タイトルが、で止まってるのはわざとです。ミスではありません。
もう夏は終わったのかな?今年も達成出来なかった理想の夏を膨らませたお話です。宜しくお願いします。
その日、彼女が海を見に行こうと言ったので、僕は久方ぶりに足が棒になるまで歩いた。長いこと引きこもっていたせいで、最後には一歩ごとにゼェゼェ言いながら踏みしめる始末だった。僕に押されながら車椅子に乗った彼女は、そんな僕を見て笑っていたけれど、そこに微かながら確かな悲しみが混じっていたのを、僕は今も覚えている。
僕達が住んでいたのは、海から5キロ以上は離れた小さな町だった。バスはあったが、彼女が乗りたくないと言ったから、こうして歩いてきたのだ。
海に着くと、潮の香りと熱気を孕んだ特有の匂いが鼻をついた。彼女は静かに海を眺めながら、「暑いね」と言った。そうだね、と僕も返した。
この日は、その年で最も暑い日で、立っているだけでも汗が出るほどだったから、僕らはもう到着の頃には汗だくだった。海へ向かう道の途中で、馬鹿みたいに空を見上げる向日葵がいくつも咲いていて、僕はそれを冷めた目で見ていた。
海の家で買ってきたアイスクリームを彼女に渡してから、僕達は防波堤に並んでそれを食べた。一口ごとに甘ったるい巨峰の匂いが鼻を抜けるのを感じながら、僕は左で同じように紫色の甘味にかぶりつく彼女を、不思議な感慨と共に見ていた。
彼女────神谷 凛は、僕と似ているようでまるで違った。
僕も凛も、小学生の頃から人付き合いが苦手で、どうにも友達と生きるということは苦手だった。この時だって、中学三年生の夏休み明け最初の学校だったが、僕達は登校しようとは微塵も思っていなかったのだ。
ちなみに、僕達に親はいなかった。おばあちゃんっ子というやつで、家も近かったからお互いの家に何度も遊びに行ったが、その度にお互いの祖母にものすごく世話になっていた。この日のようなずる休みだって何度もしてきたけど、その度に学校からかかってくる電話を、何かしら理由をつけて誤魔化してくれていた。
中三になっても僕と凛の関係が続いていたのは、人が苦手な特徴と、僕達の社会不適合を見守ってくれる環境があったおかげかもしれない。
とにかく、僕達は似ていた。しかし、凛は僕と比べ物にならないほど、優しく、強い人だった。それに僕が気付いたのは、小学五年生の、やはり夏だった。
学校で、とある男子児童が、突然凛を指差し、「いいよなー、お前は楽で。毎日座ってられるんじゃないか。」と言い出した事があった。本人からしてみれば他愛もない冗談だったのだろうが、それを聞いていた人は、僕を含めてみんないい気はしていなかった。
教室内の空気がピリッとしたのを肌で感じ、まずい、と思った。しかしそれはあまりに遅くて、その直後には、一人の真面目な女子が「やめなさいよ!」と叫んでいた。その一言で堰を切ったように周りもそうだそうだと言い出して、一気に責め立てられたその男子は激怒した。悪い予感通り、このままでは、先生がやってくるまでの大喧嘩になることは間違いなかった。しかし、かといってこういう雰囲気の苦手な僕に、止めに入るのは無理だった。
そして、どうしようかと僕があたふたしていた時に、凛が言ったのだ。
「大丈夫」と。
それは、その時金切り声を上げていたクラスメートなんかよりも、遥かによく通る声だった。
その声に言い争いがピタリと静止し、全員が彼女のことを見た。
「私は大丈夫。だから、みんな落ち着いて。」と、凛は続け、そして、笑った。しかしその声にも、笑顔にも、少しの気負いさえ見られなかった。
それはあまりにも気高く美しい一言だった。その一言は、遂に口論を止めてしまったのだった。
あの後、誰にも見られないところで悲しげな顔をしていた凛が、深く印象に残っている。
このことを通して、分かったのだ。神谷 凛という女性は、例え自分が苦しい思いをしていても、周りの空気の為に自分の犠牲も厭わない優しさと、そのために声を上げられる強さを持った人なのだ、と。
海を見ている普段通りの彼女にも、その優しさは見えてきた。長くふわりとした黒い髪と、均整のとれた精緻な造りの顔は、見るものに無限の慈愛さえ感じさせた。
彼女のそんな様を見る度に、僕はどうだ、と考えさせられた。
