メールペットな僕たち   作:水城大地

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今回はこの二人の話。


タブラ・スマラグディナと美しき淫魔の、穏やかでありながら憂いに満ちた毎日

 メールペットを、ギルメン全員で飼い始めてから、そろそろ二年が過ぎようとしていた。

 

 タブラ・スマラグディナの朝は、割と早い。

 彼女のリアルの仕事が、楼閣からほぼ出られない住み込みの遊女と言う関係上、前日に泊まった客を見送る夜見世の見送りの声が、彼女に起床を即すからだ。

 ある意味、滑稽な遊女と客のやり取りをBGMに、目を覚まして最初にするのはアルベドとの朝の挨拶だった。

 

 最初の頃、タブラはアルベドに直接リアルの顔や姿を見せたりしていなかった。

 これは、タブラ側の都合でしかなかったのだが……ギルメンたちにも自分が女性だと教えていないのに、アルベドに教えるのには色々と問題があったからだ。

 それに ……自分の立場をアルベドに伝えた時の彼女の反応が、心の底から怖かったのである。

 

 タブラなりに、メールペットのアルベドの事を本気で愛しているからこそ、自分のリアルに関する本当の事を教える事で、彼女から嫌われたくなかった。

 

 アルベドが、「自分の親は、本当は父ではなく母であり、しかも人に身を売る仕事をしている」のだと知ったら、彼女は自分を軽蔑の眼差しで見るのではないかと、不安を押し隠してタブラは男として振る舞う様にしていたのである。

 しかし、だ。

 アルベドは、ウルベルトさんの一件でこちらの予想よりも大きく成長した。

 それまでの彼女とは違い、本来の外見年齢に精神年齢が近付いたと言っても良いだろう。

 

 タブラは、アルベドがそれ相応の分別をもって自分のリアルの事を受け入れられると踏んだ所で、漸く自分の本当の事を話す覚悟を決めた。

 

 本当は、このままずっと内緒のままでいる事も不可能ではなかったが、それでも元が頭の良いアルベドに対して隠し事をし続けるのは難しいと思ったし、何より……いつまでも可愛い娘に対して嘘を吐いたままでいるのが嫌だったのだ。

 

 何度も迷い、漸く腹を据えてタブラは自分の事をアルベドに打ち明けたのだが……彼女の反応は、予想以上にあっさりとしたものだった。

 彼女の反応に、思わず逆にタブラの方が酷く驚かされたほどで。

 「どうしてそんなに冷静でいられるのか?」と問い質してみれば、返って来た返事は更に驚くものだった。

 どうも、アルベドの漠然とした感覚と言うか直感のようなもので、何となくそんな気がしていたらしい。

 正確に言うなら、日常的な言動や細かな気配りなど、割と人が気付き難い部分で男性よりも柔和な気配がしたらしいのだ。

 

 それも全部、メールペットとして沢山のギルメンやメールペットたちと接するうちに、漠然と男女の機微の差に気付き、そこから〖タブラ様お父様も、本当は女性なのではないか?〗と察したらしい。

 

 本当に、私には勿体ない位に実に優秀な娘である。

 とは言え、まさか容姿が自分と色違いと言うだけでここまでそっくりだというのは、アルベド自身予想外だったらしく、「嬉しい」と涙を溢す様はとても可愛かった。

 それ以来、タブラは普通にリアルでも端末を起動してメールサーバーを呼び出し、アルベドと暇があれば話をするようにしている。

 

******

 

 さて……話を元に戻すとして、だ。

 先程も言ったが、タブラの朝は比較的他のギルメンよりも早い。

 夜見世組の客の中でも、特に払いのいい上客が他の客よりも少し遅めの時間である日の出前に自宅へと帰宅する際に、彼女達も見送り役として廊下に並ぶ必要があるからだ。

 この辺り、昔の廓では到底あり得なかったシステムなのだそうのだが、廓に所属する美女に見送られたいという富裕層でも特に裕福な客からの希望によって、楼主が少しでも花代に色を付けさせる為に導入した結果である。

 一応、格子太夫である白雪の立場で言えば、自分よりも格下の遊女の客を見送るなど断る事も出来なくはないのだが、建御雷さんと言う後見人によって昼見世専属にして貰って居る状況を慮って、素直に従っているのだ。

 

