妹が殺人鬼で家族が暗殺者、なのに俺だけ平和主義 ―殺し屋リーベルの勘違い無双― 作:里奈使徒
結局、ソフィアお薦めの職場で働くことを決めたのだが……。
忸怩たる思いはある。何せその職は、ずばり傭兵だからだ。
傭兵……。
金銭などの利益により雇われ、戦闘に参加する兵またはその集団のこと。
カミラの教育上非常によくない職場である。
人を殺して金品を得る。
せっかく実家を飛び出してきたのに、本末転倒だ。
俺が目指していたのは、カミラを普通の社会に溶け込ませることだった。朝起きて、学校に通い、友達と笑い合い、夕方には家族で食事を囲む——そんな当たり前の幸せを、妹に与えてやりたかった。
現実は厳しい。カミラの殺人衝動は日に日に強くなっている。最近では、道行く人を見るだけで「殺していい?」と聞いてくる始末だ。普通の職場など、一日も持たないだろう。
それに、マキシマム家出身の俺たちに、まともな職歴などあるわけがない。履歴書の職歴欄に「暗殺業」と書くわけにもいかない。
だが、しかし、だが、しかし!
今手持ちに余裕がないのは事実。人は霞を食っては生きていけない。
宿代、食費、カミラの衣服代——考えるだけで頭が痛くなる。このままでは野垂れ死にしてしまう。
普通のバイトも、ソフィアはともかくカミラが実践できるとはとても思えない。本当は、カフェの店員とかカミラにさせたかったのだが、いきなりではだめだ。殺しからいきなり離れることはできないだろう。
一般客に「いらっしゃいませ」と言う代わりに「殺していい?」なんて聞かれた日には、店は即日閉店だ。それどころか、カミラが包丁を手に取った瞬間、厨房は血の海になるに違いない。想像するだけで寒気がする。
傭兵ならば、カミラもできる。加えて最近御無沙汰だったから、禁断症状も抑えられるという一石二鳥の考えだ。
さらに言えば、傭兵は、法に従い殺す。
むやみやたらに殺さないという点では一歩前進なのでは?
うん、無理やり自分を納得させる。
背に腹は代えられないのだ。
そんな複雑な気持ちを抱えながら、俺は決断を下した。カミラの幸せのためなら、俺は悪魔にでもなってやる。
そして……。
ソフィアお薦めの傭兵集団【鉄の掟】に着いた。
入団には試験があるらしい。
どんな試練か知らないが、マキシマム家にとっては朝飯前の試練だろう。
うん、傭兵だって職業だ。
暗殺一家よりはまっとうだ。
カミラには、ここで、誰を殺してよいか明確な線引きをわからせたい。
一般人なんてもってのほかだ。敵兵のみ。それも戦場でのみ。そのルールを徹底させよう。
「さぁ、入るぞ」
「殺すの?」
カミラがさっそくやらかそうとする。
俺の説明台無しだな。
ここはただの受付だ。
「殺さない。お兄ちゃんとのお約束覚えてるな?」
「は~い」
カミラを制止し、ドアノブに手をかけ開ける。
ドアにくくり付けてある鈴がカランカランと鳴った。
中に入る。
突然の闖入者に、ギロリと睨む強面の面々達。刺すような視線の中、受付に向かう。
建物内は思っていたより整然としていた。石造りの壁には【鉄の掟】の紋章が刻まれ、歴代団長の肖像画が並んでいる。どの顔も険しく、戦いで死んでいったであろう傷跡が描き込まれていた。
ここは単なる傭兵集団ではない。長い歴史を持つ、由緒正しい戦闘組織なのかもしれない。
受付には多数の行列ができていた。
なかなか人気の傭兵集団らしい。
行列に並ぶ面々を観察してみる。筋骨隆々の戦士、機敏そうな斥候、弓を背負った射手——多種多様な人材が集まっている。
中には明らかに貴族出身と思われる上品な青年もいた。次男坊あたりが家を継げずに傭兵になるパターンか。
ソフィアの口利きというのがどうにも不安だったが……。
たんにソフィアが血を見たくて、人気の傭兵集団を候補に挙げたのか?
