FGO Concerto   作:草之敬

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ヴォークルール城塞にて

 

 

 A.D.1431フランス。

 イングランドとの百年戦争の趨勢を傾けた激動の時代。

 特異点はこの時代のどこか――「ありえない存在」の近くに存在する聖杯によって歪められている、と思われる。それを見つけ出し、回収、あるいは破壊するのが俺たちの目的だ。

 いざレイシフト、なぜだかもう懐かしさすら覚える草木の香りに包まれた俺たちを待っていたのは、空を喰らうかのような光の輪。ドクターやカルデアスタッフたちは口々に観測結果やそこからの推測を語っていたけれど、俺にはいまいちピンと来なかった。

 あるいは、何も知らなければ、それを綺麗だと言えていたかもしれない。

 ただ、人理焼却なんていう未曽有の事態を前にしてしまえば、この胸に去来する感情はうすら寒い、ただひたすらに悍ましい、押し潰されてしまいそうな――不安。

 その不安を肯定するかのように、丘から見下ろした場所にあった村が黒煙をあげて俺たちを迎えてくれた。座標からその村が「ドン・レミ村」であることがわかり、同時に1431年に村が全焼したという記録も、ましてや空に光輪があったという記録もないことがわかった。

 つまり、俺たちが来た時にはすでに歴史が大きく変わってしまったあとだということ。

 だけど、間に合わないわけじゃない。これからできることは必ずあるはずだ。

 その意思をドクターらに伝え、指示を仰げば、ならまず情報収集をするべきだと方針を示してくれた。具体的には1431年のフランスに「存在しなかった人物」か、それとも「起こり得なかった事象」を探すことになった。

 

 

 

     §

 

 

 

 …………ドン・レミ村を発ってから徒歩で約七時間。

 ドクターによれば移動距離は実に20kmを越えるものだと聞かされた。現代のように道路としてしっかり舗装されているわけでもないし、なにより俺自身が長距離を徒歩で移動することに慣れていなかったことで休憩を挟みつつしていたためこんなに時間がかかってしまった。

 もちろん――というとなんだか言い訳がましいけれど、強行軍を提案しなかったわけじゃない。だけど、そのとき反論したのは意外なことにキャスターだった。

「焦る気持ちはわかるけど、今慣れないことをして、いざというときに動けなくなっちゃったらその方がマズイよ。無理は駄目。今はまだ、無理を通す時じゃないよ」

「……ごめん。ありがとう……その、キャスター」

「どういたしまして。さ、行こう」

 そんなやり取りが出発前にあったわけである。

 話は戻って現在。フランスはロレーヌ地方、ヴォークルール。ヴォクラールとも。

 この場所には城塞があり、避難民はもちろん、周辺の戦力もここに集まるだろうと予測しての目的地設定だった。人が集まる場所には情報も集まる、というわけである。人生でそういったことを考えたこともなかった俺としては、なるほどと勉強になった。

 ヴォークルール城塞の外見は、言いにくいことだけどヒドイものだった。内を守るための城壁は何ヵ所も崩れ、物見櫓や城門、砦とどこを取ってもボロボロだった。ただ城塞だったからドン・レミ村のようにはならなかっただけ、という感じだろうか。

 人の出入りはそれほど厳しく取り締まっていないのか――俺たちからすればありがたい話だけど――すんなりと城塞内に通してもらえた。

 そして直面したのは、より残酷な光景だった。瓦礫のない比較的平坦な場所には傷だらけの兵士たちが項垂れて待機していて、中には重傷を負って呻き声を上げ続ける人の姿もあった。

 直視、できなかった。

 特異点F、冬木市では、すでに人の姿はなかった。

 燃え盛る街並みと崩れ放題のビルや人家があるだけで、人の気配はまったくなかった。

 でも、ここにはそれがある。

 傷つき倒れた人たちがいる。今にも死んでしまいそうな――素人目にももう助からないだろうと思われるような人も、いるのだ。

 石畳の上に寝転ぶ兵士の下に、血だまりができているなんて当たり前だった。

 雨が止んだ後の道のように、血だまりが散見できる。むせかえるような血の臭いに、空きっ腹から喉を焼く酸が昇ってくる。それをなんとか飲み込んで、脇を固めるマシュとキャスターの二人に手分けして情報を集めようと提案した。

「はい。それが効率的な選択であると思われます」

「うん、私も賛成。……そうだね、じゃあマスターは民間人を中心に聞き込みをしてもらえるかな。私とマシュちゃんで兵士さんたちの方を回ってみるよ。マシュちゃんもそれでいいよね?」

「はい。確かに、その方がよろしいかと」

「……どういうこと?」

 自身の性別が男なので男だけしかいない兵士の人たちを中心に民間人の人たちにももちろん聞き込みをしようと考えていたんだけど、キャスターとマシュは俺がそう言う前に「そちらは私たちが担当する」と言ってきた。

 ハッキリと聞き込む相手も分担することが単純に疑問だったので素直に聞くと、

「危機管理だよ」

「はい。キャスターさんのおっしゃる通りかと。マスターは特異点をひとつ乗り越えたとはいえ、まだ魔術師としても、そうでなくとも身体能力はあくまで平均的な男子高校生の域を出ていません。私もまだ未熟なデミ・サーヴァントではありますが、サーヴァントです」

「もし何かのきっかけで襲われたりしたとしても、サーヴァントの私たちならどうとでも切り抜けられるから」

「なるほど。確かに、その通りだ。情けないけど……」

「そんなことは……!」とマシュ。キャスターは曖昧に笑うだけだった。

「ってことは、民間人相手だからって襲われないとは限らないか。うん、俺も気を付けて情報収集するよ。ヤバそうだったら大声あげて逃げるから、そのときはよろしく!」

 情けないついでに、開き直ってそう言うとマシュは生真面目に、キャスターは微笑ましそうに返事をくれた。

 とりあえず一時間ほどと時間を決めて、さっそく解散という流れになった。

 言われた通り、マシュとキャスターには城塞外周の兵士たちを中心に聞き込みをしてもらうことにして、俺は城塞内部にいる避難してきた民間人たちを相手に聞き込みを始めようと思う。

 城塞の中に入ると、そこらじゅうに身を寄せ合って固まる避難民たちが散見できた。

 兵士に優先して応急物資が配当されているようで、兵士たちには見られた治療跡が民間人の中では見かけることが少ない。傷そのままを剥き出しにして、青い顔を浮かべる人もいた。

