――――そして遂にその日は訪れた。
こんこんと蒼天から舞い落ちる白い粒。雲と雲の隙間から僅かに差し込む光が〝白〟を照らしキラリと光らせる。
呂布軍がなによりも待ち望んだ雪が降ったのだ。ただの雪と侮るなかれ。中国だけのことではない。彼の英雄ナポレオンもロシア戦役の際この冬将軍と出くわし、その大いなる野心を挫かれたのである。
この時代、暖房器具なんて便利なものなんてない時代だ。降雪はそのまま軍全体の士気を下げ、最悪の場合、凍死者を続出させ軍が壊滅する危険性すらある。
「や、やったぞー! 冬将軍だ! 曹操軍が撤退したーーっ!」
「はははははははっ! ざまぁみろ曹操軍め! 呂布将軍に勝てるわけねえだろ!!」
呂布軍の兵隊たちが曹操軍がいなくなった地平を睥睨し、勝利の雄叫びをあげる。雄々しいまでの勝利の歓声は徐州を超え大陸全土まで響き渡りそうだった。
「恋殿、遂にやりましたな! ねねは恋殿なら絶対に曹操軍に勝利できると信じていましたぞ!」
「……うん」
曹操軍が退却した今、呂布軍の士気は最高潮だ。このまま西にいる袁術と手を結び、退却した曹操軍を二方面から攻撃するという手もあるだろう。いや落ち目の袁術などよりも河北の袁紹、南方の孫策と結ぶことの方が現実的である。
これまで曹操軍の一大攻勢によってとれなかった戦略が、曹操軍に勝利したというただの一勝によって可能になった。
軍師、陳宮の脳裏にはこれから呂布軍がとるべき戦略構想が幾つも浮かび上がっていた。
それが淡く儚い夢とも知らずに。
「み、見ろ! あれ!? こっちにみ、水が……水の壁が来るぞ!!」
「なんですと?」
兵士の悲鳴染みた声を聞いた陳宮が慌てて城外を向く。そして兵士の悲鳴が嘘でないことを頭よりも先に目が理解した。
下邳城に濁流が迫ってきている。如何に下邳城が要害といえど津浪染みた濁流を堰き止める関などはない。冬将軍の援軍によって曹操軍を追いだしたと思った呂布軍は次の瞬間に濁流という将軍の猛威を受けた。
「こ、これは……そ、そんなこんなことが……」
信じたくない現実が陳宮の前に広がっている。だがどれだけ目を背けても目の前にある現実は消えてくれなかった。
つい少し前まで勝利に浮かれていた呂布軍の姿は既にない。あるのは水浸しで大の大人の膝までが水没した城内と急転直下で士気を下落させた兵士たちだけだった。
一度勝利という絶頂に至ったからこそ、そこから絶望に叩き落とされた衝撃は大きい。
見渡す限り今の呂布軍に暗い顔をしていない者は誰一人としていなかった。
(まさか川の流れを堰き止めて……自然を利用した戦術、これが曹孟徳。これが曹操軍)
そして絶望に叩き落とされたのは軍師・陳宮も同じだった。
呂布軍はこれまで冬将軍の訪れを待って戦っていた。その冬将軍の訪れと共に一旦は呂布軍を勝利に浮かれさせる。そして間髪入れずに予め堰き止めていた川の堰をきる。溜まりに溜まった水は堰を切った途端に溢れだし下邳城を水没させた。
冬将軍という最大の敵であるはずの存在を逆に利用した戦術。陳宮がもしも呂布軍の軍師でなければ、その深謀たる戦術に尊敬すらしたかもしれない。
「…………セキト!」
「恋殿?」
呂布軍の中にあってもしかしたら誰よりも顔を真っ青にしていたのは、総大将である呂布だったかもしれない。呂布は急ぎ足で飛び降りると、城内を走り回る。
「こ、こうしてはいられないのです! 呂布殿を追わねば――――――もがっ」
「おっと。静かにして貰うぜ陳宮軍師」
呂布の後を追おうとした陳宮は、背後から何物かに口を塞がれ取り押さえられた。
陳宮を取り押さえたのは呂布軍にあって一軍を預かる武将である魏続と宋憲。呂布軍の双璧ともいえる張遼・高順の二将軍には劣るものの、董卓配下の頃から付き従ってきた古株である。
陳宮は力一杯にもがくが陳宮の体はそれこそ童と同じくらいに小さい。大の男に捕まえられれば抵抗など出来るはずもなかった。
「長安からこっち、義理で呂布将軍に従ってきたが……もうおしめえだ。悪ぃが勝ち目の戦いに義理だてして死にたくねえんでね」
「安心しな。軍師様、アンタは大切な曹操への手土産。殺しはしない。俺もアンタくらいの餓鬼がいる身だ。餓鬼は殺したくないんでね」
(そ、そんな――――恋殿!)
