早いもので曹操が嫡男、曹昂が宛城にて非業の死を遂げ新たに曹丕が嫡子として指名されてから数か月の月日が経っていた。
その間、二度目となる宛城攻略戦が失敗に終わったり、なんだかいきなり皇帝を名乗り始めた袁術が曹操、孫策、呂布、劉備の四軍にフルボッコされたりということはあったが都である許昌は概ね平和だった。
ただ許昌が平和だからといって許昌に住んでいる曹真が平穏無事というわけではないが。
「甘い、隙ありだ!」
「痛っ!」
夏候惇将軍の模擬試合用の棒に横合いから殴られ曹真は吹っ飛んだ。だが曹真も伊達にここ最近ずっと吹っ飛ばされてきたわけではない。夏候惇将軍の一撃にやられつつも受け身をしっかりとってダメージを最小限に済ます。
「どうした曹真! この程度では華煉様を御守りすることは出来ないぞ! 貴様も男ならさっさと立ち上がれ!」
「ぐっ……分かりまし、あいたたっ」
受け身をとったとはいえ棒で叩かれた箇所の痛みが消えるわけではない。立ち上がろうとした曹真は「うっ」と殴られたところを抑える。
ここは練兵場。それも都のど真ん中。宮中近くに造られた特別の練兵場だ。主に近衛兵や親衛隊などが使う場所だけあって外観といい設備といい並みの練兵場とはまるで違う。
曹真、そして曹丕の二人は毎日この練兵場で曹操軍にその人ありと謳われる夏候惇将軍や夏侯淵将軍から稽古を受けているのである。
三軍師からの学問も並行して行われているので近頃まるで休まる間もない。子桓と二人、許昌で遊べていた頃が懐かしい曹真だった。
ちなみに三軍師のうち荀彧は曹丕には依怙贔屓と甘さが際立ち、曹真に対してはサディスティックで無駄に辛辣過ぎると言う事で教育係から外されている。また郭嘉は真面目に授業してくれるが偶に鼻血をぶちまけ、程昱は居眠りの常習犯で教育は戦場であるということを生徒に痛感させてくれる素晴らしい教師たちだ。
「どうした早く立てというに」
では武の教育係である夏候惇はといえば曹操の生き写しというほどに顔立ちの似ている子桓相手には兎も角、曹真に対しては絶妙な鬼教官っぷりを発揮している。実際に稽古を受ける曹真からすれば溜まったものではないが、客観的に現状を俯瞰してみれば夏候惇将軍が良い教育係であることは認めざるをえなかった。多少スパルタが強すぎるが。
「なにを情けなく悶えている! お前も男なら気合でなんとかしろ! 一端の武将ならどのような状況に言い訳せずに行動するものだ」
「はい!」
気合で痛みが消えれば苦労はしない、という文句は数か月前の稽古が始まって直ぐに山ほど言った。そして山ほど一蹴されてきたので今更曹真も異を唱えることはしない。
「今ので321戦してお前の321敗目だ。そろそろこの私から一本とってみろ。そうすれば今日の稽古は特別にこれで仕舞いにしてやろう」
「俄然やる気が出てきましたね」
まだ次の三軍師による学問の授業までには時間がある。ここで夏候惇将軍から一勝することができれば暫くぶりとなる寝る時間以外に纏まった休憩時間を貰えるのだ。
これでやる気が出ないはずがない。
「それでいい。さぁ来い。先手は譲ってやる」
夏候惇将軍が棒を構える。盲夏候の隻眼に睨まれると流石に鳥肌がたった。負けても死なない稽古ですらコレなのだ。生死をかけた戦場で相対した兵士はそれこそ生きた心地がしないことだろう。
しかしこれまでの稽古で夏候惇将軍の太刀筋は何度も見て頭に叩き込んでいる。頭で理解しているから実戦で対処できるかといえばそう単純なものではないが、理解してないよりはしている方が勝率は確実に上がるものだ。