 閉鎖された空間だからか、外以上に血の臭いと埃の臭いが混じっていて目眩を覚える。

 少ない呼吸数でなんとか凌ぎつつ、話を聞けそうな人はいないかと周囲を見回す。

 とはいえ、情報収集――聞き込みなんて普通の男子高校生をしていたらやる機会なんてまあ、ない。誰に聞けばいいとか、どうやって聞けばいいとか、そのあたりが実はよくわかっていない。なんならマシュかキャスターのどちらかについてきてもらえばよかったか、と思っていたところで、俺が、ではなく、俺に声がかかった。

「もし。あなた。誰かを探しているの?」

「え」

「まだ奥の広間にも避難してきた人たちはたくさんいるわ。もし誰かを探しているなら、そちらにも行ってごらんなさい。あなたの探し人が無事でありますように……」

「あ、いえ、誰かを探していたというわけではないんです」

「あら、そうでしたか。それはよかった。……いえ、ごめんなさい。浅慮でした。もしかしたらあなたの身近な人が亡くなっているかもしれないのに、私ったら」

「あ、そ、それも大丈夫です!」

 言うことすべてが裏目に出ている様子のご婦人に、俺は慌てて首と手を横に振った。

 ただちょうどいい、とこちらの事情を話そうとしたところで、はく、と息と言葉を一緒に飲み込んだ。改めずとも本当のことをしゃべってもただの頭のおかしい人になってしまう。ここはある程度話を合わせつつ、なんとなく状況を探ってみるとしよう。

「それにしても、ここにいる人みんな襲われたんですよね? ついさっきこの城塞に到着したんですけど、思った以上にヒドイ状況で、驚いていたところだったんです」

「まあ、そうだったの。ええ、そうね。みんな、故郷を追われてしまったのよ」

 我ながらたどたどしいしゃべり方にはなってしまったが、それっぽいことを言って話を続けることができた。よくよく考えずとも嘘は言っていないので罪悪感も少ししかない。

「見たところお若いけれど、家族の近くにいなくても大丈夫かしら。こんなときよ、誰でも不安だわ。さあ、行っておあげなさい」

「あ、いえ、その、あの、ひとつ、いいですか?」

「なにかしら」

 かなり優しい人のようで、しかしそれが裏目に出そうになったため、慌てて待ったをかける。ぐるりと周囲を見回してから、ご婦人をまっすぐに見つめる。ただいざとなると、どう言えばいいのかがわからない。

 あー、とかうー、とか、言い淀んでから、正直に聞いてみることにした。

「俺たちは、一体なにに襲われたんです?」

「っ――」

 俺の言葉に、ご婦人は瞠目した。

 今度は彼女が言い淀んでしまった。困らせるつもりはなかったのに、と大丈夫かと声をかけようとしたときだった。

「ワイバーンだ! 俺たちはみんなあの竜に襲われたんだよ! 間違いない!」

 声を荒げたのは、すぐ近くで俺たちのやりとりを聞いていた初老の男性だった。

 一度荒げた勢いは止まらず、俺に詰め寄るようにして男性は続けた。

「それ以外に何があるっていうんだ? どいつもこいつも食い散らかされて、あいつらの吐く炎で焼かれて、爪でズタズタに引き裂かれた!」

 唾が飛ぶほどの剣幕で、俺を壁に押し込んでくる。

 おそらく害意はないと信じたいところだけど、あまりに勢いにタジタジになってしまう。

 それにしても、ワイバーンとか竜だとか――今更とはいえ――ちょっと現実味がない。いやまあ、キャスターが実際に俺の目の前にいる、という事実だけでもう毎日目眩がしそうなほどなんだけども。

「あの竜どもは地獄の悪魔だ! 兵士どもが言ってやがったぞ、あの竜の群れに、誰がいたと思う!? ここにいるはずがないお人がいたっていうじゃねえか!! それが救世主様でなければ、俺たちを襲う竜を従えていたっていうなら、そりゃもう悪魔だ!! そうだろうが!?」

 誰を指してそう言っているのかがわからないが、どうやらワイバーンたちは誰かに使役されて村々を襲っているらしい。この男性の口振りからして、おそらく周辺の村はワイバーンだけで、こういった大きな城塞にはその本人も現れたのだと思われる。

「この国が! あの方を救わなかったからだ!」

「俺たちはこの国諸共焼かれるんだ! 竜どもに食い荒らされて、終わるんだ!」

 最初の男性を皮切りに、周囲の人々も声を上げ始める。

 どんどん熱量をあげていく悲鳴に、一歩も動けなくなる。単純にわけがわからなかった。俺自身、まだワイバーンと対峙していないからなのかもしれない。彼らが嘆くほどの感情にまだ直面していないからなのかもしれない。

「あんなの、人の死に方じゃあないッ!」

「同じだ! どいつもこいつも同じように殺されるぞ……っ!」

「悪魔だ! アア、竜の魔女! 竜の魔女が来る……!!」

「どうすれば助かるんだ!? どうすれば、なあ!! アンタ!!」

「ひっ――」

 がっし、と胸倉に縋りつかれ、思わず引き攣った声をあげてしまう。

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃに潰れた顔のまま、まだこんなガキにさえ、縋らなければならないほどの感情が――絶望が、俺の魂まで凍えさせていく。

「やめなさい、まだ子供ですよ!」

 その時だった。

 俺の胸に縋る男の手を、先ほどのご婦人が払った。

「さああなた。外に出ましょう。しばらくすれば、すすり泣くほどには小さくなります」

「あ、ああ、はい」

 ご婦人に手を引かれ、俺は来た道を戻ることになった。

 凍えそうだった魂が、彼女の手の温度にじんわりと溶かされていくような気さえした。

 こんなことになってしまってから、会いたくても会えなくなった人を、どうしても思い出してしまう。

 母さん……。

「……っ、ぐ、う」

「ええ、怖かったわね。ごめんなさい。私が話しかけてしまったから……」

「ちが、あなたは……なにも悪くない……」

「いいのよ。そうしておきなさい。あなただって、何も悪くないわ」

 嗚咽が漏れて、涙がにじむ。

 どうしようもなく、寂しい。俺を知っている人が――ああ、いるけれど――誰もいない。

 そのことがどうしようもなく寂しくて、寒くて、心細い。

 ただ、なんでもない日常が、あんなにも遠く輝かしいなんて知らなかった。

 おはようと言える朝と、友達となんでもない話をする時間。おやすみと言う家族のいる夜にも、今はもう、戻れない。

 それは形の違う絶望だった。

 あまりにも死が近すぎて、悲観するのは彼ら。

 あまりにも日常が遠すぎて、悲観するのは俺だ。

 

