(キッドは何で私のところに来るわけ…?)
本当にやめろよ。というか、いつ、どこにくるんだよ…分かんねぇよ…怖い…。
とあるカフェのオープンテラスにて、私は内心うんうんと頭を抱えていた。パンケーキを頬張りながら溜息を吐く。
私がここまで悩んでいる理由はたった一つ。つい二日前にキッドから渡された意味深なカードの所為である。目の前のテーブルにある『後日伺わせていただきます。怪盗キッド』と書かれた紙を見て、頭痛が止まらなかった。
(ベルモットという峠を越えた途端にキッドが来るなんて…。もうやだァ…疲れたよォ…復讐だけに頭を悩ませたい…)
頼むからキッドだけは来て欲しくなかった! 何故なら、あの男は――
―――『主人公』なのだから。
キッドの出典は『まじっく快斗』。その漫画の主人公がキッドである。そんな彼はある時、『名探偵コナン』へゲストキャラとして登場を果たした。一回程度の登場で終わるはずが、気がつけばコナンの準レギュラー入り。その人気はとどまることを知らず、コナン名義で彼がメインの映画まで何本も制作されている。まるで元からコナンのサブキャラかのようだ。
(コナンではサブキャラ扱いでも、彼の本質は『主人公』)
主人公キャラというのは非常に厄介である。どれほどのピンチが降りかかろうとも、生き残ることができてしまうのだ。形勢逆転なんて当たり前。いや、寧ろ、当然のように『大逆転』や『ギリギリでの生存』ができるから、彼らは『主人公』なのかもしれない。
「はー…あのメモを見て、何で『私に会いにくる』って結論に達するんだ…。もしや私の正体を知り、その上で協定を結びたいと思ったとか…?」
ハハッ協定を結ぶのはねーな!
確かにキッドの目標は『前怪盗キッドである父の死の真相究明とその敵討ち』である。しかし、彼は私と同じ復讐者とはいえ、ベクトルが違う。
私は周りから非難されるべき人殺し。まごうとなき人々の敵であり、『悪』だ。それに対して彼は『怪盗紳士』とかいうオシャレ犯罪者さんである。一線は決して越えない『善』の犯罪者。人を殺さないものと、人を殺すものとでは訳が違う。
はーー…善の犯罪者が私に一体何の用だ? キッドの真意が分からなすぎて震えが止まらない。そもそも私が人殺しだってバレてんのか…? 天才キッド様ならあり得るぞ。あいつIQ400の化け物だもん。
えっ、私の復讐はこれでジ・エンドだったりする? キッドって人殺しには容赦ないイメージあるぞ…偏見だけど…。分からないよォ怖いよォ…助けてェ…。
ヘタレる気持ちを抑えようと、パンケーキを口へ放り込もうとした瞬間だった。
「約束通り、参りましたよ」
――――耳元で囁くようにキッドの声が聞こえたのだ。
その刹那、私は数秒間停止する。ドッドッドッと心臓が波打つのが分かった。ツゥと冷や汗が背筋を流れる。突然の出来事に固まり、唖然と前だけ見つめた。地に足が着かない、グラグラとした感覚が己を支配する。
そして、私は唐突に理解した。
理解せざるを得なかった。
(かっ怪盗キッド……?!)
な、な、な、何でお前がここにおるんや工藤ォ…?! えっ、ちょ、まっ、はァ?! 嘘やろ工藤?! せやかて工藤ォ?! 混乱しすぎて西の名探偵の迷言が脳内リピートする…! えっ、えっ、ええぇ?! ……ゆ、夢でも見てんのかな……ハッハッ最近心労が酷いからなァ。幻聴でも聞いたんだろ。毎日、悪夢ばっかりだし!
私はアメリカン風にHAHAHAと内心で笑って横を見る。横にいた男が「失礼しますね」と言いながら、私の前の席へ座った。彼はピッと怪盗キッドのマーク入りのトランプを取り出す。小さなそのマークがやけに大きく見えた。私は思わず素早く視線を下へ下ろす。後悔した。
(夢じゃねぇ! キッドだコレ…。間違いようもなく怪盗キッドだコレ! どうもありがとうございました!)