(自己評価になるけど、俺の強さはそこそこはある。だけど夏候惇将軍は技量もそうだが、なによりも筋力がずば抜けている。まともに打ち合うのは愚の骨頂)
しかも動物的直感にも優れているせいで並大抵のフェイントにもかからないときている。単純な力なら近衛の隊長である許褚将軍の方が上だが、夏候惇将軍が許褚よりも上位の実力者たりえるのは直感力・技量・筋力がバランスよく高いからだろう。
(考えても仕方ない。ならば……当たって砕けろだ)
先手必勝だ。最初の一撃に全身系を傾けて突きを放つ。
「まだ、甘い」
その突きは夏候惇将軍にあっさりと回避されてしまった。
夏候惇将軍が思いっきり棒を振りかぶる。この距離とタイミング、回避することはできない。純粋なパワー勝負では負けるとは分かっているが、それでも防ぐ以外に曹真がとれる選択肢はなかった。
自分を守るように棒を横にして突きだす。
「どらぁああああああああ!!」
そして夏候惇将軍の棒が振り下ろされた。拮抗は一瞬。バキッという音がして折れた棒がくるくると空中に吹き飛んでいった。思わず曹真と夏候惇の動きが止まる。
「あ」
確かに棒は折れた。それはもう綺麗なまでにポッキリとへし折れた。ただし折れたのは曹真のものではなく、夏候惇の振った方の棒だった。
恐らくは先程曹真のことを殴りつけた際に棒にかなり負担がかかっていたのだろう。そして夏候惇将軍全力の振りおろしに棒が耐え切れず、曹真の棒と打ち合った瞬間にへし折れたのだ。
今、夏候惇将軍の手には笛くらいのサイズになってしまった棒切れがあるだけ。
千載一遇の好機とは正にこれのことだった。
「隙ありィ!」
兵法の授業に攻め時は徹底して攻めろと教わった曹真に迷いはなかった。曹真の振り下ろした棒は見事に夏候惇将軍の頭をコツンと叩く。
「俺の勝ちですね。将軍」
「ま、待て待て待て! 今のは無しだ! 棒が折れて無ければ私の勝ちだったではないか! ええぃ、私の持つ棒の癖して不甲斐ない棒め! この棒を作ったのは誰だ!?」
怒りの余り夏候惇将軍が笛サイズの棒切れを叩きつけると、笛のようだった棒が爪楊枝サイズに木端微塵になってしまった。
「おほん。というわけで今のは棒が悪かったから無効試合だ。 もう一度勝負だ」
「け、けど夏候惇将軍。さっき御自身で『一端の武将ならどのような状況に言い訳せずに行動するものだ』って言ってたじゃないですか」
「そんなものは知らん!」
「あと勝負は時の運ともいいますし、今日は運が味方した勝利ということで一つ……」
「むむむ……。まぁいい。今日の稽古はこれまでにするとしよう」
「あれ?」
やけにあっさりと夏候惇は引き下がった。
らしくない。いつもの夏候惇将軍ならば尚も食い下がって再戦を叫び、そのまま続行されるか妹の夏侯淵将軍、主の曹操に窘められるのが常だというのに。
「なんだ?」
「いえ。まさか本当に俺の勝利ってことで無しになるなんて思わなかったものですから」
「丁度良い機会だったからな。お前には一度話しておくべきことがあったのをさっき思い出したのだ」
「話すべき、こと?」
「宛城での戦い。華琳様はその……御子息でもあった華昂様を失った」
夏候惇の表情が曇る。心なしか僅かに手が震えていた。
聞く所に依れば曹操が嫡男、曹昂に武芸を叩き込んだのもこの夏候惇将軍だという。夏候惇からしたら曹昂は敬愛する主君の息子であると同時に大切な愛弟子だったのだ。それを失った悲しみは決して曹操、曹丕の悲しみに劣るものではない。