 ――遠のいた日常を、それでも背に進んだヒトを俺は知っている。

 

 だから。

 だからまだ、止まれない。

 唇を噛んで嗚咽を止める。意識して大きく呼吸して、しゃくりあげる胸を鎮める。

 そんな俺の様子に気付いたご婦人が、あら、と声をあげた。

「……強い瞳。あの日のジャネットと似てるわ」

「……強くなんか。ただ、知ってるだけですよ」

「知っていても、強くあれないものよ」

 まだにじむ視界のまま、目の前の女性を見る。

 少しだけ無理をして、歯を見せて笑った。なんとなく、その言葉が嬉しかったから。

「ああ、なんだか、すごく遠回りをした気分ね。私はイザベル。あなたは?」

「俺は……俺は立香。立香です」

「リツカ。そう、リツカっていうのね」

 そういうとご婦人――イザベルさんも微笑んでくれた。

 少しだけ落ち着いた俺たちは、近くの瓦礫に腰かけて(もちろん俺の上着は彼女の敷物にした)雑談を交わした。

 俺のこと。彼女のこと。

 俺の同級生や、今一緒にここに来ている仲間のこと。

 彼女の村――ドン・レミの普段の生活や、ご近所さんのこと。

 お互い、そういう話をするときはどこか寂しそうな声になってしまったけれど、でも盛り上がった。楽しかった。欠けていたなにかが埋まっていくような、そんな気さえした。

 それがたとえ、ぱちんと弾ける泡のような埋め合わせだとしても。

「そういえば、ジャネットって誰ですか」

「ええ……私の娘よ」

「娘さん……」

 もしかして、聞いてはいけないことだったかもしれない。

 この竜の襲撃で、亡くなっていたりしたら……。そんなことを思えば、察しのいいイザベルさんは慌てたように言葉を続けた。

「いいえ、娘は竜に殺されてはいないわ」

「そう、ですか……」

「娘はね……いえ、ごめんなさい。まだ、私は、この話ができるほど、受け入れられていないの。だから、ジャネットのこと、リツカには伝えられそうにないわ」

 竜に殺されてはいない。

 それはつまり、竜以外の何者かに……。

 やはり、聞いてはいけないことだった。ごめんなさい、と頭を下げると、目尻に涙を浮かべたイザベルさんは、おかしそうに笑って泣いていた。

「あなたは悪くないのよ。なにも、悪くないの」

「でも……」

 その先の言葉は紡げなかった。

 俺の唇に、彼女の人差し指が当てられる。シー、といたずらっぽい笑みが浮かぶ。

「強い瞳の子。リツカ。あなたは、あなたの信じる道をいきなさい」

「え」

「あなたの瞳が見る景色と、心で感じる景色をチグハグさせては駄目よ」

「……はい。ありがとう、イザベルさん」

 それじゃあ、私は戻るわね、とイザベルさんが立ち上がる。

 服もありがとう、と丁寧に畳んで俺に渡してくれた。

 それを受け取って、もう一度、ありがとう、と口にする。

 イザベルさんを見送ると、まるでそれを待っていたかのようにマシュとキャスターが戻ってきた。ちょうど一時間ぐらい経っていたらしい。

「有益な情報を得られました、マスター」

「……マスター、なんだかここに来る前よりも顔が頼もしいよ」

「……そうかな。そうだと、いいんだけど」

「マスターはいつだって頼もしいです」

「ありがとう、マシュ。キャスターも」

 そういえばあんまり情報収集らしいこと、できなかったな。

 少し申し訳なさもありつつ、俺は二人の話に耳を傾けるのだった。

 

 

 

     §

 

 

 

『やあ、みんなのダ・ヴィンチちゃんだよ~。情報収集の成果はどうだい?』

「あれ、ダ・ヴィンチちゃん? ドクターはどうしたの?」

『つい今しがたベッドに叩き込んできたところさ。まったく、勤勉なサボり癖をどこに置いてきたのやら、ずっと気を張り詰めていたからね』

「あはは……なるほど」

 どうやらドクターは俺たちのことを必死にサポートしていてくれていたようだ。

 そのせいでダ・ヴィンチちゃんに無理矢理休憩させられているようだけど、俺もそれを聞くことができて少しホッとしている。

 心配してくれているのはありがたいけど、まだまだ走り始めたばかりだ。

 初めての正式なレイシフトだってことはわかっているけれど、これからまだ続く旅路に付き合ってもらわなくちゃいけないんだ。……と、まあ、そこまで偉そうに言えた立場じゃないんだけども。

 俺だってこのフランスに来てから強行軍しようとしたりとしているわけで、キャスターに窘められたほどだ。だから、きっと、教えられたこの気持ちを、ドクターにも届けたいと思うのは間違いじゃないはずだ。

「ダ・ヴィンチちゃん、ドクターにはまだ無茶する時間じゃないからって伝えてほしい」

『ああ、確かに伝えよう。……さて、それで情報収集の方だけど』

「はい、ダ・ヴィンチちゃん。今回情報収集したところ、有益な情報が得られたと確信しています。共有のため、ただいまより報告します」

『頼むよ、マシュ』

 まず、マシュが報告したのはドン・レミ村襲撃の真相だ。

 襲撃犯は飛竜、ワイバーン。およそ成人男性の二倍近い体長に、翼長に至っては五メートルを越える個体の〝群れ〟だ。口からは人間を容易く炭化させる炎弾を吐き、至近距離の羽搏きは鋭い刃物に撫でられたような裂傷を生む。

