牢獄の天井は、暗い闇に覆われていた。
石畳の冷たさを背中で味わいながら、ひとりごちる。
「負けた、のか」
思考が現実に追いつくと、体の力が抜けていく。
勝てなかった。それは、僕の歩いてきた永い道のりが、その程度でしかなかったってことだ。
幾度も経験した敗北だ。自分が弱いってことは、分かっていたつもりだった。それでも、この敗北は堪える。
僕が弱くて、何も守れなかったからこそ、この戦いは勝たなきゃいけなかったのに。
自分に失望して大きなため息を吐くと、胸元から割れた音が聞こえた。
懐に手を伸ばすと、杯の欠片が出てくる。
聖杯が、割れていた。
「本当に、終わりなんだな」
『―――いいや、始まりだよ』
掛けられた声の方に目を向けると、間桐シンジとライダーが僕を見下ろしていた。
『なんだ、その杯壊れちまったのかい? 祝杯の器代わりにいただこうかと思ってたんだけどねぇ』
「勘弁してくれ。というか何でここにいるんだよ」
『今まで散々僕の下手な物真似をしてくれたんだ。使用料を取り立てに来たのサ』
「……お前の仮面を被るんじゃなかった」
懐かしい友人の言い草に頬が引きつる。
相も変わらずめんどくさいというか、素直じゃない奴だ。
恨めし気な目でシンジを見ていると、皮肉な笑みを浮かべて顎で促される。
観念して体を起こす。僕の前に怪盗団が並んで、此方を見据えていた。
「まさかサタナエルを真っ向勝負で打ち破るなんてね。本当に、恐れ入ったよ」
力のない笑みがこぼれる。
僕の脱力した様子を見て、モルガナが意外そうに問いかけてきた。
「ずいぶん素直に負けを認めるんだな」
「僕の全てをかけた一撃が君達の想いに打ち破られるのを、目の当たりにしたんだ。もう抵抗する気も起きないよ」
体も動かないし、と赤く染まった右腕を見てぼやく。
「勝てると思ったんだけどな。ずっと鍛えてきたし。まだ何か、足りなかったのかな」
「いや、足りなくないでしょ。むしろ理不尽もいいところだったからね!」
いきり立つ杏を宥めて、春は優しい顔で微笑む。
「足りないんじゃない。色んな物を抱え込みすぎたんだよ。強い人だって、何もかもを一人でできるわけじゃない。全部を守れるわけじゃないわ」
「仲間がいたかどうか。それだけだ」
「……そっか」
怪盗団に一人で挑んだ時点で、勝負はついていた、のか。
「集団リンチされたんだ、そりゃ勝てないよな」
「言い方ぁ! いや、事実だけど人聞きが悪すぎんだろ!」
一人で九人と戦ったんだ。これぐらいの恨み言は許してほしい。
疲れたようにぼやく僕に、真は苦笑して。
「けれど、もうあなたは独りじゃないわ。私たちがいるもの」
「そうだぞー! 頼まれたって離れてやらないからな!」
真に、双葉に、皆に笑顔を向けられて、泣きたくなってきた。
ずっとずっと、夢に見てきた光景。
そうか。そうだったな。
僕は、こんな景色が見たくて、戦い続けてきたんだった。
涙が込み上げて、咄嗟に目を伏せる。
足音が近づいて、動かない右手を優しく握られた。
顔を上げると、岸波が僕の手を胸に当てていて。
「私の
こぼれるような笑みを前に、僕は悟った。
―――どうやら僕は、幸せになるしかないらしい。
3月19日。
まだ肌寒い春の日。僕は自室で暖かい茶を啜っていた。
―――心の怪盗団は統制の神を討ち滅ぼした。
誰一人欠けることなく、世界を救ってみせたのだ。
噂によれば、黄金の鎧を身にまとった青年が豪快に笑いながら、神を一方的に叩きのめしていたらしい。いったいどこの英雄王なんだ。見当もつかない。
事件後も、救世主であるはずの白野が警察に出頭したり、釈放のために数多くの人が動いたりと、騒動には事欠かない。
そんな話題の中心人物である白野はというと。
「あ゛ぁ゛ー。あったまるぅ……」
「おっさんみたいな声出すなよ」
僕の部屋でのんべんだらりとくつろいでいた。
「いいよ、ここには蓮しかいないんだし」
「僕がいるから問題なんだよ。白野は自分が美少女だって自覚を持つべきだと思う」
