがとう」
ここはマーサさんのお家。グレン・マッケンジーとマーサ・マッケンジーの自宅です。そして、それはつまり──
「いいえ、イスカンダルさんに会うついででしたから」
そう、目下『図書館事件』最大の容疑者、イスカンダルさんがいたお家でもありました。
「でも、イスカンダルさんなんて人、うちには住んでないわよ? 私とグレン、それから孫のウェイバーちゃんだけ……」
「赤毛の、クマみたいな人なんですけど、見覚えはありませんか?」
「んー見たことは無いわね……でも、もしかしたらウェイバーちゃんのお友達かもしれないから、帰ってきたら聞いてみるといいわ。それまではゆっくりしていってちょうだい」
荷物を持ってキッチンに向かうマーサさんがそう言いました。もしかしたら、イスカンダルさんは幽霊みたいな人だったので、マーサさんには見えていないのかもしれません。
「手伝います」
桜ちゃんもマーサさんの後に続きました。
こう見えても桜ちゃんの中にいる“女の子”は、英雄クラスの調理師でもあります。この機会に存分に腕を発揮するのも良いでしょう。
「あら、ありがとう。紅茶は好き?」
「はい、好きです」
最近の好みは『ステップティー』だとこっそり“女の子”が呟いてきます。ふむふむステップティー……どんな飲み物なのでしょうか。
マーサさんがいそいそとお茶の準備を始めます。桜ちゃんも懐からフライパンと包丁を取り出すと、床に座り込んで早速お茶の準備に取り掛かりました。いざ、調理開始!
桜ちゃんの突然の奇行にもマーサさんは「最近の子は変わっているわねぇ」っと笑顔のままでスルー。果たしてこれは本当にお茶の準備なのか? というツッコミが不在のまま、桜ちゃんは調理をしつつも思考を巡らせます。
マーサさんの言うウェイバーという人は、もしかしたらあの図書館で感じた小さな魔力の持ち主のことかもしれません。もしイスカンダルさんが『サーヴァント』ならば、そのウェイバーという人が『マスター』なのでしょうか? ジルさんとは違い、会話が可能な人だと良いのですが……。
「その、ウェイバーさんは何時ごろ帰ってきますか?」
手を休めることなく、まるで全自動の機械のような正確さで次々と調理品を完成させていく桜ちゃんは、そうマーサさんに疑問を投げかけました。
「それは分からないわ。最近、ウェイバーちゃんは頻繁に外出してるみたいで、夜中も何処か出歩いているみたいだから……」
それはなんとも怪しい話です。もしや、また何か事件を起こす気なのでしょうか? てきぱきと着実にお茶の準備を進めながら、桜ちゃんはそう怪しみました。
「それにしても桜ちゃん、スゴい手際の良さね。おばさんビックリしちゃったわ」
そりゃあ桜ちゃんの中にいる“女の子”は、調理師を極めた超一流の料理人ですから当然です。『Master Culinarian』の称号は伊達じゃないのです。フライパンと包丁だけで、何でも作れちゃいます。ジュージュー焼いてフルーツジュースを作り出す事だって朝飯前です。
「ありがとうございます」
実際には桜ちゃんの実力ではなく“女の子”の実力ですが、桜ちゃんは嬉しそうに頬を染めて喜びを表現しました。
「いきなり座りこんでフライパンを取り出した時はどうしようかと思ったけど、いらない心配だったみたいね。味も……うん、スゴく美味しいわ」
桜ちゃんが作り上げた『アフタヌーンティーセット』に舌鼓をうちつつ、マーサさんがそう称賛します。ちなみに材料はマッケンジー宅の冷蔵庫から頂戴しました。フライパンと包丁でどうやって作り上げたのかは、永遠に謎です。
「そうだ、桜ちゃん。良かったらウェイバーちゃんのお部屋を見ていったらどうかしら? もしかしたらイスカンダルさんの手がかりが見付かるかもしれないわ」
スッキリとした喉越しのカモミールティーを飲みながら、マーサさんがそう提案してきます。果たして、年頃の男の子の部屋に無断で幼女が入っても大丈夫なのでしょうか? ちょっとダメな気がします。
「良いんですか?」
「えぇ……ただし、このことはおばさんとの内緒よ?」
意地悪な笑みを浮かべ、ウインクをしながらマーサさんはお茶目に言いました。保護者らしき人がそう言うなら問題は無いのでしょう。
「分かりました、ありがとうございます」
「あぁ! それにしてもウェイバーちゃんのお部屋をこっそり覗きみるなんて、昔を思い出してドキドキしちゃうわね! さぁ早速いきましょう!」
そうと決まれば善は急げといった様子で、マーサさんは急かします。しかし、このマーサさんノリノリです。というか一緒に見に行く気満々です。
そんなテンションのマーサに誘われるがまま、桜ちゃんもウェイバーくんの部屋に向かうのでした。
ウェイバーくんの部屋は、マーサさん曰く「男の子らしい」部屋らしく、桜ちゃん目線では食べかけのお菓子や読みかけの本、良く分からない代物に加えてゴミが散乱する混沌の地と化していました。