『そりゃあなんとも、面白くない話だね』

「どういうこと?」

『まずその戦闘能力も脅威だが、そもそもの話として、1431年のフランスに竜は存在しない』

「!」

 その時代に存在しない〝モノ〟。ワイバーンによる襲撃という〝事象〟。

 これは確かに、核心へ迫る事実なんだけど……面白くない、とは。

『魔術世界における〝幻想種〟……人間の持つ神秘では尋常の手段では決して敵うことのない生物のことを総称するものだが、竜というのはその最たる存在だ。あらゆる神話、英雄譚で強力無比な存在として描かれ、ゆえにそれを上回った命には英雄の称号が贈られている。いわゆる竜殺し、ドラゴンスレイヤーの逸話を持つ英雄というやつだね』

「竜っていうのはそれだけで力のある言葉だよ。あらゆる言語の表現で最上級のものとしても扱われるそれが実在するとなれば、もちろん強力な敵だっていうのは想像に難くないことでしょう、マスター?」

「ああ、なるほど。確かにそう言われれば」

 一般市民代表みたいなところのある俺でも、面白くないのは理解できる。

 キャスターの言葉も、納得できるものがある。漫画とか小説とか、読んでいてもちょくちょく目にする言葉だし、存在だ。どの物語でもとにかく強いことが強調されていて、それを倒した登場人物が一目置かれる実力者だというのは定番のひとつだった。

 あとはとにかく技名にも入ってることが多い気がする。

「ドン・レミ村だけではなく、このヴォークルール城塞にも、他の村にもワイバーンが襲撃したそうです。ドン・レミ村ではあまり観察する余裕はありませんでしたが、この城塞の崩落跡を見ると、確かにワイバーンの語られたスペックであれば充分可能な破壊であると推測できました。加えて巨大な獣のものと思われる爪痕や、城塞の一部では炎弾の着弾点と思われるものも確認できました」

『ふぅむ。聞いた限りでは、ワイバーンがなぜ発生しているのかがわからないな。思うに、何か、ないし何者かが聖杯を満たす魔力の一端でワイバーンを作り出したと考えるのが妥当だと思うんだが、そのあたりについて何かわかっていることはないかい?』

「それについては、この城塞の兵士さんたちが詳しく話してくれたよ。あとはマスターが確認した中でも避難民にも噂が広まっているみたいだから、信憑性は高い――というよりも、今はそれを頼りにするしかないって状況だね」

『なるほど、それでその噂というのは?』

 竜を使役する人物がいる、という噂。

 兵士たちが確かなものとして、目撃したという人物。

 いるはずのない、すでに死んだはずの人物が蘇ったという奇跡。あるいは悪夢。

「〝オルレアンの乙女〟聖女、ジャンヌ・ダルクの復活です」

 その名前は、俺でさえ知っていた。

 ただ、なんとなく知っていたというだけで、名前だけの印象であれば「凄い人」くらいしかないのが申し訳ないところだ。

 マシュ曰く、フランスの国民的英雄で、異端審問で魔女と断じられながらその死後裁判がもう一度開かれ、異端であるという事実は無根となり、聖人として名を連ねた「聖女」であるという。

 また、フランスとイングランドの百年戦争の趨勢を傾けた人物の一人で、従軍経験にも富んだ武人でもあるという。佩剣を抜かなかった、あくまで人は殺さなかった、などなど聖女然とした逸話があるらしいんだけれど、このあたりの話は事実かどうかわからないらしい。

 そしてその軍事行動を発端として、イングランドの捕虜となった彼女は異端審問にかけられ、最後には火刑に処されてしまった、という話だ。このあたりはぼんやりと歴史の授業で習った覚えがある。

 そして、つい数日前、その火刑が行われたというのだ。

 つまり、ジャンヌ・ダルクはもうこの世にはいない。灰となった彼女は蘇ることのないようにとイングランド軍によってセーヌ川へと葬られたはずだ、とダ・ヴィンチちゃんが補足する。

 その彼女が復活し、竜を従え、イングランド軍を撤退へ追い込み、その後祖国フランスを食い荒らしている、という話だった。具体的にはフランス国王であるシャルル7世を殺害し、国家機能が麻痺した隙を狙ってオルレアンを占拠。そこを拠点として現在は各都市を襲撃中……というわけである。

「ここに来たのは偵察か斥候だったんだろうね。各地で抵抗はあるけれど、戦端が開かれれば、そのあとはもう一方的な虐殺に近い状況みたい」

 キャスターがこの城塞の状況から読み解きながら、追加で補足する。

 この惨状をもたらしたのが、ただの偵察……? 悪い冗談としか思えない。

『しかしこれで、目指すべきものがハッキリとしたね。その時代にいないはずの竜、ワイバーンを使役する、死んだはずのジャンヌ・ダルク。となれば――』

「彼女が聖杯の所有者である可能性が極めて高い、ということですね」

『その通り』

 指針は決まった。

 当面の目的地はジャンヌ・ダルクが占拠したというオルレアン。そしてジャンヌ・ダルクが所有しているものと考えられる聖杯の奪取。道中にはワイバーンの脅威もあるが、できるかぎり接敵は避け、こちらの消耗を軽減していくこと――ダ・ヴィンチちゃんはそう締め括った。

「ジャンヌ・ダルクを見つけ出して、こんなことはもう、終わらせなきゃ」

『――藤丸クン!』

「えっ、はい!?」

 突然声を荒げたダ・ヴィンチちゃんへ意識を向ける。

 マシュとキャスターもそれは同様で、その声の鋭さに緊張が走る。

 と、同時、城塞の櫓から突き刺すような鐘の音が響いた。

『よく聞き給え。現在地点から1km先に大型の生体反応が多数確認された。わかるね?』

「っ、ワイバーン!?」

 にわかに騒ぎが広がる城塞内部でも、その名が叫ばれ始めた。

 兵士は迎撃に出ようと手に弓矢や槍を持ち出し、外に出ていた避難民は城塞内部へと駆け込んでいく。どうすべきか判断をくだせず数秒立往生していると、肉眼でもワイバーンの姿を捉えられた。

 そう、思った瞬間だった。

 ワイバーンから何かが放たれ、猛烈な速度で城塞へと迫ってきた。ゆるやかな放物線を描きながら、物見櫓へ着弾――そして、大爆発した。物見櫓だった塔はその半ばから吹き飛ばされて、ものの見事に粉砕された。

「な――」

 ド。と、騒ぎが大きくなる。

 兵士らしい動きをする者が多い中、ただ恐怖に囚われる者もいた。

 だからといって、ワイバーンは区別しない。大爆発に続いて飛来したのは、ワイバーンそのものだった。無数の翼が空を覆う。城塞には影が落ち、ずるりと己の体を撫でられるたびに怖気が走る。

