一目惚れし付き合うことになり、求婚するまでにいたるが……
1
「な、いいだろ?」
松本勇――つまり、俺は、行き付けの焼き鳥屋で、通算三十回目となるプロポーズにチャレンジしていた。回りには、取引先の無理難題な要求や馬鹿な上司の命令の愚痴を肴にして、大ジョッキに注がれたビールを飲でいるサラリーマンや、どこかでナンパしてきた女性と、馬鹿話を繰り広げているにやけた男なんかがいた。
場末の焼き鳥屋独特の、煙草や焼き鳥を焼く煙でよどんでいる空気と、がやがやとこうるさい雑然とした雰囲気が、たまたまぶらりと立ち寄ったこの居酒屋にも漂っていた。
「いい加減、結婚しようぜ。な?」
最初は、さりげなくムードを持っていた求婚の言葉も、三十回という驚異的な数を重ねるようになると、まるで恋人か妻に体を要求するような、おしつけがましく品性の感じられないものになってしまう。
一年以上もじらされ、はぐらかされつづければ、いくらどんな男でもこうなろうというものだ。否、これが普通の男なら、完全にあきらめて女性と別れるところだろうが、俺は目の前の女性にすっかり入れこんでいた。別れる理由が見当たらないのだ。
自分でもどうかしていると思う。会社の同僚や友人たちもそういっている。ただ、自分ではどうにもならない。感情が先走り、自分を押さえつけられない。
「その事はまた今度にしましょう?」
俺の前にいる女性は、困ったように微笑を浮べて答えた。
加島美和子。
それが彼女の名前だった。ロングの黒髪と藍色がよく似合う、物静かで古風な女性だ。もう何度も彼女と寝た事があるが、常に恥じらいを持ち、容易に素肌をさらすような真似はしなかった。肌を重ねても、口から漏れる声は慎ましやかで、快楽におぼれる昨今の女たちが持つ獣とも言えるような快楽への欲求などとは縁遠いものだった。
本来なら、こんな女性が自分の事を好きでいてくれるというだけで、勇は満足しなければならないのだろうが、彼にとって美和子はなくてはならない存在になっていた。別ち難い、大切なもの。それが彼女だった。
俺と美和子が付合い始めて、もう何年になるのだろう。三年、いやいや、四年はたっているだろうか。
俺は、付合い始めた月日を忘れたとしても、少なくとも出会った場所だけは憶えていた。
そう、あれは蒸し暑い夏の昼下がり、噴水のある公園だった――
2
これで、快晴は何日続いただろう。雨なぞ一滴も降る様子無く、天気予報も関東を中心に覆っている高気圧はしばらく居座って動かないだろうといっていたから、この灼熱地獄は、これからしばらくは続くのだろう。湿度は相変わらずだし、だからと言って、クーラーのききすぎた喫茶店で息をつくのはいやだ。
油蝉のやかましい鳴き声は止む事を知らず、水不足のご時世だというのに惜しげも無くばら撒いている噴水の近くでは、四捨五入したら零歳の子どもたちが奇声を発しながら水浴びをしている。母親は、そんな子どもたちをほったらかして昨日の彼がどうだの、一昨日のがいいだのと、真昼間から浮気の相談だ。会話を録音して、こいつらの旦那にテープを送りつけたくなってくる。
「ったく、女ってのはどいつもこいつもこのありさまだ。後楽園だか広辞苑だかしらねぇが、我先に不倫に走りやがって」
と、歯の間から憎憎しげに声を出す。
不況のせいで得意先からは一向に大きな仕事は舞い込んでこないし、上司からは無能呼ばわりだしで、この熱波とやかましい騒音――蝉の鳴き声と子どもの奇声は、騒音以外のなにものでもない――と有閑マダムのアホらしい会話は、当時の俺の苛立ちをあおり、キレる寸前にまで引き上げていた。
ばしゃっ!
