雪ノ下雪乃の消失   作:発光ダイオード

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少し肌寒いくらいだった朝の空気はいつのまにか冷たさを増していた。眠気は玄関の扉を開けた途端に吹き飛び、自転車を漕げば露出した肌に冷たさが突き刺さる。ちょっと前まではそれ程でもなかったのに、すれ違う人たちも気付けば一様にコートや手袋などの防寒具を身に纏っている。少しでも寒さから逃れようと、俺は背中を丸めながら住宅街の小道を通り抜ける。総武高校を含むこの辺りの地域は臨海部に属し、時折東京湾からの強い風が吹きすさぶ。気を緩めれば身体ごと吹き飛ばされてしまいそうなので、ハンドルを握る手にも自然と力がこもる。寒風に舵を取られながら、俺はゆらゆらと自転車を漕いで行った。

 

 

 

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駐輪場に自転車を停め、昇降口に向かいひとりぽつぽつと歩いていく。上履きに履き替えていると背後から、

 

「ヒッキー、おはよっ」

 

と朗々たる声が降り注ぐ。ぼっちの俺にはほとほと掛けられる事のない明るい声だ。他にヒッキーなんてあだ名の奴がいるのかとも考えたが、残念ながらそんな安直なあだ名を付ける奴も呼ぶ奴もひとりしか思い当たらない。

聞き覚えのあるその声に振り向くと、予想通り由比ヶ浜が立っていた。薄いピンク色のマフラーを顔が隠れんばかりにぐるぐると巻き付けている。隙間からのぞく頬と鼻頭は寒さのせいかほんのり紅く染まっていた。

 

「おう、今朝も寒いな」

 

「だねー。それに風も超強いし…あっ、ヒッキー。わたし髪型変になってないかな?」

 

いや、髪型も何もほとんどマフラーで隠れててよくわかんないんですけど。

由比ヶ浜は自分の髪に二三度手櫛を掛ける。まあ、見えている髪の毛も多少ぼさついているだけで気になる程でもない。

 

「別にいつもと変わらねぇよ」

 

「そこは大丈夫だよとか、いつもどおり可愛いよとか言うところじゃないの?」

 

「…はいはい、可愛い可愛い」

 

「えへへ、そうかな?」

 

不服そうな顔をする由比ヶ浜に適当な相槌を打つと、あからさまなお世辞にも関わらず、表情をころりと変えて嬉しそうに声を上擦らせた。幸せそうでなにより。

由比ヶ浜の取り留めのない話を聞きながらふたり並んで教室に向かう。今日の由比ヶ浜は朝から機嫌がいいようで、気怠さMAXの俺とは対象的に抑揚の付いた声で楽し気に話をする。上履きをリズミカルに鳴らしながら階段を昇り、俺も少し遅れて後を付いて行く。階段を昇りきろうかという所で由比ヶ浜はふと足を留めた。

 

「…そいえばヒッキー、今日は部室行くの?」

 

うかがう様な声だ。

 

「まあ、今日は何もないしな。最近顔出してなかったし…それにそろそろあいつらにも手伝いを頼まないといけないからな」

 

「そっか」

 

そう呟くと由比ヶ浜は残りの階段をとととん、と軽やかに駆け上がる。そして最後の一段を踏むとこちらを振り返り、ふんわりとした優しい微笑みを見せた。

 

「由比ヶ浜はどうする?」

 

「えっ、わたし?」

 

「今日は部室行くのか?」

 

「えへへ。わたしね、今日ゆきのんと買い物に行くの、イベントで要るものとか。で、それで終わったら駅前のあの店で一緒にケーキ食べるんだー」

 

「……」

 

由比ヶ浜は、今度は嬉しそうな顔でにっこりと笑った。

一色に連れられコミュニティセンターにやって来たあの日以来、由比ヶ浜はほぼ毎回のようにクリスマスイベントの手伝いに参加していた。別に生徒会役員じゃないので毎回参加する必要はなかったのだが(俺も人の事は言えないが)、由比ヶ浜は持ち前のコミュニケーション能力を遺憾なく発揮し、数回目の会議の時には既に海浜高校のメンバー全員と実に良好な関係を築き上げていた。恐らくイベントに参加している総武高校の生徒の中で一番上手く交流を交わせているだろう。