「あらあらあら、まあまあまあ」
満面の笑みでそう言いながらマーサさんは臆することなく部屋に侵入し、手慣れた様子で片付けていきます。散乱したゴミはゴミ箱に、食べかけのお菓子も一つにまとめて残りはポイ。用途不明の物品は丁寧に並べ整頓していきます。
桜ちゃんもマーサさんに倣って、部屋を片付け始めました。脱ぎっぱなしの洋服をハンガーにかけ、起きっぱなしの布団と毛布を綺麗にたたみ直し、散らばった図書を本棚にしまっていきます。
その中で、桜ちゃんは見覚えのある“本”を見つけました。それは、図書館でのヴィジョンで見たイスカンダルさんに盗まれた“本”そっくりです。というかおそらくそのものでしょう。
桜ちゃんはその本のページをペラペラとめくると、案の定、最後のページには『冬木図書館』と記載された貸し出しカードが挟まれていました。本の内容は『世界地図』と、それから『イリアス』という詩集の二つです。
やはり『図書館事件』の犯人はイスカンダルさんとウェイバーくんで間違いないのでしょう。
桜ちゃんはマーサさんに気付かれないように、盗まれた本をさっと懐にしまうと、なに食わぬ顔で片付けを再開しました。
これは桜ちゃんが責任を持って代わりに返却しておくことにしましょう。返せと言っても、イスカンダルさんの印象からして、素直に返すとは思えませんからね。
そしてその後、お掃除も終わり、桜ちゃんが帰るころになっても、ウェイバーくんは運が良いことに一向に帰って来ませんでした。
「ごめんなさいね。お掃除手伝って貰っちゃった上に、ウェイバーちゃんにも会えなくて……」
「いえ、それでも収穫はありましたから」
桜ちゃんの考えでは、今優先すべきなのは『図書館事件』の犯人を懲らしめる事ではなく、盗まれた本を一刻も早く元の場所に戻す事です。心残りは少しだけありますが、桜ちゃんはひとまずは現状で良しとしていました。
「あらそうなの? それなら良かったわ」
ほっとした表情でマーサさんが言います。
「ではマーサさん、お邪魔しました」
「えぇ、今日は何から何まで本当にありがとう。今度はグレンやウェイバーちゃんがいる時に遊びに来てね」
「はい、その時は是非」
躾の行き届いたご令嬢っぽい微笑みで、桜ちゃんはマッケンジー家を後にしました。
日が沈み、夜の帳がすっかり落ちきった頃──桜ちゃんは冬木で一番高いビルから、街の様子を眺めていました。
その表情はいささか不満げです。
それもそのはず、せっかく奪還した二つの本を図書館に返却しに行ったら、そこには盗まれた本と全く一緒の図書が本棚に仕舞われていたのですから……。
貸し出しカードの履歴から本についた僅かなシミまで、隅から隅まで同一の本は、まるで盗まれたこと自体を隠蔽するかのように、完璧にコピーされたものでした。一体、誰がこんな事をしたのでしょうか?
結果的に何事もなく解決出来たとはいえ、これでは桜ちゃんの苦労が水の泡です。仕方なく桜ちゃんは、盗まれた本をコピーされた本の隣に突っ込むと、渋々とその場を去っていくのでした。
「はぁ……」
冬木の夜景を眺めながら、桜ちゃんはため息を付きます。そして、ため息を付くと幸せが逃げるという逸話を思い出した桜ちゃんは、慌てて吐いたため息を吸い込みました。スースースー。
そんな奇妙な行動をとっていた桜ちゃんの知覚範囲内に、ふと見知った気配が近づいてきます。それは昨日、一夜限りの助手契約を結んだハサンさんの気配でした。
「……どうもこんばんは、ハサンさん」
「あぁ……良い夜だな」
なにやら真剣な様子で緊迫した雰囲気をハサンさんが纏っています。心なしか、前より気配と言うか、存在感というか、そんな感じのものが希薄になっているような気がしました。
何かあったのでしょうか? 元々存在感が薄かったのに、このままでは消えてなくなってしまいそうな勢いです。
「何かご用ですか?」
ハサンさんとは昨日共闘関係にありましたが、だからといって二人の仲がとてつもなく良くなったという訳ではありません。少なくとも、何もないのにわざわざ話しかけるような気安い仲にはなってないことは間違いないでしょう。
「あぁ、桜……今宵は、先日の依頼の報酬を貰い受けに来た──」
ますます存在感が希薄になっていくハサンさんが、はやる気持ちを押さえつけてゆっくりと桜ちゃんに言いました。月明かりが桜ちゃんたちを照らします。とても幻想的な雰囲気の中、桜ちゃんはハサンさんの言葉を待ちました。
彼らが望む、その“お願い”を……。
ハサンさんは考えます。残る七人で考えます。
生き残るには、勝ち残るには、望みを叶えるには、どうすれば良いのかを、少なくなった同胞たちで考え抜いていきます。
裏切りか、それとも隷属か。
残された選択肢はそう多くはありません。そしてそれは時間も同様です。
それでもハサンさんたちの意見は割れました。ただでさえ危機的状況なのにこれ以上リスクを冒す意味はあるのか? 現状維持ではダメなのか?
