許昌にある曹操の下に宛の張繍が都を攻撃するための準備を整えている報告がきたことで曹操の陣営はいきなり騒がしくなった。
地図を見れば分かることだが曹操が拠点とする許昌は周囲を外敵に囲われている。右に徐州の劉備、呂布。北に袁紹などなど。
仮にどこかしらに出征した時に情報通り宛の張繍が進撃してくれば、そして万が一許昌を占拠などされてしまえば帝を奉戴することで得た曹操の力はたちどころに根本から崩壊することだろう。
その危険性について十分承知していた曹操は情報を聞いて直ぐに張繍討伐軍を派遣することを決めた。
幸いというべきか張繍の勢力はそれほど大した規模ではない。城主である張繍は馬術と武勇に優れた人物だが曹操軍の双璧たる夏候惇や夏侯淵ほどではなく、物量においても青州兵を吸収した曹操軍に劣っている。そして編成された張繍討伐軍の中には曹操の嫡男である曹昂の姿もあった。
「子丹、急ぐわよ」
「わ、分かってるって」
曹真は子桓と二人、宛に出撃する曹操軍を見送るために屋敷から飛び出して城門に走っていた。
もっとも子桓の目的は曹操軍の見送りというよりも慕っている異父兄の見送りだろう。今も昔も跡取り争いで血みどろの政治闘争が繰り広げられてきた中で兄妹仲が良いのは宜しい事だ。
ただ少しその仲の良さに曹真としては嫉妬しないでもなかったが勿論そんな事はこそばゆいので口には出さない。
「お兄様!」
騎馬隊の中から兄の姿を見つけた子桓が嬉しそうに声をあげる。普段の冷徹な雰囲気とは真逆の兄を慕う妹の図に、近くにいた曹操大好きっ子で知られる荀彧軍師が鼻血を出した。華琳様一直線の荀彧軍師であるが容姿が非常に似通っている子桓にはトキめくものがあるのだろう。
あまり曹真は同性愛というものに理解はないのだが、他人の趣味や性癖に口出しするほど野暮でもないので黙っておいた。
「誰かと思ったら華煉か。見送りにきてくれたのかい? ありがとう」
パカパカと馬蹄を鳴らしてピカピカに磨かれた鎧に身を包んだ若武者が近付いてくる。
母ではなく父親の血を継いだのだろう。黒い髪と黒い目をもち、すらりと長い身長は曹操の息子とはとても思えない。ただ良く見ると目元に面影があった。
「お兄様は今回が初陣だと聞きましたが?」
「うん、まぁ……そうだね。今回は物量も兵の質もこちらが上だし、取り敢えず母の背中に少しでも追い付けるよう精一杯やるつもりだよ」
「張繍軍には董卓の下で参謀をしていた賈詡がついていると聞きます。賈詡は李傕と郭汜を手玉にとり、呂布を子供のように扱ったともいう軍師……。その智謀は彼の陳平にも迫るといいます。お気を付けを」
「心配しなくても母上なら賈詡のことくらい頭に入れているはずだよ。なんていったって私はこの大陸で母上以上に人材収拾に熱心な人を知らないからね。案外この戦いだって最初から賈詡を登用することすら目的に含まれているのかも」
有り得ない、と否定できないのが曹孟徳の人材マニアぶりだ。
本格的に大陸が乱世に突入する前から人材収拾に余念がなかったのが曹操孟徳という人物だ。賈詡ほどの人物を頭に入れていない訳がないだろう。
「曹昂様、お早く!」
荀彧軍師が急かしてくる。男嫌いで知られる荀彧軍師もさすがに曹孟徳の嫡男に毒を吐くほど愚かではなかったらしく表面上は口調も丁寧だった。
「それじゃ行ってくる。曹真、妹を頼むよ」
「お任せください。曹昂様。ただ懸念すべきは子桓が私でどうにかなるほど大人しい御令嬢ではないということですが」
「子丹!」
「はははっ。その様子じゃ問題なさそうだね。これならもしこの戦いで私が死んでも君達二人が次の曹家を引っ張っていけそうだ」
「お兄様も笑えない冗談を言わないで下さい!」
単なる冗談とも遺言ともとれる事を言うと曹昂は城門の外へ出て行ってしまう。
この時は子桓も思いもしなかった。曹昂の冗談が本当に遺言になってしまったことを。
曹操軍来襲の報を受けた宛城はパニック状態だった。許昌侵攻のため準備を整えてきた張繍だが準備が整ったとは到底言えない状況で電光石火の曹操の大軍だ。
本来の計画なら曹操がどこかしらに出征した時に一気に背後をついて都を制圧するはずが、まさか最初の出征目標が自分になるとは思いもしなかった張繍だった。
「ど、どうするのだ賈詡。こんなにも早く曹操が来るなど……」
焦った張繍は迷わずに軍師である賈詡に相談した。賈詡と呼ばれた少女はくいと眼鏡を持ち上げると、
「この私としたことが曹操軍の情報収集力を見誤っていたわ。計画が露見する可能性は考慮していたけど想像以上の速さだったわね」