人気の傭兵集団なら戦場を何度も行き来するだろうし……。
そんな甘い女じゃないとわかってはいるけどね。あの女の思考回路は、常人には理解不能だ。
「おいおい、ここは子供の来る場所じゃないぞ」
行列に並んでいるメンバーの一人が俺達を窘めた。
常識的な言葉にほっこりとする。
そうだ、その通りだよ。本来子供は戦場に出てはいけないのだ。
「あ、ビリーさん、いいんですよ。彼らは私の知り合いです」
「あ、ソフィアちゃん、本当にいいの? 危険だよ」
その声の主はビリーという青年だった。二十代前半の金髪碧眼の青年で、整った顔立ちと育ちの良さが窺える。服装も上質で、どこかの名家の息子なのは間違いない。
言葉は厳しいものの、瞳には子供を心配する優しさがあった。根は善良な人間のようだ。
ソフィアは手続きのために一時俺達のもとを離れていた。
アポなしで入団試験は受けられないからね。事前の身元照会や推薦状が必要だったのだ。
その短時間の間に、ソフィアはビリーとかいう青年と仲良くなっていたようだね。
ビリーはソフィアにでれでれだ。
ビリーのような坊ちゃんが、なぜ傭兵になろうとしているのか?
家を継げない次男坊の末路か、それとも冒険への憧れか。
いずれにせよ、ソフィアの格好の餌食になってしまったようだ。
さすが元天才女優、本領発揮だな。短時間でここまで男を骨抜きにするとは。
ビリーには気の毒だが、そいつはとんでもない玉だから気をつけろ。手遅れかもしれないが。
「君たちソフィアちゃんの知り合いか。俺はビリー・ハートフォード、よろしく」
ビリーが爽やかな笑顔で自己紹介してくる。ハートフォード……聞いたことがある名前だ。確か王都の大商人の家系ではなかったか。
「俺はリーベル、こっちはカミラだ。よろしく」
一応の挨拶を返す。
「君たちも傭兵志望か。でも、ちょっと若すぎないか? 特にカミラちゃんは……」
ビリーが心配そうにカミラを見る。常識的な反応だ。
「大丈夫ですよ、ビリーさん。この子たちは見た目より……特別なんです」
「そうなのか? でも、ソフィアちゃんが言うなら間違いないな」
完全にソフィアを信用しているビリー。純粋すぎる男だ。
この時点で、ソフィアの計画は着々と進行していたのだろう。俺たちを【鉄の掟】に送り込み、ビリーという駒も手に入れた。一石二鳥どころではない。
そして……。
受付も終わり、集められた五十名ばかりのテスト生達。
二人ペアを組まされ、ビルの屋上まで移動することになった。
建物内部は思っていたより広大だった。石の階段を上がっていくと、壁に掛けられた武器や防具が目に入る。剣、槍、弓、盾——どれも実戦で使い込まれた年季の入ったものばかりだ。
途中の廊下で、現役の団員とすれ違った。皆、鋭い眼光と引き締まった筋肉を持つ歴戦の勇士たちだ。俺たちを見る目つきは厳しかったが、敵意は感じられない。新人候補を値踏みしているといったところか。
階段を上がりながら、他の受験生たちの会話が聞こえてくる。
「俺たち、本当に大丈夫かな……」
「大丈夫さ。俺たちの連携なら負けるわけがない」
「でも、噂じゃ【鉄の掟】の試験は相当厳しいって……」
「何があっても俺が守ってやるから安心しろ」