「華琳様はご自身の不覚だったと言っているが、私はそうは思わん。あの時の我等は皆が等しく油断していた。この私も含めてな。その皆の油断が結果的に華昂様や流琉を失うことになってしまった。悔やんでも悔やみきれるものではない」
「…………」
「新しい嫡子となった以上、華煉様もいずれ華昂様のように戦場に出られる時がくる。だが戦場に出れば華昂様のように万が一ということは起こりえることだ。
お前は華琳様や我等を除けば華煉様に一番近くにいる男だ。だから曹真。もしも万が一宛城のように華煉様が危険に晒されるようなことがあればお前が華煉様を守れ。私は華琳様か華煉様かどちらかを選べと問われれば華琳様を選んでしまうだろう。だがお前はそうはなるな。お前は華琳様より華煉様を大切にしろ。
お前は我等が消えた後の新しい時代を華煉様と共に担っていく男だ。華琳様もきっとそのつもりでお前に華煉様と同様の教育を施せお命じになったのだろう」
夏候惇将軍らしからぬ長い話だった。だがそれ以上に心を突き動かす話だった。
曹孟徳には命をかけて慕う臣下が大勢いる。夏候惇将軍もその一人だ。だが曹孟徳の娘である子桓はそうではない。子桓のことを大切に思う人間は数あれど、それは曹孟徳の娘だから大切にするのであって子桓が子桓だから大事にしているのではない。
だがその中で恐らく曹真だけが例外だった。だからこそ曹孟徳は曹真のことを娘と同じように厳しく育てようとしているのだろう。いずれ自分を継ぐ娘を支えられる人材となれるように。
(やはり夏候惇将軍は凄い)
お世辞にも知勇兼備の将とはいえないし猪突猛進なところもある。けれどそれ以上に夏候惇将軍は根っこのところで誰よりも曹孟徳という人間を理解しているのだろう。
「夏候惇将軍、やはり稽古を再開して下さい。曹子丹、今度は正々堂々と夏候惇将軍から一本とってみせます」
「むっ。言ったな、どれ私も少しばかり全力で相手してやろう」
「将軍は最初から本気だったでしょう」
「あと夏候惇将軍なんて仰々しく呼ぶな。私のことは春蘭でいい」
「真名、謹んで預かります。では春蘭様。いざ――――」
参る、と言い切ることはできなかった。
「夏候惇様、曹真様! 曹操様が至急参内せよと仰せです! なんでも危急の用件だとかで!」
練兵場に息を切らして入ってきた文官が叫ぶ。
いざこれから、と熱くなっていたところで曹真としては出鼻を挫かれた形となった。だが主君・曹操の命令であれば無視することなどできようはずもない。
「危急だと? 一体どうした!」
「それが私にも分かりません。ただともかく呼んで来いと言われたので……」
「むぅ。まぁ話などは行ってみれば分かることか。いくぞ曹真!」
「はっ!」
夏候惇将軍に続いて曹真も走る。偽帝・袁術討伐からやや平穏が戻っていた大陸に再び戦乱の波が押し寄せてきた。
天下無双の豪傑、呂布の名と共に。
「小沛の劉備が徐州の呂布に攻められたわ」
軍議は上座の曹操のその一声から始まった。
会議長がざわつく。特に三軍師などは目を見張って苦虫をかみつぶしたような顔を浮かべた。どうして自分の配下でもない劉備が呂布に攻められるのがここまでの大事なのか。それは曹操軍の計画した戦略が理由である。
呂布は天下無双の豪傑だ。董卓軍にあった時からとの強さは並ぶものなしで、まともに一騎打ちが出来た相手は誰一人としていない。しかも呂布軍には呂布だけでなく張遼や高順といった猛将、神速精鋭で知られる西涼騎馬部隊、さらに軍師として曹操軍三軍師にもひけをとらない陳宮がいる。まともに戦えば例え勝ったとしても甚大な被害が出ることは避けられないだろう。