中でも折本とは気が合ったようで、作業中や休憩時間によく一緒にいる所を見かけた。そう言えば最初に来た時も折本や一色と一緒に居たし、やはり似た者同士通じる所があったんだろう。リア充はリア充を呼ぶということだ。

そしてもうひとり、特に仲良さそうにしていたのが雪ノ下である。いつの間にかゆきのんと呼んでいるあたり、俺の知らない所ですくすくと友情を育んでいたらしい。まあ当然と言えば当然だが、どうやらこっちの世界の由比ヶ浜も雪ノ下の建前を言わず本音で語る姿に感銘を受けた様だった。そして雪ノ下も由比ヶ浜の事を気に入ったらしく、二人で話していたり、折本を加えて三人で作業している姿も見かけた。

ちなみに、雪ノ下は一人暮らしではなく実家から学校に通っている様だった。先日由比ヶ浜は雪ノ下の家に泊まりに行ったらしく、その時に借りたトイレが自分の部屋と同じぐらい広かったなどと仰々しく騒いで伝えてきた。

他にも色々と話を聞かされたのだが、その全てを通じてどうやらこっちの世界の雪ノ下は思いのほか社交的だという印象を受けた。元の世界でふたりが出会った時、自分を真っ直ぐに慕ってくる由比ヶ浜にどう対応していいのか分からずドギマギしていた雪ノ下が、こっちでは既に打ち解けてお泊まりイベントまで発生させている。

ふたりが話を交わす姿はとても自然で、まるでずっと昔からの友達の様だった。俺が思わず元の世界の奉仕部を重ねて見てしまった事は言うまでもない。

 

「あっ、優美子たちだ。それじゃヒッキー、わたし先行くね」

 

その声に、ハッと現実へ引き戻される。

俺は小さく右手を上げて、由比ヶ浜の背中を見送った。

 

 

 

 

 

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いつも通りの授業が終わり、クラスメイトは部活やら帰宅やら思い思いの場所へと散っていった。ちらりと教室を見回す。由比ヶ浜は終鈴と共に教室を飛び出していき、川崎や海老名、三浦の姿もすでにない。残っているのは俺を含め時間を持て余した数人の暇人だけである。心の中でさあ行くかと呟いて、ゆっくりと奉仕部の部室へと向かった。

 

部室の前までたどり着いた俺は何気なく辺りを見回してみる。扉の上の真っ白なプレートはきらりと光って、なんだか知らない場所に来てしまったような感じがした。このところ毎日のようにクリスマスイベントの会議に参加していたので、しばらくこっちに顔を出していなかったのも原因のひとつかもしれない。ここまで来る足取りもなんだか重かったし、いつもより遠くに感じたりしたのもそのせいだろう。

室内からは微かに人の気配がする。俺は取手に手をかけ小さく息を吸ってから扉を引く。立て付けが悪かったのか、ギィっと歪むような音を立てながらゆっくりと開く。

 

「おっす…」

 

俺の声か扉の音に反応したのか、室内から四つの瞳がこちらに向く。

 

「あっ、比企谷君だ」

 

海老名が待っていたかのように声をあげる。隣に座っていた三浦も同じような表情をするが、直ぐにいつもの不機嫌そうな表情に戻る。

 

「今日は向こうはいいの?」

 

「あぁ、今日は休みだから、久しぶりにこっちに顔を出そうと思ってな」

 

「そうなんだ」

 

海老名は嬉しそうに微笑む。

 

「準備はどう?順調に進んでる?」

 

「まあな。大体準備はできて来たな」

 

俺は椅子に腰掛けながら応える。

実際、クリスマスイベントの準備は驚く程順調だった。雪ノ下がサポートしてるとはいえ、一色も玉縄も状況をしっかりと把握し自分の役割を果たしていた。前の世界であれだけ問題を抱えていたのが嘘の様に、実に滞りなく進んでいる。

 

「そっか、なら良かった」

 

「それじゃ、あーしらやる事ないの?マジつまんないんだけど」

 

三浦は唇を尖らせて文句を言う。そう言えば面白そうだから手伝いたいと言っていたな。

 

「なら丁度いい。イベント自体はおおよその目処が立ったんだが、実際人手が足りてなくてな。お前らにもちょっとばかり手伝ってもらいたいんだ」

 