皆、不安と期待が入り混じった表情をしていた。中には恋人同士らしきペアもいる。手を繋ぎ合い、励まし合っている姿が微笑ましい。
もちろん俺はカミラとペアだ。俺が監視しないで誰がカミラの暴走を止めるのかってな。
ソフィアはビリーとかいう青年とペアを組んでいる。
ビリーはしきりに「俺が守ってやる」とか歯の浮くようなセリフを述べている。
うん、はまる前になんとかビリー君を止めたい。すでに手遅れのようだが。完全にソフィアの術中に嵌っている。
そして屋上へ。
王都を一望できる素晴らしい眺めだった。夕日が街並みを赤く染め、遠くには海まで見える。本来なら絶景を楽しむ場所なのだが——
「本日は、五十名かぁあ!!」
傭兵集団【鉄の掟】の団長らしき男が声を荒げる。
スキンヘッドで隻眼の強面の男だ。
分厚い筋肉と鋭い眼光、歴戦の勇士だね。左目の眼帯が印象的で、顔の左半分には古い火傷の跡が残っている。おそらく戦場での負傷だろう。
数多の戦場を経験したのだろう、そこそこ強い。
ただし、一般人レベルでの話だ。マキシマム家執事の戦闘力には到底及ばない。せいぜい新人執事と同程度といったところか。
団長の後ろには、【鉄の掟】の幹部たちが控えていた。どいつもこいつも歴戦の強者らしく、殺気に満ちた目つきをしている。
「これより入団試験を始める!」
「「はい」」
テスト生は、気合の籠った声で返事をする。
その声には僅かな震えが混じっていた。この異様な雰囲気に、誰もが不安を抱いているのだ。
「貴様達、ペアを作っているな」
団長は、念を押して確認する。
そうなのだ。ここの入団試験はペアで受け付けをしないといけなかった。それも信頼のおける者をパートナーとするのが必須条件とか。
事前の説明では「連携を重視する」「信頼関係が戦場では重要」などと、もっともらしい理由が述べられていた。
ペアを作って戦う。連携とかを試す試験のようだ。
ペアで戦うというのがここのスタイルなら都合がよい。絶えずカミラを監視できるし。
他のテスト生達もお互いに「頑張ろうな」って感じでうなずいている。恋人同士のペアは手を握り合い、兄弟ペアは肩を叩き合って励まし合っている。
ほのぼのとした光景だった。この時点では、誰もがまだ希望を抱いていたのだ。
「突き落とした者を入団させる、以上だ」
はぁ?
今、こいつなんて言った?
数百メートル先の小銭が落ちる音も聞き逃さない俺の耳だが、さすがにこれは聞き返すレベルの戯言だ。
他のテスト生達も言われたことが信じられないようでざわざわと騒ぎ始めた。
「え? 突き落とすって……」
「まさか、そんなことないよな?」
「冗談だろ? 冗談だと言ってくれよ」
困惑の声が屋上に響く。当然の反応だ。信頼するパートナーを殺害しろなど、正気の沙汰ではない。
「しずまれぇえ! しずまれ、しずまれ、しずまらんかぁああ!!」
団長が剣を抜き、怒声を放つ。
その剣幕にテスト生達は静まり返る。その目には明らかな動揺があった。
「説明してやる。我が【鉄の掟】はプロ中のプロの傭兵集団だ。甘っちょろい友情だの友愛だの必要ない。上からの命令を愚直に実行できる人材が必要だ」
団長の声が屋上に響く。その内容は、俺の予想を遥かに超えた狂気だった。
「戦場では情に流されて仲間を見捨てることなど日常茶飯事。仲間の死体を盾にして生き残ることもある。そんな修羅場で生き抜くには、余計な感情など邪魔でしかない」
