力を抜いて椅子に背を預ける。大きく息を吸い大きく吐くと、ようやく重たい肩の荷が降りたような気がした。
長野県大会決勝大将戦。龍門渕有利のまま始まり、そのように推移した試合は最終的に清澄の逆転劇によって幕を閉じた。大立ち回りを演じた咲は終了後の一礼をすると、そのまま会場を駆けだしていった。勝利の喜びを仲間と分かち合うのは勝者の特権だ。今頃は仲間に囲まれてもみくちゃにでもされているのだろう。
それに続いて龍門渕の天江衣が席を立つ。最後の最後で清澄に逆転されたのだ。さぞ口惜しさに満ちた顔をしているのかと思えば、その幼い風貌にはどこか清々しい笑みが浮かんでいた。ゆみの視線に気づいた衣は、対局中に見た獰猛な色などゆみの記憶違いであったかのように、少女らしい笑みを浮かべる。
「鶴賀の。麻雀を始めたばかりと聞いた。中々筋が良かったぞ」
「お褒めに預かり光栄だ。ついでと言っては何だが、後学のために練習試合でもお願いできないか? 恥ずかしながらうちは部員が少ない上に初心者が多いものでね。一つ胸を貸してくれると助かるのだが」
「衣は構わんぞ? とーかたちにも衣の方から話を通しておいてやろう」
「助かる。予定を詰めるのはそうだな……個人戦が終わってからで構わないか? どんなに遅くとも夏休み中には都合をつけられると思うが」
他の競技よろしく夏の大会はスケジュールが詰まっているため、団体戦から間を空けずに個人戦の予選が開催される。人数の少ない男子は明日の朝一からの午前一杯で全国行きの三人が決定し、人数の多い女子は午後から予選が開催され、その上位通過者のみで明後日の決勝戦が行われる。
通過者は男子と同じく三人だ。龍門渕は五人全員が最有力の候補と見られているが、去年に倣うのであれば、眼前の衣は個人戦にはエントリーをしていないはずである。もっとも、龍門渕が団体戦を勝利した去年とは事情が異なる。全国行の確率を上げるのであれば、最も麻雀が達者な衣も個人戦に出ると考えるのが自然であるのだが、
「君は明日の個人戦には出るのか?」
「出ないぞ。明日の午前は皆できょーたろの応援をし、午後はきょーたろと皆の応援をするのだ」
「失礼。そのきょーたろというのは須賀京太郎くんのことかな? 清澄の麻雀部の」
「そうだ、そのきょーたろだ。鶴賀の、知り合いなのか?」
「うちの部員経由で先日知己を得たばかりだ。麻雀が達者なようで、彼にも今度教えを請おうと思っている」
「筋が良いだけでなく人を見る目もあるな! きょーたろはデキる弟だ。姉の衣が保証しよう」
「それは良い。今から楽しみだ」
表情を変えずに会話を続けるが『姉』という微妙に聞き捨てならない単語が聞こえてきた。衣の容姿は対戦中何度も観察したが、性別の違いもあるか、京太郎と容姿の上での共通点は少ない。強いて挙げるならば『金髪』という頭髪の系統であるが、京太郎が血筋の近い佳織と同様黄色に近い燻った金色であるのに対し、衣の髪は副将の龍門渕透華と同様、秋の稲穂のような淡い金色である。
知れる範囲にある情報を総合する限りでは、彼らが姉弟であるという衣の言葉には疑問符が付くのだが、似てない姉弟などいくらでもいるだろうし、詳らかにできない複雑な家庭の事情というのもいくらでもある。ゆみが気にするのは二人の仲が良好であるかどうかで、衣の話を聞く限り、非常に良好ではあるようだ。
元々そうだと思ってはいたが、衣ほどの選手がデキる奴だと保証してくれたのである。我ながら良い縁を結んだものだと満足したゆみは、どうせならと欲張ってみることにした。
「我々は女子だが、先の練習試合に須賀君も参加できないものかな」
「それは衣も望むところ。口利きするのは吝かではないが、その辺りはきょーたろの予定を聞いてからだな」
「麻雀部の予定以外に、既に予定がありそうなのか?」
「ここだけの話なのだが……」