「マシュ、キャスターっ! 戦闘準――」

『ダメだよ。却下だ。ここでの戦闘は認められない』

「なんっ、なんで!?」

『一から理由を説明してもいいが、緊急事態につき端的に伝えよう。聖杯を回収し、特異点を修復すれば、狂った歴史はなかったことになる。つまり、今目の前で誰かが死んでも、歴史的に痛痒は一切ない。ゆえに、救助を目的とした戦闘はこの場では許可できない。この時代で死んじゃダメなのは君たちだけだよ』

「な、に、言ってるんですか!?」

『マシュ、キャスター、わかってくれるね? ここは離脱が賢い選択だ。サーヴァントの膂力なら――ああ、いや、キャスターちゃんは腕っぷしはそこまでなかったね。マシュの力なら藤丸クンを抱えて逃げることができるだろう? やりたまえ』

「マシュッ……!」

 思わず、怒りをにじませた視線をマシュに送ってしまう。

 俺がその気でも、マシュがダ・ヴィンチちゃんの命令に従ってしまえば俺にはもう、どうすることもできない。ここでただ、なにもかもから目を背けて、逃げてしまうことが賢い選択だとしても。

「マスター、わ、私は……」

 だが、マシュは迷ってくれていた。

 俺よりもずっと賢くて合理的な彼女のことだ、きっと賢い選択というやつに心のどこかで同意するところがあるのかもしれない。それは彼女の心の中にしかないから俺にはハッキリとしたことはわからない。

 けど。だけど!

 マシュは今、確かに、俺を抱えて逃げるかどうか、迷ってくれた。

 ふと、キャスターはどうなんだろう、とそちらに視線をやる。彼女は、泰然としたままこちらを見ていた。俺の視線に気が付くと、す、と空を見上げ、喉を温めるように手で摩ってくれさえした。

 俺の意思に、いつでも答えようと。

 そしてマシュへ視線を戻した瞬間、それを見た。

 急降下するワイバーンと、その先にいた人影。

「イザベルさん!!」

 遮二無二走り出す。どうして出てきたんだとか、言いたいことはいっぱいある。

 けど、そんなことよりずっと大事なことがある。まだ、手を伸ばせる。

 ここで、ここで伸ばさなきゃ、絶対駄目だ!!

 走る。間に合えと心の中で唱え、念じて、祈った。

 息をすることも忘れて、涙でにじみそうになる視界を振り払って、がむしゃらに走る。

「マシュっ、フォロー頼む!!」

「っ、はい!!」

 出遅れたマシュは、デミ・サーヴァントの身体能力で以て一気に俺に並んだ。

 迫るワイバーン。その大きな影がイザベルさんへかかり、彼女もようやく自分が危機的な状況に陥っていることを悟る。

 ほとんど体当たりするような勢いでイザベルさんに飛びつき、そのまま庇うようにして地面へ伏せる。直後、頭上で強烈な激突音が響いた。マシュがその大盾でワイバーンの急降下を迎え撃ったのだろう。

『マシュもだけど、藤丸クン、人の話は聞いていたかい?』

「聞いてましたよ!」

『今の君の命の重さは、人類のそれと同義だ。死にたがりはやめてくれたまえ』

「死にたくなんてないッ!!」

 すべての人類の命の重さとか、俺が死んじゃいけないだとか、そんなことはどうだっていい。全部全部、まるっとすべてわかってることだ。

 もっと答えは単純だ。俺は死にたくない。死にたがっているわけでもない。

 けど。

「ダ・ヴィンチちゃん、俺は、言い訳したくないんだ!!」

『何?』

「死にたくないのと同じくらい、誰も死なせたくない! ちっぽけな俺ができることは少なくっても、できることを諦めたくない! 人類救った次の日に、あの時見捨てた人がいたなんて、思いたくないだけなんだ!!」

 そう。ただ、それだけなんだ。

「リツカ……あなたは」

「イザベルさん、大丈夫ですか!?」

「あなたのおかげでね」

「よかった……」

「マスター」

 イザベルさんの手を取って立ち上がらせているところへ、キャスターが駆け寄ってきた。

 ワイバーンの露払いはマシュに任せたまま、キャスターと対面する。

 ここで彼女に頼るべきだ。彼女の魔術――戦闘用詩魔法の本領は複数Waveの殲滅、つまり、今のこの状況でこそ活かされるべき能力だ。

 だけど。

「マスター?」

 キャスターが訝しんで俺を覗き込んでくる。

 詠ってくれ、と頼むのは簡単だ。そう言えばいい。

 ……できない。俺には、それを簡単に口に出すことができない。

 キャスターの戦闘用詩魔法のほとんどが〝彼〟と紡いできた思い出だ。

 ――……いや。

 いや、そうじゃないだろう。そういう話じゃない。そんなことはどうだっていい。なんで自分に言い訳するときまで保身してしまうんだ。本当に情けなくて泣きたくなる。

 俺と彼女は、二度、端末で繋がったことがある。

 彼女を閉じ込める精神世界で一度。

 彼女が歩き出した現実世界でもう一度。

 そして俺は、それを「本当」のことだと信じた。ゲーム発売前の生放送も欠かさず見ていたのにも関わらず、それが「本当」を建前にした「ゲーム」だと自覚していたにも関わらず、それでも俺は、彼女がいた世界をどうしたって「嘘」だと信じ切れなかった。

 信じたくなかった。

 本当に生きていて欲しいんだと、願った。

 彼女の悲しみも怒りも、喜びも楽しみも、そのすべてが嘘なんて、それこそ嘘だ。

 だから俺は、思ってしまった。

 

「せめて、俺ともう出逢えないなら」

「みんなと一緒にいる方が、きっと――」

 

 たった一度きり。

 選択肢や特定アイテムの所持でエンディングが複数種類あることは知っていた。

 だけど、俺はたった一度、いわゆる「残留エンド」を見て、二度と端末(ゲーム)の電源を入れることはなくなった。作中で「複数の可能性」について語られていた以上、繰り返しゲームをクリアしたってなんら問題なかったはずなのに。