確かに戦場は非情な場所だ。だからといって最初から信頼関係を破綻させるような試験を課すとは……。
「友情? 愛情? そんなものは戦場では足かせにしかならん。真の戦士となるためには、まずその甘い幻想を捨て去ることだ」
団長の思想は徹底していた。人間関係を完全に否定し、個人の生存のみを重視する。まさに弱肉強食の世界観だ。
「貴様らがここに来た理由など知らん。金が欲しいのか、名声が欲しいのか、それとも力を求めているのか。理由はどうあれ、【鉄の掟】に入るからにはこのルールに従ってもらう」
テスト生たちの顔が青ざめていく。恋人同士のペアは互いを見詰め合い、涙を流している。兄弟ペアは「そんな……」と呟いている。
この光景を見て、俺は改めて思った。
どうやら俺はとんでもないところを就職先に選んだようだ。
はっとしてソフィアを見る。
ソフィアはにやにやと笑っていた。
それどころか、テスト生たちの絶望に満ちた表情を眺めて、明らかに愉悦を覚えている。頬が僅かに紅潮し、瞳が期待で輝いているのが見えた。
こ、こいつ知ってやがったな。
最初からこの試験内容を知っていて、俺たちをここに連れてきたのだ。
ペアになるとわかれば、俺とカミラが組むのは明白。
俺とカミラで争わせて楽しみたいのだ。あわよくば、どちらか、いや俺がカミラを殺さないことはこの女もよくわかっている。俺がカミラに殺されるのも期待しているのだろう。
なんて性悪な女だ。人の絆を引き裂くことに、これほどまでの快楽を覚えるとは。
「では、はじめぇええ!」
団長が高らかに宣言する。
「や、やってられっか!」
「そ、そうだ。こんな無茶苦茶認められない」
テスト生のペアの一組が悪態をついて帰ろうとする。
兄弟らしき二人だった。年齢は十代後半くらいか。顔立ちがよく似ており、おそらく双子なのだろう。
「兄ちゃん、逃げよう」
「あぁ、こんなところにいても仕方がない」
二人は手を取り合い、出口に向かおうとする。
「待て。勝手に帰ることは許さん。貴様らは、わが軍団の掟を知った。入団するか死ぬか、それだけだ」
団長の声が氷のように冷たく響いた。その瞬間、屋上の空気が一変する。
「う、うるさい。俺達は無敵の兄弟だ。誰が殺しあうかよ」
「そうだぜ兄ちゃん、こんなとこさっさ――ぎゃああ!!」
兄弟は、悲鳴も言わされず団長に斬り殺されてしまった。
一瞬の出来事だった。団長の抜刀は電光石火、まさに一閃。兄の首が宙を舞い、弟の胸が深々と裂かれる。鮮血が夕日に照らされて黒く見えた。
二人の若い命が、あっけなく散った。
つい先ほどまで希望に燃えていた青年たちが、今は血だまりの中で事切れている。その無残な姿に、テスト生たちから悲鳴が上がった。
「ひっ……」
「う、嘘だろ……」
「本当に、本当に殺した……」
恐怖が波のように広がっていく。
「ふん、兄弟の情など邪魔だ。ちなみに死んでも団にはまったく影響はない。試験中の事故として扱われるからな」
団長は刀についた血を無造作に拭いながら、まるで虫でも殺したかのように淡々と説明する。
その冷酷な言葉と行動に、テスト生たちの魂が凍りついた。ここは本当に試験会場なのか? それとも処刑場なのか?