なんなの。本当になんなの…?! 突然、来るのやめろよ…! 心の準備ができてねぇから! いや、心の準備ができたとしてもお前とは会いたくねぇけど! ――――そうじゃない! 話が逸れすぎている! あんまりな現実に思わず別方向へ逃げてしまった!
(動揺を見せてしまえば向こうに主導権を握られてしまう。あくまで余裕たっぷりに振舞わなきゃ)
足ガックガクに震えてっけどな。キッドにはバレバレかもしれないが、とりあえず『分かってますよ』な雰囲気を出そう。全然理解してねーけど。
私はキッドを見据える。目の前にいるキッドは変装しており、20代後半のサラリーマンのような装いだった。平凡な顔立ちのキッドに違和感を抱きながら、私は口を開く。
「………どなたでしょう?」
「既に分かっていらっしゃるのでしょう? これを渡しておいて、惚けるのも程々にお願い致します。美しい女性にこのような物言いはしたくありませんが…」
渡したつもりはねーんだよ私は!
間違えて森谷帝二さん宛を貴方へ渡してしまっただけなんです…! マジですみません。お引き取りいただけますかね?!
つーかさァ、『これを渡しておいて』ってどういうことですか。あのメモには暗号というか、どちらかと言えば合言葉的なモノを書いただけだよ…? どうしてそんな苛立たしく言われなければならないの? 訳が分からなすぎて恐怖しか覚えない。マジで震えが止まんねぇ…。キッドよ頼むから帰ってくれ。
私がガタガタと震えているのが分かったのか、キッドは目を細めた。彼は少し溜息を吐きながら、ピッとメモを取り出す。それは私が間違えてキッドへ渡してしまったメモだった。
「『måne : poul』――それがこのメモに書かれていた文字です」
「へぇ。それが一体どうしたっていうんでしょう? ただの文字の羅列ですよね」
「ええ、その通りです。Måneの意味はデンマーク語で『月』。Poulはデンマークの人名であり、英語のPaulと同じ意味を持つ。これだけ見ればなんて事のない、ただの単語です」
「はぁ…」
何が言いたいんだよオメーはよォ!
ご丁寧にメモに書かれていた文字の訳を説明していくキッド。私的には『それがどうしたの?』なので、眉をひそめた。
ちなみに、このメモの意味は『殺人計画: 中止』である。森谷帝二さんとは暗号の解読方法や合図を常に共有しており、今回の『殺人計画』と『中止』はMåneとPoulだったのだ。
余談だが、この単語を使っている理由は特にない。『意味のない言葉』だからこそ、このメモがもし他者へ渡っても首をかしげるだけで終わるからである。それなのにキッドは何で私の下へ来たんだよ…。もう帰ってくれませんか? あ、帰りませんよねハイ。クッソ世知辛い。
眉をひそめている私を見て、キッドは小さく笑みを浮かべた。そのまま彼は話を続ける。
「使用された暗号形式はアトバシュ暗号とシーザー式暗号」
(あとば……え? なんて? シーザーサラダ??)
「暗号形式の特定は実に簡単でしたよ。貴方がメモに書いたクロスマークと、メモの柄である賽のイラストのお陰で」
「はあ」
「アトバシュ暗号は紀元前500年頃に旧約聖書で使用された暗号です。そして、シーザー式暗号は紀元前100年頃に古代ローマ皇帝、ガイウス・ユリウス・カエサルが考案したもの」
「はあ」
「クロスマークが旧約聖書を表しており、賽のメモはカエサルを表しているのでしょう。カエサルは『賽は投げられた』という言葉などで有名ですからね」
「はあ」
ドヤ顔をするキッドに『はあ』としか私は返せなかった。確かに私はメモにクロスマークを書いた記憶がある。だが、一つ言わせてくれ。
(ただ単に! インクが出るかどうかを! 確かめただけだよ!)
私はインクが出るかどうかの確認をクロスマークを書いてするんだよ! そこに意味もクソもねぇ!! 難しく考えすぎではありませんか?!