アンノウンと接触したハサンの話では利はありそうですが、やはり危険が多すぎます。最悪、全滅する可能性があるのです。それでは本末転倒でしょう。
結局、割れに割れたハサンさんたちの意思を決定付けたのは、“ある作戦”でした。それはハサンさんたちのマスターのお師匠さま『時臣さん』が立案した、師曰く
しかし、その作戦内容では、多くの分身を失ったハサンさんではどう考えても無理のある作戦と言えました。
既に当初想定していた状況から、かなりかけ離れているのは時臣さんも周知のはずなのに、時臣さんはその作戦の実行に固執します。
時臣さんはとても優秀で隙の無い完璧な魔術師でしたが、それ故にこういった想定外に弱い面がありました。だからこそ、必勝であると信じて疑わないこの作戦の実行を、頑なに支持したのです。
かくして作戦は実行に移されます。ハサンさんが遠坂家を強襲し、殺されることで、アサシンのサーヴァントの敗北を擬装するという作戦が……。
問題はそれを実行する“ハサン”を誰にするかでした。
残されたハサンは七人──基底のザイードですら実行可能だったその作戦は、残ったハサン全員に実行可能です。極論、犠牲になるハサンは誰だろうと構わないのです。
犠牲となるのはハサン一人──その中で、マスターとお師匠さまが選んだのは最も弱いハサンでした。当然の成り行きです。誰でも良いのであれば、最も弱い者を選択するのは必然でしょう。もちろん、ハサンさんにその決定を覆すことなど出来るはずがありません。
そうして、ハサンさんの中で最も小さく幼いハサンは、英雄王に串刺しにされて消滅していきました。
これであと、六人──
もし、マスターとお師匠さまが違う選択をしていたら、少なくとも『最弱』ではなく他のハサンを犠牲にしていれば、運命は変わっていたかもしれません。なぜなら、彼らにとって『最弱』とは、守るべき存在だったのですから……。
「聖杯戦争の約定に従い、言峰綺礼は聖堂教会による身柄の保護を要求します──」
冬木市郊外にある教会で、綺礼くんが今回の聖杯戦争の審判役であり自身の父親でもある言峰璃正さんに、そう申告します。
それを堂々と隣で聞いていたハサンさんが動いたのは、自身のマスターが璃正さんに促され、用意された隠し部屋に入った時でした。部屋には綺礼くんとハサンさん
ハサンさんは、令呪によりマスターへの隷属が強制されています。決して裏切ることは出来ないという慢心が、綺礼くんの心に僅かな油断を与えていました。ハサンさんが同じ部屋にいるというのに隙だらけです。
“それ”を実行に移したのは、自己催眠と精神操作に長けた“ハサン”でした。
徹底的な自己暗示と思い込みにより、マスターである綺礼くんを『敵』であると認識──それでも襲ってくる令呪の束縛を、同じ令呪の魔力で以って強引に相殺します。
ハサンさんが持つその令呪は、キャスターのマスターから剥奪した令呪でした。催眠と令呪の相殺で、隷属から一瞬だけ解放されたハサンさんが狙うは令呪が刻まれたマスターの右手首──音もなくするりと剣閃が煌めき、綺礼くんの右手首は見事に切断されます。
「なッ!?」
綺礼くんが驚愕の声を上げると同時に、斬りつけたハサンさんに令呪に逆らったペナルティーが襲い掛かります。たとえ精神操作で誤魔化したとしても、たとえ同種の魔力で相殺したとしても、令呪の縛りとはそう安々と誤魔化せるものではないのです。
あらゆる間接があらぬ方向にねじ曲がり、全身から血を噴き出して、自己催眠に長けたハサンさんは一瞬にして絶命しました。
これであと、五人──
しかしハサンさんたちの奇襲はこれだけでは終わりません。直ぐさま『気配遮断』で隠れ潜んでいた別のハサンさんが実体化し、手首を切断されて茫然自失になった綺礼くんを強襲しました。
やはり襲い来る令呪の束縛を、やはり令呪の魔力で無理矢理打ち消し、稀代の暗殺者は自らのマスターの暗殺を実行します。
「クッ! な、めるな!!」