本気だ。本気でこの試験は開催されている。
逃げ出すことも許されない。拒否すれば死。参加すれば相棒を殺すか、相棒に殺されるか。
テスト生の脳裏に【狂気】という文字が刻まれた瞬間であった。
二人以外はだが……。
「わーい、わーい! 試験、試験、楽しみ、楽しみ♪」
カミラは、いつものようにバンザイをして喜んでいる。
いきなりテスト生が斬り殺されたというのに、この反応だ。他の受験生たちが恐怖に震える中、一人だけ天真爛漫に手を叩いている。
カミラにとっては、遊園地のアトラクションショーが開催されたようなものである。血の匂いが漂う惨劇を、純粋な娯楽として楽しんでいるのだ。
「うふ、うふふふふふ」
ソフィアは喜びを隠そうとしているが、その表情が全てを物語っている。すごく楽しいのだ。
唇の端が僅かに上がり、瞳の奥で何かが踊っている。他人の絶望や恐怖を眺めることに、異常なまでの快楽を覚えているのが見て取れる。
こういう人間性が見える底意地の悪い試験は、ソフィアが最も喜ぶイベントだろう。まさに彼女の嗜好にドンピシャリとはまった状況なのだ。
こ、こいつら……。
「さて、試験を始めるぞ。お前達からだ」
団長が最前列にいるペアに向けて言い放つ。
そのペアは、会話から察するに友人同士らしい。古くからのマブダチというやつだ。
二人とも筋肉質で、傭兵としての素質はありそうに見える。お互いを「相棒」と呼び合い、強い信頼関係で結ばれているのが見て取れた。
マブダチペアは逃走を図ろうと、きょろきょろとあたりを見回す。この屋上は【鉄の掟】メンバー二百人以上で囲まれている。テスト生の倍以上、しかも全員が銃で武装しているのだ。
少々腕が立つ程度のレベルでは、逃げ出すのは不可能に近い。それこそマキシマム家レベルの戦闘能力がなければ、この包囲網を突破することなど夢のまた夢だ。
「お、おい、こうなれば一か八か強行突破を――」
一方が提案しかけたその時——
「わ、わりぃな」
「えっ!?」
マブダチペアの片方が、突然友人の背中を強く押した。
予想外の展開だった。二人の友情は本物だと思っていたのに、土壇場では生存本能が勝ったのか。
友人は驚愕の表情を浮かべたまま、屋上から真っ逆さまに落下していく。七階建ての建物から、固いコンクリートの地面へと。
「うぉおお、き、きさまぁああ! なんで、なんでだよぉおお!」
突き落とされた男の叫び声が空に響く。その声は落下と共に小さくなり、やがて鈍い音と共に途切れた。
親友を裏切った男は青ざめているものの、やりきった顔はしている。震える手を握りしめ、必死に自分の行動を正当化しようとしているようだった。
「生き残るためには仕方がなかった」「どうせどちらかは死ぬなら」——そんな理屈で自分を慰めているのだろう。
それが生還する一番の方法と思ったのだろう。
まぁ、腕前から判断するに正解だったのかもしれない。この男達ではこの囲いを突破できないし、正面から戦っても勝ち目はない。
友情とは命よりも軽いものなのか。その代償として得た「合格」に、果たして価値があるのだろうか。
ただ、なんとなく釈然とはしないけど……。
「よし、合格だ」
団長は書類にサインをして、突き落とした男を団員達に引き渡す。
男は安堵の表情を浮かべたが、その目の奥にはもう光がなかった。魂の一部を失ったかのような、虚ろな瞳をしている。
これが【鉄の掟】の求める「理想の団員」なのか。感情を捨て去り、命令に従うだけの駒として。
「次だ。どんどん行くぞ」
容赦ない命令が下る。
「「うっ、うぁあああ!」」
「「ち、ちくしょううう!」」
各々が武器を相方に構えて、戦闘が始まった。
剣、斧、鈍器——様々な凶器が宙を舞う。つい先ほどまで励まし合っていた仲間同士が、今は殺し合いを始めている。
恋人同士だったペアは、涙を流しながら剣を交える。「ごめん」「許して」と謝罪の言葉を口にしながら、互いを傷つけ合っている。
兄弟ペアは「兄ちゃん、俺を殺してくれ」「ふざけるな、お前が俺を殺せ」と押し問答を続けた後、結局年長者が年少者を手にかけることになった。
団長の【狂気】がテスト生に伝染したのである。生死がかかっているという究極の状況下で、人間の理性など簡単に吹き飛んでしまう。
阿鼻叫喚な地獄が、この夕日の美しい屋上に出来上がりつつあった。悲鳴に怒号が乱れ散る。血しぶきが舞い踊り、断末魔の叫びが空に響く。
人間が人間を殺す——その最も醜悪な光景が、ここに展開されていた。
美しい夕日が、血の色と混じり合って不気味な赤に染まっている。
さて、帰ろう。
ここは教育上よろしくない場所であった。むしろ最大級に悪い。
カミラの情操教育という観点から見れば、これほど有害な環境もないだろう。人間の最も醜い部分——裏切り、殺戮、狂気——その全てがここに詰まっている。
ソフィアお薦めの職場、この時点で察するべきであったよ。
あの女が推薦する場所にまともなところがあるわけがない。俺の判断が甘すぎた。
さてさて後でソフィアはマキシマム家伝統のお仕置きをするとして、我が妹カミラは……?
