色づいているのに、白黒の世界よりも物悲しい場所だった。
白い教会はあまり使われていないようで、壁に蔓が巻き付き、塗装がところどころ剥がれている。緑の中にあるというのにあまり目立たないのは、時が経ちすぎているせいだろうか。まるで最初からあったかのように、景色に溶け込んでいた。
教会の横には共同墓地があり、墓石が並んでいる。白野は導かれるように一つの墓へと向かう。その墓は洗ったばかりらしく、汚れが奇麗に落とされている。美しい青のリンドウが、風に沿うように揺らめいていた。
「この花……」
白野には覚えがある。八月の、メジエドを倒した後の日だ。慎二が珍しく外出して、その時に持っていた気がする。
お盆を過ぎていたから、墓参りだとは思っていなかった。人が少なくなったのを見計らっていたのかもしれない。相変わらずの人間嫌いに白野は少し笑い、墓に書かれた名前を読み上げる。
「一色若葉、さん」
「この名前は」
「うん。たまに惣治郎さんが呟いてたね」
白野もモルガナも、何度か聞いた覚えはあった。訊ねても、顔にしわを寄せて、苦く目を伏せるだけだった。
「誰なんだろう……」
「――若葉は、慎二の母親だ」
声に目を向ける。いつの間にか教会の扉が開いていた。音もなく教会から出てきたのは、探していた人物――佐倉惣治郎だった。
白いハットを取り、教会の壁に体を預けた惣治郎は、こちらを見据える。
「認知存在のマスターか」
「……本当に喋るんだな。猫じゃなかったのかオマエ」
真剣な顔を崩し、思わずといったように惣治郎は呟く。
「猫じゃねーよっ!」
「猫じゃない?」
「猫だろ」
「猫じゃん」
「猫だな」
「猫ね」
「猫!」
「猫ちゃんだよ」
「そこまで言わなくてもいいんじゃねぇの!?」
メンバー全員の総攻撃にモルガナは泣いた。
「ま、それはともかく。とりあえず教会に入れよ。追いまわされて疲れただろうし。慎二の事が聞きたいんだろ?」
惣治郎に促され、教会の中に入る。少し足取りが覚束ないのは、安全な場所にきて、疲労が一気に襲ってきたからだろう。各々が近くの椅子に、倒れるように腰を下ろした。
ぐったりした面々の前に立った惣治郎は、様子を見るように見渡して尋ねる。
「こりゃあ相当疲れてるな。後で話したほうが良いか?」
そうですね、と白野は気を緩ませて笑う。
「ここじゃあコーヒーは出してやれないが……。ゆっくり休んでいけ。休み終わったら教えてやるよ」
穏やかに響く惣治郎の言葉に、各々はようやく肩の力を抜いた。
充分に休憩を取った後。白野は皆が精気を取り戻したのを確認して、惣治郎に向き直った。
惣治郎は、祭壇の前に立ち、瞼に皺を寄せて閉じている。祈りの中に、断ち切れない想いが込められているかのようで。白野はしばし、声をかけるのを躊躇する。
躊躇いつつも、呼びかける。
「惣治郎さん。慎二の事、聞かせてください」
「……いいぜ」
振り向いて、目を開ける。惣治郎の目は、今まで見たことが無いくらい、弱く淡い。
痛みをこらえるように、顔を歪めて語りだす。
「俺が慎二に初めて会ったのは、俺が官僚だったころ。あいつの母親である若葉の監視に赴いた時だ」
当時の惣治郎は指示の意図が全く分からなかった。首をひねって若葉の元へと訪れた。
「当時若葉は……認知訶学、だったか。詳しくは知らねぇが、人の認知の世界の研究をしていたらしい。おそらく、岸波ちゃん達の言う『パレス』ってやつの研究だったんだろうな」
だからこそ惣治郎は派遣された。黒幕にとってその研究内容は、許容できないものだったのだ。
何も知らない惣治郎は、若葉と仲を深めていく。
「良い女でな、俺も夢中になったもんだ。だから、若葉が慎二を連れていた時には、結構なショックを受けた。ま、その時には離婚してシングルマザーだったようだがな」
若葉が連れていた子供は、初めて会う惣治郎に戸惑いつつも、頭を下げて挨拶をした。
「あの頃の慎二は、大人しい良い子だったよ。口数は少ねぇが、挨拶とお礼は必ず言って、ニッコリ笑う。……今とは似ても似つかないだろ?」
