県大会編は以前の全国大会と同じように短編が連続します。
短編同士の時系列など細かい所は多めに見ていただけると助かります。
団体編は団体戦が終わるまでの時系列、個人編はそれが終わってから個人戦が終わるまでの時系列という感じです。団体戦の試合前、試合中のやりとりは団体編の最後に差し込まれる形になります。
また特に明記がない限り、公式戦の結果は原作と同様です。
久保貴子にとってこの一年は実に悩ましいものだった。
出身校である風越にコーチとして就任したのが二年前。特異なことに風越には監督というものが存在しないので、対外的には最高責任者と言っても良い立場である。
実際にはOG会がかなりの権限を持っているため、単なる現場担当であるのだが良い面もある。
風越は他の部活があまり強くないため、学内において部員数においても最多の麻雀部は発言力が強く、そのOG会は学校の運営にも口を出している。今の理事長だって麻雀部のOGなのだ。このおかげで学内で余分な綱引きなどをする必要がない。学内の処理は完全にOG会に丸投げすることができ、貴子は部の仕事に専念することができた。部員の質は貴子がいた年よりも間違いなく向上していると言って良いだろう。
実際
プロや実業団にも多くの選手を送り出しており、業界にもそれなりに太いパイプを持っている。コーチというのはその調整役も兼ねており、部員の希望に合致する就職先なり大学なりを探したり、逆に先方からの希望とマッチングさせたりと指導以外にも仕事は多い。
コーチというのは名前だけで、実質的には他校における監督の立場である。伝統なのだか何だか知らないが、それを知らない他校の人間にはコーチというだけで舐められることもあるので、できることならやめてほしいというのが貴子の本音だ。
自分の出身校でもあるだけに、指導にもスカウトにも手は抜けない。納得のいかない選手を試合に出したことはないし、出すと決めた選手はその時点の部で最高の五人であるという自負がある。毎年毎年、今年の選手が過去最高という訳にはいかないものの、去年の風越女子は数十年の歴史の中でも三指に入る程に仕上がっていた。
そのはずだったのだが、結果は惨敗である。辛うじて実力で伍していたのは先鋒の福路美穂子と大将の池田華菜くらいのものだ。連続出場記録がかかっていた年だっただけに、負けたという事実だけを見たOG会からは相当な突き上げも予想されたのだが、試合の映像を見た彼女らから帰ってきたのは諦観だった。
彼女らとて名門風越で鎬を削った身だ。麻雀で身を立てている訳ではないとは言え、ある程度は実力を測る感性が備わっている。その感性で判断するに、龍門渕の五人は揃って傑物だった。去年の風越で言えば福路美穂子が五人いてようやくと言えるレベルだったろう。
池田華菜でぎりぎり。補欠を含めた他の八人は残念ながら勝負にならない。
この分析結果を共有するにあたり、貴子とOG会にはお通夜のような雰囲気が流れた。去年風越に土をつけた龍門渕の五人は恐ろしいことに全員一年だったのだ。既存の部員を全て叩きだして実力で部を乗っ取った実力派。しかも部長の龍門渕透華は理事長の孫娘であり、学内の権力的にも申し分ない。
そも、既存の部が残っていたとしても実力でメンバーを決する以上、代表が彼女ら五人になる運命は避けられなかっただろう。何か決定的なトラブルなり方針の転換がない限り、彼女らはあと二年部活動を続けることになる。福路美穂子が五人いてようやく勝負になるような五人が、あと二年残るのだ。
それは風越の全国への出場が後二年遠ざかることを意味する。実力向上は急務と言えたが、そもそも美穂子や池田だって近年稀に見る大当たりなのだ。
全ての部活動において共通することだが、才能が同程度であればその研鑽に費やした時間が長い方が基本的には強い。中学よりも高校の方が環境としては洗練されているため、一年よりも二年が、二年よりも三年が強い。部員が多い学校程この傾向が強く、運動部でも文化部でも名門の一年生レギュラーというのが話題になるのはこのためだ。
一年でレギュラーというのはそれだけ実力と、何より才能が突出していることを意味する。風越の歴史の中でもここ二十年で一年でレギュラーになったのは貴子を除けば美穂子と池田の二人のみだ。貴子が卒業してから美穂子が入学するまで間が空いたことを考えると、一年レギュラーが二年続いた去年を過去最高のできと評するのも無理からぬことであり、更に言えば、今年の文堂で三年続いたとなれば、今年こそはと期待するのも解る。