水浸しの城に最下層にまで落ちた士気。そして呂布軍の古株でもある武将たちの裏切り。
もはやどんな者にだって分かる。呂布軍は終わったのだ。今は滅んでないだけで、もうどうあったって逆転することは出来ない。
呂布と共に天下を見る。その夢が潰えたのを陳宮は否応なく突きつけられた。
「……………………あ」
呂布軍がそこに着いた時には全てが手遅れとなっていた。洛陽、長安で呂布がずっと守り通してきた家族。飼い犬のセキトたち動物たちは城の水没に巻き込まれ無残な死体を晒していた。
瞳から一筋の涙が零れ落ち、抱えたセキトの亡骸に落ちる。いつもは泣けば涙をなめてくれたセキトの体はピクリとも動いてくれなかった。
呂布は叫びもしなかった。声をあげて泣きもしなかった。ただ涙だけが絶え間なく溢れ出る。
「恋!」
狼狽した張遼が呂布の下に駆け寄ってくる。だが信頼する家臣の声を聞いても呂布は振り向くことはなかった。ただ持っていた方天画戟を握りしめる。
張遼の目が亡骸となったセキトたちに止まった。
「こ、これは……そっか。曹操軍の作戦で……。けど恋、非情やと思うけど敢えて言うで。今は死んだセキトたちに構っている時間はない。あの糞野郎ども、宋憲、侯成、魏続が裏切りおった。魏続たちは陳宮を人質にとって曹操軍に降伏しようとしてるで。高順の部隊がどうにか戦ってるけど、もう下邳城はおしまいや。
こうなったら恋。アンタだけでも逃げるんや。幸いアンタの武なら曹操軍の包囲網をどうにかして突破できるかもしれへん。天下無双の武将の武、袁紹やろうと孫策やろうと引く手数多やろ」
それが陳宮が望んでいることでもあると、張遼の言葉が雄弁に告げていた。だが呂布にはもうそんなつもりはなかった。
呂布は天下など目指していたのではない。単に人間ですら簡単に死ぬこの乱世にあって、人間以上に簡単に死んでしまう家族を守ろうとしただけだった。その家族が死んでしまったなら、もう呂布に戦う理由などない。
けれど呂布には最後に一つだけ気がかりなことがあった。
「霞、頼みがある」
「なんや? 恋の血路を開くなら任せとき! うちの手勢はしっかり教育が行き届いてるさかい。裏切りなどせえへんで! とっくに命懸ける覚悟はできとる!」
「そうじゃない。霞は恋が死んだら曹操軍に降伏して」
「な、なんやて! 幾ら恋の命令だってそれは聞けへんで! うちに恋を裏切れゆうんか!」
「違う。恋の家族は曹操に殺された……。だから恋は曹操を許さない。これから曹操の首級を獲りにいく」
「だったらうちも――――!」
「駄目。霞は生きて、ちんきゅを守る」
「っ!」
「ちんきゅは、生きなきゃ駄目。頼めるのは霞だけ。……お願い」
呂布の家族は死んだ。だがずっと呂布に付き従い、家族同然……否、家族として過ごしてきた陳宮だけは生きている。
頭ではなく本能で呂布は自分が死ねば陳宮もそれに殉じるであろうことを分かっていたのだ。だからこそ最後となってしまった家族の命を張遼に託したのだ。
「酷い君主やな。……うちに生き恥を晒せ言うんか」
「駄目?」
「いや、君主の無茶振りに答えるのも、家臣の務めいうもんやからな。分かった、任せときぃ! 陳宮はうちが命に代えても守る。絶対に殺させへん」