ちょいちょい手招きされたので、ゆみは衣に顔を寄せる。衣はわざとらしく辺りを見回すとゆみの耳に手を当て、
「きょーたろはモテモテで全国に女の影があると、一と智紀が人を呪い殺しそうな顔でよく言っている」
あぁ、とゆみは小さく呟いた。
京太郎は顔立ちは悪くないし気が回るし話していて楽しいし、何より愛嬌がある。会話をしたのもまだ三十分にも満たないゆみだが、もしあちらから交際を申し込まれたら、その場でフラない程度の好意はあった。
過ごした時間が長ければ、また出会いが衝撃的だったならばそれだけ好意も募るだろう。桃子のような状態の女子が全国に複数いるとなれば、そりゃあ彼に懸想している女子は気が気ではないだろうし、人を呪いたくもなるに違いない。
顔を離した衣に、今度はゆみが手招きする。わくわくした様子で差し出された耳に、ゆみはそっと顔を近づけ、
「つまり君の弟は全国を回ってデート三昧という訳か?」
「そういうことだな。一昨年は女の子と遊んでいるだけで夏が終わったと言っていたぞ。これは内緒だときょーたろには念を押されたことだから、鶴賀のも内緒にしておいてくれ」
「そこはぬかりなく。しかし、モテる男は大変だな。外に爆発しない限りは好きにすれば良いと思うが」
「遺漏なくやれているならそれもきょーたろの手腕だろう」
「姉としては弟の行動に思う所はないのかな?」
「刺された所で死にさえしなければ衣が匿うだけの話だな。何より、きょーたろがそれをしたいと思っているならば、応援してやるのが姉心というものだ。話がこじれて刺される所など想像もできないが」
「どうやら君は弟はうんと甘やかすものだと考えているようだな」
「姉だからな!!」
小さい身体に大きなことだ。小さい子供が大人ぶっているようにも見えるが、滑稽さはない。自分が姉で、彼が弟だということに微塵も疑いを持っていないことが影響しているように思う。
どうやら自分が知り合った少年は思っていた以上に大きな男だったようで、麻雀の興味と同様に、彼自身にも多大な興味が湧いてきた。
(モモの恋敵にならなければ良いが……)
心中で苦笑するが、未来のことは誰にも解らない。とりあえず彼氏の候補の一人と雑な分類分けをすることにして、ゆみは席を立った。衣を促すと彼女もてて、とついてくる。気づけば池田の姿はなかった。話している内に退場したのだろう。
苦しい立場だろうなとは他人事ながら思う。長野の強豪校と言えば風越というくらい、全国出場の回数は多い。対抗として龍門渕が挙げられているが、たまに勝つと表現されるくらいには勝数には差があったと記憶している。常勝の風越とは良く言ったものだ。
そんな強豪の名門校で池田は一年生ながらレギュラーとなり、大将を任され龍門渕に負けたのが去年のこと。今年こそはと雪辱を考えていたのだろうが今年も全国行きは逃してしまった。しかも相手は龍門渕ではなく、ぽっと出の弱小校である。
そのぽっと出に負けたというのは鶴賀も一緒だが、鶴賀は清澄と同じく弱小校で部員は五人しかおらず補欠さえいない。結果は同じ『決勝で負けた』でも、鶴賀の場合は逆に決勝まで行ったことを褒めてもらえる。結果を出したのだから部費も増やして貰えるだろうし良いことずくめだ。
事実上の五人麻雀である龍門渕も境遇としては似たようなもの。あちらは勝つに越したことはないだろうが、負けた所でそこまで痛い思いはしていないはずだ。全国に駒を進めた清澄と大して痛手を負っていない龍門渕と鶴賀。名門風越だけが痛い目を見ていると思うと、共に決勝を戦った身としては忍びない。同じ敗者の身でもゆみにはかける言葉がみつからなかった。
敗北の痛みは時間が解決してくれることを、今は祈るしかない。さて、と小さく伸びをして周囲を見回すと、知った少年がこちらに来るのが見えた。燻った金髪に愛嬌のある顔だち。女の子と遊んでいただけで夏休みが終わった京太郎である。