解るのだが……それでもなお、龍門渕は相手が悪いと貴子は思うのだった。そんな弱気に思わず顔をしかめる。戦う前から弱気でどうする。教え子が見ているのだ。弱気な指導者の言うことなど誰も信じてはくれまい。どうも周囲の風越に対する風聞に知らずに苛立っていたようである。
今年こそは、などと誰に言われずとも皆思っているのだ。負けるつもりで戦う奴などいて堪るものか。今年こそは、あの化け物どもに勝ってやるのだ。見てろモンブチどもと熱のこもった息を吐く貴子の背中を部員たちはひっそりと怯えた表情で眺めていた。本人は気合を入れた引き締まった表情をしているつもりなのだが、獰猛な肉食獣のようなその面構えははっきり言ってとても怖い。
触らぬコーチにたたりなしである。気合を入れるコーチと怯える部員という、全くかみ合っていない精神状態が生み出されたその横で、ほどよく平常心を保っていた美穂子は、視界の隅に知り人の姿を見つけた。
「
突然、美穂子が声をあげた。何だどうしたと美穂子の視線の先に風越一同が目を向けると、そこには学ラン姿の男子がいた。
おそらくこれが『京くん』なのだろう。ぱたぱたと走り寄っていく美穂子に、穏やかに笑いかけるその姿が美穂子が美少女なことも相まって一昔前の青春ドラマの1ページのようだった。
絵になる男女というのはこういうのを言うのだろうな、と感心している貴子を他所に、風越女子の面々には動揺が広がっていった。あれ、もしかして彼氏?
「お久しぶり。会場で会えるかなってちょっと期待してたのよ」
「美穂さんにそう言ってもらえると嬉しいですね」
「もう、上手いこと言って……」
いちゃこら始める二人に貴子は深々と溜息を吐く。学ラン『京くん』はまだしも、ここは全国大会の予選会場。風越女子は優勝候補の一角であり、美穂子はそこのキャプテンで個人でも団体でも全国大会を経験している県内屈指の選手だ。去年個人戦に出場していない龍門渕の選手と比較しても、過去の実績においては現状、長野県下の女子高生の中で最高の物を誇っている。
当然顔と名前が方々に売れている。早速視線を集めている二人にさてどうしたものかと貴子が考えを巡らせていると、ちらと『京くん』が貴子の方を見た。貴子は指で風越の控室がある方を二度差す。それだけで意図を察したらしい『京くん』は美穂子には悟られないようにゆっくりと歩きだし、自然に美穂子を促した。
誘導される形で美穂子も控室の方に歩き出す。気持ち悪いくらいの手腕に貴子は内心で舌を巻いた。他人の視線が切れるということはあるまいが、入り口ホールでやるよりはこれで少しはマシになるだろう。女子高生ってのはコレだから困ると貴子が溜息を吐くと、隣を歩く池田が袖を引く。
「コーチ! コーチ! あれいいのかし!?」
「何がだ池田」
「だってほら……キャプテンに男が!」
「福路だって女だ。男の一人くらいいてもおかしくはないだろうよ」
止めてほしかったのに貴子はそれを容認するような態度である。これでは話が違うと池田は視線で食ってかかった。言葉を繋ぐ気力がもうない故の行動だったものの、視線で訴えかける目をかけている後輩と言うのは貴子の心に地味に刺さった。
これ以上問答するつもりがなかったのを、深々と溜息を吐いて翻す。
「いいか。うちは別に男女交際を禁止してる訳じゃない。部のルールにも書いてない。それは解るな?」
「でも、ダメって雰囲気があるし」
「そりゃあ全国目指して麻雀やるっつってんだから男にかまけてる暇はねーだろって暗黙の了解ってやつだな。何にしろ大っぴらにやるなってことだよ。実際、隠れて男作ってる奴はそれなりにいると思うが……」
どうだ? という貴子の視線に何人かの部員が気まずそうに視線を逸らした。貴子が思っていたよりも数は遥かに少ない。自分の頃と比べて行儀が良くなったものだと内心で感心する。貴子の時代には大抵どの学年にも、他の部員に男を紹介するような女衒のような部員がいたものだ。
「でもほら、キャプテンこんなところで堂々といちゃついてるし! 見たことないくらいかわいい顔してるし!」
「実力が伴ってさえいりゃ問題ないだろうよ」
他の部員に示しがつかないという問題も勿論ある。先輩がふしだらなのに、清廉潔白でいよと号令をかけても後輩が従うはずもない。ルールというのはまず目上の人間が守ってこそ全体にいきわたるものだ。美穂子はキャプテンという部員を統率する立場にあり、普段は率先して部の規則なり慣習なりを守る立場にある。池田の物言いも理解できなくはない貴子だったが、こと男関係は明記されている訳ではなくあくまで暗黙の了解だ。