というか、アトなんちゃらかんたらとシーザーサラダっていう暗号式って何?! 今まで生きてきた中で聞いたこともないんですが?! いや、ベルモット先生の授業で聞いたことがあるかもしれないけど! 忘れているわそんなもん! それにしてもキッドの知識量が怖いな! 多分、コナンも同じ知識量を誇っているんだろうな! もうこの世界から離脱してェ!
内心で泣きそうな私を置いてけぼりにして、キッドは語り続ける。
「『måne : poul』 の『poul』をアトバシュ暗号で解くと、『KLFO』になります。アトバシュ暗号は順序を逆にする暗号形式です。英語のアルファベットで例えるなら、A〜Zに1〜26の番号を振り、逆順でZ〜Aにも1〜26の番号を振ります。
アルファベットで2番目の『B』を暗号化すると、逆順で2番目の『Y』へとなる。つまり、暗号を解く場合は、『Y』が書かれていれば、『B』と読めばいい」
私に分かるようにキッドはテーブルへ用紙を置く。そこへ右から順番にa、b、cとアルファベットの表を書いていった。同時に逆順のアルファベットをZ、Y、Xも書いていく。
それを見た私は「ふむふむ」と頷く。全くもって分からないが。
「次に来るのがシーザー式暗号。これは元のアルファベットから文字を特定の数だけ後にずらして作成する暗号形式です」
「へぇ?」
「暗号を作る場合、一つだけズラすなら、『A』から『B』へ。二つなら『C』へ。だからこそ、暗号を解く時、例えば三つズラされている場合は『KL』の答えが『HI』になります」
「成る程ねぇ(分からん)」
「それを踏まえて、先程アトバシュ暗号で解いて出た答えの『KLFO』を見てみましょう。これをいくつ戻せばのいいか? 単純明快、二十三です」
「何故?」
「ヒントは『måne : poul』の『måne(月)』にあります。貴方と出会った時、丁度二十三夜でした。つまり、月が満ち欠けて二十三日目だったということ。『KLFO』を二十三戻すと――――
――――『NOIR』。フランス語で黒となる。
そうでしょう? 惚けるのがお上手な幾世あやめさん」
だから何言ってんだお前?!
本当に何の話をしているんだお前…。たった『måne : poul』という二つの単語だけでそこまで深読みする…? 怖すぎる。そして、最終的に『noir(黒)』って単語が出てきちゃうのも怖い。何なのお前。賢いのは痛いほど分かるけど、本当は馬鹿なのかとすら思ってしまうぞ…。オメー今、無駄なことしてっからな。知識の無駄遣いだぞ…。
唐突の意味不明な彼の謎解き。それを受けて、私は微笑むしかなかった。逃げなかった自分を褒めたい。私の笑みを見たキッドは目を鋭くさせる。
「さて、貴方の上の方には会わせてくださらないのですか?」
(え? 上の方…?)
「このような腕試しまでさせたのですから。私は合格でしょう?」
上なんていねーよ?! 私がリーダーだよ?!
てっきり分かっているとばかり…。態々私に接触してきたんだし…。えっ何で?! 私が頼りないから『こいつはリーダーじゃねーな』って思われたとか…? なにそれ辛い。
確かに私は頼りないよ! 凡庸な女だよ! だけどここまで全否定はやめろ! 流石に辛い!
(なんかもう…。疲れた…。私に会いたかったんじゃないんだったら、森谷帝二さんに押し付けよ…)
私は内心で項垂れる。天を仰ぎたい気持ちになった。
はーー…もうキッドのことは森谷帝二さんへ丸投げしよう。キッドの正体など諸々は彼へ既に伝えているし。適当に処理してくれるだろう。
そう決めた私キッドへ向き合う。そして、再び笑ってみせた。今度は怪しく、妖艶に見えるように。
「歓迎致します――――怪盗キッド」
もうどうにでもなーれ!