そこで曹操軍は袁紹が北方の公孫賛の征伐にかかりきりで中原に目がいっていない間に、呂布を倒す布石をうっていたのである。その一つにしてメインだったのが小沛に劉備をおくことだったのだ。
小沛は徐州の喉元にあたる場所である。時がくれば劉備軍と共同で徐州を一気に制圧する手筈となっていたのだ。
だがその戦略は呂布軍が先んじて小沛を攻めたことで水泡と消えた。
「劉備からは我が軍に対して援軍の要請がきている。如何に劉備のもとに関羽、張飛といった一騎当千の猛将がいるとはいえ多勢に無勢。呂布軍とまともにやり合うことはまず不可能。小沛の陥落は時間の問題だわ。春蘭!」
「はっ!」
「貴女は一軍を率いて劉備の援軍に向かいなさい。
「御意」
夏候惇と共に従軍を命じられた于禁と楽進の三人が会議場から出ていく。
援軍が間に合うかどうか。劉備が並みの将なら間に合わないことは確定しているようなものだが、劉備の人徳による兵の士気、さらに関羽、張飛がいることも踏まえれば間に合う確率は五分五分といったところだろう。
夏候惇を見送った曹真は内心でそう思考した。
「華煉、子丹!」
次に曹操は嫡子である曹丕、そして曹真の名を呼んだ。
「はっ!」
「此度の戦い、貴方達も従軍しなさい」
「お、お待ちください華琳様!」
突然の宣告に曹丕や曹真が何か言う前に割って入ったのは三軍師では一番の古株である荀彧だった。
「精液袋で年中無休女のことしか考えていない近付くだけで妊娠させるようなケダモノの曹真は兎も角、嫡子たる曹丕様も従軍させるなど早すぎます!」
「私はね桂花。なにも華昂のように一軍の将として参加しろといったんじゃないわ。戦場の空気は早いうちに嗅いでおいた方がいいでしょう。私とて二人くらいの年齢の頃はとっくに張譲の屋敷で大立ち回りしていたわ」
「し、しかし……」
「それにこの大陸最強の武将と同じ時代に生きながら、一度も生でその戦いを見ないのは損でしょう」
「華琳様……」
曹孟徳による意思表示だった。この戦いで必ず呂布を討伐するという。
確かに曹操軍は呂布にばかり構っている時間はない。今のところ最大勢力である袁紹は今でこそ北方にかかりきりだが、いずれ公孫賛を討ち河北を全て支配圏に収めることとなるだろう。河北を制した袁紹が継ぎに狙うのは中原――――曹操の拠点である許昌だ。
曹操としては来たるべき袁紹との決戦の前に呂布、袁術、張繍といった周囲にいる邪魔者を片付けておきたいのである。それらの勢力を袁紹との決戦の時に残しておけば、最悪四方から袋叩きにされるという事が起こりえるのだ。
そして袁術、呂布、張繍の中で一番恐ろしいのが呂布。呂布だけは袁紹との決戦までに生かしてはおけないのだ。
「まぁ私も鬼じゃないわ。華煉、子丹。貴方達二人が嫌と言うなら今回は見送りましょう。どうするの?」
「考えるまでもありません。母上、曹子桓。ご下命、謹んでお受けいたします」
「子丹は?」
「嫡子たる子桓が赴くというのに俺だけ都で寝てはいられないでしょう。役に立つ、と憚ることは出来ませんが、戦場の空気を目一杯に吸いたいと思います」
「そう。決定ね。――――全軍出陣!」
諸将が呂布討伐のため忙しく動き回り始める。そんな中で子桓は従軍が命じられたというのに、まるでラーメン屋にでも赴くような気楽さで、
「出陣するまでの少しの間、久しぶりに休める時間が出来そうね」
あっけからんとそう言った。曹真は苦笑いしながらも、それがやせ我慢だと分かっているからこそあえて何も聞かずに一言「ああ」とだけ頷いた。