部則ではなく慣習に乗っ取るのであれば貴子はコーチの立場である。物言いの一つもつけられるのだが、それには貴子は消極的だった。というのも、
「奴は部内リーグで過去最高の勝率を誇り、去年一昨年個人で全国に出場したし、一年の時から団体メンバーでおまけに今年はキャプテンもやってる。部の雑用もほとんど請け負ってお前たちに打つ時間を作ってやってる訳だが……お前、この上男関係にまで注文つける気か?」
仮に本当に彼氏であったとしても、部員の中ではおそらく一番接点があったであろう池田が今知った程に存在を隠していたのだ。異性交遊が褒められたものでないとしても、その上で過去最高の実績を個人で出し部に貢献していたのだから、男の一人や二人見逃してやるのが人情というものだろう。
OG会に沙汰を持って行っても同じ結論になるのは目に見えている。あのおばさんどもは揃いも揃ってデキの良い美穂子のことが大好きなのだ。福路さんに彼氏!? どんな子なの!? と質問攻めにされる未来を想像すると、今から気分が滅入る。
貴子が池田と言いあっている内に、周囲の視線が少なくなると『京くん』は足を止めた。つられて足を止めた美穂子は自分が移動していたことを初めて知る。あら? と首を傾げるが、気にしないことにしたらしい。当たり前のように『京くん』の手を引いて皆の前に立たせると、
「紹介します。こちら須賀京太郎くんです」
「初めまして。清澄高校一年の須賀京太郎です。久保貴子コーチ。お会いできて嬉しいです」
笑顔で差し出された手を義務的に握り返す貴子の後ろで、風越の部員たちは戦慄していた。まさかの年下である。部員たちの勝手なイメージではキャプテンは男性とお付き合いするなら同級生以上、少し年上を想定していたのだ。それが二つも年下の男子を京くんとかわいく呼び美穂さんと呼ばせているのだから驚かずにはいられない。
対して貴子は全く驚かない。男女の間のことなのだ。他人が想像もつかないような習慣やルールを持ち出す人間は貴子の身近にもいた。まさに貴子が池田と同じ二年だった頃、できたばかりの恋人をダーリンと呼び自分をハニーと呼ばせていると言った同級生を、渾身のギャグだと思った貴子たちは指を差して笑ったのだが、実は本気だった同級生はキレて大暴れをして取っ組み合いにまで発展した。
幸い全員が鼻血を出す程度の怪我で済んだのだが、当時のコーチにガミガミ怒られたことは良く覚えている。
ちなみにそのハニーは風越を卒業すると同時にダーリンと入籍して家庭に入った。この時世に珍しい専業主婦で子宝にも恵まれたが、未だにダーリンハニーは続けている。
見ていて恥ずかしくなるくらいのバカップルは今も健在であるものの、お互いの呼び名は幼稚園で披露して赤っ恥をかいて以来、ご長男には不評のようだった。
会う度にあれ止めさせてよと懇願されると貴子の心も動かされるのだが、言われてやめるようなら青春時代にお互い鼻血を流すハメになったりしなかったのだ。
ともあれ男女間のことだ。なにが地雷なのかは外からでは中々解らないもので、コーチである貴子として最も困るのはエースで部の精神的支柱である美穂子のコンディションが崩れることだ。
どの道これが高校生としては最後の戦いである。試合で無双してくれるのであれば、どれだけバカップルでいようか色ボケしていようが関係ない。バカップル色ボケして今の調子なのであれば、むしろそのままでいた方が良いまである。
風越現レギュラーの中では特に池田が気持ちによって牌の寄りが極端にブレる傾向にあるが、『気持ちが引きを左右する』という現象は、程度の差はあっても万人に存在するというのが現在の麻雀界の定説である。
技術を研鑽する毎日である学生たちの前ではあまり言いたくないことであるが、麻雀という競技は運の要素が占める部分があまりに大きい。気の持ちようでそれに影響が出るのであれば、指導者や監督はそれを踏まえた上で選手たちを指導し、環境を整えねばならならない。
なので男の存在がプラスになっているのであれば貴子としてはあえて口に出すようなことでもないのだ。単純に素行が悪かった当時の久保貴子に比べれば、福路美穂子というのは実に真っ当な選手である。
「他校のしかも男子に名前が売れてるとは思えねえんだけどな」
「藤田プロから。あいつはデキる女だから仲良くしておけと」
京太郎の言葉に貴子は視線を逸らした。十歳近く年下の少年の言葉に柄にもなく照れているのである。