とはいえ呑気にもしていられない。賈詡としても親友のことで張繍にはなにかと借りがある身だ。その恩を返さないというのは賈詡の主義にも反する行為だ。
だが賈詡の頭脳は冷酷なる真実を曹操軍襲来の報を聞いた時点で導き出していた。
「賈詡。儂はこれからどのようにすればいいのだ? 勝てる見込みはあるのか?」
「ないわ」
キッパリと賈詡は告げた。張繍の顔がみるみるうちに真っ青になる。
だがこれが現実だった。名将に率いられた精鋭揃いの曹操軍と準備が整っていない張繍軍。勝てる見込みなど限りなくゼロに近い。
「勝ち目がないなら儂はどうすれば……」
「決まっているわ。勝ち目がないなら戦わないしか道はない。降伏するのよ」
「い、一度も剣を交えずにか!?」
「今は力を温存して生き延びることが先よ。生きていれば機会はある。寧ろここで無意味な矜持で交戦したところで百害あって一利なしよ」
「ふむぅ」
張繍は腕を組み考え決断した。
「分かった。これまでお前の言うことに従って不正解だったことはないからな。お前の判断を信用しよう。降伏の使者を出せ」
「御意」
部下の言うことを素直に訊けるのが張繍の美徳だった。張繍がこれまで乱世を生き延びてきたのも賈詡という名参謀の進言を素直に聞き入れてきたからだろう。
張繍の陣営もまた慌ただしく動き始めた。戦争にきた曹操軍とは真逆、戦争を回避するために。
宛城付近に陣取りいざ出陣、といったタイミングで曹操軍のもとに宛城からの使者がやってきた。
開戦直前の使者に曹操は面食らいながらも「通せ」と命じる。
「張繍よりの使いで参りました」
「前置きはいいわ。で、用件はなに?」
「我が主君、張繍様には曹操様に刃向う気は毛頭ありません」
「……というと?」
「降伏し曹操様の御恩情を賜りたく」
「な、なんだと! 一度も戦わずに降参するのか!」
曹操軍の双璧の一角。隻眼の豪将・夏候惇が驚いて声を張り上げる。使い走りの文官でしかない使者は歴戦の猛者の一括を受けてビクッと肩を震わせた。
「春蘭、止めなさい。一兵も損なわずに勝利できるならそれにこしたことはないわ。使者、帰って張繍に伝えなさい。曹孟徳は降伏するものには寛大である、と」
「……ありがとうございます。我が主君、張繍様もお喜びになられるでしょう」
恭しく一礼をすると使者は肩の荷が降り清々しい顔で陣から出ていく。
使者がいなくなった後で荀彧が口を開いた。
「華琳様。どうもあっさりし過ぎではないでしょうか?」
「私も同意します。張繍はともかく賈詡は今は亡き魔王・董卓を支えた謀略にたけた参謀。無策で城を明け渡すとは考え難い。なにか罠が仕掛けられているかもしれません」
荀彧に郭嘉が追従する。普段は意見を対立させることも多い二人が同じ意見を言うことは、否応なく曹操軍の武将たちに懸念を抱かせた。
ここに三軍師の最後の一人である程昱がいれば彼女にも意見を聞いたのだが、程昱は万が一のために秋蘭と共に許昌を守っていて不在だ。
「けどそれじゃ降伏してきている人の声を無視して攻撃するんですか?」
「そ、それは」
典韋が痛いところを突く。如何に罠を警戒しようと、このまま攻撃を続行すれば曹操には〝降伏してきた相手をも攻撃した〟という悪名がついてしまう。
「私の考えは決まったわ。張繍の降伏は受け入れる、これはもう確定事項よ。後は罠がないか警戒しながら宛城に入る。幾ら賈詡が優れた軍師でもゼロから兵士たちを生み出せるわけじゃないわ」
こうして軍議は張繍の降伏を受け入れるということで決まった。
曹操軍は罠などを警戒しながら入城したが、警戒に肩すかしを喰らわせるかのように罠なんてものはまるで仕掛けられていなかった。
会議場に通された曹操は城主である張繍と軍師である賈詡と対面した。
「貴方が張繍、そして賈詡ね」
降伏してきた君主をさしおいて、曹操の興味は賈詡に傾けられていた。露骨に存在を無視された張繍は屈辱で身を震わせるが務めて無表情を装った。
「貴女ほどの軍師がなにをするでもなく降伏だなんてどういうつもりかしら?」
「勝機があればそこへ主を導くのが軍師の務め。ですが勝機のない戦いに主を導くのは軍師ではなく死神の務めと心得ています」
「そう。賈詡、貴女はこれから私の下でその知略を振るいなさい」
「……光栄です」
「以上よ。詳細はおって通達する。下がりなさい」
こうして曹操軍は一兵も損なうことなく宛城と賈詡という名軍師を得た。
それが砂上の上の勝利とも知らず、今は曹操軍も勝利の美酒に酔いしれていた。
桃香「おおっ 邢道栄を捕らえたか」
桃香「斬れっ!」
邢道栄「!?」
朱里「はわわ」