人手不足なのは前々から分かっていたことで、昨日の話し合いで助っ人は十人ほど必要という結論になった。総武高校と海浜高校で半数ずつ出し合うとして、こっちで集めなければいけないのは最低五人。奉仕部の川崎と海老名、それに三浦を含めた三人には当然声を掛けるとして、残りは二人。戸塚に頼めたら最高だか、年末の忙しい時期にあまり無理強いはしたくない。三浦が居る手前、葉山たちに頼むのも気が引ける。十中八九面倒臭くなるのを覚悟で材木座か…まぁ、最悪小町とカマクラでも連れて行くか…。

 

「へぇ、何やればいいの?」

 

「会場の設営や飾り付けや、当日ケーキやクッキー作ったりとかだな。後は…」

 

他にも細かいことは色々あるが、そのあたりは追々詰めていけばいいだろう。

ところで…

 

「お前ら、お菓子とか作れるの?」

 

「あんた…ひょっとしてあーしらバカにしてんの?」

 

「いや、そんなことねぇよ…」

 

何が気に障ったのか分からないが三浦は怒る。恐いんですけど。

ていうか、ただ聞いてるだけなのにそんなに怒るなんて、逆に出来ないと言ってるようなもんだろ。

 

「作れるに決まってるっしょ」

 

おぉ、まじか。人は見かけによらないな。

 

「結衣に比べたら全然できるし」

 

前言撤回。由比ヶ浜を比較対象に設定する時点で、三浦のお菓子作りのスキルもお察しだ。

こいつはあまり期待できそうもないな。

 

「海老名はどうだ」

 

「私もあんまり作らないからなぁ」

 

となると期待できるのは…

 

「そういや、今日は川崎はいないのか?」

 

先程から気になっていたが、川崎の姿が見当たらない。

 

「今日は来ないって。被服室で妹さんが保育園に持ってく雑巾縫うっつってたし」

 

「まぁ、さきさきならお菓子作りも上手だろうね」

 

確かに川崎はいつも弟妹の面倒を見ながら家事もしている。料理が得意なんだから、さぞかしお菓子作りも上手な事だろう。

けれど今日こっちに来ていないのは誤算だった。教室で話しかけるなんて、ぼっちの俺には土台無理な話だ。

 

「じゃあ、明日川崎にも話しといてくれるか?」

 

「いや、そこは比企谷君が自分で言いなよ」

 

海老名は手を横に振り、いやいやちょっと待てという仕草をする。

 

「お前らいつも教室で話してるじゃん」

 

「電話とかメールとかすればいいでしょ」

 

「いや、自分から連絡するのはちょっとな…」

 

向けられた海老名の眼差しから侮蔑の色が浮き出てくる。苦いものでも食べたように半開きになっている口は何か言いたげだ。思わず息を呑む。すると横から三浦が当然の事のように言う。

 

「つーかうだうだ言ってないで今から川崎さんとこ行けばいいじゃん」

 

「いや、被服室は遠…

 

「あんた部活やってないんだしちょっとは運動しな。そんなんじゃ将来デブまっしぐらだよ」

 

「……」

 

そしておかん化した三浦と海老名に部室を追い出され、俺はしぶしぶ被服室に向かって歩きだす。

階段を降りて渡り廊下を渡り、しかし思いの外近かったようで、五分とかからず被服室までたどり着いた。

音を立てないようにそっと扉を開ける。静まり返った室内には備え付けの大きな長机が並び、夕陽を反射してオレンジ色に光っている。入り口から一番離れた奥の机にはミシンがぽつんと置いてあって、近くの窓が一カ所開けられている。窓辺に川崎がもたれかかっていた。自分の肩越しに外を見ている。近づくと、気づいているという印に視線をちらりと俺に向けたが、口は開かない。

 

「もう終わったのか?」

 

俺は川崎に近づいて話しかける。ミシンの傍には縫い終わったとみられる雑巾が畳んで置いてあった。

 

「…何しに来たの?」

 

「あぁ、いや…」

 

「どうせあいつらに何か言われたんでしょ」

 

仰る通りで。

 

「クリスマスイベントの事でちょっと頼みたい事があってな」

 

「…ふぅん、そう」

 

川崎はまた外に視線を向けた。俺は机に浅く腰掛けながら、部室で海老名たちにした話を同じように伝える。

 

 

「いいよ。わかった」

 

話し終わると、川崎は何も聞かずに頷いた。

 

「悪いな」

 

