外に出る頃にはすっかり日も落ちて、辺りはしんと静まり返っていた。薄い雲を貫いて月明かりが差し、乾いた寒風が住宅街の合間を吹き抜けていく。この時間にもなれば周辺を出歩く人はほとんどいない。街灯の類いも少なく、コミュニティセンターの白い壁を照らす明かりが一際眩しく輝いていた。
駐輪場から自転車を押して歩いていると、丁度建物の扉が開いて中から誰かが出てくる。逆光で姿はよく見えないが女子生徒が三人。その喋り声から一色と折本、それに由比ヶ浜だとわかった。向こうもこっちに気づき、ゆっくり近づいてくる。
「へぇ、比企谷自転車なんだ」
折本が俺の自転車を眺めながら言う。何となく悪そうな顔に思えたので、
「…おう、それじゃあな」
と返すと、今度は一色が口を開く。
「えっ、先輩帰っちゃうんですか?」
「えっ、そりゃ帰るだろ」
もうこんなに暗いのに帰る以外の選択肢なんてあるの?
「駅まで送ってくれないんですか?」
一色はさも当然の様に首を傾げる。
「いや、送るっつったってすぐそこじゃねぇか」
駅はコミュニティセンターの目と鼻の先にある。ゆっくり歩いても五分程度で着くだろう。治安だって…強いて言うなら自転車盗難が多いくらいでそれ程悪い訳でもない。確かにこの間は駅まで送ったが、それは一色がひとりだったからで、今は由比ヶ浜も折本もいるんだから大丈夫だろう。
「何言ってるんですか。こんな暗いのに女の子だけで帰らすとかあり得ないんですけど。ねぇ、かおり先輩」
「マジそれね。でも比企谷がそんな事する姿とかマジウケる」
いや、ウケないんですけど…。折本の小気味いい嗤い声に俺は口をへの字に曲げた。
しかしまぁ…確かにこの辺りは住宅街という事もあり街灯があまり設置されていない。夜になれば暗い道も多く、変質者が全く出ないとは言いきれない。
「…わかったよ」
深いため息と合わせて返事を返すと、一色は笑顔で頷いた。
「さすが先輩っ。頼りになりますねっ!」
なんだかいいように扱われてる気もするが、俺は三人を駅まで送ることになった。
…とは言ったが。
気づいてみれば、俺はどういうわけか三人の少し後ろを離れて歩いていた。付いて行くだけでとても送っている様には見えない。対して一色達は、俺の存在を忘れてしまったかのようにおしゃべりしながら歩いている。
送るっていうのはもっとこう、隣を歩いたり楽しく語らいながら執り行われるイベントじゃなかろうか。別にそういうのを望んでいるわけじゃないが、今のこの状況からそんな雰囲気は微塵も感じ取れない。どちらかと言えば随伴しているだけだし、端から見ればストーカーか褌担ぎか、はたまた背後霊の類いと勘違いされてもおかしくない。
いやもう俺いる意味なくね?
もうこのままフェードアウトしてもいいのでは…と脳内会議まで繰り広げられる始末だ。
ふと顔を上げると、目の前を歩く女子の列から由比ヶ浜が少し遅れていることに気づいた。由比ヶ浜は歩調を緩めながらだんだんこっちに近づいてくる。隣までくると俺に足並みを揃えて、それから暫く並んで歩く。
「えっと…」
特になにか言いたい事があった訳じゃないが、とりあえず間を持たせようと口を開くと由比ヶ浜は沈んだ顔でぽつりと呟いた。
「ごめんね、勝手な事して」
勝手な事…たぶん俺に訊かずに雪ノ下に話をしようとした事を言っているんだろう。
確かにさっきはいきなりで驚いたが、結局雪ノ下は話を聞かずに帰ってしまったので現状は何も変わっていない。そういう意味では俺が由比ヶ浜に謝られる理由は無いと言ってもいい。
「まぁ、確かに雪ノ下に話せば協力してくれそうだしな」
俺は声を少し張って、気に留めていないことを伝えた。けれど由比ヶ浜はごめんと言う割に心ここにあらずといった様子で、それこそ気に留めていない様にどこか一点を見つめていた。やがて、ふっと短く息をつくと俯いて、
「でもさ、やっぱり早く話した方がいいと思う」
小さいが、はっきりと聞こえる声で言った。
「…どうしてだ?」
そう訊き返すと、由比ヶ浜は口許に持っていきかけた手を途中で止めて、軽く握ってからゆっくりと下ろした。
「わたし考えなんだけどさ…ゆきのんが別の高校になったのって、多分辛かったからだと思う。あの時ゆきのんわからないって言ってたし、どうしていいのかわからなくなって、逃げ出したいって思ってこんな風になっちゃったんだと思う」
由比ヶ浜の言葉に一瞬頭が回らなくなったが、どうにか脳を奮い起こして反論する。
「いやっ…今いる雪ノ下は俺達がいた世界の雪ノ下とは別の雪ノ下だぞ」
「わかってるけどそうじゃなくてっ…今いるゆきのんがいるのは、わたし達が知ってるゆきのんがそう思ったからで、そうじゃなかったら今いるゆきのんはいないっていうか……」