僕は今も、自分は名前負けしていると思っている。荻野 空矢────どこまでも空を飛べるように、という大層な祈りがこもっているらしいが、その祈りは僕には重すぎた。つまり僕は、人と話すこともままならないし、自分の為に簡単に嘘だって吐ける不誠実の塊で、どこまで行っても羽ばたける人間ではなかった。
実際は人間なんてみんなそんなもので、それを自覚しているだけ僕はましだったのかもしれないが、名前を呼ばれる度に自分の不誠実を認識してしまうようで、僕は自分の名前が嫌いだった。
凛は一体、どうしてこんなに強いのだろうか。車椅子に乗り始めた時も、人前では辛い素振りの一つも見せなかった。
凛が車椅子に乗りだしたのは、小学二年生くらいの頃で、それは本当に突然だった。前の日までは僕と普通に遊んでいたのに、次の日になると車椅子だった。どうしたんだと僕が聞くと、凛は全く変わらない調子で「足と手がね、動かなくなっちゃったんだ。どうしてなのかは、何にも分かんない。」と言ってみせた。
他人の僕ですら動揺していたのだから、本人はもっと落ち込んでいたってよかったのに、普段と同じ笑顔でいた。そんな強さは僕には無かった。
傲慢な考えと言われるかもしれないが、僕は人間的には凛と限りなく近しいところにいられたのかもしれない。凛は僕から邪な部分をすべて取り除いた様な人だったと思っている。近付こうと思えば近付けたかもしれない。でも結局、そんなことは僕には出来なかった。だから僕は昔からずっと、そんな凛に深い憧れと好意を持っていて、しかし口にすることは無かった。
「ねえ、荻野くん?」
不意に凛が言った。
「あなたには···どうしても戻りたいと思えるくらいの過去がある?」
突然の問いで、僕はしばらく何も言えなかった。
彼女は続けた。
「私達、この社会に適合して生きていけているとは、お世辞でも言えないよね。なら、私達はどうして生きてるんだろう。何か、忘れられない強い思い出があって死ねないとか、そういう理由があるんじゃないかなって、そう思ったの。だから、それを聞きたいんだ。
滅多にないもん、荻野くんのそういう話が聞ける時なんて。」
僕は苦笑した。
「僕はそんな面白い過去なんて無いよ。」
「そう?でも、それでも私はあなたの過去が知りたい。」
全く迷う様子もなく言葉を返す彼女に、僕はぽかんとしてしまった。まさかこんな展開になるとは思わなかった。しかし、いかんせん何を話すかのレパートリーもなく、僕は考え込んだ。
適当に頭の中の記憶を探っていくと、ようやく一つ、確かに輝くものを見つけた。
「あ···」
「何かあった?」
「うん。大した事じゃないけど、凄く鮮明に残っている日があるんだ。」
柔らかい潮風を感じながら、あの日もこんな優しい風が吹いていたなと思い出していた。
あれは確か、小二の始めだった筈だ。
例によって笑うことが少なかった僕は、その頃からすでに周りから疎まれていた。今となっては何があったか思い出せないが、その日はやけに落ち込んでいて、学校から帰るやいなや、夕飯も口に入れずにすぐにベッドに潜った。泣いているうちに眠ってしまって、きっと全部忘れられるだろうと、そんなことを考えていたのだろう。
しかし、僕はなかなか寝付けなかった。暗い気持ちがどうにも収まらず、寝ることさえままならなかった。
こんなことではだめだ、早く寝なきゃと思う度に脳が冴えていくような感覚がして、布団の中で気が狂いそうになっていた。
しかし一度、被っていた布団から出て、古い目覚まし時計が律儀に午前三時を指しているのを見て、僕の心はとたんに鳴り止んだ。
なんと表現すれば良いのだろうか。それまでずっと日をまたぐまで起きたことなどなかった僕にとって、その時計の指す時刻はとても興味深かったのだ。自分は見たこともない世界で、実際は数え切れないほどのものが眠らずに動いている、と思うと、眠れないのが自分だけではないんじゃないか、という感覚があって、少し楽になっていた。
じっとしていたくなくて、僕はゆっくり立ち上がって、部屋の窓を開いて空を見上げた。ネオンライトが少なくて空によく映える春の大三角や、時折走っていく流れ星をしばらくぼんやりと眺めていた。その限りない空に僕の虚しさが少しずつ溶けていくようで、心地よかった。
そして星を見て五分ほど経った時、僕はそれに出会った。