「きょーたろ!」
目ざとく気づいた衣がすっとんでいく。こういう対応は慣れているのか、受け止める体勢を取った京太郎に衣は遠慮なく飛びついた。衣からの愛情が一方的なものであったらという危惧は京太郎の柔らかな表情を見て薄れていく。遠慮なくほおずりをしてくる衣をあやしながら、京太郎はゆみに向き直った。
「ゆみさん、決勝お疲れさまでした」
「ありがとう。時間が取れた時で構わないが、今日の試合について意見を聞きたいんだが構わないか?」
「もちろん。俺で良ければお付き合いしますよ。差し当たって全国が終わってからになりますが……」
「それで構わない。それと天江。姉弟仲が良いのは結構なことだが、君の尻が邪魔で須賀の顔が見えない。背中の方に回ってくれ」
わかった! と軽い返事で衣は京太郎の背中に回る。彼から降りるという選択肢はないようである。身長差からおんぶではなく肩車になっているが、京太郎は軽い顔だ。
「清澄の方はどうだ?」
「感極まった部長が泣いちゃいましてね。皆で宥めてる所です」
「君はいなくて良いのかな?」
女子ばかりの部活の中での唯一の男手である。それにあれだけ麻雀が達者ならば陰に日向に貢献もしていただろう。部員との仲も悪くないのであれば、そういう場面で姿を消すことで文句を言われないと良いのだが。
心配するゆみに、京太郎は苦笑を浮かべた。
「男に泣き顔を見られたくはないもんでしょう。俺は男子で団体戦のメンバーでもないですしね」
「衣だったらきょーたろに慰めてほしいぞ!」
「そういう時は飛んでいくよ」
「やはりお前はデキる弟だな!」
姉は嬉しい! とひっつく衣を苦笑を浮かべながら京太郎はあやしている。姉と弟というよりは兄と妹という風だ。
「それじゃあ、俺は龍門渕の方に行ってきます。モモ、あとはよろしく」
「まかされたっす」
でるタイミングを伺っていたのだろう。いきなり現れたように見える桃子に、衣が小さく悲鳴をあげた。本人の資質によっては見えるとは聞いているが、今のところどういう状況でも自分を捕捉できる人間は京太郎以外に出会ったことがないという。
(本物の巫女さんとかなら見えるって京さんは言ってるんすけどねー)
平素の桃子はそんな感じである。他人には見えないことが普通であると、捕捉されないことそのものにはそれほど思う所もなくなっているようで、むしろ見える人間が増えることは京太郎の価値が下がるようでやめてほしいと思っている節さえあった。
「蒲原たちは?」
「先輩が戻ってくるの待ってるっすよ。むっちゃん先輩だけちょっとブルーになってるっすけど」
「他になかったとは言え、津山には悪いことをしたな……」
鶴賀の麻雀部でその実力を順番に並べた場合、睦月は五人の中でちょうど真ん中になる。団体戦のセオリーは強者を先鋒に置くことであるが、それはへこまされたとしても取り返せる見込みのある、ある程度選手層が厚いチーム向けの戦略である。
五人しかいない鶴賀ではスタートダッシュに失敗した場合のリカバリーができないと、リスクは承知の上で後半で取り返す戦法に的を絞ることになった。副将桃子、大将ゆみはその時点で決まったようなものであるが、では誰に先鋒を任せるかということで二人に次ぐ実力ということで睦月が選ばれた。
事実上他に選択肢がなかった故のオーダーであるが、なし崩し的に強者ばかりが集まる先鋒を押し付けてしまったことをゆみは気にしてもいた。おまけに彼女は残りの人員的に三年が引退した後の部長も任せることになる。
これで麻雀が嫌になったりしていなければ良いがと思うが、こればかりは本人の気の持ちようによる。真面目だし向上心もある。ゆみの目から見ても良い後輩であり、良い選手だと思うのだが。
押し付けてしまった自分の考えることではないな、とゆみは桃子を促して廊下を歩き始める。誠心誠意ケアはする。共に切磋琢磨してくれた睦月のことを信じる。後はなるようになれだ。