・
・
・
「さて、単刀直入に申します、怪盗キッド。我々の仲間になりませんか?」
某高級ホテルのスイートルーム。その部屋の奥にて、重厚感のある椅子に深く腰掛けた男がうっそりと笑う。足を組み、両肘を肘掛に置く男からは余裕が窺えた。俺は男の顔を見ようと顔を傾けるが、日差しのせいでよく見えない。しかし、声の質から大体40〜50代程だろうと推測できた。男の言葉を聞いた俺は顎に指を添える。
「この私を仲間に?」
「ええ。かの有名な怪盗キッドが我が組織に協力してくれるとなれば百人力。それに貴方にとっても悪い話ではないでしょう? お父上の仇討ちの為に活動している貴方には特に」
「あなた方の活動理念は『復讐を遂げる』でしたか。確かに仰る通りですが…」
このおっさんどこでその情報を仕入れやがった。
俺――――怪盗キッドこと黒羽快斗は内心では眉をひそめる。本来ならばキッドとしてこのような場所へ俺が来るはずがない。しかし、行かざるを得なかったのだ。理由は簡単。
現在、この男に脅しをかけられているからである。
数日前、俺は『ミステリー・トレイン』でこの男の部下からとあるメモを渡された。メモの内容は『måne : poul』。デンマーク語で『月』と『人名のポウル、パウル、ポール』である。そのメモの暗号を解くと、『poul』が『noir』――フランス語で黒となるのだ。最終的にメモに浮かび上がる文字は、
(『måne : noir』。月と黒)
『月』は月下の魔術師とも呼ばれる『怪盗キッド』。
『黒』は怪盗キッドの正体である『黒羽快斗』。
この真実に行き着いた刹那、ゾッとした。思わずこの俺がその時ばかりは声を失った程である。誰とも分からぬ存在に俺の正体が知られてしまっている! それがどれほど気味が悪く、どれほど驚いたものか。小刻みにメモを持つ手が震えた。
(おいおい、マジかよ。怪盗キッドは常に驚かせる側だってのに!)
ギリッと歯を鳴らす。ぐしゃりと自分の髪を握りしめる。睨みつけるようにメモを見ながら、自分が仕出かした失態に悪態を吐いた。『一体どこでバレたのか』――――必死に頭を回転させ、あらゆる記憶を引っ張り出し、照合し、このメモの犯人を導き出そうとした。
だが、だが、だが、恐るるべきことに『なかった』。なにも、一片たりとも、出てきやしなかったのだ。どんな手を使おうとも、己の協力者の寺井ちゃんに調べてもらおうとも、全く出てこなかったのである。その事実に俺は衝撃を受けた。ゾクゾクっと全身が痺れる。震える唇を噛み締めた。
この俺が!
怪盗キッドが!
――――出し抜かれた!
その考えが頭に浮かんだ瞬間、俺はテーブルに自分の手を叩きつけたものだ。バンッと激しくテーブルが揺れた後、怪盗キッドのシルクハットが床へ落ちた。
自分で言うのもなんだが、俺は他の人間よりも抜きん出ている。でなければ親父の後を継ぎ、怪盗キッドとして活動などできるはずがない。そもそも俺が凡人であれば、既に警察にとっつかまっているだろう。華麗に素敵に獲物を攫い、逃げきるためには並大抵のものでは務まらない。
しかし、そんな俺を『誰か』が出しぬきやがった。この俺様に全く悟られないままやってのけちまったのだ。それが何て恐ろしいことか。それが何て驚愕すべきことか。それが何て――――
「おもしれぇーじゃねーかよォ…」
心踊ることか…!
