徐州の呂布による小沛の劉備軍への攻撃を契機に始まった曹操軍の呂布討伐作戦。
作戦は比較的曹操軍の優位に事が進んだ。
徐州の豪族出身である陳登と内通することで、呂布を徐州城から追い出し劉備軍の救出と徐州城の制圧、その両方を呂布と戦ったにしては比較的少ない犠牲で追えることができた。
だが呂布軍もさるもの。一日千里をかけると謳われる名馬・赤兎馬にのる呂布と張遼・高順、それに率いられた騎兵部隊の突撃を曹操軍は抑えきることができず、呂布に下邳城への逃亡を許してしまった。
呂布軍の立てこもった下邳城は徐州城と異なり要害。そこに呂布が立てこもっているとなると早々に落とせるようなものではない。
「結局、天下に名高い飛将軍をこの目に収めることは叶わなかったわね。この分だと私が呂布を見ることになるのは捕えられて刑場に引き出されるところかしら。それとも討ち取られ首級をとられた後の遺体かもしれないわね」
今回特例として討伐軍に従軍していた子桓は自分の愛馬に跨りながら、呂布がたてこもる要害・下邳城を睥睨する。
下邳城の周囲には曹操軍が人っ子一人通さない包囲網を敷いていて、呂布に逃げ場はなかった。正真正銘、下邳城だけが呂布に残った唯一の領土といえるだろう。
素人目から見ても明らかな曹操軍の優勢。呂布の命運は風前の灯とすらいっていいだろう。だが曹真は子桓の見立てに否を告げる。
「いや。事はそう単純でもない。……下手すれば呂布を刑場に引き出すどころか、このまま呂布を討伐することもできずに許昌へ引き返すことになるかもしれない」
「どういうこと?」
「季節だよ。……冬が近い。このまま下邳を落とせないままモタモタしていたら冬将軍がやってきてしまう。そうなれば曹操軍だって一溜まりもない。一転して城の中にいる呂布軍と城の外にいるこっちの士気は逆転する。もう一つは」
「まだあるの?」
「淮南の袁術だ。袁術はこの前の四者同盟の包囲網による総攻撃でかなりの被害を受けてはいるし、帝位僭称で諸侯からの信望も失ってはいるものの滅んだわけじゃない。まだあそこには二十万程の軍勢があって挽回の機会を狙っている」
あそこは君主の袁術は無能の蜂蜜好きだが、腹心である張勲は優秀だ。もっとも普段は袁術の世話にかかりきりでまるでその優秀さを発揮できていないのだが、袁術が崖っぷちにまで追い込まれてしまった以上は我武者羅にならざるをえないだろう。なにせこの乱世、帝位僭称までしてのけたのだ。勢力が滅亡すれば恐らく死は確定事項である。
「随分と詳しいのね」
「程昱軍師の受け売りだよ、殆どは。まぁつまり……落ち目の袁術が同じく落ち目の呂布軍と結んで、曹操軍を背後から襲うことは十分ありえる。呂布にはそんな頭脳はなくても、呂布には軍師の陳宮がいる。陳宮は華琳様にも才能を認められていたほどの軍師……。袁術と結ぶくらいはやりかねない」
曹真は子桓と違って政治能力には優れていない。政治家としての曹真は精々が平均点といったところだろう。だが曹真は子桓が苦手な軍事には秀でている。
だからこそ初陣でありながらも曹操軍が抱える問題についても正確に把握することができた。
「冬将軍が来るのが先か、呂布と袁術が結ぶのが先か、こっちが城を陥落させるのが先か。勝負といったところだ。どうも降伏する気配はないみたいだし……ん?」
その時、下邳城に動きがあった。子桓と曹真のいる西側の城門が鈍い音をたてながら開門していく。
開いた城門から最初に姿を現したのは普通の馬よりも一回りは大きい巨馬に跨った褐色の少女。その手には人一人の身長ほどもある方天画戟。実際の呂布を知らない曹真でもその特徴から一目で理解できた。あれが天下無双の豪傑・呂布。
「りょ、呂布が直々に……? 何を」
曹真が言い終わる前に呂布が動く。信じられないことだが、城門から出てきた呂布は誰を伴うこともなく単騎で曹操軍に突っ込んできたのだ。
敵総大将の単騎突撃。余りにも想定外のことに曹真と子桓がいた西門の軍が一気に混乱する。
「りょ、呂布だー! 呂布がこっちに来るぞ!」
「矢を放て! 呂布を近付かせるな! 近付けば死ぬぞ!」
指揮官の指揮などなくとも何度も呂布軍と交戦してきた曹操軍の兵士は呂布の強さを身に染みて理解している。そのためその行動は迅速だった。
兵士たちが弓をとると一斉に呂布に矢の雨を降らした。
「……邪魔」
呂布が方天画戟を一閃する。ただそれだけのことだった。どんな武将でもやれる単純な動作一つで引き起こされた突風が吹き荒れ、呂布に降り注いだ矢が全て吹き飛ばされる。
呂布が止まらない。兵士達は二射目を放とうとするが、ここで呂布の愛馬たる赤兎馬が咆哮した。赤兎馬は目にも留まらぬ速度で曹操軍との距離を詰めると、矢が放たれる前に弓兵たちを悉く霧飛ばしてしまった。
鮮血の雨が降る。呂布のたった一振りで曹操軍精鋭十人が無残な死体に変わってしまった。
超常現象でも起きたのか、と見間違わんばかりの光景に曹真は目を見張る。子桓も余りにも人知を超えた武に身動きがとれないようだった。
――――お前が華煉様を守れ。
(……っ!)