睦月の話を振ってからこちら、難しい顔をしているゆみを気にした桃子は彼女にしては明るくわざとらしい声で、
「咲ちゃんの話ではお姉ちゃん、高校卒業したらこっちに戻ってくるらしいっすよ」
「……待て、それはここで私に話しても良い話か?」
「良いんじゃないっすかね。IH終わったら発表するって言ってたっす」
それはIHが終わるまでは言うなということのような気もするがバレた所で精々プロチームが肩透かしをくらう程度だ。宮永照にとっては大した問題ではないのだろう。
現段階でも個人団体で二連覇。今年も勝てば団体では前人未踏の三連覇だ。白糸台はワンマンチームでは決してないが、照が最大の功労者というのは疑いがない。高卒プロの経歴としては過去最高と言っても良く、どこのプロチームも最高の条件で彼女を迎え入れようとするだろう。
桃子の情報は身構えているプロチーム全てに肩透かしを食らわせるものであるが、プロにならないというのならばともかく最終的になる予定なのであれば、話が先送りになっただけのことだ。プロチームからすれば慌てるようなことではないし、インカレのタイトルまでつくのであればその方が箔がつくとさえ言える。
中には早い段階でプロになれる実力があるのならなるべきという人間もいるだろうが、プロスポーツと異なり麻雀は故障による引退というのは極めて稀である。タイトルなり将来のことを理由にされれば、大抵の大人は手を引っ込めざるを得ない。一人の少女の、ましてスターになる可能性のある少女の人生というのはそれを利用しようという人間にとっても、どうしようもなく重いものなのだ。
プロチームが手を引くとなると今度は全国の大学が本格的に動き出すはずだが、夏の大会が終わる前に地元に戻ると妹に言っているくらいなのだから、通う大学も決めていてもおかしくはない。元より麻雀でこれだけ結果を出しているのだ。麻雀部があればどこの大学にでも潜り込めるだろうが。
「本音は京さんとしばらく離れてたから一緒にいたいってだけだと思うっすけど」
「モテてばかりで羨ましいな須賀くんは。ちなみにどこの大学希望か聞いてるか?」
「国立にするって言ってたっすよ。長野だとあそこが一番麻雀強いからって」
「上手くすれば同級生か……」
図らずも自分の希望進路と重なったことに、にわかに胸がときめくゆみである。大学でも麻雀を続けるつもりであるが、インターハイで大活躍した選手が同期になるのであれば、その前で恥ずかしい麻雀を打つこともできない。
入学するまでの間に、より一層の研鑽を積む必要があるだろう。受験勉強もおろそかにできない訳で。ともすれば、部活を引退する前よりも忙しくなりそうな自分の近い将来に、しかしゆみはときめきを覚えていた。
「それから蒲原先輩が全国大会は観戦に行こうって」
「親戚の家に泊まらせてもらえるのだったか……」
勝って全国に行くつもりだった時から出ていた話である。智美の親戚が都内に住んでいるらしく、顔を見せろとうるさいのだそうだ。宿泊費浮くぞー、というのが智美の言い分だったのだが、勝った場合は流石に学校から移動費も宿泊費も出るだろうから、予備の案の一つということで事実上廃案になっていたものだが、決勝で敗北したことで事情も変わった。蒲原家の親戚殿にとっては願ったり叶ったりの状況だろう。
「負けたチームが観戦に予算出してもらえる訳もないっすからね。全部お小遣いで賄うのも厳しいっすから、ここは甘えておくのが吉っすよ」
割り切りの上手いことであるが、ない袖は振れない。この借りは後で蒲原に直接返すことにして、ゆみは考えていたことを切り出した。
「夏休み中に龍門渕と練習試合を組もうと思うんだが、どう思う?」
「良いっすね。むっちゃん先輩とか喜ぶと思うっす」
「須賀くんが天江と姉弟らしいから、どうせなら清澄も一緒に誘おうと思うんだが」