「いいって別に。けど、私そういう可愛いの作れなからね」

 

「なんだよ可愛いのって」

 

「ケーキとかクッキーとか…私が作れるの地味なやつばっかだし」

 

「地味なお菓子?」

 

「どら焼きとかお饅頭とか…」

 

なるほど、たしかに地味だ…。

 

「まぁ、少なくとも海老名や三浦よりは全然頼りにしてるぜ」

 

「…バカ」

 

冗談交じりに言うと、川崎は少しだけ嬉しそうに笑った。

 

「ねぇ比企谷。あんたって最近さ……」

 

「何だよ?」

 

「……やっぱいい」

 

「いや、それ一番気になるやつじゃん」

 

「………」

 

川崎は何か言うのを躊躇っているようで、しばらく室内に沈黙が流れた。

それから決心したのか諦めたのか、小さく息を吐く。

 

「…この依頼が終わったらさ、またいつも通りの奉仕部に戻るのかな…」

 

その質問に返す言葉を今の俺は持ち合わせていない。いつも通りという言葉が重く心に響く。

恐らく、俺の思っているいつも通りと川崎の言ういつも通りは違う。川崎にとっては俺や海老名、それに由比ヶ浜や三浦がいるあの場所の事かもしれない。だが俺にとってそれは非日常で、俺にとってのいつも通りとは、雪ノ下と由比ヶ浜がいるあの奉仕部なのだ。

この依頼が終わったら…クリスマスイベントが終わったらどうなる?今は過去を繰り返しているような状況だが、日付が雪ノ下を見つけられなかった日に追いついたら?こっちの世界で初めての明日を迎えたら?ひょっとして俺は二度と元の世界に戻れなくなるのだろうか…。

 

「比企谷っ」

 

「な、なんだ?」

 

「電話、鳴ってる」

 

川崎に言われてズボンのポケットがブルブルと震えているのに気付く。電話なんて滅多に掛ってこないからそれがスマホの着信だなんて思いもしなかった。慌ててポケットからスマホを取り出すが、タイミング悪く着信も切れてしまう。画面を確認すると由比ヶ浜の名前が表示されていて、十数件の着信に二件のメールが届いていた。なんだか不穏な予感がする…。

再びスマホが震えだす。ちらりと川崎を見ると、電話に出る様に目配せすので、俺は通話ボタンを押してスマホを耳にかざす。

 

「もしも…

 

「ヒッキーっ!どうしようっ、ゆきのんがどこにもいないの!さっきから、探してるんだけど全然…」

 

由比ヶ浜の叫ぶような悲鳴が飛び込んでくる。どうやら酷く慌てている様で、息も切れ切れだった。それは隣にいる川崎にも聞こえたようで、何事かと言う様にこっちを見てくる。

 

「落ち着け由比ヶ浜。買い物中にはぐれでもしたか?俺に電話するよりも雪ノ下に直接掛けた方が見つかるのが早いと思うぞ」

 

「何言ってんのヒッキー?こんな時にふざけるのやめてよ」

 

上擦った声は剣呑なものに変わる。怒られてしまった。そこまでふざけたつもりはなかったのだが、今はあまり下手な事は言わない方がよさそうだ。

 

「雪ノ下とは連絡がとれないのか?」

 

「うん…さっき電話したけど出なかったし」

 

「由比ヶ浜、おまえ今どこにいる?」

 

「渡り廊下の屋上だけど…」

 

渡り廊下…連絡通路の事か?てっきり駅前で買い物してると思い込んでいたが、あの辺りに連絡通路のある建物はない。

 

「駅前じゃないのか?」

 

要領を得ずに聞き返すと、川崎が制服の袖を引っ張ってくる。

 

「由比ヶ浜ならさっき学校に戻ってくるの見たよ」

 

それを聞いて更に頭が混乱する。どういう事だ?

けれど川崎はさっきまで窓の外を眺めてたのだから、その時に由比ヶ浜が戻って来たのならその姿を見ていてもおかしくない。

 

「おまえ…学校にいるのか?」

 

「だから言ってるじゃんっ。部室から出てったゆきのん追いかけて学校中探したけどどこにもいないのっ。ねぇヒッキー…わたしどうしたらいいの?」

 

ドクンと心臓が大きな音を立てる。

その言葉の意味を理解するのに数秒と時間は掛からなかった。

 

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