これは俺に対する挑戦状だ。『この程度のこと怪盗キッドならやってのけるだろう?』と。
確かに最大のピンチだ。どうしようもないほどの崖っぷちに立たされている。俺の正体を警察にバラされてしまえば、一巻の終わりだ。全ては無に
苛立ちはあった。恐ろしさもあるし、気味悪さもあるし、心臓を掴まれるような居心地の悪さもあった。
だが、それ以上に俺は胸を高鳴らせていたのだ。まるであの名探偵と戦ったあの時のような、血が沸き立つ胸の高鳴り。ドクドクと心臓が動く。身体中が沸騰するかのように熱かった。
「これはゲームだ」
そう、これは自分の人生を賭けたゲーム。生と死の瀬戸際のゲームだ。
じわじわと胸にこみ上げる感情に、口角が歪に上がった。喜んでいるのか、怖がっているのか分からない笑みだった。
ああ、これだから嫌になる。俺の目的は親父の仇討ちなのに、こういう奴が偶に現れちまうから嫌なんだ。
(だが、悪くはねぇな)
さぁて、誘いにのってやるか。でなければ『怪盗キッド』の名が廃る。
直ぐに俺はこのメモを渡してきた女性――幾世あやめとコンタクトを取った。この女性と偶然を装って会うのはかなり楽だったものだ。何故ならば、幾世あやめはレストランへ入ると『誰かが邪魔をしないような席』で、尚且つ、『誰かが相席になってもいいような場所』に座ることが多いからだ。
そして、今回もまた。幾世あやめは俺が接触しやすいレストランに入り、人気のないテーブルへ座った。それを見て思わず目を細める。
(ホォー、なるほどね。誘ってやがるのか。あのねぇちゃんも見かけによらねーな)
幾世あやめ。
調べたところ、彼女はあの名探偵と仲がいいらしい。一般企業に勤め、普通の人生を歩んでいる。だが、過去に火事で両親をなくしており、天涯孤独の身の上という少々痛ましい経歴の持ち主。
どうしてそんな人物が俺にあのメモを渡してきたのかは分からない。恐らくは黒幕の協力者か何かだろう。現に幾世あやめは俺と会話している間、ずっと震えていた。『あの』怪盗キッドと対面しているという現実と重大任務に緊張しているに違いない。
そんな彼女との対面中、幾世あやめは何とかのらりくらりと俺の追及を躱そうとする。若干顔は引きつっていたが。誘ってきたのはそちらだというのに、よくもまあそんな表情ができるものだ。まだまだ一般人の域は出ない素人ということか。
痺れを切らした俺は解読した暗号文を突きつけ、『黒幕を出せ』というようなことを言ってみせた。すると彼女は目を見開き、口をつぐむ。
――――次の瞬間、幾世あやめは『笑った』。
妖艶に、不敵に、素敵に、笑ってみせたのだ。今までとは考えつかない程の雰囲気の変化。その笑みを携えたまま彼女は俺へ歓迎の言葉を発した。少しその変化に驚いたが、瞬きをすると幾世あやめはすぐに元に戻った。それを見て、俺は内心でガシガシと頭をかく。
(まあ、あれぐらいの笑みができなきゃ仲介人は務まらねーか)
おーおー怖ぇ怖ぇ。あの名探偵の周りにはおっかねー奴らしかいねーのか。誰よりも真っ先に謎を解き、俺の下へ辿り着く小さな探偵を思い浮かべる。あいつも苦労してんなあと考えながら溜息を吐いた。
まあ、その考えも黒幕に会った刹那、忘れてしまうけどな。
――――出会った男は『教授』と自らを名乗った。
紳士的な態度を取っているが、それが逆に胡散臭い。しかも、奴の隣に浦川芹那がいたのだ。警戒するに決まっている。
(『浦川芹那』――彼女は確か殺人容疑で捕まっていたはず)
浦川芹那には銀行員の恋人がいた。しかし、彼女の恋人は銀行強盗犯の手により殺されてしまう。結果、浦川芹那は復讐のために銀行強盗犯数名を殺害したらしい。
(警察に捕まったはずの人間がどうしてここに?)