「ぎゃ~~~~~」
聞く限りでは、子どもの可愛らしさなど一片たりとて無い泣き声が、限界ぎりぎりになっていた俺のストレスメーターの針を、おもいっきり振り切らせた。ぷち、と毛細血管の切れる音が聞こえたのは、幻聴なんかじゃない。
がばっと起き上がり、やかましい! と癇を昂ぶらせた声で怒鳴りそうになったそのとき、目の前に、藍染めの浴衣を着た涼やかな女性が、清涼な一陣の風を伴って彼の前を通りすぎた。擦るように歩いているのは、草履を履いているからだ。
一瞬唖然として、その女性の横顔を見詰める。視線が釘漬けになったかのようだ。
白い足袋を履いて草履の鼻緒をきゅっと指で挟んで歩き、さらには小股がきれあがっているとなれば、昔ならばこりゃまたいい女と、声をかける男が少なくなかったのだろうが、今の時代にそんな事を見て取れる男がいるわけではなく、当時の俺もまたそうした見る目の無い男の一人だった。
だが、そうした要素がなくとも彼女が眉目秀麗な女性であることにかわりはない。これは完璧なまでの、動かしがたい事実だ。
俺は彼女に一目惚れしてしまった。
完璧だった。破裂してしまったストレスメーターも完全修復され、針はストレスゼロをさした。
今度は針がゼロを振りきってしまいそうだ。
そして、俺は自覚した。
キューピットがハート型の心臓に矢をたててラッパを吹き鳴らしたんだ。恋の始まりを報せるラッパだ。そうじゃなきゃ、晴天の霹靂だ。どんな表現だってあてはまるぞ、畜生!
歓喜の声をあげながら小躍りしそうになったのを必死に我慢したのに、一体どれぐらいの忍耐が必要だっただろうか。きっと、上司の顔に辞表を叩きつけるのを我慢したときよりも、必要だったに違いない。
「あの、すみません」
俺は浮かれた軽薄な声になりそうなのをぐっとこらえ、抑えた調子で彼女に声をかけたと同時に後悔した。これではまるで、キャッチセールスか何かの勧誘のようではないか。
こんな事なら、もう少しナンパでもして経験をつんでおくんだった、と後悔してしまう。
美和子は、次の一歩を踏もうとした時点で、呼び止めた勇の顔を見た。なんだろう、この人は、という疑問の思いが、その表情からはっきりと見て取れる。幸いなのは、自分のことを嫌うような顔ではなかったという事だった。
「はい、なんでしょうか」
美和子は微笑を浮べ、わずかに首を傾げて尋ねた。琴線の振るえる声、とでも言えばいいのだろうか。透明感のある、澄んだ声だった。変に甲高いわけでもなく、ハスキーなわけでもない。ばたついた喋り口調じゃないのも、聞きやすい声となっている要因の一つなのかもしれない。
ふぅ、これで第一関門は突破した。
ともかくも、俺は安堵の息を吐く。まるで、時限爆弾を解体するため、赤い導線を切って無事解体の第一歩を終えたような安堵感が全身に満ちた。
「少し、お話をさせていただけませんか? なんでしたら、喫茶店にでも入って……」
「はい」
世間知らずなのか、それとも無警戒なだけなのか。あっさりと頷いた。実にあっけなかった。
「すみません、美和子さん。あなたの顔を見たら、どうしても話しをしたくなってしまって……」
俺は、自分でも疑問に思えるほどのかつてない積極性で、美和子に話しかけていた。そもそも、ナンパなんぞ今までに片手の指でも余るほどの回数しかやった事のない俺が、こうして積極的になっていること自体、すでに奇天烈な事だった。もちろん、自分がどれだけ自分らしくない事をしているのか、十分に理解しているつもりだ。
「まぁ……」
目を細め、頬を主に染めて口元に手を添えながら微笑む。
古風な女性だ、とこのときの俺は思った。女性としての懐の広さ、というのだろうか。奥ゆかしさとも違った、独特の円熟さのようなものが、彼女の物腰から感じられた。情感豊かであるにもかかわらず、感情の波の激しさを感じさせないのだ。