「……ありがおう。じゃあ、恋は行く。さようなら霞」
呂布が指笛を吹くと血のように真っ赤な体躯をもつ赤兎馬が呂布に駆け寄ってくる。赤兎馬に跨った呂布は堂々たる佇まいでゆっくりと城門へ歩いていく。
呂布という猛将は決して曹操のように野心をもっていたわけでも、劉備のように理想の旗を掲げたわけでもない。だが自分が死しても部下の命を守ろうとするその後ろ姿は間違いなく君主の背中だった。
無意識のうちに張遼は呂布に対して臣下の礼をとる。
呂布はそれに答えるかのように方天画戟を掲げた。
曹操軍は再び下邳城を完全に包囲した。もはや下邳城は風前の灯。恐らく今日中には徐州全土は曹操軍の勢力図に加わることになるだろう。
しかし絶対的な勝利を手にしているはずの曹操は喜んでいる様子もなく、静かに自分の親を看取る子のような目を下邳城へ向けていた。
「何故、そのような浮かない顔を? 我が軍の勝利は目前。呂布軍の侯成将軍達も我が軍に降伏する旨を伝えてきたというのに」
娘である曹丕には母の心中が分からず尋ねる。
「華煉、相手は天下無双の豪傑。このままでは終わらないわ。確かに我が軍の勝ちは動かないでしょう。けれど呂布ならば必ず、最後にくる」
曹操の言葉は正しかった。下邳城の城門が開く。
この状況、常であれば降伏の使者を出してくるのだと疑わないだろう。だが城門から姿をみせたのは赤兎馬に跨った呂布だった。
「呂布? 本当に、きた」
曹丕が瞠目する。呂布は数えきれないほどの曹操軍を前にしてまるで動じた様子もなく、首を回すと軍勢の中にいる曹操を見つけ睨みつけた。
「精鋭たる我が将兵たちよ!!」
肺の奥の吐きだし空気に叩きつけたような轟音が戦場に響き渡る。声を発したのは愛鎌である絶をもった曹操軍の旗印たる曹孟徳。
「呂布軍の命運はここに尽きた! しかし呂布の天下無双の伝説はまだ尽きてない!! 敵は一人、されど天下無双・万夫不当の豪傑! 我が軍の総力をもって呂布を打倒し、その伝説をここで終わらせなさい!! 総員、攻撃開始!!」
『応!!』
予め呂布が出てくると分かっていただけあって曹操軍に混乱はない。
曹操軍の弓兵部隊が一斉に矢を放つ。呂布と赤兎馬は矢の雨が降り注ぐのも気にせず、真っ直ぐ曹操に突進してきた。
「華琳様、御下がりを。本来であればこのような事は言いませんが呂布は天下無双の豪傑。万が一にも華琳様のもとまで到達しないとも限りません」
曹丕と共に控えていた曹真が提言する。
「至極尤もな進言、一部の隙も一部の誤りもない。けれど却下する。私はここを動かないわ」
「…………分かりました」
静かであったが、決して曲げぬ意志の強さがそこにあった。曹真はそれ以上はなにも言わず、曹操と曹丕の前に馬を進めた。いざとなれば我が身を挺して呂布の攻撃から二人を守るために。
「全軍、死力を尽くせ! 絶対に華琳様と華煉様のもとへ呂布を近付かせるな!!」
「ありったけの弓矢を浴びせろ! 呂布に休む時間を与えるな!」
夏候惇将軍と夏侯淵将軍の怒号が飛ぶ。
降り注ぐ雪以上に呂布に浴びせられる矢の雨。それを呂布は方天画戟を風車のように回し、その風圧で弾き飛ばしながら突き進んでいた。
未だに呂布の身どころか赤兎馬の体にも傷一つない。