曹真の脳裏に夏候惇――――春蘭に言われた言葉が蘇る。
兵士達は呂布という脅威を前に混乱していて、こちらに目がいっていない。恐らくここに曹操の嫡子たる曹子桓がいることすら恐怖により失念してしまっているのだろう。
今、子桓を守ることが出来るのは自分だけ。その事実が否応なく曹真を奮い立たせた。
「逃げるぞ子桓!」
「え、きゃっ!」
無理矢理に子桓の乗る馬の尻を叩き走らせる。曹真も子桓に続いた。
だがその行動がいけなかったのか。呂布の視線が二人に向いた。
「あの二人……ちんきゅの言ってた、偉そうな奴」
呂布に深い考えがあったのではない。ただ呂布は曹操軍に突撃を仕掛ける前に軍師である陳宮に言われていた。偉そうな恰好をした奴が指揮官で、指揮官を倒す方が損害は大きいから偉そうな奴を倒してくれ、と。
あまりにも単純な助言だったが、だからこそ呂布にとっては良かった。
子桓は嫡子、曹真は曹一族出身のため当然ながら身に纏う鎧や甲冑は上等なものである。特に子桓の纏う鎧など李典将軍謹製『夏候惇将軍の一発も防ぐ』という一品だ。あくまで一発も防ぐなので、一発受けたら壊れるが取り敢えず猛将・夏候惇の一撃を防げるというのは凄まじいことだ。
「やばい! 呂布が追ってきた!」
舌打ちを寸でのところで堪えつつ、曹真は愛刀である青釭の剣を抜いた。
必死に馬を走らせているが、やはり速度において天下の赤兎馬には敵わない。このまま逃げ続けていれば追い付かれてしまうだろう。
けれど子桓だけは、子桓だけは失うわけにはいかない。
「先に逃げろ!」
「子丹! 貴方はどうするの!?」
「殿をするに決まってるだろう」
果たして自分の技量でどれだけ呂布を足止めできるかは分からないが、一秒でもその進撃を阻むことができればそれで良い。
相手は呂布。夏候惇将軍と同格、或いはそれ以上の豪傑である関羽と張飛の二人を同時に相手するほどの猛将。夏候惇将軍に一本とれるかとれないかといったラインをウロウロしてる曹真に勝てる道理などない相手だ。
だが勝てないからといって逃げられない時がある。今がその時だった。
「呂布! 曹一族が一人、曹子丹が相手だ!」
「曹操の……家族? ならお前はたぶん偉い奴」
方天画戟は長柄の得物。対して曹真の青釭の剣は名剣ではあるがリーチにおいて方天画戟に劣る。槍は剣の三倍強いというが、つまりこの状況は力量だけでなく得物においても曹真は負けているということだ。
普通にやれば一合も交えることなく敗れるかもしれない。
(常道で勝てないなら、奇道しかない!)
呂布との接触が近付いても曹真は馬の速度を緩めることなく突っ込む。
そして呂布が方天画戟を振るう直前、曹真は馬から思いっきり飛び降りた。
「!」
「……ええぃ!」
一瞬の交錯。曹真の馬は呂布の一閃により綺麗なまでに真っ二つとなった。馬の血が飛び散り、呂布の頬を僅かに汚し、赤兎馬の体躯をより血なまぐさい色に染め上げる。
けれどそれでも曹真は生きていた。赤兎馬の足元で愛馬の生血で体を真っ赤にしてどうにか生きていた。
「しぶといやつ……」
呂布は赤兎馬の足元にいる曹真を鬱陶しげに見やると、止めとばかりに方天画戟を振り下ろした。
(や、やられる!)
咄嗟に曹真は青釭の剣の切っ先の腹と束を持って自分の前に突きだした。
鈍い金属音が響く。
青釭の剣が方天画戟を受け止めている。呂布は万力の力を込めているが青釭の剣を叩きおることは出来なかった。
天下の名剣・青釭の剣。岩を豆腐のように切る名剣は呂布の一撃を受けて尚も砕けはしない。
「変な、剣。でもなら剣じゃなくて直接殺すだけ」
(やばい……このままじゃ)
さっきは運よく防げたがあんなものは何度も続かない。今度の攻撃は防げない。
けれど捨てる神あれば拾う神ありとはいったものだ。呂布が攻撃に出るよりも早く雷光のような大剣が呂布に向かって襲い掛かった。
「呂布、悪いが私の目が黒いうちは……華琳様の子をやらせはしない。ついでに曹真もな!」
春蘭が大剣を振り回しながら呂布を攻撃する。呂布はそんなものでやられることはなかったが、呂布が反撃に映るよりも早く城の方で銅鑼の音が鳴った。
「帰る」
それが合図だったのだろう。呂布が城へ退却していく。春蘭は「待ってー! 私と勝負してからいけ!」と怒鳴っていたが赤兎馬の速度には追いつけないようだった。
「はぁ。九死に一生を得たな」
呂布の攻撃を受け止めた青釭の剣に視線を落とす。もしも自分の武器が青釭の剣ではなく普通の剣でなければ呂布の攻撃を受け止めることができず死んでいただろう。
ある意味では子桓の買い物に命を救われたということだ。
「本当、敵わないな」
青釭の剣を鞘に納める。
「子丹、怪我はないの!」
子桓の声が響く。どうやら子桓にも怪我はないようだ。上々というべきだろう。
こちらに走り寄って来た子桓の目に僅かに涙が溜まっていたのが印象的だった。