「それで、失礼なこととは知りつつも、こうして声をかけたんです。ご迷惑でしたでしょうか」
美和子と付合えない、というのはまったくもって想像したくない自体だった。それゆえ、というわけでもないのだろうが、営業でこういう態度を取ったら、仕事の受注率は間違いなくアップするだろうという、優しさと配慮の雰囲気に満ちた親身な語り口で、彼女のご機嫌を伺う言葉を並べた。
「いえ、そのような事は……私、時間を持て余していたのは確かでしたから」
絶えない微笑を浮べつつ、優しい声音で答えた。
「そうですか。それはよかった……」
呟き、目の前のアイスコーヒーに口をつけた。冷たさとほろ苦さが、舌に心地よい。
「美和子さんは、お仕事はなにをなさっているのですか?」
「あ、私は今まで入院していまして、事情があって職についていないんです」
「それは、大変でしたでしょうに」
普段、人には絶対に見せないような、他人への心配りを見せる勇。明かに、彼らしくない行動だ。
「いえ。それほど大変ではありませんでした」
「どんな病気で入院されていたのですか? 見たところ、どこも悪くないように見えるのですが」
「ええ、外科に。交通事故で、両足を骨折してしまって」
と、他人が訊けばとんでもないと思える事を、こともなげに答える。重病をやらかしたりとか、持病を持っていたりする人間にとっては、それが日常であるという意識があるため、どうしてもその言葉のなかに悲壮感などは入らないものなのだが、それが他人の目にとっては痛々しくうつってしまう。
無理して明るくしていると、そう思ってしまうのだ。
「大丈夫ですか?」
「ええ。もうすっかり。綺麗に折れたおかげで、治りも早かったですから」
「しかし、両足の骨を折るって、よほどひどい交通事故だったでしょう」
「まあ、確かにひどくはありましたが、こうして生きていられたわけですから、それで満足しております」
「そうですか……」
ぴろろろろろろ……
携帯電話の呼び出し音が、腰に下げてある携帯入れから聞こえてくる。
内心、舌打ちしながらも電話に出る。
「はい、松本ですが……はい、はい。わかりました。山陽電工のほうに。ええ、ええ。見積もりを、はい。内容は……ええ、ええ。では、山陽さんのほうにいって、直接、はい。はい、わかりました。それでは」
「お仕事、ですか?」
「ええ。得意先から、急な仕事が入りまして。気が向いたらこの電話番号に、電話、かけていただけますか? これきりで会えなくなるのは、寂しいですし」
懐から出したシステム手帳のメモのページに、ざっと自宅の電話番号と、携帯の電話番号を書いてやぶき、それを美和子に渡した。
「電話、待ってますよ。会計は、俺が持ちますから」
「はい。ごちそうさまです。お仕事、頑張って下さいね」
それから数日が経過した。そもそも、この数日という時間だとて不確かなものだ。美和子から電話がくるまでの間の事を、完全に記憶から消し去っていた。
俺にとっては、それほどまでに彼女からの電話が待ち遠しい物であった。
そして彼女から連絡があった瞬間、それまでの日常はまったく意味をなさなくなり、脳細胞はいっせいにこの間の記憶を消去してしまった。つまりは、それほどまでに彼女からの電話が衝撃的だったのである。
事実、電話がくるまでの間は、もはや自分の命はこれまでと死刑判決を受けたかのような、深刻な精神状態だった。
人使いの荒さはまさしく拷問と思えるほどで、地獄の鬼も鼻白むほどなどと陰口を叩かれる課長でさえもが、俺に対して同情の意を示したというのだから、俺のそのときの様子も想像するに難くないだろう。とはいえ、そのときの俺は自分がどういう状態だったのかまるで覚えていないなのだが。