赤兎馬の神速がやがて曹操軍に迫ろうとしていた。その時、曹操の声が轟く。
「夏候惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、許褚、楽進、李典、于禁!!」
真名ではなく敢えて姓名をもって名を轟かしたのは何故なのか。それは発した当人しか、もしかしたら当人にも分からぬことだろう。
「かかりなさい!!」
『はっ!!』
曹操軍にその人ありと知られる武将たち総勢八名が同時に呂布へ襲い掛かった。
一対八。不利という言葉では言い表せないような大劣勢にあって呂布は互角以上に戦ってみせる。だが一対八という暴威に呂布よりも先に赤兎馬の方が潰れてしまう。
斬撃の一つが赤兎馬を襲い、その身から血飛沫を飛ばす。だが赤兎馬とて天下の名馬。その命が潰える刹那、しっかりと地面に足をつけ踏みとどまった。
呂布が赤兎馬から飛び降り跳躍する。超人染みた跳躍は八人の武将による包囲網を飛び越えてしまった。
「槍兵!」
曹操の一括で槍をもった兵士達が同時に跳躍した呂布に槍を突きだす。どんな豪傑でも空中では回避行動を出来ない。
その常識を呂布はあっさりと覆す。吐きだされた槍の一つを手で掴むと、そのまま僅かに体を捻らせた。
槍が呂布の体を傷つけるが、それは致命傷には至らない。兵士達の僅かな動揺をついて、呂布が地面に降り立つ。
方天画戟を振るい周りの邪魔者を消し飛ばすと、走り出す。目指すは曹孟徳のみ。
「防げ! 呂布を止めろ!!」
四面楚歌、呂布の周囲には一人の味方もおらず、敵しかいない。四方八方から鎖が呂布へ向かって投げられる。
鎖が呂布の体を縛り、その動きを止めようとした。だが依然として呂布の動きは止まらない。
そして遂に呂布が曹孟徳の前まで躍り出た。目の前の曹孟徳目掛けて呂布が方天画戟を振り落す。
曹孟徳は動かなかった。瞬きすらしなかった。曹操を守るために躍り出たのは曹丕と曹真。倚天の剣と青釭の剣、天下の名剣をお互いに抜刀し振り落された方天画戟を受け止めた。
鋼鉄が爆発したかのような轟音。
それが戦いが終わった合図だった。
「……呂布」
曹操が口を開く。呂布は動かない。全身に纏わりついた鎖により呂布の動きは完全に停止させられている。曹操目掛けて振り下ろした一振りが正真正銘最後の一撃だったのだ。
呂布に纏わりつく鎖、その先では曹操軍の兵士達が全力を振り絞り鎖を引っ張っていた。
「終わりね」
降伏しろ、と言うことはなかった。もしかしたら命を賭けて戦った君主同士、通じるものがあったのかもしれない。
呂布もなにも言わず、曹操を真っ直ぐに射抜いていた。
先までの戦いが嘘のように戦場は静まり返っている。誰もが声を発しない中、曹操は馬から降りると呂布に一歩一歩近づく。
「…………望みがあれば聞こう。呂布、貴女は最期になにを望む?」
「ちんきゅの命。それと赤兎馬もセキトたちと一緒のお墓に埋めること」
「セキト?」
「恋の家族」
「分かった。私が責任をもってその願いに応える」
絶が振り下ろされる。鈍い音が響き渡る。
大陸にその名を轟かせた呂布の伝説はここに潰えた。そしてそれは曹孟徳という覇王の伝説の始まりでもあった。