白野は慎二の態度を思い返して、深く頷いた。礼儀正しい慎二なんて想像ができない。
「何でアイツがあんな、鼻につくような野郎に変わっちまったのか。そのきっかけは」
「若葉の事故だった」
慎二がまだ中学生だった頃の話だ。
当時の慎二は、穏やかな人柄だが正義感が強く、曲がった事は許せない質だった。中学でもその性質は発揮され、クラス内でいじめが起きた際に、積極的に周りを巻き込んで解決まで持っていったこともある。そんな彼には、いつも人が集まっていた。
充実していた。幸せだった。
だから、その事故は慎二にとって初めての挫折であったのかもしれない。
「若葉は慎二と外出した時、急に車道に飛び出したらしい。他の目撃者の証言から、それは自殺と判断された。直前の健康診断では問題はなく、遺書も見つかっていたからな。誰もがそれを信じた。……ただ一人、慎二を除いて」
慎二は母親が車に撥ねられたのを目の前にしてから、救急隊員が来るまでぼんやりと立っていたらしい。
その後の事情聴取でも、何も語らなかった。母親の死に泣くこともなく、理不尽に怒りを抱くこともなく、ぼぅと虚空を見つめ続ける。警察は事故のショックで話せなくなったと判断したようだが、惣治郎はそうは思えない。慎二がこれほど無気力になったのは、別の理由があるように思えてならなかった。
「だが、俺には聞けなかった。若葉は事故の少し前、俺に自分の死を予期しているような事を言っていてな。それを信じられなかった俺が、若葉を守ってやれなかった俺が。どの面下げて問いただすっていうんだ?」
だから惣治郎は何も言わず、深く頭を下げた。
でも、慎二は。謝罪する惣治郎を見て、固く閉ざしていた口を開き、言ったのだ。
『違うよ。殺したのは、僕だ』
そう吐き捨てた慎二の瞳は、暗く澱んでいて。顔には諦観が張り付いていた。
「確かに若葉の遺書には、慎二の育児が研究を進めるうえで負担になっている、なんてことが書かれていた。警察も育児ノイローゼが自殺の原因だと言っていたが、ンなわけがねぇ。若葉は会うたびに、慎二がどれだけ良い子かを惚気のように語ってたんだ。あまり世話が出来なくて申し訳ないとも。若葉が、あんな遺書書くわけがねぇんだよ」
だけど、そう言っても、慎二は頑なに言うのだ。殺したのは、僕だって。
「それから慎二は、親戚中をたらい回しにされてな。見てられなかったからよ、養子として引き取った。慎二は部屋に引きこもって外に出ねぇ。俺はそれを、見ている事しかできなかった。……その時に何かやれていたら、な」
慎二の部屋の前に、作った食事を置いていくだけの日々。
そんなある日、惣治郎が慎二の部屋に行くと、扉が開いていた。いつの間にか慎二が家にいない。焦って探しに行こうとしたら、素知らぬ顔で帰ってきて。惣治郎の前で、生活費だと分厚い封筒を差し出してきたのだ。
「こんなもんどうしたんだって聞いたらよ。似合わねぇ、皮肉気な顔で言うんだよ」
『株だよ、株。ま、僕が本気を出したらこんなもんさ』
世話になってるからね、なんて言う慎二の顔には、以前の暗さは微塵も見えず。
惣治郎は悟った。俺はこいつを助けられなかったんだと。
「それから慎二は、偶に外に出るようになった。俺にもよく話しかけてくれてよ。前よりずいぶん捻くれた性格になったが、笑うことも増えた」
良い変化だ。傷ついた心を、時間が癒してくれたのだろう。
……なんて。
惣治郎には思えない。
「慎二は立ち直ったわけじゃねぇ。演じているだけだ、誰かを。自分の心を、分厚い仮面で覆い隠しているだけなんだよ」
惣治郎は、もう慎二の心に触れることはできないのだ。
惣治郎は願う。いつか誰かが、慎二を本当の意味で救ってくれるのを。
何もしなかった自分を、憎みながら。
「……これで俺が知っていることは全てだ」
沈黙が教会を包む。
話し終え、深く息を吐いた惣治郎は、怪盗団に言う。
「教会の裏の、共同墓地から少し離れた場所に、墓がある。現実にはない、この世界にしかない墓がな。そこに刻まれた名前は―――」
―――『一色慎二』。