 それ以上、俺はできなくなってしまった。

 たとえ本当に彼女が生きていて、俺の端末と繋がっていたとして。

 決して()()()へ行くことはできない。物語としてゲームにされてしまった以上、そこには描写されなかった時間や、エンディングのその先へは、プレイヤーである俺自身が立ち入ることはできない。

 いや、そもそも。

 彼女が言ったことだったんだ。

 ただ俺は、ゲーム内で提示される選択肢を選んで、○ボタンを押しているだけだって。

 俺の言葉を届けたいのに、俺の言葉でないものが彼女へ伝わる。

 伝えたい言葉はいっぱいあるのに、たった数文字の決まった言葉でしか彼女へ伝えられない。俺が俺自身の言葉で、なにも彼女へ伝えられない。

 俺は、彼女を見捨てたも同然だった。

 みんながいれば、彼女もきっと大丈夫だと思って。思わなければ正気でいられなかった。きっと、俺よりも入れこんだ端末さんはたくさんいるはずだ。その人たちはきっと、俺よりもずっと大きなものを心に刻まれたはずだ。

 だから、俺には彼女へ「詠ってくれ」なんて、頼む資格なんてない。

 それでも俺が選ばれて、彼女の前にいる。

 俺が選ばれたときから、覚悟したじゃないか。

 もう、○ボタンを押すだけの俺じゃない。

 心から、魂から、俺の口から伝えられる言葉はすべて! 俺だけの言葉だ!!

()()()()!!」

『なっ!? 藤丸クンなにをしているんだ!?』

 通信先でダ・ヴィンチちゃんが悲鳴をあげている。

 本来の令呪というのはサーヴァントを使役するための三つの絶対命令権らしいんだけど、カルデアの令呪にはそこまでの機能はない。

 ドクター曰く、緊急時魔力供給用疑似魔術刻印。

 狭義的な魔術刻印については魔術師の家系が代々受け継ぐ「魔術的な生きた刺青」のようなものだって説明は受けている。魔力――これはなんとなくイメージしやすい――をその刺青に流せば、代々研鑽した魔術が発動するという仕組みだそうだ。

 そしてこのカルデア式令呪。緊急時魔力供給用疑似魔術刻印はと言うと。

 とにかく「魔力を貯める」ことに特化させた刻印だという話だ。

 三画存在する刻印それぞれに、膨大な量の魔力が蓄積されているらしい。

 これに少しでも魔力を流せば、表面張力が破れるようにして、溜め込んだ魔力が一気に溢れ出すという。もちろん、ただ溢れさせたのならそれはただの無駄遣いなわけなんだけど、マスターの意志を込めることである程度の指向性を持たせることができるという。

 傷を癒す。宝具を強制的に励起させる。三画を一気に解放すれば、消滅したも同然のサーヴァントすら全快させて戦線復帰させることができるとかできないとか。

 つまり何が言いたいかといえば、今この場面での使い道なんてないってことだ。

 ダ・ヴィンチちゃんが慌てるのも無理はない。だって、この令呪を一画充填しようとすると、現在のカルデアの電力では二週間弱の期間が必要となる。そんな貴重な魔力の塊を、俺は今、傍目からすれば無駄遣いしようとしているわけなんだから。

 でもこれは、決して無駄なものじゃない。

 そう思うのが俺一人だとしても、この後長い説教が待っているとしても。

 これは必要なことだ。

『やめろ藤丸クン! 君は――』

 

「キャスター! ここにいる人たちをどうか、守ってくれっ!!」

 

 

 

     §

 

 

 

 乙女のような感傷を、今は抱いている場合ではないことは、自分が一番知っていた。

〝あなた〟がいた世界が焼き尽くされて、それを取り戻すために召喚に応じた。応じることができた。

 だから、生きていた頃と違って〝あなた〟のために詠うことができるからって、全然、つらくなんてないって、そう思っていた。

 違った。

 たとえこの詩が〝あなた〟を救う事に繋がるとわかっていても、あなたの隣で詠うことのできない寂寞が私のこころをどうしようもなく凍えさせる。

 一節一節で〝あなた〟のことを思い出して、こころに穴が開いていくようなうすら寒い感覚すらあった。胸を掻き、肌を破り、肉を毟り、肋骨を剥ぎ、臓腑を吐き出して、こころを見つけて〝あなた〟とまた逢いたかった。

 それこそ、乙女のような感傷のまま、詠いたくないということはきっと簡単だった。

 カルデアでは、誰もが必死だった。みんな明るく振る舞ってこそいるものの、誰もが不安と絶望を抱いて、それでも前へ進もうとしていた。いいや、前へ進むしかもう、道はなくなっていた。

 矢面に立たされたのは、藤丸立香という少年と、マシュ・キリエライトという少女。

 藤丸立香……マスターは、いまいち現状を把握し切れていない感じだった。現実味のない世界の滅亡に巻き込まれてしまった、という感じ。実際、そうだったのだと思う。それは私がよく知っていたから。

 それでも彼は、自分にできることを探していた。

 何も知らない。何もわからない。ただ巻き込まれただけの人なのに、カルデアのスタッフさんたちを少しでも不安にさせまいと、誰よりも明るく、誰よりも前向きに、一歩一歩を踏みしめて絶望の中を進んでいた。

 あの日の私にできなかったことを、彼はやっている。

 

 ――フランスへ来てから、彼と早速別行動をすることになった。

 ヴォークルール城塞での情報収集。私とマシュちゃんのサーヴァント組で兵士たちから話を聞くという流れになり、一時間後の集合時間に向けて行動を始めた。

 その際に、マシュちゃんへ彼のことを聞いてみた。

「マスターのこと、ですか? そうですね、私もまだ付き合いは短いのですが、一言でいえば『先輩』です。それ以外にうまく説明できる回答を、私は持ち併せていません。ただ、経験談で申し訳ないのですが、死の間際でも私の手を握ってくれるような、善い人であることはきっと間違いではありません」