ともかく、徹底的な鬱状態の俺の元に彼女からの電話がきたのは、仕事もひけた夜十時の事だった。
『お電話、遅くなって申し訳ありません。先日は喫茶店でアイスティーなどをご馳走になった加島美和子でございますが、松本勇様でしょうか』
これが、美和子の電話での第一声だった。この言葉を聞いた瞬間、俺はあまりの嬉しさに、小躍りしてしまった。自宅で受けた電話だからいいようなものの、これが外出先であったなら、一体どんな目で他所様から見られたか、知れたものではない。
『なにか音がしますが……』
踏み鳴らす足音に気付いた美和子の疑問の声があって、俺はようやくはしゃぐのをやめた。自分でも興奮を抑えきれず、少しばかり声を上ずらせて
「あ、気にしないで下さい。もう、かけてもらえないものだとばかり思っていました」
『申し訳ありません、少し事情がありまして、どうしても出かけなければならない場所があったものですから……』
「いえ、こうして電話をかけてくれただけで、もう十分ですよ。むしろ、こうして改めて声を聞けただけで、俺は幸せなんですから」
俺は、誰がどう見ても、すっかり舞いあがってしまっていた。当然、彼女が何日もの間電話をかけてくれなかったことなど、これ以上はないというくらいきれいさっぱり忘れてしまっている。
美和子の性格が性格なら、これ幸いとばかりにうまい事俺を操って、甘い汁を吸う典型的な毒婦となっただろうが、美和子はそういう意味では誠実で、人を騙すことなど知らない女性であったようだ。
おかげで、俺はいいように手玉に取られるような事態におちいりはしなかった。
『まぁ、松本様ったら……お上手なのですね』
電話の向こうから、くすくすと小さく笑う声が聞こえる。
「いえ、本当のことですから。多分、どんな男でも、貴女に対してなら同じ感情を持つと思いますよ」
相手がそこいらの女なら、俺は、本当は出したいんじゃなくて入れたいんだよ、などと実に下世話な冗談を口走ったりしたかもしれないが、美和子に対してはそんな言葉などおくびにも出せない。
『ふふっ、では、そういうことにしておきますね。それで、松本様は、私にどのような御用件があったのでしょうか』
「あ、そうそう。そうでした。今週の日曜日、郊外に足を伸ばして、そばでも食べにいきませんか。いいそば屋を知ってるんです」
以前、ドライブがてら立ち寄って、思いのほか美味かった田舎そばを出してくれる蕎麦屋を、一緒に食べに行こうと思っていた。
その蕎麦屋を見つけて、かれこれ半年になるが、今まで誰にもその店を教えたことはない。
そこは路地裏にたたずむ味わい深い木造建築の建物で、地元の人間しか行かないような店だ。ぺったぺたになってもうその役目を果たしていないだろう座布団が印象的だった。
いってみれば、俺の隠れ家的なそば屋で、今まで誰にも教えるつもりはなかったが、彼女となら一緒にいってもいい、と思えた。
『まぁ、よろしいんですの? 私を誘ったりしても』
美和子はちょっと驚いたようだ。声色に、それが感じられた。
「俺に恋人なんていませんよ。だから、美和子さんをこうして誘えるんです。どうです?」
『わかりました。それでは、待ち合わせはどちらに……』
「じゃあ、○○駅の前で、朝の十一時で待ち合わせでいいですか? 俺が車で迎えに行きますから」
『ええ、構いません』
「それでは、楽しみにしています」
俺は、静かに受話器を置いた。
俺の心は、もはやここにあらずだった。週末までの退屈な時間をどう過ごすか。それが何より重大な問題だった。
当然、訪れた週末のデート――否、逢引といったほうがいいだろうか――は、楽しいものだったし、その時間もあっという間に過ぎてしまった。楽しい時間はすぐに過ぎていくというが、美和子と初めての逢引を終えたこのときほど、それを痛感したことはない。