久保貴子は大上段から誉められることにはあまり慣れていないのだ。風越の歴史だけをみれば貴子は美穂子や池田を入れても五指にはいる腕前であるが、高校時代から大学中盤に至るまでは素行に問題があったため、実はOGからの受けはあまりよろしくない。
厳しい指導方針には疑問の声も多くある。それでも貴子が許され、コーチとしての立場を維持できているのは現状、コーチ就任可能な人間の中で貴子が一番麻雀が上手く実績があるからだ。
そして貴子が高校生だった時代の風越はとにかく対外試合を組みまくっていたため、長野県内では顔が広いことが挙げられる。 年代的には貴子の年は大豊作の年であり県内外の麻雀関係者が多いのだ。また学生時代に対戦して以来の付き合いである藤田プロとも昵懇であり、彼女の指名で県選抜の選考委員の一人にも選ばれている。
加えて風越のコーチは事実上の監督であるため、現役部員のことだけでなく彼女らの進路とこれから部員になる中学生にも目を向けなければならない。流石に姫松千里山や臨海女子の裏方ほど忙しいとは思わないが、桁一つ違う予算の大阪二校と、桁二つ違う臨海とはスタッフの量で雲泥の差があった。その三校と比べれば仕事の総量は少なくとも、処理する人間の数と能力に差がある以上、一人一人の負担は相対的に増していく。
スタッフの増員は常日頃から貴子も奏上しているのであるが、固定支出の増加を嫌うのはどこの組織も同じである。麻雀部のスタッフであっても雇用するのは学校であるので、いくら麻雀部が風越内部で強権を誇っていても、上限の決まっている予算以上のことはできないし、寄付を募るにも限度がある。
結局人員の増加は現状見込みは立たず、貴子は忙しいままなのであるが、この忙しさを貴子は気に入っていた。見た目以上にタフなこのコーチは 見た目と性格が怖いだけで実務に関しては特に外部と、これから進学を目指す中学校の関係者たちからの評価はとても高い。
しかしそれは業界に関する話で現在高校生である面々には関係のない話である。貴子にとっては頭のあがらない人間の一人である靖子がそれでも、この少年に話を通す辺りに、人物評はとかく辛い靖子の京太郎の評価の高さが伺える。
「福路の彼氏は――」
「コーチ、京くんはお友達ですよ?」
そうなのか? と視線で問うと京太郎は当然ですと普通に頷いた。
ざわり、と風越女子の面々に動揺が広がる。感性が微妙にズレている人だというのは部員たちも理解していたつもりだが、異性関係で目の前に突き付けられるとその衝撃も一入だった。
美穂子の方からの多すぎるボディタッチに、ともすれば胸が当たるんじゃないかというくらいの近すぎる距離。普通の男女の友達は間違っても京くん美穂さんとか呼びあったりはしない。この上部活をしている時よりも何倍も華やいで微笑んでいるのである。まさに音に聞く
さぞかし男の方も舞い上がっているのかと思えば、こちらは酷く落ち着いている。美穂子の距離が近すぎるのと対象的に、京太郎の距離感は、高校生の男子が美穂子のような美少女に迫られているにしては遠すぎるくらいだった。
前のめりになっている様子が恐ろしいことに全くと言って良いほどない。まるで美穂子のような美少女がそこにいるのが当然とでも言わんばかりのブルジョアジーな振る舞いに、彼氏のいない一部の部員のボルテージがじわじわと上がっていく。
うちのキャプテンに何か不満でもあるのかクソが。
福路美穂子というのは控えめに言っても美少女だ。下世話な話であるが風越麻雀部の中では非常に男性に好まれそうな体つきもしている。早い話胸もお尻も大きい。笑顔が素敵。真顔も素敵。料理も得意。家事全般で苦手なことはないようであるし、子供のお世話も得意だ。機械にだけは極端に弱く稀にコンセントに触手責めをされるような人だけれど、そこは愛嬌で収まる範疇だろう。
性格の合う合わないはあるだろうけれども、見た目の時点では少なくとも非の打ちどころがない。どこに出しても恥ずかしくないお嫁さん系美少女だ。
そんな美少女がここまで近くにいるのに、少年には慌てた様子も興奮している様子もない。これで遊び人な気配が出ているのであれば警戒もしただろう。何しろ美穂子はそういうのに非常に騙されそうなタイプである。他校の男子をぶっ飛ばしてでも守らねばならない。
