曹子丹の恋姫†演義   作:有る魔

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第4話   曹操の不覚

「あら? この旋律は?」

 

 張繍があっけなく降伏してから数日。暫くの間、宛城に滞在することとなった曹操が城内を適当に散歩していると美しい琴の音色が聞こえてきた。

 丁度やることがなく暇を持て余したところだ。曹操は美しい旋律を奏でている人物を探して音の発信源に歩いて行った。

 すると、

 

「――――――」

 

 それなりに大きな屋敷の中で身形の正しい女性が琴を奏でていた。思わず曹操は目を見張らせる。琴の音色ではない。美しい琴の音色にも勝る美しいその女の容姿に、だ。

 

「美しいわ」

 

 素直な感想を曹操は呟く。黒い髪はまるで夜空を包む空のようで、白い肌は白雪のようだ。一目みて曹操は琴の音色を奏でる女を気に入ってしまった。

 口元に笑みを広がせると曹操は屋敷の中に入る。

 

「あっ!」

 

「声をあげる必要はないわ。自己紹介をしましょう。私は曹孟徳、貴女の奏でる音色に惹かれてつい足を運んでしまった」

 

「曹操様ですか。では、あの」

 

「私は名を名乗ったわ。貴女は?」

 

「は、はい。張済の妻で鄒氏と申します」

 

「張済の?」

 

 その名前に聞き覚えがある。確か張繍の叔父で李傕と郭汜に仕えた将軍だったはずだ。だがその張済は流れ矢で死んだため、その妻である鄒氏は未亡人ということになる。

 けれど曹操にとってそんなことはどうでも良かった。曹操が引かれたのはなによりも鄒氏の美しさだ。これほどの美をこの宛城の片隅でただの未亡人として埋もれさせられるほど曹操は聖人ではない。

 

「ふふふふっ。どうやら此度の出征で私が得たものは賈詡だけじゃなかったようね。鄒氏と言ったわね。今夜、私の閨に来なさい」

 

「え、それは」

 

「言わなければ分からない? たっぷり可愛がってあげるってことよ」

 

「は……はい」

 

 元より降将の縁者である鄒氏に拒否権などあってないようなものだ。曹操の求めに鄒氏は畏まったように応じた。

 曹操孟徳という人物は天才という言葉すら生易しいほどに才能溢れる人物である。学問であれば一を聞いて十を知り、武芸であれば一振りの刃で十人の武人を切り払う。

 だが曹孟徳といえど人間だ。才能が完全無欠だったとしても、その内面までもが完全無欠というわけではない。宛城の無血占領により曹孟徳には明らかな油断があった。

 

 

 

 夜中になると賈詡はこの城の元城主である張繍を訪ねていた。腹に謀略という名の果実を隠して。

 

「張繍。どうも曹操は鄒氏に夢中みたいよ。今も鄒氏と閨を共にしていると……間諜の報告にあったわ」

 

「な、なんだと! 曹操の奴め、生来の女好きと聞いていたが、我が一族のそれも未亡人に手を出したというのか!」

 

 張繍は顔を真っ赤にして机を殴りつけた。戦場を駆け抜けてきた武将の一撃に机が耐え切れず、粉々に破壊され木片を辺りにぶちまけた。

 一戦も交えずに降伏することすら武将である張繍にとって屈辱だというのに、降伏した後は眼中にないとでもいうようにぞんざいな扱いを受け更には鄒氏だ。張繍の怒りは至極尤もというものだ。

 そんな張繍を前にして逆に賈詡は笑みを深めた。

 

「いえ。激怒以上にこれは絶好の好機よ」

 

「ん、好機?」

 

「女に手を出すということは曹操が気を抜いている証左。乱世の奸雄も油断していればただの人。しかも宛には曹操だけじゃなくその嫡男たる曹昂もいる。曹操には子がいるけど次男の曹鑠は病死済み。次いで一番年上の長女の曹丕はまだ仕官もしてない年齢……。

 曹操と曹昂をここで討ってしまえば曹操の勢力は完全に瓦解。都を占領し手に入れることができる。今こそ曹操を倒すために天がくれた機会よ」

 

「ふふふふっ。なるほどな。やはり賈詡、お前の助言に従って正解だったぞ」

 

 都を手に入れれば手に入るのは都だけではない。都にいる天子も手中に収まるのだ。天子さえ押さえてしまえば曹操にかわり張繍が漢王朝の権威を手に入れ、天下に号令することもできるだろう。

 張繍が賈詡の助言に逆らって曹操と戦っていれば今日という日はなかった。戦いもせず降伏したからこそ曹操は張繍を侮り背中を晒している。

 