ともかく、俺と美和子は、いわゆる清い交際を半年ほど続け、ごく自然に肉体関係を持つようになった。
3
俺は、居酒屋でのデートのようなものを終えると、いつものようにタクシーで彼女の自宅まで送った。
そして、そのまま乗っていたタクシーで近くのJR駅に折り返し、電車に乗り換えて帰宅の途についた。まぁ、いつもの事といえばそれまでだが、今日も今日とて、プロポーズは失敗に終ったわけだ。
原因などまるで分かるはずもない。
今まで手を変え品を変え、必死になって求婚してきた。夜景の綺麗なホテルのレストランに足を運んだこともあるし、取引先の営業に紹介してもらった、いい雰囲気の旅館に足を運んだこともある。
それもこれも無駄に終わり、求婚も、今となっては早くしないと誰かにに取られる、その焦燥感に駆られてのことだった。
頭ではわかっている。
美和子は、浮気などという不貞は絶対にしない。自分以外の男と必要以上に仲良くなどするはずもない。
そして俺が女を裏切ることもない。俺は彼女にぞっこんで、他の女性に見向きも出来ない。心も体も相性はばっちりだ、と勝手に決め付けている。
だが、二人のこれ以上の進展は結婚しか見当たらない、というところまできていたのも、まぎれもない事実だった。
今のままでも、十分に幸せを感じられる。
そういう意味では、結婚以外に関係を深める手立てがない、というこの現状にあっても、いささかの不安もなかった。
それでも、その幸せに慣れてしまっていた。
これはどうしようもない事実だ。
そこしてうまれた不安は、自分の中に存在していた言いようのない感情を、美和子が他の男性にとられてしまっているのでは? という疑惑へと作り変えていった。
彼女への求婚は、ないものねだり、という子供のようなわがままからの発露でしかなかったというのに……。
4
居酒屋での一件からしばらくした時のことだ。あれっきり、俺も自分からは婚約や結婚は求めることをしないようにした。ここまで美和子が拒否するということは、それだけ何か、結婚に対して思うところがあるからだろう、と考えたからだ。
結婚、結婚、と逢うたびに口やかましくいっていた俺でも、これだけ拒否されればなんとなくおかしいなぐらいは気付いたし、頭を冷やす必要があるな、とも考える。
今まで、その必要性を感じなかったほうがおかしいのだが、このことに気づかせないほど美和子が魅力的であった。
また、そうやって一歩美和子から引いてみると、いろいろと今まで放置していた友人との冷えた関係や、知らず知らずと手を抜いていた仕事のあらも見え始めてくる。
改めて自分の生活や人間関係を見直し、あまりにおろそかにしてきた自分の身辺を、もう一度見直すいい機会だと考えた。もちろん、美和子との毎日の電話を欠かすことはなかったが。
そして、そんな生活になって一ヶ月ほどがすぎた、十一月の初旬のことだった。
俺は、仕事が終わった平日の夕方、美和子に電話で呼び出され、行きつけの和風喫茶で逢うことになった。
店は、木目を基調にした様子で、古い民家をイメージして作られていた。
すべてが和風で、店の出入り口には藍染めの暖簾がかかり、フロアも大正時代を想像させるような黒いニスで塗られた板張りで、独特の足音が耳に心地よい。
広さはそれほどでもなく、二十人も入らないような、小さなつくりになっている。
店自体が奥まった場所にあるため、昼時でもない限り客はまばらで、近所の常連さんがカウンターに見かけるだけの静かな店内だった。
俺と美和子は、隅にあるペア用の木製の丸テーブルで、手もみの玉露でのどを潤していた。テーブルの上には、ほかに羊羹がのった小皿と美和子の頼んだ水出し玉露、それに葛きりがのっている。