「試験、試験、突き落とす♪」
や、やる気満々だ。
カミラは相撲の四股を踏んで、ぶんぶんと張り手の練習をしている。その無邪気な表情とは裏腹に、殺気がひしひしと伝わってくる。
周囲の惨劇を見ても、恐怖どころか興奮を覚えているようだ。血の匂いがカミラの本能を刺激しているのかもしれない。
「ち、ちょっと、ま、待って」
俺は慌てて制止しようとする——
「はっけよ~い、残ったぁああ!」
カミラが勢いよく俺にぶつかってきた。
小柄な体躯からは想像もつかない重量感のあるタックルだ。マキシマム家の血を引く者の身体能力は、やはり常人のそれとは大きく異なる。
くっ、避けることは可能だが、避けたらカミラが屋上から落ちてしまう。
カミラの腕前では、屋上七階から落ちたら無傷では済まない。確実に怪我を負うだろう。下手したら骨折するかもしれない。
一方、俺がここから落ちても問題ない。マキシマム家一才能ある俺なら、この程度の高度なら受け身を取って着地できる。なんならスキーのテレマークターンでも決めてやるさ。
ただ、そうなるとカミラがこのクソ傭兵集団に入団が決まってしまう。
それだけは絶対に避けねばならない。カミラをこんな狂った組織に入れるわけにはいかないのだ。
「って、おほっ! まだ考え中――」
カミラが俺のみぞおちに突撃をかました。
い、いてぇえ!
加減なしだ。本気の体当たりである。
まさに相撲のぶつかり稽古といったところか。
カミラはぼんぼんと俺に頭突きやタックルをかましてくる。小さな頭が俺の腹部に何度も衝突し、その度に鈍い痛みが走る。
おい、おい、やめろ、やめろ。
痛いって!