二校だけでも鶴賀の立場からすれば密度の濃い練習ができそうであるが、それだと全体の実力で大きく勝る龍門渕に旨味が少ない。その点清澄もいればあちらも受け入れやすくなるだろう。麻雀という競技の性質上、卓さえ確保できるのならば多少人数が増えようと大した問題ではないのだ。
「京さんなら二つ返事でOKって言うと思うっすよ。で、京さんが行くなら咲ちゃんたち三人は来てくれて、先輩二人もまぁ、多分来てくれるんじゃないかと思うっす」
「どうせなら全員まとめて来てほしいものだが」
「先輩二人のことはあまり知らないんすよね……おまけに部長さんは受験生だし」
「言われてみれば私もそうだったな。勢いで決め過ぎた感があるが……一度向こうの部長と話し合ってみるとしようか」
「何なら風越も誘ってみたらどうっすか?」
「確かにそれが理想ではあるな」
「京さんがあっちのキャプテンと一緒にケーキ作るくらい仲良しだって、咲ちゃんが恨み節を言ってたっす」
誘うなら京太郎を使えという桃子の言外の提案には、言葉とは若干異なる桃子の恨み節が見えたような気がした。全ての学校にガールフレンドがいるのではあるまいな、と心中でゆみは苦笑する。
まるでラブコメ漫画の主人公であるが、ヒロインではない所のゆみはそれを気にしなかった。何より今は風越とのコネである。桃子の恨み節が聞こえようと、それで話がスムーズに進むのであれば何でも使わせてもらおう。
自分で言い出したことのはずなのにつられて御機嫌ナナメになった桃子を宥めながら、ゆみは今後の算段を立て始める。出遅れはしたがスタートは切ったのだ。ならば後は、走り続けて勝利を得るのみだ。
「戻ったぞ」
「おじゃまします」
あれだけの逆転劇を食らったのだ。いくら衣とは言え少なからず凹んでいるだろうと励ますつもりで身構えていた龍門渕の面々は、その衣が京太郎の肩に乗りながらご満悦で戻ってきたことに肩透かしを食らった。
どうやら励ます必要はなさそうである。難しい少女は大抵、愛する京太郎が一緒にいればどうにかなるのだ。辛気臭いことをしなくても良くなったことを察した一同の中で、最初に動き出したのは純である。
「おいおい、勝ったチームの奴がどうしたよ。俺たちを笑いにきたか?」
「まさか。うちの部長がちょっと俺が同席するにはアレなことになってしまったんで衣姉さんと一緒に避難してきました」
「清澄の部長、暴れ出したりでもしたの?」
「そういう訳ではないんですが……まぁ、男は一緒にいない方が良いかな、という状況になりましたもので」
言い難そうな物言いの京太郎に、一は追及を諦めた。彼は気を回したつもりのようだが、おそらく、気の回し過ぎだろうということも察している。そういう時でも一緒にいてほしい、ってこともあるんだよ、と自分たちのことであれば忠告したろうが、清澄のことは清澄の事情なので黙っておく。特に部長はムカついたばかりであるし。
「まぁそんな訳なので長居はできないんですが少し御厄介になります」
「お茶どうぞ」
衣を膝に乗せてソファに座るとすかさず歩がお茶を差し出す。今か今かとタイミングを計っていただけあって、万全のタイミングである。少し驚いた様子の京太郎が笑顔で礼を言うとすまし顔でフェードアウトするが、京太郎の視界から出ると大きくガッツポーズをしたのを京太郎と衣以外の面々は見逃していなかった。
「しかし何だな、すぐ戻るっつーなら長話もできないな」
「感想戦でもしますか?」
「それは後にしたらどうだ? とーか、鶴賀のが練習試合をしたいと言っていたぞ。できれば夏休み中と言っていたがどうだ?」
「願ってもないことですけれど、それは明日の個人戦の結果次第ですわね」
エントリーしている選手の試合禁止は同じ県の代表には適用されないが、本戦に出場するかしないかは夏休みのスケジュールに大きく影響する。細かい予定を立てるのはお互いのためにも個人戦の結果が確定してからの方が良いだろう。