 どこかぎこちなさを感じさせる笑顔で、マシュちゃんはそう教えてくれた。

 いつもは無表情で、微笑むことすら稀な彼女が笑おうとして笑った。

 その意味に、ぎこちなさの中に、マシュちゃんのゆるぎない信頼を見たような気がした。

「そっか。善い人なんだね、マスターは」

「はい。魔術師という人種からはかけ離れた精神性と、数々の物語で見聞きした善き人間性を兼ね備えた素敵な先輩なんです、マスターは」

 その後はもう一度情報収集を再開して、約束の一時間が経ったのでマスターと合流するため集合場所へと戻ることにした。その道すがら、現地女性と話すマスターを見かけた。

 マシュちゃんはすぐに合流しようとしたところを、それを制して様子を見ることにする。

 見たところ、女性はこの時代でいえば初老とも呼べる年齢だろう。マスターから見れば親ぐらいの年齢だ。優しく微笑んだ女性は、ふわりとマスターの顔を両手で包むと、ぐっと顔を近づけた。

「強い瞳の子。リツカ。あなたは、あなたの信じる道をいきなさい」

「え」

「あなたの瞳が見る景色と、心で感じる景色をチグハグさせては駄目よ」

「……はい。ありがとう、イザベルさん」

 涙がにじみそうなほど瞳を潤ませたマスターは、まっすぐに彼女を見つめ返していた。

 女性を送り出した後、マシュちゃんと一緒に彼と合流するべく近づいていく。

 振り返ったマスターは、吹き抜ける風のような表情をしている。懐かしい顔を思い出すような、何かを決めた顔だった。彼は確かに前へ進んでいく。一歩一歩は小さくても、それでも確かに足跡を刻んでいく。

 それは、私が、いやしくも嫉妬してしまいそうなほどに。

 どうして。どうして君はそんなに前へ向かうことができるのだろう。

 君の中の何が、君を動かしているのだろう。

 人理修復という使命に燃えているようには思えない。

 君は、なぜ……?

 

「イザベルさん!!」

 ワイバーンの襲撃を伝えるダ・ヴィンチさんの声に逆らって、マスターが駆け出す。

 それは、マスターから向けられた視線に答えるように詠う準備を始めていた時だった。

 マシュちゃんを呼んで自分のフォローをさせてはいたけれど、それでも咄嗟にできることじゃない。

 わからない。どうして君は、そんなに必死になれるのだろう。

 それをどうにか知りたくて、私もマスターとマシュちゃんを追いかけた。先に駆け出したマスターと、サーヴァントらしい膂力を発揮できるマシュちゃんはすでに女性――イザベルというらしい――に飛びつくところだった。

 激しい爪撃と、ワイバーンの絶叫がマシュちゃんを叩きつける。

 イザベルさんはマスターが庇うように抱きしめ、何事かを叫んでいた。おそらくダ・ヴィンチさんが通信先で飛び出したことに苦言を呈しているのだろうことは想像に難くなかった。

 そして。

「死にたくないのと同じくらい、誰も死なせたくない! ちっぽけな俺ができることは少なくっても、できることを諦めたくない! 人類救った次の日に、あの時見捨てた人がいたなんて、思いたくないだけなんだ!!」

 それはたぶん、咄嗟に出た言葉なんだと思う。

 それ以上に、彼が――藤丸立香という人間が、ただ今を必死になって駆けているのだと知るには充分すぎる叫びだった。前向き? 一歩一歩確かに? 私は、マスターの表面しか見えていなかった。

 彼は、暗闇の道を前向きに歩いているわけじゃない。

 彼は、一歩一歩確かに足跡を刻んでいるわけじゃない。

 青ざめた表情のままイザベルさんの安否を確認した彼は、ぎこちなく笑った。

「マスター」

 声をかける。

 彼は、後ろから迫る崩落から必死になって逃げているだけだ。

 彼は、一足飛びに全速力で走り続けているだけだ。

 言い訳をしたくない、と叫んだ彼の本心は、だけどもっと違う言葉がふさわしい気がした。

 彼自身に、人理修復を達成するなんて使命感はきっと微塵もない。

 ダ・ヴィンチさんが言うように、死んだところで歴史に影響のない人々まで救おうとしている彼は、ただのお人好しに映るのかもしれない。いやきっと、ダ・ヴィンチさんにはそうとしか映っていないはずだ。

 人理修復という使命、という大前提を基にして思考している彼では。

 人ひとり救えずに、世界を救うなんてできっこない――なんて自分の行動に達者な口を利かないのは、マスターがそんなことを欠片も考えていないからだ。

 ああ、そうなんだ。

 嫉妬に染まりかけていた私のこころが、安堵と共に晴れ渡っていく。

 人理修復というゴールを、彼は少しも見ていない。

 本能で理解しているのかもわからないけれど、それを見てしまえば、彼はきっと彼でなくなる。彼自身も、自分が自分でなくなることを恐れているんだと思う。

 彼はただ、必死なだけだった。

 本当に必死に、今を、生きているだけだ。

 死にたくない。死なせたくない。言い訳もしなくない。

 マスターはただ、平穏を願ってこの旅に挑んでいる。

 行き当たりばったりの猪突猛進にさえ見えるかもしれない。違う。彼はただ、本当に必死になって、この一分一秒を生きているに過ぎない。

 ああ、なんて。

 なんてきれいなひとなんだろう。

 そう思ってマスターを見ていると、なにやら表情が曇り始めた。

「マスター?」

 もう一度呼びかける。

 表情が見えなくなるほど俯いて、肩を震わせている。

 だが、次の瞬間。

 バッと上げられた顔には、決意が浮かんでいた。

()()()()!!」

『なっ!? 藤丸クンなにをしているんだ!?』

 令呪の励起。彼の右手に刻まれた赤い紋様が、強く輝き始める。

 その希少性は私もドクターやダ・ヴィンチさんに説明を受けていた。だから、私もダ・ヴィンチさん同様に、なぜ今、令呪に頼る必要があるのかが理解できなかった。

 ただそれも、マスターの表情を見れば納得することができた。

 ここで使わなくてはいけない。そういう、強い覚悟のままこちらを見ていた。

 言葉という文化は、こころを表す最も簡単な方法だ。

 それを、令呪に宿る膨大な魔力と共に発するという意味が、わからないわけではないだろう。つまり、今からマスターが口にする言葉には、令呪に宿る魔力にも負けないくらい、強く、大きな想いが込められているのだと悟る。

 だから、私は止めない。

 その言葉をすべて、受け止めることだけを考える。

 紡ぐのだ。彼の言葉、こころを……私の詩で。

『やめろ藤丸クン! 君は――』

 

「キャスター! ここにいる人たちをどうか、守ってくれっ!!」

 

