朝の日差しが照りつける頃、ポカポカ陽気に暖められて、桜ちゃんは目を覚ましました。
一緒に寝た筈のバディは、何時の間にか何処かに行ってしまったようです。ふかふかで気持ちの良い抱き心地だっただけに残念でありません。ですがまあ、またギサールの野菜をちらつかせてあげれば、直ぐにでも再び現れてくるでしょう。
桜ちゃんは、寝ぼけまなこを手で擦りながら、ん~っと大きく伸びをします。
とても清々しい気持ちの良い朝です。こんなに清々しく目覚めたのは、スゴく久しぶりな気がします。
新しい朝が来ました。希望の朝です。喜びに胸を開き、青空仰いでいっちょ体操でもしたい気分です。
建設途中のビルの中からは、ちらほらと人の気配が感じられます。もちろん敵ではありません。どうやら作業員の人達がお仕事に来たようです。
昨日は色々と忙しかったせいか、桜ちゃんは思っていた以上に眠っていたようです。このままここに居ては、作業員のお兄さんたちを困らせてしまうでしょう。幼女が隠れていたなんて知られたら、きっと大問題です。
桜ちゃんはそう考えると、お兄さんたちに見付からない様にこっそりビルを出ていくのでした。
朝の『新都』に降り立った桜ちゃんは、とにもかくにも、昨日と同じ様に街の中を散策する事から始めました。もはやこれは日課と言っても良いでしょう。実際はまだ二日目なんですが、三日坊主にならないよう祈るばかりです。
街の中に──少なくとも桜ちゃんの知覚範囲内に──は、ハサンさんの気配はありません。
昨日の戦いで全部倒したのか、それとも冬木から逃げてしまったのか、どちらにせよ、もう居ないようであるならば、これ以上追いかける必要もないでしょう。
冬木に潜む事件の影は、桜ちゃんの活躍により、ようやく一つ解決を見たのです。あと残るは『連続誘拐殺人事件』と、『図書館事件』、それから『未確認飛行物体』でしょうか。まだまだ予断は許されない状況です。
これからどうしよう……桜ちゃんは街を散策し、困っている人たちの悩みを解決しながら、今後の予定を考えていました。
(今日は、まずイスカンダルおじさんの所にいこう)
そう思っていた桜ちゃんですが、あいにくその予定は直ぐに変更せざるを得なくなりました。
今朝から街を包み込む雰囲気が、暗く、不穏で、重苦しく感じられるのです。
『白い仮面事件』を解決し、『図書館事件』も解決間近だというのにも関わらずにです。一体、どうしたというのでしょうか?
流石の桜ちゃんも少しばかり不安になります。
もしかして、昨日の桜ちゃんの行動は逆効果だったのでしょうか? あるいは何か選択肢を間違い、取り返しの付かない過ちを犯してしまったのでしょうか?
悩める桜ちゃんに、街の人は口々に“あるニュース”の事を教えてくれました。街の人達だけではありません。捨てられた新聞や、流れるラジオ、お店の中のテレビたちも、全く同じニュースを伝えてきました。
『深山町のとある一家が惨殺された』
桜ちゃんが最も危険視していた『連続誘拐殺人事件』の犯人が、遂に動きだしたのです。
桜ちゃんは後悔していました。
冬木に潜む事件の中で、『連続誘拐殺人事件』が最も危険だと、桜ちゃんにも分かっていた筈なのに、みすみす次の犯行を許してしまったからです。
こんな事では、事件屋失格です。
桜ちゃんは名誉挽回の為、そしてなによりも冬木の平和の為にも、早急に事件を解決しなければなりません。誘拐殺人犯の魔の手は、もう直ぐ側まで迫っているのです。
桜ちゃんは予定していた全ての行動を変更し、真っ先に事件があった現場に急行しました。
現場は、躍起になって探さなくても直ぐに判明しました。ニュースにもなっていましたし、なにより人影が多くなっています。これは野次馬でしょうか?