 まぁ……無理に断ったとしても、起きる時間は三十分も変わらないのだから、面倒事を避ける意味でも楽な方を選択しているのに過ぎない。

 

 だが、どうもアルベドにはタブラが関わらない他の遊女の「お客」の見送りの為に、こんな風に早起きするという状況が不評らしかった。

 何故なら、タブラが見送りの為に起きようとすると「まだ眠っていてくださっても宜しいんですのよ、お母様」と寝かせようと誘導するのだから、ほぼ間違いないだろう。

 そんな誘惑を振り切って、何とか寝床から起き出して手早く身支度を済ませ、決められた場所での見送りから戻って来ると、自分の意見が通らなかった事に対する抗議なのか、何時もアルベドはメールサーバーの隅で羽根を萎れさせてちょっと拗ねていたりする。

 

 彼女のそんな姿を見ると、つい「うん、うちの娘は本当に可愛い!」叫びたくなるのはご愛敬だろう。

 

 正直言えば、彼女の主張を受け入れても構わないかと、ちょっとだけ思い始めて入るのだが、それでも楼主絡みで厄介事に発展しそうな気配がするので、そうならないようにタブラは振る舞っているだけなのだ。

 毎朝の攻防戦に負け、拗ねた様に自分の羽根に包まる様に小さく丸まったアルベドを宥めつつ、彼女の為に朝ご飯を用意するのは、密かなタブラの楽しみだった。

 何となく、モモンガさんがパンドラズ・アクターの事を叱って萎れている様を「可哀想で可愛い」と宣い、たまにわざと誘発させているという話を思い出し、その気持ちに同意したくなる気分だ。

 

 普段、たおやかで楚々とした淑女として、日々成長を見せているアルベドだからこそ、この子供じみた仕種がギャップを呼んで可愛く思えて仕方がないのかもしれない。

 

 アルベドの食事が準備し終える頃に、タブラ付きの禿が部屋まで朝食を運んでくる。

 格子よりも上の部屋付き遊女は、こうして自室まで自分付きの食事を運んで貰えるが、この廓ではそれ以下の遊女たちは纏めて専用の食堂で食事を取る事になっていた。

 タブラも、格子に上がるまではそこの食堂で食事を取っていたが、割とここの食事事情は良い方だと言っていいだろう。

 少なくても、貧困層の人たちの様に液状食料をズルズル啜ると言う事はない。

 

 ここでは、普通に富裕層の中でも上層の人間が食事をする関係上、遊女たちが口にする食事も貧困層の一般的な食事よりも、かなりいいものが提供されているからだ。

 

 以前のここの廓にいる遊女の食事は、金儲けが趣味でケチな楼主のせいでかなり悪かったらしいのだが、かなりの上客の一人が懇意にしていた遊女の体臭の原因が食事だと言い出したらしい。

 「もし、このまま放置するならその話を他の知り合いにも伝える」と改善を迫られ、この上客はおろか他の上客まで失う損害を鑑みた楼主側が、渋々折れた結果なのだそうだ。

 とは言え、楼主はただで遊女たちの食事改善をした訳じゃない。

 食事に掛かる経費も、遊女たちの借金に少しだけ上乗せさせられている。

 

 この件に関して、楼主が上乗せした額が少しだけなのは、余り高額にすると遊女たちの借金の額が嵩み過ぎで逆に回収しきれないからだ。

 

 話がずれたので、元に戻すとして、だ。

 朝の食事が終わると、タブラはその日の稽古事に合わせて禿に手伝って貰いながら、出来るだけ手早く稽古用の服へと身支度を済ませていく。

 稽古によって身に着ける衣装など支度が違うのは、それぞれ必要な小物が違うからだ。

 それに、稽古の場所は廓の中の一角にある離れの大広間で、そこまでの移動は人前に出る事になる。

 

 今のタブラは、仮にも【格子太夫】と呼ばれる立場である以上、面倒であっても毎回それ相応の格好をする必要があり、身支度に禿の手を借りる必要があるのだ。

 

 タブラが、自分の事をアルベドに打ち明けるまでは、午前中の大半はアルベドの自由時間として何もさせて来なかったが、全部話してからは彼女の希望によって少し生活が変わった。

 彼女の為に、今のタブラは朝のこの時間に行われる芸の稽古の際も、稽古場まで端末を持参していく様になったのである。

 これに関しては、もちろん楼主にきちんと許可を貰っている。

 