空に向けていた目を少し地平へと落とすと、遠くの方が青く燃えるように光っているのに気が付いた。思わず目を凝らして見てみると、それはどうやら海の方だった。
一体これは何なんだ、と僕が思った瞬間────その光は、爆発した。
それはもう圧巻だった。青緑の光が深夜の空に静かに舞い、キラキラと儚く光って消えていく。その様は、精緻な打ち上げ花火の様だった。
時間にすればわずか十秒程度の事だったが、その光の舞いはどこまでも鮮烈に、僕の頭に焼き付いていた。呆気に取られる僕の部屋で、柔らかな風が笑った。
「情けない話だけど···僕はあの光に救われてたんだよ。」
苦笑いしながら、僕はそう言った。
あの光を見た後、自然と涙が溢れてきた。その時に僕は、僕自身に生きる希望を見出せていなかったことに気付かされたのだ。
まだ大した日々を歩んでもいなかったのに、誰より不幸なような顔で、命なんかいらないと本気で考えていたのだ。
あの光は、それを僕に知らせた。そして同時に、その虚しい考えから僕を救った。
世界にはこんなに美しいものがある、そのことを僕は知れたんだ。この景色を一瞬でも独り占めに出来たんだ────そう思っただけで、僕は胸が張り裂けそうなほど嬉しかった。
その次の日の新聞には、『怪奇・光る海』とかの見出しがあったけれど、そんなことはどうでもよかった。あの光は確かに存在していた。大事なのは、それだけだった。
「あの光を見れたから、僕はペシミズムに取り憑かれたりしないで、少しだけ楽観できてるんだよ。『あの光に出会えるような喜びがまだ世界にあるなら、もう少し生きてみようかな』っていう具合に。」
波音に押されるように、言葉は案外するりと出てきた。話し終えて一息つき、隣の凛を見たとき、僕は少し戸惑った。
彼女はただ黙って俯いていて、顔は見えなくともそこには重たい雰囲気があった。
滅多に見ないその雰囲気に僕が何も言えずにいると、やがて凛は小さく口を開いた。
「···そっか。」
「凛···?どうかした?」
不安になって聞くと、彼女はいつの間にか普段の明るい顔に戻っていた。
「何でもない!ほら、そろそろ帰ろう?お話できたし、海も見れたからもういいよ。」
有無を言わさぬ勢いで彼女が言うので、僕は黙って頷くしかなかった。
また元いた町に戻るのに、かなりの時間があったはずだった。その間に、僕が凛の俯きの理由に気付いていれば、後悔することはもしかしたら無かったのかもしれない。その為に、何か辛いなら、僕に言いなよと気の利いたことも言えたかもしれない。
しかし僕は愚かにも、異変を感じてはいながら、彼女を問い詰めるのを恐れた。自分のような人間が、凛の心に触れるような真似をして、それがもし彼女を遠ざけたら、という不安が、僕のことを留めていた。僕はあまりにも凛に溺れていて、本当に大事なことが出来なかったのだ。結局僕は凛の後ろで車椅子を押しながら、何一つ凛に言えなかった。
その次の日、彼女からは何の音沙汰もなかった。毎日何かしら理由をつけ、僕に連絡してくるのだが、この時は待てど暮らせど連絡が無かった。
中学に上がってから一度も途切れなかった連絡が途切れたことに疑問が湧いたが、きっと家庭で忙しかったのだろうと、大して気にしなかった。
しかし、連絡は一週間待っても来なかった。何も無いその日々があまりに苦痛で、僕は部屋でまともな食事も取らずに蹲っていた。
この一週間に、凛が何を考えていたのか、今となってはもう知る術がない。
結果として、海へ行ってから一週間と二日経ったその日、連絡は来た。
ただしそれは、最悪の形でだ。
祖母が買い物に行き、居間で留守番をしていた時、インターフォンが鳴った。モニター付きなわけでもないので、溜息をつきながら立ち上がってドアに向かった。ドアスコープでその主を確認すると、凛の家のおばあちゃんだった。その悲しそうな顔に、嫌な予感がしてくる。
いつもより重たいドアを開けると、おばあちゃんは僕を見て涙ぐみはじめた。
どうしたんですか、と僕が問うと、おばあちゃんは揺れる声で言った。
「···凛ちゃんがね、昨日の夜、亡くなったの。」
言葉の意味が分からなかった。
脳が理解を拒んだ。
言葉がイメージを伴っていなかった。
亡くなった?
凛が死んだ?
いなくなった?
それは一体どういうことだ?