事件のあったお家には、既にお巡りさんやテレビの人達も沢山いて、周りは関係者以外は立ち入り禁止にされていました。殺人事件があったのですから、当然の対応でしょう。
困りました。桜ちゃんは思い悩みます。これでは事件の捜査が出来ません。
いくら桜ちゃんが『冬木の事件屋』を自称しているからといって、そんな事を知らないお巡りさんたちからしてみれば、所詮ただの幼女でしかありません。
どこかの子供探偵の様に、殺人現場に潜り込んで事件を解決! なんて事は出来ませんし、昨日まで絶賛引きこもりの幼女だった桜ちゃんに、警察関係とかにコネがある訳もありませんでした。
大手を振って事件の調査をするのは、桜ちゃんの見た目や人間関係から考えて、不可能な話でしょう。
しかし、かと言ってお巡りさん達が居なくなるのを待っていたら、犯人は何処か遠くに逃げてしまって、取り返しのつかない事になってしまうかもしれません。そうなってしまってからでは遅すぎるのです。
どうにかならないかな、と桜ちゃんが考えていると、“女の子”から今の状況にうってつけな手段が提案されてきました。
ふむふむ、確かにそれは理にかなっていると言えるでしょう。姿が見えなければ、見た目も人間関係も関係ありません。実に完璧な理論と言えるでしょう。
早速、桜ちゃんは物陰に隠れ、イメージを開始しました。
今回イメージするのは、潜入に適した
その名もずばり──『忍者』です!
桜ちゃんが“それ”をイメージすると、桜ちゃんの着替えは一瞬で終わりました。
衣装はその名の通りの忍装束に、そして腰には二本の忍者刀。どっからどうみても、みんながみんな『忍者』と考える忍者姿に、桜ちゃんは変身したのです。
着替えを終えると、桜ちゃんはそのまま流れる様に『かくれる』を使いました。すると桜ちゃんの姿はみるみるうちに透明になり、遂には他の人には全く見えない状態になってしまったのです。
この状態になった桜ちゃんを発見するには、レンジャークラスの『みやぶる』というスキルが必要になりますが、現在このスキルは失われて久しいスキルです。なので現状、かくれた桜ちゃんを見つける手段は皆無であると言えるでしょう。
完全に姿を消した桜ちゃんは、堂々と正面から殺人事件のあったお家へと入って行くのでした。
殺人事件があった現場はそれはもう悲惨な場所でした。
部屋中いたるところに血が飛び散り、家具は散乱、それに未だに血の臭いも漂っています。二階には、もはや回収不可能なぐらいに細切れになった肉片が散らばっていました。とてもじゃないですが、人間業とは思えない酷く凄惨な光景です。
桜ちゃんは“それ”を目撃した時、気持ち悪さよりも悔しさが込み上げてきていました。
危険だと分かっていた。危ないと分かっていた。それなのに……それなのに……間に合わなかった。
さぞかし痛かったでしょう。さぞかし苦しかったでしょう。さぞかし無念だったでしょう。
殺された人達の事を思うと、桜ちゃんは悔しくて悔しくて堪りませんでした。
昨日、ハサンさん達を追うのに躍起になっていなければ、『図書館事件』なんかよりも真っ先に誘拐殺人犯を追っていれば、ハサンさんたちとの戦いが終わって眠ってなんかいなければ、こんな事にはならなかったかもしれないのに……。
後悔に桜ちゃんが震えていると、桜ちゃんは自身の感覚に何か引っ掛かるものを発見しました。
(これは……魔力?)
それを認識した瞬間──桜ちゃんの脳裏に強烈なイメージが流れ込んできます。それは、図書館の時と全く同じ現象でした。
引き裂かれる血肉、苦しみ悶える男性、泣き叫ぶ女性、脅える子供“たち”、その中で僅かに笑みを浮かべる青年。流れる血で魔方陣を描き、何やらブツブツと呟いています。
やがて魔方陣から光が溢れ、“ソコ”から何者かが出現しました。ひどく不気味で、まるで魚の様に眼が突き出た奇妙な“男”。イスカンダルさんやハサンさん達と似た、嫌な雰囲気を纏っています。
脅える子供を“男”が解放しました。
ですがそれは自由への解放ではなく、酷く深い絶望と裏切りに染まった“死”への解放でした。
青年が何やら興奮した様子で何かを叫びます。“男”もそれに応えて、不気味な顔を更に邪悪にさせて笑みを浮かべました。
そして、その全てを目撃して、桜ちゃんは現実へと戻って来ました。
……もはや何も言うことは無いでしょう。
『事件屋』として、いえ、人として絶対に見過ごせない光景を、桜ちゃんは目撃したのです。あの魚の様に歪んだ顔を、桜ちゃんは決して忘れることはないでしょう。