 名目的には、「稽古中の動画を撮る事で、自分の動きを見直し更に芸を磨きたい」と言うものだが、実際は端末の奥で見守っているアルベドの為だ。

 

 そう、端末で動画を撮りつつ、彼女に自分の稽古の様子を見せているのが実情である。

 アルベドは、タブラの……母である白雪太夫が扇を持って一人で舞う様を、特に見たがった。

 どうやら、彼女は最近タブラが身に着けた芸事に興味を持ってくれているらしく、その中で一番見て覚えたいと言い出したのが、タブラが舞う日舞だったのだ。

 それ以外の芸事にも興味がある様だが、「ひらひらと舞扇を舞わせて踊る様が、とても綺麗です、お母様!」と、そんな風にアルベドが褒めてくれたので、それ以来舞の稽古には今まで以上に力が入る様になった。

 

 ただ娘に褒められた位で、そんな風に頑張るなど親バカな上に単純だと言わないで欲しい。

 

 今まで、自分の舞の稽古を見て純粋に「綺麗だ」と褒めてくれた人など、殆ど居なかったのだ。

 ましてそれが、我が子と思うアルベドからなら、嬉しく思ってもおかしくないだろう。

 正直、この廓の中で生きていく為に必要だったから磨いた業だが、それでも娘が綺麗だと褒めて自分も学びたいと言ってくれるなら、ここは素直に喜んでおくべきなのだと言うのは、彼女との交流で学んだ事である。

 

 そんな風に、ちょっとずつ休憩を挟みながら数時間通して一通りの稽古事が終わった所で、その様子を録画していた端末を回収すると自室へ戻る。

 

 大体、部屋に戻り一息付けるのが朝の十時頃になるのだが、この後の時間帯に待っているのが当日の予約があるお客様への、ちょっとした気遣いの品を用意する時間だ。

 もちろん、それ程時間と面倒な作業をして何かを作る訳ではない。

 今日の予約のお客の好みに合わせて、部屋で簡単に変更出来そうな装飾品をちょっと入れ替えたりする様、禿に指示を出しつつ自分も身の回りの品を変える程度の事をするのだ。

 

 やはり、誰がどう思って居ようとこの仕事は接客業であり、出来るだけお客の好みに合わせておいた方が色々と喜ばれるので、ある意味では絶対に手が抜けない部分でもあった。

 

 とは言え、サクサク作業を進めるのでそれに掛ける時間は三十分程だ。

 大体の支度が終わると、一旦側についていた禿たちを「休憩」の名目で下がらせる。

 そうしないと、タブラ自身がゆっくりとした自分だけの時間が取れず、仲間から届いているメールの返信も書けないからだ。

 慣れた手付きで端末を操り、昨夜のうちに手元に届いていたメールの返信を書き終わるのは、大体十一時を回る位になる。

 それ位の時間になると、タブラにとって嬉しい人物が毎日顔を出す。

 

 彼女の後見役であり、この廓の遊女たちの会計を管理している建御雷さんの来訪だ。

 

 いつも、タブラの所を最後に訪れる彼にお茶を用意し、前日の収支報告をしつつ世間話を少しするのが、白雪太夫としてのタブラの一番楽しい時間だと言っていいだろう。

 

 アルベドに、全部事情を話してからは建御雷さんがここに来ている間は端末を起動し、アルベドとコキュートスも一緒に世間話に加わる様になっていたから、余計に楽しい時間なのだ。

 

 そう言えば、コキュートスは自分の所にメールを運んだ事は今まで一度もないものの、こういう事情でタブラの素顔を知っている一人になっていた。

 

 どうやら、アルベドは自分だけじゃなくコキュートスまでタブラの素顔を知ってしまった事に対して、かなり不満を抱いているらしい。

 だが、タブラが白雪太夫として今まで色々とお世話になっている建御雷さんの立場と顔を立てて、それを口にする事なく我慢している様だった。

 流石に、こうして直接顔を合わせている状況で、建御雷さんの所のコキュートスだけ仲間外れにするのもおかしいので、こればかりはアルベドに我慢して貰う事にしている。

 

 元々、コキュートスは義理堅く口も堅いのだから、下手にタブラの事を言いふらす等の心配はしなくて良いと判断したから、こうして彼も一緒に過ごすようにしているのだから。

 