頭が混乱に支配されている僕に、おばあちゃんは泣きながら続けた。
「···一週間前から、入院してたの。空矢くんを呼ぼうかって、何度も言ったけど、凛ちゃんは、絶対呼ばないでって言ってたから、今まで言えなかった···ごめんね···」
ごめんね、ごめんね、と何度も繰り返すおばあちゃんを見て、いつの間にか涙が溢れていた。
玄関で蝉が転がっていた。
買い物から帰った祖母と共に、凛の病室を訪れた。
埃の一つも見えない綺麗な部屋に、輝かしい白のシーツを纏ったベッドがあって、その上に、小柄な身体が静かに横たわっていた。顔に白い衣が掛かっている。
最後に顔を見てあげて、とおばあちゃんが言った。僕は極めてゆっくりと、その衣を外していった。
やがて、いつも僕が見てきた整った顔が、顕になった。
今にも瞼を開きそうなほどに、それはあまりに美しく自然な姿で、しかし一方でそれは、海から波を引いてしまったように、不自然に静かだった。
凛はもう、この世の者ではない。もう、この世にはいない────その事が、ようやく僕の頭を満たし始めた。それに合わせて凛の顔が頭に浮かんでは消えていく。
笑っている。
どれも笑っている。
そして消えていく。
消えゆくそれらが僕の体から出ていくように、涙が流れ出した。
もう二度と戻ってくることのない凛の顔にそっと触れながら、終わりゆく日々を嘆く蝉のように、大声で僕は泣いた。何よりの救いと正しさを失った僕は、泣くしかなかったのだ。
涙が枯れ果てる頃にはもう夜で、気の早い蟋蟀が泣き始めていた。
凛の葬儀が終わってようやく、僕はその色あせたカセットテープを再生機に入れた。
病院を去る直前に、おばあちゃんが僕に渡してくれた。どうやらこっそり、凛が録音していたらしく、部屋の引き出しにしまってあったようだ。タイトルを書く欄には、震えて大きく崩れた文字で、『荻野くんへ』と書かれていた。動かない手を必死で動かしてこのテープを遺した彼女のことを思うと、また泣けてきた。
再生ボタンを押して数秒経つと、夕立のような音の中から凛の声が浮かび上がってきた。
「···荻野くん。このメッセージを録ったのは、あなたと海に行った日の夜になります。あなたがいつこれを聞いているかは分からないけれど、きっとそう遠くない将来だと思う。私、きっともうすぐ死ぬもん。
今日···海に行った日に、言えなかったことがあったから、言おうと思ったんだけどね。私、あなたの目を見て話す勇気はないから、わざわざこんな手を使いました。
面倒な女でごめんね。でも、あなたにはやっぱり、私の全てを知って欲しかったから。」
えへへ、と凛が笑い、続けた。
「······えっとね、まず、私はあなたにこの病気を、『手足の先が動かなくなる』って説明しました。このさき一生このままだ、とも言ったと思います。
でもそれは嘘です。私の症状、進行形なの。だんだん体の色んなところが動かなくなっていくんだ。最後には心筋まで固まって、私は死にます。昔はまだ壁伝いなら歩けるくらいだったけど、今はもう、首から下の自由はほとんど利かない。このテープ録るのも、実際はすごく苦労したんだよ?でも、今日は何でかすごく体の調子が良くてね。きっと『録らなきゃ』って想いが通じたんだね。」
相変わらず彼女は明るく言った。
しかし、次に続く言葉を、彼女は凄く言いにくそうに言った。
「···それで、ね。私の病気、何が原因かっていうと···貴方の言ってた、海の光のせいなんです。
あの光は、海中に流れ出た化学物質が、酸素と周りの液体を巻き込んで起こる発光反応の光だった。そしてその物質が海岸に多量に集まった所で風が吹いて、一度にたくさんの酸素と反応して、爆発的な光を生んだ。あなたはその光を見たんです。
でも、あの光の大反応の瞬間に、有害な毒素が発生するんです。空気に触れて数秒経てばそれも消えるんですが、その瞬間だけあの光のそばにいると、その物質をもろに受けることになります。
···私もね、実はあの日、辛いことがあって、夜に走って海に向かったんだ。そしたら、あの光に会った。一日経ったら、すぐ症状が出た。身体が、少しずつ固まっていったんだ。
······こんな大変なこと、今まで黙っててごめん。でも、これまでずっと言い出すのが怖かったんだ。自分でも、認めたくなかったから。