しかし、綺礼くんとて歴戦の代行者です。鍛え抜かれた肉体は並のサーヴァントですら凌駕し粉砕するでしょう。
綺礼くんは驚くべき速さで動揺から脱し、残る左腕から一瞬で黒鍵を抜き出すとハサンさんを迎え撃ちます。
数を減らし弱体化したアサシンなど物の数ではありません。しかし、そんな事は他ならぬハサンさん自身が百も承知でした。
「な、んだ、と……」
そう驚きを漏らす綺礼くん。その胸には、ハサンさんの
ハサンさんには綺礼くんの反撃を避ける術などありませんでした。いいえ、そもそも最初から避ける気すら無かったのです。全身を黒鍵で串刺しにされても、このマスターを確実に仕留めるために……。
「ば、馬鹿な……ガハァ」
そう血反吐を吐きぐったりと倒れ込む綺礼くんと、令呪の強烈なフィードバックにより消滅するハサンさん。
これであと、四人──
ハサンさんの裏切り劇はまだまだ終わりません。むしろこれからが本番と言えるでしょう。マスターを暗殺し、消滅までの残る僅かな時間で“彼女”の元に辿り着かなくてはならないのですから。
残された猶予は殆どありません。ですが、長引かさせる“方法”ならあります。
死んでいった同胞に祈りを捧げる暇もなく、さらに三体のハサンさんが出現し、その“方法”を実行しました。入手した令呪の一画と綺礼くんの令呪二画の魔力を、魂食いの要領で吸収し、消滅までの時間を稼ぎます。
そのまま各自全く別の方向に向かって全速力で脱出すると、全身全霊で以って月夜に照らされた夜の街を疾走しました。出来るだけ長く、出来るだけ遠くへ、出来るだけ時間を稼い──
「ガッ!?」
突然、ハサンさんの胸から光輝く宝剣が出現しました。
膨大な神秘と概念が詰まったその宝剣は、一撃でハサンさんの霊基をズタズタにし、一瞬で再起不能に追い込みます。
胸から生えるこの輝きが何なのか理解する暇もなく、宝剣の魔力は恐ろしいほどに膨張し、ハサンさんは何の抵抗も出来ずに粉微塵に爆散し、現世から消失しました。
これであと、三人──
光輝く宝具の攻撃は、逃げ出した他のハサンにも襲い掛かります。
情け容赦のない無慈悲な攻撃を、ただ逃げるしか選択肢の無いハサンさんに、回避する事など出来るはずもありません。一人は宝槍に、一人は聖剣に穿たれ、この世を去っていきます。
これであと、一人──
はたしてハサンさんの能力の特異性は、一度に、複数が、別の場所に、同時に、存在できるという点にあると言えるでしょう。
暗殺現場にいなくても、たとえその場で殺されようとも、たった一人でもハサンが残っていれば、ハサンさんは生き残ることが出来るのです。
生かすべきは『個』ではなく『ハサン』。
たった一人のハサンになろうとも、生き残ることが出来るのであれば、そのためならば自己犠牲を厭わないのが『百貌のハサン』です。それが彼らのあり方であり、それが彼らの戦い方なのですから……。
「今宵は、先日の依頼の報酬を貰い受けに来た──」
かくして──あらかじめ桜ちゃんの側に接近していた最後のハサンさんは、彼女に“百貌のハサン”の願いを伝えます。かつて彼女から誘われ、叶わなかった願いの言葉を……。
「私を、君のPTに入れてくれないか?」
たった一人の幼女と、たった一人の暗殺者の運命の夜は、こうして始まったのです。
黄金に輝くサーヴァントが、誰もいなくなった隠し部屋で息絶えた一人の男を見つめていました。無様で情けない結末だと、その男の亡骸を見て彼は思います。
それでも、中々に愉快な展開になってきた此度の戦争を、さらに面白おかしくかき回すためにも、この愚かな道化師にはまだまだ踊って貰わなくてはなりません。
アサシンの裏切り、そして自身の死と復活──はたしてこの因果は、どんな結末を迎えるのでしょうか? アンノウンなどという珍妙な存在も合わさって、中々どうしてこの現世も飽きさせません。
「さて、馬鹿は死んでも治らんというが、果たして綺礼──お前はどうかな?」
その紅く輝く瞳が、暗闇の中で怪しく揺らめきました。
おお綺礼くんよ! 死んでしまうとは何事じゃ!