 アルベドの為の昼食は、この建御雷さんと話している間に用意しているのだが、それに関して特に誰も口を挟む者は居ない。

 この時間にしか、彼女の為にタブラが昼食を用意する暇が無い事を、この場に居る誰もが知っているからだ。

 むしろ、タブラがアルベドの為にどんな昼食を用意するのか、毎回興味深そうに見ているのは建御雷さんの方であり、たまにメニューに関して口を挟んで来る位なのだから、ある意味タブラの行動も話題の提供の一つになっているのだろう。

 

 そんな風に、のんびりと彼らと話していられるのも、最大で三十分ほどの短い時間でしかないのだが。

 

 十一時半頃になると、禿が昼店に出る為の準備の品と共に軽い昼食を運んでくるので、建御雷さんはそれに合わせて帰っていく。

 お客の予約は、昼見世が始まる一時頃のものが殆どなので、タブラがきちんと昼食を取って支度をする事を考えると、どうしても建御雷さんは長居が出来ないのである。

 彼が出て行くと、タブラは手早く食事を済ませてアルベドの様子を見る事にしている。

 この後の予定の事もあり、タブラと共に食事する彼女は大体同じ様に食事を終えているので、禿に気付かれない様に端末で素早く合図を送ると、端末を手に取った。

 それを受け、アルベドも何かを用意し始める事はこの姿を知らせてすぐに教えてくれているので、タブラは禿に対して昼見世の衣装の準備をする様に指示を出してから部屋を出る。

 

 タブラは、これからお客の為に郭内にある湯屋へ行くからだ。

 

 他の遊女たちも、昼見世に出る者はこの時間帯に湯屋に向かう事になっているのだが、それはただ着替えて装ったよりも湯上りで色気を増した彼女達の姿を、お客側が好むからである。

 どういう内容であれ、タブラの仕事はお客が第一の接客業なので、お客が希望する内容は出来るだけ応える必要があり、その為にこうして手間を掛けているのだ。

 端末を持って湯屋へ向かうと、アルベドも一緒に自室に誂えたお風呂に入る。

 少しでも、リアルのタブラと同じ事をしたがるアルベドの行動に、本人が望んでしている事なので少しの苦笑と共に好きにさせていた。

 

 彼女がしたい事を、タブラは出来るだけ狭めたくなかったから。

 

 もちろん、それが今までの様に人が迷惑になる事なら止めさせただろう。

 だが、あくまでも自分と同じ事をしたいというだけで、特に誰かに迷惑を掛けている訳ではない。

 それなら、彼女の好きにさせたとしてもタブラには問題なかった。

 だって、可愛い娘からこんな風に言われてしまったら、許すしかないだろう。

 

 『出来たら、お風呂の時間は出来るだけお母さんと一緒が良い!』なんて、アルベドが本当に可愛くて仕方がなかったから。

 

 そんな風に、アルベドの言葉を思い出しながら、タブラは丁寧に身体の隅々まで肌を磨き上げると、その日のお客が好む香りを身に付けていく。

 これも、仕事のーつだと割り切っているからさくさく進めていくのだが、チラリと確認した端末の画面の向こうでは、アルベドが同じ事をしていた。

 もっとも、アルベドが自分で身に付けていくのは、彼女自身がお気に入りの香水だが。

 とにかく、湯屋で綺麗に身を清めて香りを纏ったら、今度は部屋で残りの身支度が待っている。

 格子太夫として、お客を迎えるに相応しい衣装をきっちりと着込んで、髪を結い上げる必要があるからだ。

 アルベドは、そんな風に太夫の姿になっていくタブラの姿を、起動してある端末のモニター越しに食い入る様に毎回見つめている。

 

 「仕事に貴賤はない」と言う言葉に従い、タブラ自身の仕事に関して否定する事はないが、彼女がこうしてじっとタブラが美しく着飾る様を見つめているのは、どんな理由であれ母が美しくなる様を見ていたいと思っていてくれているからだろうか?