由比ヶ浜もどうにか説明しようとするが上手く言葉にならないようで、もどかしそうに声にならない声をあげる。
「…とにかくっ、ゆきのんはゆきのんじゃん」
そう言って真っすぐにこっちを見た。
「じゃあ…原因は雪ノ下って事か?」
俺の問いかけに、由比ヶ浜はゆっくりとかぶりを振る。
「ううん…わたし達だよ」
ゴクリ、と喉が音を立てて固唾を吞む。
「いや、J組の連中もいなくなってるんだし…俺達が原因って決めつけるのは早いだろ。それに…まだこれから同じような奴らが出てくるかもしれないし…」
「本当にそう思ってる?」
「いや…、だけど……」
その先が出なかった。由比ヶ浜に真剣な表情で見つめられて、容易に口を開くことができなくなった。自分が本当は何を言いたいのかわかっているのに、言い訳を探そうとした俺は、由比ヶ浜の言葉と瞳に意気が呑まれてしまった。
残念なことに俺は、目を見るだけで相手の心の中を理解できるような眼力は持ち合わせていない。ただ、表情の変化に気づくぐらいだ。誰だって真っ向から見つめられたら気まずくなる。由比ヶ浜の瞳に映った俺は、正にそんな表情をしていた。
「…お前は元の世界に戻りたいと思うか?」
絞り出す様な声で由比ヶ浜に訊く。
「うん…。奉仕部があのままなんて、わたし嫌だもん」
由比ヶ浜は少しだけ頭を傾けると、目を細めて微かに笑った。
本当は分っていた。最初から予感していたんだ。
さっきだって由比ヶ浜の話を聞かずに雪ノ下が帰ってしまったことに、内心ほっとしていた。
認めるのが怖かった。気づくのが怖かった。知ってしまえば向き合わなければいけない。どうにかしなければいけない。だから逃げていた。ここが雪ノ下の望んだ世界かもしれないということから。由比ヶ浜が言おうとしていることから。自分が気づかないふりをしていたことから…。
だけど由比ヶ浜はそれを許さない。
俺と違い、あの時雪ノ下を探しに行く勇気があった。そうしなければいけないという自分の中の確かな正義があった。出会った頃の、他人に自分を合わせることで人間関係を築いていた甘さにも似た優しさではなく、相手のことを真剣に考えて本心からぶつかっていく強い優しさ。
俺にはそれが羨ましくて、同時に恐ろしくもあった。雪ノ下にわからないと拒絶された俺は、由比ヶ浜から向けられた正義の鋭さに怖じ気づいたのだ。
だから由比ヶ浜から差し伸べられた手を取ることができなかった。雪ノ下を探しに部室を出ることができなかった。
結局俺は、自分のことしか考えていなかったんだ。
なんてくだらない。
雪ノ下も由比ヶ浜も同じ様に悩んでいた。そんな当たり前のことから目を背け、勝手に自分の理想を押し付けて、勝手に拒絶されたと決めつけた。
それを事実と認めることを、俺は思ってる以上に恐れていたのかもしれない。
「それでも俺は、本物が欲しい」
悩み、悩み、考えた末に見つけた答え。うわべだけじゃない、心からの俺の想い。
だが、それがどうした。
本物が欲しいと願ったのは、雪ノ下と由比ヶ浜がいたからだ。奉仕部という居場所があったからだ。
それらを失いかけてるのに、未だその想いに振り回されていていい筈がない。
ちゃんと話して、確かめなければいけない。
今からでも遅くないなら…。
俺達がいた奉仕部を取り戻せるなら…。
「…わかった。雪ノ下にちゃんと話そう」
俺は自分の決意を伝えるように、静かに由比ヶ浜を見つめ返した。それは多分、自分に言い聞かせるためだったのかもしれない。
そのことに由比ヶ浜が気づいたかはわからないが、今の俺に先程までの迷いはない。
「けど、もう少し待ってくれ。何が起こるかわからない以上、慎重にならないといけないのは確かだ。それに下手なこと言ってさらに別の世界に飛ばされでもしたら、それこそどうしようもないことになる」
「…うん、わかった」
由比ヶ浜はひとことそう呟くと、空を見上げながらホッと息を吐いた。白い吐息が空中に広がって溶けていく。それからこっちを向いて、ほんのりとピンク色に染まった頬を弛緩させて微笑んだ。
胸の中にあった氷のような緊張が溶けていく。
「結衣せんぱーい。そろそろ電車着ちゃいますよー」
遠くから一色の呼ぶ声が聞こえる。気づけば、いつの間にか俺たちは駅前まで着いていた。時間としては五分と喋っていないはずだが、なんだかとても長い時間話した気分だった。
「じゃあ行くね」
「あぁ、また明日な」
由比ヶ浜は小さく手を振ってから一色達の所まで駆けていった。三人の姿が見えなくなってからも、俺は暫くその場に留まっていた。
見上げると、雲間から三日月が顔を覗かせていた。