 ああ、それは。

 いや、感慨に耽るのはよそう。

 もう私は想ってしまっていたじゃないか。

 この小さな命の、必死に生きる命の、その言葉、想いを。

 マスターのためになら、詠ってもいい、と。

 彼のためになら、たぶん、思い出は穢されないのだと。

「……守るよ、マスター。ここにいる皆を、絶対に!」

 こころを通わせることがこんなにも素敵なことだったこと。

 私はずっと、忘れていた気がする。

 あんなにも焦がれていたことなのに、こんなにもすぐ近くにあったことなのに。

 ああ、でも、この考えに至った今でも――。

 忘れられない。穢すことができない。私のこころの一等星。

 輝く人。私のあい。きずな。ああ、〝あなた〟。

 今だから、ずっと、もっと、前よりも……〝あなた〟のことがいとおしい。

 

 だから、マスター。

 今は、君の想いで花を綴らせてください。

 

 

 

     §

 

 

 

「いけない!」

 平原を疾走する。

 今がどうなっているのかがわからず、記憶を頼りにドン・レミ村に向かったまではいいものの、村は破壊し尽くされていた。であれば、この周辺で避難するならばと考え、ヴォークルール城塞を目的地に、生前のそれよりも明らかに強くなった脚力で最短距離を強行した。

 そうして遠目に見えてきた城塞は、空を埋めるほどのワイバーンに襲われていた。

 速度を上げる。地面をめくり上げ、踏みしめた大地が爆発するような脚力で以て城塞へと突進する。

 それでも、間に合わない。

 この身をじれったく思っていると、ワイバーンが一斉に上空高くへと昇っていくのが見えた。すわ撤退か、と心の片隅に安堵を置くと、それが儚い希望であったことを思い知らされる。

 黒い雲に、点々と灯る赤い炎。

 ワイバーンらは、炎弾による一斉爆撃を目論んでいたのだ。

 ドッ、と心が重くなる。長距離を疾走しても汗ひとつかかなかったこの身体に、冷や汗が噴き出す。もう、この距離では城塞に到着したとしても、宝具を展開するような猶予は残されていない。

 崩れ去る城塞。四肢が吹き飛ぶ人間。かろうじて残った者も、その火に焼かれて赤子のように縮こまる。炭化した人間を、落ちた瓦礫が潰す。もはや血も飛び散らず、ただ黒い煤だけがこびりつく。

 赤い記憶。最後の瞬間。

 水を、と祈り、叶わなかった思い出。

 ――なにより、ドン・レミからの避難者があの城塞にいるとすれば。

「母さんっ……!」

 喉から、絞り出るように声が漏れた。

 もはや死んだ身。ここで顔を合わせたとしても、それは夢となんら変わらない。

 そんな残酷な夢を、見せることもないのに。それでも、死んでほしくなどない。

 その願いもむなしく、黒く蠢く邪悪の雲から、穢れた赤い雨が降り注ぐ。

 そして見た。

 城壁を伝い、ありえない速度と大きさで成長する蔓を。

 炎弾が着弾する、その直前に咲いた紫の花を。

「藤の、花……?」

 ヴォークルール城塞は瞬く間に花園の中に佇むオブジェとなった。

 城壁には蔓が伝い、城塞そのものを覆うように紫の花が瑞々しく咲く。

 ワイバーンから放たれた炎弾は藤の花に遮られ、弾かれ、どれひとつとして城塞を崩すことも、人の命を奪うこともなかった。やけになったワイバーンが何度も何度も、それこそ豪雨と見紛うほどの炎弾の雨を降らせようとも、藤の花の瑞々しさは失われることはなく、その艱難を退けた。

 思わず足を止めてしまった。

 手に持った旗の柄を地面に突き刺し、制動する。

 正体を知られては無用な混乱を生むと考えて纏ったぼろ布の外套が、風にさらわれる。

 圧倒的な破壊をもたらす赤い雨が降り注ぐ中でさえ、その風は涼しく、生気に満ち満ちた歓喜の風だった。

 そして。

「歌……? これは、歌なの?」

 風を切るように走っていた耳には届かなかった、風に乗った歌声。

 同じ歌声が二重三重と連なり、聞いたこともない言語で綴られている。

 ただ、そこに込められた想いが、言語の壁など遥かに越えて心に響く。

 誰も死にたくなんてない。死なせたくなどない。

 誰の悲しい顔も、できることなら見たくなどない。

 だから、守りたい。

「ああ……」

 思わず、笑みがこぼれてしまう。

 争いのことなど忘却の彼方へ。

 いつまでもいつまでも、この風と歌を感じていたい。

 心、清らかに。気付けば私は膝を折り、両手を組み上げ、額に当てていた。

 神託を得た日より欠かすことなく行っていた、主への祈り。

 この想いは澱むことなく今も抱き続けている。

 だからこそ、と胸に熱を灯す。この歪な戦乱を止めなくてはならない。

 目指すは藤の花舞うヴォークルール城塞。

 あそこに、手を取り合うべき人物らがいることは確かだ。

 でなければ、あんな奇跡が起きようはずもない。

 

 私――ジャンヌ・ダルクはもう一度、風と歌を感じながら一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 






ビジュアルノベル風なら、


「マスター?」
キャスターが訝しんで俺を覗き込んでくる。
詠ってくれ、と頼むのは簡単だ。そう言えばいい。

1.詠ってくれ、キャスター!
2.……できない。

2.選択後、
もう、○ボタンを押すだけの俺じゃない。
心から、魂から、俺の口から伝えられる言葉はすべて! 俺だけの言葉だ!!――の直後さらに選択肢が表示される。

3.令呪を使う
4.ここにいる人たちを守ってくれ!

1.を選択すると今後キャスターは霊基再臨2段階目(~Lv.70)までしか強化ができなくなり、6章グランドバトル終了後、キャスターの霊基が消滅し、再召喚が不可能になります。
4.を選択すると今後キャスターは霊基再臨3段階目(~Lv.80)までしか強化できなくなり、かつ今回の詩によって城塞を守る花が蓮となり、7章終盤でキャスターの霊基が消滅し、再召喚が不可能になります。

なお、これらのフラグ管理はキャスターに関わるものなので、人理修復そのものに影響はありません。たとえキャスターの霊基が消滅したとしても、そこまで辿り着いた君なら、人理修復は達成できるだろう。


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