 

 そんな事を思いつつ、タブラは自分の身支度が完全に出来た所で、一旦禿は下がらせる事にしていた。

 もちろん、それには幾つか理由はあるのだが、一番大きな理由を挙げるとするなら、彼女達は楼主に【白雪太夫】の準備が出来た事を伝える役目があるからである。

 同時に、タブラにとって仕事が終わるまでの最後の休息の時間だった。

 この時間に入ってすぐ、タブラはアルベドを今まで書き溜めて置いたメールの配達に出す事にしている。

 

 毎日、夜から昼までの間に来る五通から十通程度の友人たちからのメールを、この時間帯に全部アルベドに託す様にしているのは、自分の仕事が終わるまでの間、出来るだけ他の人の元に居て欲しいから。

 

 特に、自分の姿と仕事をアルベドに教えてからは、その気持ちは顕著だった。

 もちろん、端末とメールサーバーを立ち上げなければ関係ない話ではあるものの、それでも気持ち的に彼女が側にいると思うだけで、お客から気が反れてしまいそうな気がするのだ。

 だからこそ、アルベドにメール配達を頼みサーバーの外に出す事で、彼女がここに居ない状況を作り出しているのである。

 聡明な彼女は、こちらの意図を理解した上でメール配達の仕事に出てくれる様になったから、戻って来るのは夕方の時間だろう。

 

 こういう、細かな気遣いが出来る様になったアルベドは、本当に賢く美しく可愛くて仕方がない。

 

 本当は、彼女に色々と我慢させてしまっている事は気が付いているものの、今の自分の立場では仕方がないだろうとタブラは考えている。

 多分、他の主に比べれば至らない事だってかなり多い筈だ。

 【ユグドラシル】を始めてから、本当にこの廓と言う狭い世界しか知らなかった自分は色々な経験をしてきたつもりだけど、それでもまだまだ自分は知識だけを詰め込んだ世間知らずなんだろう。

 もっとも、タブラ自身は元々この限られた場所で、一握りの人間の欲を満たす為だけにそこに咲き誇る事だけを望まれた徒花でしかないのだから、世間知らずなのは当然だった。

 そんな自分が、こうして【ユグドラシル】で遊ぶ事が出来ているのだって、他の遊女から比べれば破格の扱いなのは承知している。

 自分が、他の遊女よりもこういう面で優遇されている理由は、建御雷さんとその義理に父親がかなり楼主に対して圧力を掛けて、自由をもぎ取ってくれていると言う事も。

 

 だから……せめてあの子と一緒に居られる間だけは、あの子の親として出来る限り可愛がって幸せにしたかった。

 

 少し、また論点がずれたので話を元に戻すとして。

 ここから先は、今日の仕事が終わるまでタブラ・スマラグディナから、白雪太夫へと完全に意識を切り替える事にしている。

 そうでもしないと、今のタブラはお客様の前できちんと彼らが望む「白雪太夫」として、とても振る舞えないからだ。

 幼い頃は、これが私の人生なのだろうと達観して見せていたけれど、今は違う。

 

 あの子の為に……アルベドや仲間と少しでも長く一緒に居る為だと思えば、どんな事でも耐えられるのだから。

 

******

 

 夕方を迎え、廓から家へ帰るお客を部屋の入口まで出て見送ると、既にお付きの禿が準備してくれていた着替えやタオルを手に持って、タブラは端末を片手に湯屋へと向かう。

 昼見世に出ている者は、昼と夕の二度湯屋を利用する事が決まっていた。

 これは、夜見世だって似た様なもので、彼女達はタブラたち昼見世側の者より少し遅い時間帯の夕方と、朝の二度湯屋を使う。

 色々な衛生面から考えて、店の大切な商品でもある遊女をお客の相手をした後の汚れたままの状態で過ごさせると、「美しい花を維持する事も出来ない」と客に評され、そのまま廓の品格に関わるからだ。

 そうして、湯屋で綺麗に汚れを落として部屋に戻って来ると、禿たちによって部屋はお客が来る前の綺麗に整えられた状態へと戻っている。

 それと、朝と昼に比べてちょっとだけ粗末な夕食も用意されているのが常だった。

 

 昼見世の遊女の夕食は、夜見世に出る遊女に比べて少しだけ質が落ちる。

 

 宴席など、昼見世に比べるとお客も多い夜見世の仕事の時間を考えれば、それは仕方がない事だと理解出来るので、タブラ自身も不満はない。

 それに、部屋を整えこの夕食の膳を出し終えたら、禿たちはそのまま一時間は顔を見せないのだから、むしろさくさく膳を置いて出ていって欲しい所である。

 

