昼休みが終わり、午後の授業が開始される。
いつもは比較的しっかり聞いているはずの授業に、身が入らない。手は機械的に板書を書き写すだけで、内容が僅かにも入ってこない。何故かと言えば、理由は分かりきっている。
…紅葉のことだ。
雪哉に言われたことが、ずっと耳に残っている。頭のなかには、昔の紅葉の声がこだまする。このままでいいのか?と、そう問いかけて来るような、そんな気がして、目を閉じた。
「もう、止めてくれよ…」
ほんの小さな呟きは、談笑に掻き消されてしまった。
放課後。
日が傾いてきた頃の時間帯にようやく仕事を終えた蒼空は、忘れ物を取りに教室へと向かう。教務の先生が鍵を閉めていませんように、と祈りながら教室の扉へと手を掛けた。が、無情にも扉は開かない。
がくり、と項垂れていると、背後から肩をちょん、ちょん、と控えめに叩かれる。運動部も帰宅を始めるようなこの時間に校舎に人間が残っていることに驚きつつ、後ろを振り返る。何故だろうか、後ろにいる人物が、紅葉であって欲しいと思っている自分がいて、その事に、自分自身に嫌気が差した。どれだけ遠ざけても、どれだけ拒否されようとも、しようとも、心は、体は、彼女を欲していた。だからだろうか、視界に彼女が入ってきた途端に心臓が確かに跳ねた。
「なぁ――――」
声を掛けようとすると、ぐいっと顔に布が押し付けられる。紺色のジャージ。俺が忘れていたもの。
「忘れてたから、これ…」
覇気の無い、どこか怯えたような、寂しそうな声で紅葉が言う。紅葉を見ると、目があった途端にぱちっ、と目を逸らされてしまった。
「それじゃ、僕は帰るから…」
そう言って、紅葉は踵を返す。そのままそそくさと立ち去ろうとする紅葉の腕をつかんで、その場に引き留めた。
「なにさ。」
こちらを一瞥もせず、嫌そうに紅葉が言う。
「もう、結構暗いだろ、外。どうせ帰り道だし、送って行くよ。」
一瞬の沈黙。それを破ったのは紅葉だった。
「勝手にすれば。」
「…ああ。」
歩きだした紅葉の半歩後ろを、ゆっくりと歩いていった。
帰り道は、両者共に無言だった。
少年は、この機を逃すまいと少女に言葉を掛けようと、必死に口実を探してはいるものの、なかなか話しかける勇気がなく、躊躇っていた。
一方で少女は、昼を過ぎた頃から自身を襲う偏頭痛に頭を悩まされていた。なんとか放課後まで耐え、少年が忘れていた運動着を渡し、そのまま送っていって貰う。もし途中で倒れたら、きっと彼は助けてくれる、それに、話したいことがある。
そんな想いとは裏腹に、頭痛はどんどんとひどくなって行く。時折車が通りすぎる音が、子供達の笑い声が、耳を通って、少女の頭につんざくように響いた。
「―――っ…」
思わず頭を抑え、うずくまる。
痛い。痛い。痛い。痛い。
頭が、割れそうなほどに――――
「紅葉!?」
心配そうに声を張り上げる、少年。支えるために、差し出された手。美しき助け合いの精神。
だが。
「うるさい!うるさい!うるさい!」
少年の、その手は、空を切った。
一体何が、と少年は疑問を感じる。知覚したのは、はね除けられた自身の手。うずくまる紅葉。そして、彼女の絶叫。
助ける事さえ、許されないのか。
少年は、溢れそうな涙を必死に押さえた。
やはり、違ったのだ、と。
「もう、やめてよ…」
少女は、駆け出した。何かを振り払うように。
少年は立ち尽くした。まるで、足が棒になったかのように重い。
次第に彼らの間の距離は離れていく。足が動くようになった。でも、彼女はもう視界から消えていて。
振り返ることすらなく開かれたその距離は、もう届かないほどに広くて、それがまるで、彼女と自分の心の中に出来た、大きくて深い溝のようで―――
少年の、心に灯っていた力強い炎は、力なく風に煽られていた。