その辺りの事情については鶴賀も同じはずなので、夏休み中とは言っているが返事はそれほど急いでいないことは察せられる。
「その練習試合清澄も混ぜてもらって良いですか?」
「それは構いませんけれど、そちらの事情は良いんですの?」
「事情?」
「おお、きょーたろでも気の回らないことがあるのだな! かわいくて良いと思うぞ、姉として!!」
後ろ手に伸ばして頭を撫でてくる衣に姉さんの方がかわいいよ、と言ってやると衣はそうか! と嬉しそうに笑った。まるで本当の姉弟であるかのように振る舞う二人に、透華は頬を膨らませた。
「衣、京太郎は私たち全員の弟でしてよ」
「きょーたろ。とーかは衣たちが仲良しなことが羨ましいようだぞ!」
「衣!」
透華に怒鳴られると衣はさっと京太郎の影に隠れた。衣相手に大声を上げることも珍しい。京太郎が視線を向けると、透華は照れ臭そうに視線を逸らした。自分の行動と言葉が年下の弟分に恥ずかしかったからである。
「つまりはあれだな。皆で仲良しになれれば良いってことだな」
「随分雑なまとめかただけど何か良い案でもあるの純くん」
「まぁな」
ふっ、とニヒルに笑った純は京太郎を前に大きく腕を広げる。
「来な、京太郎。バチクソに抱いてやるぜ!」
「……まさかと思うんだけどさ、純くん。もしかしてそれかっこいいと思ってる?」
「いや、俺はちょっとだけきゅんと来ました」
「京太郎もちょっと感性おかしいよ!」
「お子様な国広くんには解んねー世界なのさ。そんな訳だから京太郎。何かの間違いで女になることがあったら俺んとこ来いよ?」
「最近そういうの流行りらしいですからね。もしもの時はお願いします」
緊張した様子の京太郎が、純の腕の中に飛び込んでいく。京太郎は男子の中でも身長の高い方であるが、純はそれを上回っている。人の好みは好き好きにしても、客観的な男前度でも純の方が勝っているため、純はスカート、京太郎は学ランを着ているはずなのに、何故だか京太郎の方が女役に見える。
「何でしたら我が龍門渕家でメイドとして雇って差しあげましてよ。歩と京太郎の二人体制なら、衣のお世話もより盤石になることでしょう」
「楽しそうだな!」
透華と衣。従姉妹同士は純と一緒に盛り上がっているが、残りの三人の少女の反応は渋い。中身が京太郎ならばガワが何でも良いという三人と、できれば男の子が良いという三人に綺麗に分れた形である。
「じゃ、次は透華の番だな。思い切りやってやれ」
「さあ、京太郎。バチクソに抱いてやりますわ!」
腕を広げる透華に、また飛び込んで行けば良いのかと身構える京太郎だったが、京太郎の予想に反して、透華は腕を広げたまま飛び込んできた。体当たりするような勢いで突っ込んできた透華を、京太郎は慌てて受け止める。勢いを殺し切れず、ぐるーりと振り回す結果になってしまったが、透華本人は楽しそうで見ている衣も歓声をあげている。
透華は決して身長が低い訳ではないのだが、長身の京太郎と比べると聊か小柄である。ただ『抱く』のであれば腕を回す場所はどこでも良かったはずだが、透華は当たり前のように首に手を回すことを選んだため、必然的に透華の顔は、息がかかるくらいまで近くにきた。得意げに微笑む透華の顔が間近に見える。
「……抱いてやる、なら待ちでは?」
「攻めの姿勢は私の流儀でしてよ!」
なるほどこれが解釈違いという奴か、と納得して京太郎は大人しく透華の背に腕を回した。今までの人生ではスキンシップ多めの女友達も多くいたが、大抵は距離が近いとかその程度で抱き着いてくるとなると少数派だった。その上で、抱き着いてくるタイプは今の透華のようにぎゅっと強く抱き着いてくるので、男の京太郎としては役得なのである。