 ここから先は、可愛い娘であるアルベドとの本格的なスキンシップの時間なのだから。

 

 禿たちが、完全にこの辺り一帯から下がったのを確認し、タブラは端末を立ち上げるとメールサーバーを開いて急いで部屋のプロジェクターとリンクを繋ぐ。

 すると、プロジェクターの表示範囲はアルベドの自室となり、その部屋の中にまるで最初からそこに居た様に、私の可愛い娘であるメールペット独特の三頭身の可愛いアルベドが出現するのだ。

 正直言って、部屋の半分ほどの空間をメールペットのサーバーへ繋ぐこの装置は、タブラにとって決して安い買い物ではなったのだが、それでも欲しくてあらゆる手段を講じてかなり無理をして購入した品である。

 他のメールペットたちよりも、自分はアルベドの事を短い時間しか構えない事が判っていたから、少しでも彼女と一緒に居る事を楽しみたくて用意した品だった。

 

「さて……まずは、お帰りなさいアルベド。

 皆さんへのメールの配達、ご苦労様でした。 

 今日は、メールを届けに行った先で、どんな事があったのかしら?」

 

 この装置の効果によって、姿こそリアルのこの部屋の中に出てきていても、実際には電脳空間に居る状態のアルベドと触れ合う為に必要なグローブをいそいそと嵌めつつ、タブラはにっこりと笑顔で問い掛ける。

 その笑顔は、少し前までお客を相手にする為に浮かべている上辺だけの作り笑いではなく、ニコニコと可愛い娘を相手にする為の心の底からの笑顔であり、もし見ている者がいたらそれこそ確実に魅了されるだろう柔らかなもので。

 もし、この場に普段から行動を共にする事が多い彼女付きの禿たちがいたらならば、それこそ今まで見た事が無い白雪太夫の優しい慈母の様な笑みを前に、本気で動揺するだろう。

 

 それ位、タブラがアルベドに向ける笑みは、優しさに溢れていた。

 

 だが、それも当然の話だろう。

 今のタブラにとって、こうしてユグドラシルにログインする前に彼女と話す事こそ、毎日決して欠かす事が出来ない楽しみであり、リアルの苦境を忘れられる大切な一時なのである。

既に立派な淑女に育っているアルベドが、私の質問に対してそれは嬉しそうな笑みを浮かべながら、手紙を配達しに行った先であった事を思い出しつつ、一つずつ丁寧に話してくれる姿が本当に微笑ましい位に可愛いのだ。

 だから、彼女との時間をタブラが大切に思いつつ楽しむのも、ある意味当然の話だった。 

 

 彼女の話を聞きつつ、彼女の為にその日の夕食の支度を済ませて出してあげれば、それは幸せそうな笑みを浮かべてくれるから、本当にこの時間は自分にとって至福の一時だと言っていいだろう。

 

 そうして、彼女の食事と共に自分の分のお茶も用意し、少し冷めてしまった自分の夕食を膳の上に並べて「いただきます」と手を合わせて一緒に食事を取り終えると、アルベドが趣味の手芸をする姿を見ながら昼間に届いたメールの返信を書く。

 普通の人より、自分の夕食の時間は少し早めな事は判っている。

なので、アルベドと共に夕食を撮った後にメールを書いて送れば、相手が夕食の時間になる前に届ける事が出来る場合が多い事を、今までの経験上良く判っているからだ。

 一通りの返信を書き終えると、アルベドに本日二回目のメールの配達を頼む。

 その際に、アルベドには「ユグドラシルにログインする」と言う事も伝えるのを忘れない。

 

 メールの配達から帰って来たアルベドが、自分がログインして不在になっている事を後から知って、寂しく思わない様に。

 

 そうして、彼女を送り出してから今まで起動させていたプロジェクターなどを手早く全て片付けると、夕食の膳を片付けて貰う為に改めて禿を呼ぶ。

 別に、自分で運んで構わないならわざわざ禿たちを呼び出さずに運んでしまうのだが、これも廓の中の禿たちの仕事の一つであり、格子太夫の自分が膳を持って廊下を歩いている姿を客に見られると後で楼主から叱られる事から、こうして彼女達を呼び出す様にしていた。

 タブラが、彼女たち禿を夕食の膳を下げさせるために呼ぶまでの時間は、割と長い。

 