「どうしたんだ、急に。珍しいじゃないか、美和子のほうから会いたがるなんて」
そう言って、できるだけ温くしたお湯で入れた玉露を、一口口に含んだ。苦味、というよりは独特の旨みが口の中に広がり、お茶の香りが鼻を抜けていく。
「最近、勇さんが会ってくれないから。お仕事が忙しかったのですか?」
「ええと……そんなことじゃないんだ。以前も電話で伝えたと思うんだけど、俺、少し美和子に対して急ぎすぎたかなと思ってね。決して嫌いになったとか、そんなことじゃないんだ」
誤解を招かないよう、言葉をさらに繋ごうと思ったが、
「結婚、のことですか?」
美和子が、即座に俺が言いたいことを先回りして答えた。
「ん、まぁ、ね。ここのところ、美和子には迷惑をかけ続けてたからさ。きみに、ああして押し付けるだけじゃなくて、きみから、その、求婚されるような人間になろうと、そう思ってさ」
「そう、ですか」
と、目を伏せて、表情に若干の陰りを見せながら答えた。
「ああ。美和子のこと嫌いになってなんてことは絶対にありえない。だから、どうか変な気を揉んで落ち込まないでほしい。
大体、俺が自分の親よりも美和子のことを大切に思っているのは、美和子もよく分かっているだろう?」
俺は、美和子の手をとると、そっと両手で包んで、そう説得するように言った。その声は、正直、自分でもびっくりするぐらい優しいもので、われながらどこからそんな声を出しているんだ、と疑問に思うぐらいだ。
以前の俺なら、とてもこんなにやさしい態度で彼女に話しかけられなかっただろう。
美和子は、少し思いつめたような顔で、
「ひょっとして、私が結婚を拒んだから、勇さんは変わってしまったのですか?」
と、俺にすがりつくように身を乗り出してたずねてくる。ふ、とその変化に妙な違和感を感じたものの、それを意識する前に彼女への庇護欲にも似た感情の波に飲まれて、消え去ってしまう。
「変わるわけないじゃないか。君が一番だからこそ、今までしつこいぐらいに結婚を申し込んできたんだ。でも、それでは君に迷惑がかかる。美和子、君にだって自分の時間があるだろう? 俺は、その時間も大切にしたいんだ」
「……そう、ですか……」呟いて、俺に握らせていた自分手を、するりとほどくと、水出し玉露を一口飲んで、「本当に嫌いになったわけでは……ないのですね?」
「ああ、そんなわけないじゃないか」
俺も、一口飲んで、小皿の上の羊羹をつまむ。
「勇さん……少し、付き合ってほしいところがあるんです」
5
「お、気がつきましたか。散々な目にあいましたなぁ」
聞いたことのない声が聞こえてきた。頭は、何か被り物をつけているのか、布の感触が感じられたが、どこか妙な感じがした。地肌に直接布が当たっているような……
朦朧とした意識の中、ゆっくりと体を起こそうとすると、布団の重みも感じられた。
きている服の感触も、美和子と逢っていたときのものとは違う。
ゆっくりと目を開けた。
俺がいた――というより、寝かされていた場所は、病院の個室だった。
医者と看護婦、それに何人かの背広を着た男性がいた。どうやら自分は、事故か何かに巻き込まれて入院したらしい。だが、自分がどういう経緯で入院したのか、まったく覚えていない。というより、思い出せなかった。
「あ……」
俺が、何か口をあけて言葉を発しようとしたとき、背広を着た無精ひげの中年男性が、咳払いを一つして、こう切り出した。
「松本勇さん、ですな。このたびは、ご愁傷様ですなぁ」
タバコの吸い過ぎと酒の呑み過ぎでしゃがれた声だった。
「おたくさんが付き合っていた女性ですがね、あの女性はまぁ、ぶっちゃけていえば精神疾患を抱えた女性でしてな。おたくさん、ご存じなかったんですかね?」