そう、浦川芹那は捕まった。復讐は完遂することなく終わったはず。今は刑務所にいる……はずなのだ。そんな彼女が何食わぬ顔をしてここにいる。だが、世間はそれを知らない。
ああ、そういえば最近、生き残った強盗犯の一人が自殺したんだったか。つい最近報道されていたニュースを思い出す。これが意味するものに気がついて、俺は頭が痛くなるのを感じた。
(こりゃあ一筋縄じゃあいかねーな)
奴らは俺の目的を知り、更には正体まで分かっているのだ。俺の命を握られているも同然。圧倒的にこちら側が不利だ。全てが相手の掌の上。自分が転がされていく感覚に舌打ちをこぼしたくなる。
(だが、勝機はある)
奴らは俺に『仲間』になれと言った。この発言には少々耳を疑ったものだ。てっきり真っ向から『利用』してくると思っていた。だが、あくまで奴らは俺と対等な関係になりたいらしい。全然対等ではないけどな! 裏切れば直ぐに俺を切り捨てるだろう。この組織は世間様に出た殺人犯を簡単に仲間にしている。生半可な犯罪組織ではない。それくらい普通にやってくれそうだ。
しかし、逆に言えば、裏切らなければ奴らは俺を仲間として末永く扱うに違いない。
怪盗キッドにはそれだけ価値があるのだ。
(そうだ。俺『は』裏切らなければいい)
教授の言葉にのって、仲間になって差し上げようではないか。仲間として協力しようではないか! なんなら俺の持てる技術を伝授してやってもいい。ああ、そうだ、俺は裏切らない。俺『は』な。完璧に素敵に華麗にお前たちに指示された仕事をしてみせよう。
それを考えた刹那、脳裏にあの小さな探偵の幻影が揺らめいた。
思わず俺は口角を上げる。目の前にいる教授へうやうやしく膝をついた。純白のマントが翻り、床へ落ちる。
「ええ、喜んでその申し出、受けましょう」
この怪盗キッド様がただで転ぶと思うなよ。
――――しかし、この時、俺はまだ知らなかったのだ。
この選択の恐ろしさを。
・
・
・
とある一室にて、二人の男が向き合っていた。部屋は闇に支配され、テーブルの上のランプだけが周りを見渡せる唯一の光となっている。闇の中にぼんやりとランプの光が浮かび、二人の顔を照らしていた。
その闇の中で、二人のうち一人が上品に紅茶を啜る。椅子に深く腰掛け、菖蒲と牡丹一華柄のティーカップに口をつけていた。もう一人はソファーに軽く座り、短剣の手入れをしている。一通りの手入れが終わったのか、短剣から目線を外した後、口を開いた。
「モリアーティ教授、今日は随分と顔色が悪いようだ」
「……あ、ああ…。久々に恐ろしいと感じましてね…」
「貴方が?」
「私には恐ろしいと思う人間が二人いてね。その一人である女性に改めて恐怖を感じたのです」
「ほォ、どんな女性なんだ?」
「凡庸で、平凡で、平均で、取るに足りない、そんな女性ですよ」
モリアーティ教授と呼ばれた男――――森谷帝二は下を向く。紅茶に彼の固い表情が映った。ティーカップは小刻みに揺れ、中の紅茶が波打つ。それを見た短剣の男は不可解だというように片眉を上げた。
「凡庸な女性が怖い?」
「そうです。私も初め、彼女など恐るるに足りぬと思っていました。なんせ彼女は何の力も持たなかった。ありとあらゆる全てが平凡だったのです」
「それが何故、怖いんだ」
「……、……。その通りです。その通りのはずなんです。本来なら『凡庸な女』など怖いはずがない。だが、彼女は凡庸で弱者だからこそ、どうしようもなく、この上なく、
――――恐ろしいんだ」
教授の恐怖は本物だった。全身全霊で彼はその『凡庸な女』に怯えていたのだ。そんな彼の姿を初めて見た短剣の男は目を見開く。『プライドが高く、いつも飄々としているあの男が?』とでも言うように。彼は何かを言おうと口を開くも、言葉は発せられることなく終わった。
何故ならば、教授は次の瞬間には元に戻っていたからだ。いつも通りの余裕ありげな笑みに。それを見て、あれが夢だったのかとさえ感じる。しかし、あれは夢ではない。教授の手の震えにより、カップから溢れた紅茶が作った卓上の染み。それがなによりの証拠だったからだ。
教授は上品に笑いながら口を開く。
「私のことはさて置き。貴方にはやってもらわねばならないことがあるんですよ」
「教授は人使いが本当に荒い。貴方を脱獄させたのは私だと言うのに」
「それについては感謝しておりますよ。だからこそ、貴方に何度も協力しているではありませんか」
「教授程の頭脳の持ち主は中々いないのでね」
「いえ、私なんぞまだまだですよ。さて、それよりも、あの件についてですが……既に手配できていますよね? お願い致しますよ。
――――『ジャック・ザ・リッパー』」
ジャック・ザ・リッパーと呼ばれた男は小さく笑みを浮かべた。
【速報】怪盗キッドが幾世あやめの知らぬ間に仲間になる。
(※但しキッドは裏切る気しかない)