 アルベドと一緒の夕食を楽しむ為に、出来るだけ夕食の時間を長めに調理場の面々に伝えてあり、それに合わせて膳を下げる時間をざっくりと決めてあるからだ。

 

 多少、他の禿達との時間がずれる事になるのだが、その代わり彼女達はバタバタせずにゆっくりと食後のお茶まで飲める筈だから、特に問題はないだろう。

 本人たちからも、特にそれに関して文句が出た事もないから、タブラはそれに関して本人たちから何か言われない限り、気にしない様にしていた。

 呼び出した彼女達は、そのまま部屋に入ってタブラの寝床の支度をしてくれるので、それが終わるのを見届けてから膳を手渡し、彼女達に「今日の仕事は終わりだ」と告げてやれば、大人しく下がっていく。

 

 これで、今日はもうタブラの部屋に誰も訪れる事はない。

 

 後は、タブラにとって一日の中で楽しみにしていた冒険の時間だ。

 テキパキと手際よく準備をし、寝床に寝転がってユグドラシルへとログインしていく。

 時間的にも、残業が無ければ他のギルメンたちも夕食が終わるだろう頃合いなので、ログインすれば誰か既に円卓の間に来ているだろう。

 

 もしかしたら、今日の狩りの予定を決めている頃かも知れない。

 

 わくわくした気持ちで、タブラは仲間が待っているだろうユグドラシルへとログインする。

 その後は、一頻りユグドラシルでの楽しい時間を過ごし、リアルに戻って来ると待っているのは可愛い娘。

 こちらに戻ると同時に、メールサーバーを立ち上げれば、それは嬉しそうに待っているアルベドを軽く抱きしめると、そのまま彼女から仲間からのメールを受け取り、労う様に額に軽くキスをするのが、二人の間での決まり事だった。

 

「お休み、私の可愛い娘。」

 

「はい、お休みなさいませお母様。」

 

 そう挨拶を交わした後、もう一度お休みのキスを彼女の額に落とし、メールサーバーをダウンしてタブラも眠りにつく。

 

 こうして、タブラ・スマラグディナと美しき淫魔の穏やかでありながらどこか憂いに満ちた毎日は過ぎていくのだった。

 

******

 

 リアルで、最近昼見世専属でありながらとうとう太夫に昇格した、白雪太夫ことタブラ・スマラグディナは、自分の置かれている状況に対して憂鬱そうに大きく溜息を吐いていた。

 

 今まで、ネットの中とは言え仲間を得て共に冒険する楽しみを知った彼女にとって、正式な太夫の名は重くて仕方がない。

 今は、まだ太夫を襲名したばかりだから大丈夫だろうが、それ程間を置かずにあの楼主なら何かをしてくる気がして仕方がないのだ。

 むしろ、その為にまるで急いで彼女を太夫にまで押し上げたよな、そんな気すらする状況で。

 

 今のタブラの……白雪太夫の年は十八歳、十二で遊女になった彼女は、後四年で年季が明ける。

 

 だが、あの楼主がそんなにあっさりとタブラに年季を迎えさせるとは、とても思えなかった。

 そもそも、先日の太夫襲名の盛大な披露に掛かった費用だって、半分はタブラの借金に加算されている。

 十年の年季を迎えても、二十二歳のタブラの若さなら客が取れない訳でもないし、借金返済の為に年季延長と言われてもおかしくないし、また別の方法で何かしてくる可能性もあるのだ。

 

 その中でも、一番可能性が高いのは富裕層の中でも特に上層の相手に【身請け】させる事だろうか?

 

 若くして太夫の名を受けた白雪なら、楼主側がそんな雰囲気をお客相手に匂わせれば、昼見世専門であったとしても【身請け】希望者はそれこそ沢山いるだろう。

 むしろ、そう言う周囲に対する根回し等の小技が得意な楼主だから、本気になったらやらかしてくるだろうと直に想像出来てしまうのだ。

 

 多分、仕掛けてくるならこれから半年前後の間じゃないかと目星を付けつつ、タブラは現状に対して溜息しか零れ落ちなかった。

 




という訳で、今回はこの二人の話でした。
前回のタブラさんの幕間の話でも書きましたが、そろそろユグドラシル事態が衰退期に入りはじめます。
さて……トップバッターは、誰になるやら。

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