ヒゲ面に沈痛な面持ち、という表情を作って、そのしゃがれ声は言った。
「精神……疾患?」
俺は、首をかしげた。付き合ってきたこの数年の間、そんな様子など一つも見受けられなかった。精神疾患なんてわずらっている様子は、話し方からしぐさ一つにいたるまで、まったく感じられない。ごく普通の、俺の恋人だった。
「ええ……まぁ、分かりやすく言えば心中症候群、という名前でしてな。好きな人間が、別れるそぶりや何やらを一つでも見せると、心中を強要してしまうんですわ。つまり、それだけおたくさんは彼女に好かれていたわけですが……」
しゃがれ声が、いったい何を言っているのか理解できない。彼女が精神病で、それを隠して俺と付き合っていたってことか? そんな馬鹿なこと、あるはずないじゃないか。
もしそこまで俺のことが好きなら、結婚してくれてもよかったじゃないか。
「じゃあどうして、俺と結婚してくれなかったんだ……浮気なんて絶対しないし、別れるつもりだってこれっぽっちもなかったのに」
胸の中にあった何かが、すぽんと抜け落ちてしまったような喪失感を感じながら、俺はそう呟いた。
「そりゃあ決まってるでしょう。彼女は、おたくさんに自分の精神疾患のことを、ひとつも話したことがなかったってことは、それを知られたくなかったってことですわ。つまりですな、知られてしまったら別れを切り出されると、そう考えたわけですわな。そうなれば、また自分は心中してしまう、と。まあ、そういうことですわ」
その男は、その後思い出したように自分が刑事であることを告げ、自分がどうしてこんなところ――つまりは、病院で寝ているのか――を説明しはじめた。
加藤美和子は、特殊な精神疾患――心中症候群、という精神疾患の持ち主で、今までに三度、にたような事件を起こしたらしいこと。
俺がこうして病院にいるのは、あのあと交差点で美和子に突き飛ばされ、車に引かれたその結果だということ。彼女も俺の後を追って車道へ飛び出し、俺と同じように病院に担ぎ込まれ、ついさっき、彼女も目が覚めた、ということ。
最後に、美和子は退院後、精神病棟に移され、退院は困難であるだろうことを最後に告げた。
俺が退院したのは、その日から三ヵ月後、年を越して二月に差し掛かったときだった。
ぱらぱらと雪が降り、俺が入院した秋の終わりのとは、景色がすっかり一変していた。仕事にもすぐに復帰し、同僚は口々に俺をいたわる言葉を投げかけてきた。
友人も、俺を呑みに誘い、慰めの言葉をかけてきた。俺を慰める、というのが飲みにいく口実だったとしても、普通に考えればそれはありがたいことだった。
だが、今の俺には、同僚のいたわりの言葉も友人の慰めの言葉も、全部アスファルトに触れては消える雪のごとく、だった。
あいつ、加藤美和子ともう会えない、というその事実だけがただ胸の中にあり、それ以外のことはどうでもよかった。
あのまま、あいつと一緒に死んでしまったほうがましだった。美和子ともう会えない。それだけで、俺はもう気が触れてしまいそうだった。
いや、気が触れてしまっていた、と言ったほうがいい。
なぜなら今、俺は美和子に突き飛ばされた歩道に立っているからだ。
美和子がどういう経緯で、心中症候群などという病気を患ったのかは知らない。医者も、刑事も誰も教えてくれなかった。でも、今の俺には分かる。死ねば、自分の思いはそこでとまる。それ以上考えなくてすむし、なにより、俺の彼女への思いはそのままだ。
それが大事なのだ。
それをなすためなら、このまま俺は……
了
これを書いたのはもうずいぶん昔で、10年以上前になるかと思います。
同人誌にする予定だったのですが、結局流れてしまい、pixivに投稿していたのをこちらに引っ越した次第です。