だが難しいもので、これで鼻の下を伸ばして居たりすると、霞姉さんなどから不思議な巫女パワーでふっ飛ばされたりもする。かといってそれを抑えた仏頂面をしていると、それはそれで文句を言われるのだ。デレデレせず、かといって興味なさそうな態度はもってのほか。男の修行というのは辛く厳しいものなのだ。
「さて、次は一ですわね!」
「だな。国広君は感性違うみたいだから、そこはかとなく気合込めて言ってやれよ京太郎」
「……まってください。バチクソ俺が言うんですか?」
「国広君に言わすつもりだったのかよ。元々男が言うようなセリフなんだから何も問題ないだろ。将来の練習と思ってほらほら」
いきなり羞恥プレイが始まってしまった。できれば回避したいが、既にバチクソをやった透華と純だけでなく、衣まで味方してワクワクしている。何事も多数決で決まる訳ではないが、龍門渕に至っては大抵、行動の方針は透華か、押しの強い純が決めている。この上衣まで加わっているのでは、これを覆すことはできない。
そもそも、女性の頼みを断ることに精神的な抵抗を覚える京太郎にとって、NOという選択肢は存在しない。どんなに抵抗を覚えたとしてもやるしかないのだ。
これで一が嫌そうな顔の一つもしていれば、それを言い訳にもできるのだが。視線を向けた一は胸の前で手を組んで俯いているだけだった。主張はないが、少なくとも嫌そうではない。京太郎の内心を汲んで反対はしてくれないだろう。これで決行は確定的になった。
回避できないとなればもう、覚悟を決めるより他はない。意を決し、大きく息を吸った京太郎は、
「来な、一。バチクソに抱いてやるぜ」
純を真似て、可能な限り声を作って言ってみた。誰かが笑ってくれれば即座に笑い話にできたはずだが、返ってきたのは耳に痛いくらいの沈黙だった。生きた心地のしない中、唯一、状況を打破できるはずの一に視線を向ける。
胸の前で手を組み、うつむいたままの一は、足を摺るようにしてゆっくりと進み、京太郎の胸に頭を押し付けた。手は組んだまま、頭を押し付けても姿勢は変わらない。どうしたら良いのでしょうと周囲を見ても、誰もが視線を逸らすばかりで答えをくれない。
これは新種のいじめなのかしらと途方に暮れていると、一がこつこつ、頭突きをしてきた。バチクソに抱けという催促だと解釈した京太郎は、一の身体の小ささに気遅れをしつつも、そっとその小さな身体に腕を回した。
バチクソには程遠い、ともすれば抱擁とも言えないものだったが、一からは文句はでなかった。これはこれで良いかもな、と胸を締め付けつつも、甘い雰囲気に酔っていると、それを邪魔するかのように、スマホが震えた。
「久さん、どうしまし――」
『自分が清澄の子だってこと忘れてない? 遊び歩いてないでさっさと戻ってきなさいっ!!』
一方的に言うだけ言って、久は電話を切ってしまった。大声だったからか内容も漏れていたようで、うつむいたままの一以外は苦笑を浮かべている。
「うちの部長がお呼びのようなのでこれで失礼します」
「聞こえたよ。どうしても怒りが収まらないようだったらバチクソに抱いてやれ。それで許してくれると思う」
「火に油を注ぐようなことになるんじゃないかと思いますが……」
「笑いは取れると思うぞ? まぁ、最終手段とでも思っておけよ。平謝りするのが一番だろ」
「それがいいですね。それじゃ」
と、軽い挨拶で京太郎は控室を出る。怒り声ではあったが、清澄の子と言ってくれたことが何だか嬉しい。県大会を優勝したのだという実感が、今更ながら湧いてくる。自分はそのメンバーではなかった訳だが、その優勝に少しでも貢献できたのだとすればすごく嬉しい。
あの調子だと戻ったら大分小言を言われそうだけれども、それも笑顔で聞けそうな気がした。
「……それじゃ、僕は用事を思い出したから帰るよ。明日は休むかも。またね――」
「逃がしません!」
「確保」
「ちょ、二人ともやめてよ。薄れる、薄れるから!」