「良し! 兵を集めろ。今こそ儂の屈辱を注ぐ時ぞ」

 

「ただちに」

 

 今度こそ曹操と戦うために張繍の陣営が動き始める。

 まともに曹操と戦っても勝ち目はゼロだ。事は隠密に、絶対に曹操に知られることなく進めなくてはならない。

 

 

 張繍と賈詡が暗躍を始めた事も知らない曹昂は部下である兵士を伴って警邏をしていた。母は今頃、鄒氏と宛城での夜を楽しんでいる頃だろう。

 我が母ながらその女好きには苦笑するしかないが、曹昂は母のことを心から尊敬していたので何も文句はなかった。母の閨を守るのも息子の務めと心得ている。

 

「典韋将軍、ご苦労様です」

 

 警邏中。母のいる屋敷の門を守護する典韋将軍に挨拶する。

 

「あっ! 曹昂様。いえいえ曹昂様こそご苦労様です。こんな夜更けに警邏なんて」

 

 傍から見れば子供にしか見えない典韋が曹昂の姿を見るとにっこりと笑う。だが曹昂はこの典韋将軍がその子供のような体躯からは想像もできない膂力をもつことを知っていた。実際大の大人が三人でやっと持てる旗を一人で持ち上げた所を目撃したこともある。

 

「私なんて気楽なものですよ。典韋将軍が護衛しているなら警邏なんて大して意味のないことでしょうけど、だからといってやらないわけにもいかないですから」

 

「そ、そんなことないです! あと流琉でいいですよ。皆もそう呼びますから」

 

「なら私も真名の〝華昂〟で呼んでください」

 

 典韋から真名を預けられた曹昂は同じように自分の真名を預ける。

 母の真名である華琳の華と曹昂の昂。曹丕の華煉と同様に母である曹操につけられた曹昂にとって何よりも誇らしい真名だった。

 

「えと華昂様は華琳様の息子さん、なんですよね」

 

「はい。母の背中が遠いのが息子としての悩みですけど」

 

「けど曹丕様と違って、その、あの……」

 

「似てませんか?」

 

「は、はい」

 

「私は華煉と違って父親似ですから。髪の色も性別も父親譲りです」

 

 あと身長も、とは母の手前さすがに言えなかった。母は身長を気にしているらしく、時折曹昂と自分の身長を見比べてこっそり溜息をつくのである。

 曹昂としては自分が母に遠く及ばないことは重々承知しているので、身長だけは勝てて嬉しいやら身長しか勝てない自分が情けないやらと複雑だ。

 

「では典韋将軍……いえ流琉。私は警邏に戻りますのでこれにて」

 

「はい。お仕事頑張ってください!」

 

「流琉こそ、頑張ってください」

 

 典韋と別れ曹昂は警邏の仕事に戻る。

 だがやはり異常なんてどこにもない。宛城は不気味なまでに静まっており精々が兵士が雑談に興じるひそひそ声があるくらいだ。

 ただ無駄とも思える仕事だろうと手を抜かずにやるのは曹昂が生真面目な性格だったからだろう。だからそれにも逸早く気付くことができた。

 

「そこの者、なにをしている?」

 

「っ!」

 

 不審な動きをする兵士に声をかける。鎧から見るに元々の曹操軍の兵士ではなく張繍の降伏兵だろう。兵士はビクつきながら振り向くと更に驚いた顔をした。

 

「答えろ。なにをしているか聞いたんだ」

 

「……も、もし貴方様は曹操様の御子息の曹昂様で?」

 

「確かに私が曹昂だが、なにか?」

 

 その答えは曹昂に突きだされた短刀だった。

 不意をつかれながらも曹昂とて母・曹操から武才を受け継ぎ夏候惇将軍に師事を受けた者だ。兵卒の短刀に敗れるほど弱くはない。短刀を躱すと素早く剣を抜き首を刎ねた。すると同時に曹昂の部下の兵士が槍を突きだして男を串刺しにする。

 

「若様。御怪我は!?」

 

「ない。だがこれは一体……」

 

「っ! 若様、あれを!」

 

 兵士が指さした方向からは火の手が上がっていた。火の手だけではない。兵士の罵声も轟いている。

 初陣を経験したばかりの曹昂だったが直ぐにピンときた。これは戦の臭いだ。そして誰がこの戦の火種かも検討がついた。

 

「くっ! 張繍め、裏切ったか! 私の馬と母上の絶影をここに! これより母上の救出に向かう!」

 

「はっ!!」

 

 母の危機を悟った曹昂は部下に指示を出すと、自分もまた走る。乱世の奸雄と謳われた曹孟徳、その命数を伸ばすことこそが今息子として出来る孝行だった。

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