やるべき事は決まりました。一刻も早く、この邪悪な殺人犯たちを見つけ出さなくてはなりません。もはや少しの猶予も有りはしないのです。
桜ちゃんは殺人現場を出た後、全力でもって殺人犯達の後を追いました。
頼りになるのは街の人達の目撃証言と、桜ちゃんの知覚能力のみです。必死に街中を捜索し、手掛かりを探します。
ですが、殺人犯はまるで煙の様に姿を眩ませ、街の人達の目からも桜ちゃんの知覚範囲からも見事に逃れていました。いけません、このままではヤツらに更なる凶行を許す事になってしまいます。
はやる気持ちを必死に抑えながら、桜ちゃんは捜査を進めていきます。
しかし、これといった有益な情報は見当たりません。どうやら犯人は、相当隠れるのが得意なようです。
ハサンさんの時の様に一度見つけられれば話は別なのでしょうが、そもそもハサンさんを見つけられたのもほとんど偶然みたいなものです。見つけられなければ、見つけられないのです。
同じ様な偶然が再び起きるのを待っていられるほど、今は悠長に構えていられる状況では無いでしょう。
桜ちゃんは解決策を模索します。
もう夕暮れが近いです。残された時間はあまりないでしょう。
人手が、人手が足りません。何か手助けが必要です。ですが桜ちゃんに友達はいません。どうしたら良いのでしょう。
ああ、どこかそこら辺に、前々から冬木に潜んでいて、人数も沢山いて、姿を隠すのが得意で、でも桜ちゃんには見つけやすくて、情報収集が得意な、そんな感じの“助手候補”はいないものでしょうか……。
今回の聖杯戦争にアサシンとして召喚された『百貌のハサン』さんは、ずっと大きな不安と悩みに苛まれていました。
何故かというとハサンさんは、どんな願いでも叶えられるという千載一遇のチャンスを手にしていながら、召喚された当初からずっと不幸続きだったからです。
召喚したマスターがいきなり、「叶えたい願いは特に無い」とカミングアウトをしてきたのを皮切りに、令呪で隷属を強制されたり、別陣営の勝利の為にこき使われたり、あからさまに捨て石にされそうな作戦を提案されたり、そりゃあもう散々な感じでした。
でもそれ位なら別にいいのです。それ位ならまだ我慢できる範囲内です。
ハサンさんも元々はプロフェッショナルですから、そこら辺の諸々な事情は十分許容範囲内です。
アサシンというクラスが所謂外れクラスであることも重々認識していますし、自分の能力を鑑みれば提案された作戦は充分に理にかなった作戦でもありました。
少なくとも、マスターがハサンさん達の運用を間違ったという事ではないのです。だから、これ位なら渋々ながらも納得できました。
ですがアンノウン、貴女はダメです。いきなり『気配遮断』をみやぶるとか卑怯すぎるでしょう。
お陰様で今ではハサンさんの信頼は完全に失墜。八十体あった群体も残り七体と数を減らし、事実上、聖杯戦争の最初の敗者という状況になっていました。
もう、ここから逆転満塁ホームランを打てる可能性は殆ど無いでしょう。
あとはズルズルとマスターにこき使われ、適当なタイミングで自爆するか、どこぞのライダーに特攻するかしか道は残されていません。
今更マスターを乗り換えようにも、使い物にならなくなったハサンさんを欲しがる魔術師はいないに決まっています。消された分身も、時間が経てば元に戻るという訳じゃないのですから。
もはやハサンさんのお先は真っ暗でした。戦う意欲も無くし、“死ね”という命令が来るまで暗闇で佇むばかりです。
ですがそんなハサンさんに追い打ちを掛けるかのように、さらなる不幸がハサンさんに訪れたのです。
「良かった、やっぱりまだ残っていたんですね」
ハサンさんの頭上から、声が聞こえます。それにバサバサと何かが羽ばたく謎の音もです。凄く嫌な予感がします。
見たら死ぬ、見たら死ぬ、と直感が訴えてきます。
それでもハサンさんは勇気を振り絞って、顔を上げました。何故か死んで逝ったはずの七十三名の同胞達がサムズアップした気がします。
かくしてハサンさんが見たものは──まるで星と同時に誕生したかのような神秘を宿す原初の“竜”と、それに跨がるアンノウンの姿でした。
「こんばんは、ハサンさん。良い夜ですね」
アンノウンはそう言いましたが、ハサンさんには良い夜になりそうな予感はちっともしませんでした。
ほ、ほら昨日の敵は今日の友って言うし……