「…………。こんな姿見られたら、もうお嫁に行けない。だから蓮を嫁にもらうね」
「照れ隠しでとち狂ったことを言うな」
「照れてないっ」
褒められることに耐性が無さ過ぎる。
頬を赤く染める白野がちょっと心配になっていると、彼女は大げさにため息をつく。
「ふてぶてしくなっちゃって。あの頃のいじりがいのあるワカメはどこに行っちゃったの?」
「知るか。お前が僕を変えたんだろ。責任取れよ」
「取るッ!!!」
「力強い」
白野が敢然と立ちあがるのを見て、僕は思わず後退った。
ちょっと男らしすぎると思うんですけど。
「というか明日、地元に帰るんだろ。準備や別れの挨拶は済んだのか?」
「当然。準備はもう終わっているし、別れの挨拶は午前中にしてきました。あとは蓮とイチャつくだけです」
いや、そんな予定聞いてない。
しばらく会えなくなるから、寂しいのだろうか。
構ってほしそうにこちらを見てくる白野の姿に、僕は一つ頷く。
「よし。それじゃ、何か欲しいものあるか? 買ってやるよ」
「本当!? そ、そうだなぁー」
白野は顎に手を当てて、うんうんと唸る。
悩んだのち、白野がスッと人差し指を立てた。
「蓮の眼鏡が欲しい」
「えっ。……いやまあ、伊達だから構わないけど」
眼鏡を手渡すと、白野は大事そうにカバンの中にしまった。
ものすごい笑顔なのが怖い。
「ありがとう。でも、これだと蓮が困るよね。だから新しい眼鏡を私が買ってあげる!」
「伊達って言ってるだろ」
「どうせなら杏達と一緒に行こっか」
「あれ、聞こえてないのかな?」
白野はスマホを取り出し、意気揚々と連絡を取り始めた。
最近は竜司達がかなりの頻度で白野と僕に会いに来て、遊びに連れていかれる。
何故かパレスの記憶が残っている僕は、彼等を無下に扱えず、抵抗を早々に諦めた。爺さんもノリノリで送り出すから、この件に関して味方は一人もいない。
……爺さんにも、迷惑をかけた。パレスが攻略された後、僕と顔を合わせただけで、何が起きたのか分かったらしい。涙ぐんで、何度も頷いていた。
事情を説明し、謝罪と謝意を伝えたが、何も変わらずに接してくれている。もう頭が上がらないな。
ぼうと考え事をしていると、連絡を終えた白野が、思い出したように言った。
「蓮はさ、四月から高校に行くんだったよね。何かやりたい事でもできたの?」
「ああ。……医者になりたいんだ」
初耳、と白野が呟き、理由を聞いてくる。
特別な理由があるわけではない。
ただ、罪を犯してきた分、今度こそ人を救いたいなと思っただけだ。
それに―――
「白野の記憶喪失も、僕が治してやるよ」
僕の言葉に白野は目を丸くして、頬を緩めた。
「それなら、私は看護師になってあなたを助けるわ」
「へぇ、嬉しいね。精々扱き使ってやるよ」
「私があなたを?」
「お前今助けるって言ったよな!」
逆に苦労させられそうなんだが!
「それと、協力してくれそうな医者に心当たりがあるから、声をかけてみるね」
「武見さんか。それは素直にありがたいな」
「……手を出したら、分かってるよね?」
「はい」
そんなつもりは無いから、目にハイライトを入れてください。
じとーと僕を見る白野に、頬が引きつる。
何とも言えない空気が流れる。なんとなくおかしくなって、互いに吹きだした。
皆がいて、夢を語って、笑いあって。
そんな世界に僕が存在しても良いのかと、今でも思うけど。
白野の幸せそうな顔を見て、なんかどうでもよくなった。
「あ、連絡が返ってきた。皆オッケーだって!」
「了解。行きますか」
椅子から立ち上がり、バッグを持つ。
この先に何があるのかは分からない。モルガナ曰く、白野も僕も“持ってる”らしいから、平坦な道のりではなさそうだ。
それでも白野達がいるのなら、歩いていけるだろう。
僕はもう、希望を貰ったのだから。
大きく伸びをして、部屋を出ようとすると。
「蓮!」
「なんだ、白野―――」
振り返ると、視界いっぱいに白野がいて。
少しずつ、距離が縮まる。
―――唇の感触は、甘酸っぱいレモンの味がした。