本当は今日言うつもりだったんだけど、今日荻野くんは、あの光に救われたって言ったよね。もしあなたにこのことを話したら、あなたはきっとその光の価値が奪われたと感じると思ったの。自分を助けたものは他人を傷つけるものだった、なんて知ったら、あなたみたいな人は素直に喜べなくなっちゃうし、私に同情もしてくれると思った。あなた、底なしに優しいんだもん。」
テープの中の凛は、ずっと悲しげな声だった。普段とは真逆の、彼女の姿だった。
凛の声は続いた。
「···そこまで分かってたのに、結局ここで言っちゃうんだもんね。最低だよね、私。
でも、言うしかなかったんだ。実を言うとね、私、最近口の方も痺れてきたんだ。多分もうじき、まともに話もできなくなる。だから、私の全てを遺すチャンスなんて、もう今しかないんだ。
···最後に、あなたにずっと言いたくて、言えなかったことを言います。
元から暗かった私は、車椅子になって、もっと暗くなった。少しだけいた私の友達も、車椅子に乗った私を見て、私を避けるようになった。こういう場だから言うけど、私のことを擁護しようとする人も、貶そうとする人も、みんな私を変な意味で特別視してるだけだったんだよ。それが私、吐き気がするほど嫌だった。
でも···でも、荻野くんだけは、いつでも私を変わらずに扱ってくれた。こんな私と、大切な友達として付き合ってくれた。本当に、本当にありがとう。
そして、私は────そんな、優しくて大切な荻野 空矢くんの事が、ずっと好きでした。」
一度、二度、鼻をすするような音が聞こえた。
「···へへ、やっぱり緊張するね、これ。テープでこんなだから、直接は一生経っても言えなかったんだろうね。
···今日、あなたに、どうしても戻りたいと思えるくらいの過去があるかって聞いたけど、私なら迷わず、荻野くんと出会えた日って答えます。荻野くんは、私の人生の希望そのものだった。荻野くんがいたから、私は生きられたんだよ。
···それじゃ、もうそろそろ終わろうかな。恥ずかしくなってきた。
じゃあね、荻野くん。今までありがとう。
このメッセージも、いっそあなたに届かなければ楽かもね。とにかくこのテープは、運命の手に委ねます。
···さようなら。大好きです。」
テープはそこで終わった。
僕は、また泣いていた。
そして、いるはずも無い神様と、自分自身を呪った。
どうしてあの海に、あの光が来たのか。
どうしてあの時、二人ともあの光に会ったのか。
人ひとり殺すのなら、それだけで良かった。
人ひとり救うのなら、それだけで良かった。
こんなことを拗らせて、結局誰もが傷つけられるのは、あまりに無益で、非道な仕打ちではないか。
僕は僕で、彼女にあの帰り道でこの話が出来ていれば。多少強引でも、それでも話が出来ていたら。
少なくとも僕達は互いの想いを伝えて、残りわずかな時間を二人で生きられたはずだ。そしてその間に、僕ら二人の拗れだって無くせたかもしれない。
僕と凛を囲む全てが、どこまでも残酷に覆いかぶさっていたのだ。
僕の見た光は、彼女を殺した光だった。
ただその現実が、重くのしかかっていた。
僕がこの悲しみと苦悩に満ちた日々を抜け出せるのは、もう少し経ってからだった。
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「···久しぶり、凛。」
近くの森にひっそりと立つ小ぶりな墓に、僕は花を手向けていた。
凛が死んでから、二度目の盆だ。おばあちゃんが来たのか、墓は綺麗になっていた。
あれから僕は、引きこもった中学生活で失った知識を取り戻すように必死で勉強し、どうにか地元の私立高校に合格した。今はそれなりに楽しい日々を送っている。
僕はあの後散々悩み、生きることを選んだ。
凛に伝えたかったのだ。
あの光は確かに君を殺した。しかしその一方で、僕は確かに救われた。
そこには幸運と不運の偶然の邂逅があっただけで、それぞれの意味はそれぞれが持っている。
だから、君があの光に会ったことと、僕があの光に会ったことは全く別で、僕はやっぱりあの光に希望を持って生きているよ、と。
それは、あの光を呪っていた彼女に僕が送れる、最大限のメッセージだった。
蝉の声がそこら中に散っている。
蝉は命を叫んでいるのだろうか。その声にはどこか、虚しさも喜びも感じられる。
それは人間の生み出した身勝手な条件反射かもしれない。それでも僕は、そうやって鳴き続けることこそが最も美しいのだと信じ、蝉の幸せな生を願っている。
ありがとうございました。
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