しかし須賀京太郎というのは愛嬌のある顔だちをしているくせに、態度はほんのり紳士的だ。隙があるのが隙がないとでも言えば良いのか。『この人ならば大丈夫』と女を安心させる雰囲気が全身から漂っている。一度そう思わせてしまうと、人間中々攻撃的に出れないものである。そもそも本人があんなにお熱なんだから……と大半の部員の熱が下がっていく中、エキサイトする池田が一人いた。
「華菜ちゃんはそう簡単に絆されたりはしないし!」
「華菜、この前作ったケーキなんだけど……」
「ありがとうだしキャプテン! とっても美味しくてうちのチビたちにも大好評だったし!」
「あれの作り方教えてくれたの京くんなのよ」
我がことのように嬉しそうにしている美穂子と対照的に、池田は早速進退窮まってしまった。そも本人同士が納得しており見た感じ悪い人間にも見えないのであれば、貴子の言うように他人が口を挟むようなことでもないのだ。
加えて実は池田家にとっても恩人となれば、『大事なキャプテンを取られたみたいで何かムカつくし!』というあまりにも子供な理由で突っかかるのは気が引けた。おまけに彼は年下なので、チビたちのお姉ちゃんである所の池田はあまり強く出れないでいた。
「ごめんだし。華菜ちゃんが間違ってたし……」
「いえいえ。ケーキ好評なようで何よりでした。今日は用意してないので何ですが、美穂さんには他にもレシピを伝えてあるので楽しみにしていてください」
それでは、と足取りも軽やかに京太郎は去って行く。にこにこ手を振って見送る美穂子を横目に見ながら、貴子はぼんやりと京太郎のことを考えた。
今日は男子の日程はないから女子の応援か観戦だろう。どこのブロックかは解らないが、名前に聞き覚えがない以上、風越とは決勝まで当たらない学校であり、学校の実績としてはそう強くはない部のはずであるのだが、そうすると靖子と知人であるというのが解せない。
あの人は面倒見は良いが面倒くさがりな所がある人で、誰にでも目をかける訳ではない。頼まれれば指導はするが、それ以外のことにまで口を出すのは特に見どころのある人間だけなのだ。貴子につなぎを作っておけというのは藤田靖子というプロの人間性を考えると出血大サービスも良い所である。
つまりはそれだけ見どころのある人間ということだが、あの人に目をかけられる人間が無名というのも解せない話である。
彼は男子である。貴子の仕事に、風越の未来に大いに関係があるということはなさそうだが、こと麻雀に関する限り、藤田靖子の人間を見る目は信頼が置ける。繋ぎを作っておけというのは京太郎のために言っただけでなく、貴子にも向けられている。改めて、話を聞く必要があるだろう。
仕事増やしやがって、と溜息も出るが、幸せそうに微笑む美穂子の顔を見ると、別の感情も湧きあがってくる。
「……しかし、料理の上手い男子とは中々待ちの薄い所をツモってきたな福路」
「麻雀以外でも話が合うって本当、素敵ですよね。この前一緒にケーキを作った時も、一緒に買い物にいったんですよ。何を作ろうかって話しながらお買い物するのがとても楽しくて、あっという間に時間が過ぎてしまいました」
ん、と貴子が眉根を細める。胸の前で手を合わせ興奮気味に語る美穂子はここではないどこかを見ている。そのあっという間に時間が過ぎてしまった思い出を話しながら反芻しているのだろう。美穂子の声音には隠し切れない喜びと熱があった。
「彼のことを一つ知る度に、私のことを一つ知ってもらう度に、何だかとても幸せな気持ちになるんです。次に会った時には何を話そうって考えるだけで――」
「時間が過ぎるってのは今まさに実感してる所だ。そろそろ移動しようぜ」
自分が熱に浮かされているということにさえ、その指摘で初めて気づいたのだろう。貴子他部員全員、そして衆目の目もそろそろ集めようかという段になっていることに気づいた美穂子は、先ほどまでとはまた別の意味で顔を真っ赤にして、皆の先を促した。
美穂子の先導で風越の面々はぞろぞろ歩いて行く。よほど恥ずかしい思いをしたのか。美穂子は正面だけをまっすぐ向いて振り返らない。耳どころか首まで真っ赤にして俯き歩く美穂子の背中を見て、思い浮かんだことをそのまま口にするのは無粋だなと貴子は思った。
どうかね諸君。振り返りたまたま視線があった未春に視線で問うと、未春は苦笑を浮かべながら人差し指を口元にあてた。
ただ一人の少年と過ごした時間がどれだけ自分にとって楽しかったのか。身振り手振りを交えて本当に嬉しそうに楽しそうに語っていた美穂子の顔を見て、貴子と部員たちの思う所は完全に一つになった。
その胸にある感情のことを、人間は『恋』と呼ぶ。それは言わぬが華――