避けるわけにもいかず、必死にカミラの攻撃に堪える。屋上の端に押されないよう、足に力を込めて踏ん張る。
その間、ソフィアペアの様子がちらりと見えた、会話も聞こえてくる。
「ソ、ソフィアちゃん、安心しろ。俺が絶対に守ってやるから。こんなクソルールを守る必要はない」
ビリーが必死に彼女を守ろうとしている。その真っ直ぐな瞳には、純粋な愛情が宿っていた。
短時間で芽生えた恋かもしれないが、ビリーの気持ちは本物だ。この地獄のような状況でも、愛する女性を守りたいという一心で立ち向かおうとしている。
「ビリーさん、優しいんですね」
俺には分かる——その裏に隠された悪魔の本性が。
彼女の瞳を見ればわかる。ビリーの純情を弄んでいることへの、邪悪な愉悦。相手が真剣であればあるほど、裏切った時の絶望が深くなる。それを計算しているのだ。
「あぁ、とにかく逃げよう。俺が道を作る」
ビリーは自分の命を賭けてでもソフィアを守ろうとしていた。包囲する団員たちを見据え、突破口を探っている。
何と純粋で、何と愚かな男だろうか。相手が天使の仮面を被った悪魔だということに、まったく気づいていない。
「待ってください。その前に一つお願いを聞いてもらっていいですか?」
「なんだい? 急がないと――」
「ふふ、私、怖いんです。勇気が出るおまじない、してくれますか?」
そう言って、ソフィアがちょんと唇に手を当てる。
キスをせがんでいるかのような仕草だった。上目遣いで見上げるその表情は、まさに天使の微笑み。
「し、しょうがないな。こんな時だっていうのに」
ビリーはデレデレだ。恋は盲目とはよく言ったものである。
「恥ずかしいので……」
ソフィアが頬を染めて、屋上の端の方を見やる。
ビリーがうなずいて、ソフィアと一緒に端の方へ移動する。
「目を瞑ってもらえませんか?」
「あ、ああ……」
ビリーが照れながら目を瞑る。頬が僅かに赤らんでいた。
完全にソフィアの術中に嵌っている。美しい女性からの甘いお願い、そして暗示されるキス——男なら誰でも断れない誘惑だ。
それは死への誘いでもあった。
そしてソフィアの言うがままに目を瞑り——
案の定、ソフィアにビルから突き落とされてしまった。
「ぎ、ぎゃあああ! ソ、ソフィアちゃん、ど、どうして?」
ビリーの絶望的な叫び声が空に響く。
信じていた恋人からの裏切り——これほど残酷な仕打ちがあるだろうか。愛情が深ければ深いほど、その反動で生まれる絶望も深くなる。
ソフィアは計算していたのだ。ビリーの愛を育て、完全に信頼させてから突き落とす。その方が、相手により深い絶望を与えられるから。
「どうですか? 信じていた恋人から突き落とされた気持ちは? 楽しかったですか? うれしかったですか? ふふ、その絶望に染まった顔、最高ですねぇ」
落ちていくビリーに、ソフィアが容赦ない言葉をぶつける。
その瞬間のソフィアの表情といったら——まさに悪魔そのものだった。美しい顔が歪んだ快楽で満ちている。他人の絶望を餌に生きる、真の怪物の姿がそこにあった。
ビリー君は屋上から真っ逆さまに落下していく。
あ、憐れすぎる。純粋すぎる男の末路がこれか。
愛していた女性の正体を知った時の絶望。それを想像するだけで胸が痛む。
俺がビリー君の悲劇に同情していると、カミラが勢いをつけて突進してきたのだ。
「これならどうだぁああ!」
超高速のタックルだった。助走をつけて、全体重を乗せた渾身の一撃。
やばい、よそ見しすぎた!
今度は今までで一番重みのあるタックルだ。マキシマム家の血筋が生み出す、驚異的な身体能力。その全てが俺に向けられている。
まずい、これは絶対に後ずさりしてしまう。
避けるのは論外。受け止めるのも限界がある。
うがぁあ!!
ドンとカミラに押され、ずるずると屋上の端まで移動する。
足が滑り、体勢が崩れる。必死に踏ん張ろうとするが、カミラの勢いは止まらない。
うぉおお!
じりじりと端まで押し切られ、そのまま下へ。
油断からカミラによって屋上から突き落とされてしまった。
「わぁい、わぁい、お兄ちゃんに勝った。カミラ山の勝ちぃいい!!」
カミラは俺の悩みもなんのその、はしゃぎまくっている。
両手を上げて勝利のポーズを取り、嬉しそうに飛び跳ねている。まるで運動会で一等賞を取った子供のような無邪気さだ。
さすがマキシマム家の娘だ。腐っても鯛というやつである。油断していたとはいえ、正面からの力勝負で負けるとは思わなかった。
俺が真っ逆さまに屋上から落ちている最中、「合格だ」との団長の声も聞こえた。
ちくしょう、カミラがこんなクソ団に合格しちゃったよぉお!!