雪ノ下雪乃の消失   作:発光ダイオード

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時刻は朝の九時半を過ぎた頃。

土曜日という貴重な休日を犠牲にして、俺は千葉駅の周辺まで来ていた。市の中心ということもあり、この辺りはデパートやショッピングセンターなどの商業施設が多く、休日ともなればそれなりの賑わいを見せる。今はどこも開店前なので閑散としているが、もう三十分もすればここら一帯リア充達で溢れかえるだろう。

水を打ったようにしんとした大通りを、ひとりぽつぽつと歩く。見上げると、空はよく晴れている。それにこの辺りでは珍しい寒凪模様。気温は昨日と変わらないはずだが、風が吹いていないだけで随分と暖かく感じる。

普通なら絶好のお出かけ日和というやつだろう。けれど俺の足取りは重いし、気分は晴れない。それでも足に迷いがないのは、一応目的地があるからだ。本当ならこのまま回れ右して帰りたいところだが、そんな事をすれば俺を呼び出した当人から罵詈雑言を雨霰のように浴びせかけられるのは想像に難くない。加えて特技が合気道となれば…痛くしようと思えばかなり痛い。

まったく…俺への容赦のなさときたら妹とそっくりだ。

 

しばらく歩いていると、道沿いに面したオープンテラスのあるカフェが見えてきた。この辺りには似合わない、なかなか洒落た作りのカフェだ。初めて来る場所だったので少し早めに家を出たが、特に迷うことなくすんなり店に着いた。

思いの外早く着いたので、まだやっていないんじゃないかと思って様子を覗いてみる。入り口の扉にはオープンの札が下がっていた。どうやら既に開いているようだ。普通カフェや喫茶店といえば昼前に開店する場合が多いが、この辺りは駅が近いこともあり他の商業施設よりも早い時間に開店する所が多い。一番早ければ朝の六時にはもうオープンしている所もある。

 

ひとつふたつ深呼吸して、俺は店内に入る。

内側に付いていたベルの音と共に、ミルで挽いたコーヒーの芳ばしい香りが漂ってくる。カウンターに店主がいて、奥の棚には様々な種類の珈琲豆が専用の瓶に詰められて並べられている。白いシャツに青いエプロン、黒縁の大きな眼鏡を掛けた店主は、白髪混じりの立派な髭を蓄えている。ぱっと見無愛想に見えるが落ち着いた声と笑みで、

 

「いらっしゃいませ」

 

と迎えてくれた。

店内をぐるりと見回す。やはりまだ客の姿は見当たらない。

 

「えっと、待ち合わせで…」

 

そう言うと、店主は変わらない笑顔で俺をテラス席に案内してくれた。

 

テラスの床は板張りのウッドデッキになっていた。店から伸びた軒下には木製のテーブルやイスが並べられていて、朝の静けさも相まって落ち着いた雰囲気が漂っていた。そんなテラスの一席に、ひとりの女性が座っている。

濃いグレーのシャツの上からワインレッドのジャケットを羽織って、首許には淡いピンクのストール。テーブルの下で組んだスラリと長い足はと遠目からでもスタイルの良さが見て取れる。姉妹でこうも違うとは…強調された胸許に視線を漂わせながら思った。

俺の足音に気づいたのか、その人はゆっくりと顔を上げる。

 

「やっほー、比企谷君」

 

雪ノ下陽乃さんは笑顔でこっちに向かって手を振った。

軽く会釈をして近づいていくと、丸テーブルの上にはコーヒーカップが一客、雪ノ下さんの手元にはカバーの掛けられた文庫本が置かれていた。

 

「すいません、遅くなって」

 

待ち合わせまではまだ時間があったが、状況的には一応待たせたということになる。

 

「いいよ、私もさっき着たとこだし」

 

そう言ってひらひらと手招きして、雪ノ下さんは俺を丸テーブルを挟んで向かい合わせに座らせた。

 

「何か頼みなよ。ここコーヒーが美味しいらしいよ。豆に拘ってるんだって」

 

テーブルの上にメニューはなかったが、雪ノ下さんが右手を上げるとすぐに店主がやってきて、二つ折りのメニューを俺に差し出した。メニューを選ぶ気にはなれなかったので、雪ノ下さんが注文したものと同じコーヒーを頼んだ。

店主が立ち去った後、俺は雪ノ下さんとふたり、テラスに残された。

 

 

--------

 

 

それは昨日のことだった。

夕食後ソファでくつろいでいると、俺の暇潰し機能付き目覚まし時計が普段とは違う時間に騒ぎだした。あまりにも偏った使い方をしていたせいでとうとう壊れたか。そう思って手に取ると、それはアラームではなく電話の着信を知らせる音だった。画面に浮かび上がるのは雪ノ下陽乃という文字。

表示された名前に不吉さを感じ、しばらく眺めていると、やがて電話は鳴り止んだ。どうやら諦めてくれたようだ。けれどほっと息を吐いたのも束の間、またすぐに電話が掛かってくる。

 

「お兄ちゃん電話ー」

 

隣で漫画を読んでいた小町が、足で横腹を小衝いてくる。

 

「出なくていいの?」

 

「あぁ、これは大丈夫なやつだ」

 

「…ふぅん」

 

小町は漫画から目だけを覗かせ、訝しげに俺を見る。

電話はまた途切れ、二たび妙な静けさがリビングに広がり…そして三たび電話が鳴る。

 

「お兄ちゃんうっさいっ!」

 

「いやっ、これは大丈夫なやつだから…」

 

「大丈夫って…こんだけ掛ってくるんだから用があるに決まってんじゃんっ」

 

俺がスマホをクッションで押さえつけるのを見て、小町は怒っているような呆れているような、憐れみの表情で俺を睨んでくる。自然とクッションに込める力が強くなる。

10コール目を数えたところでようやく電話は鳴り止み、それから再び掛かってくることはなかった。

今度こそ本当に諦めてくれたようだ。

俺はほっと一息つく。それからテレビでも見ようとリモコンを手に取った時、今度はリビングの電話が鳴った。現在両親はおらず、家には俺と小町のふたりだけだ。

 

「小町ちゃん、電話」

 

「むっ」

 

自分は出ないくせに、とでも言いたげに小町は唇を尖らすが、さすがに電話の相手を待たせるわけにもいかないので、しぶしぶ漫画を机に置いて電話を取りに行く。

 

「もしもし、比企谷です。はい、どーもです」

 

耳を澄ますと、リビングから小町の楽しげな声が聞こえてくる。会話の内容までは聞こえないが、どうやら電話は小町宛のものだったようだ。それにしても、今時スマホじゃなく家に直接電話を掛けてくるとは、受話器の向こうの相手はさぞかし恐れ知らずの強者なのだろう。

 

「いえいえ、そんな。とんでもないです」

 

電話を耳に当てながら、小町が部屋に戻ってくる。

俺の側までくると、

 

「ほんと不出来な兄ですいませんー。じゃあちょっと待って下さいねっ」

 

と言って、受話器を俺に差し出した。

 

「お兄ちゃん。陽乃さんて人から電話だよ」

 

この時、俺の休日の安寧は脆くも崩れ去り、碌なものにならないことが確定した。

 

 

--------

 

 

「急に呼び出すのやめてもらえませんかね」

 

コーヒーを待つ間、ここに来るまでに溜め込んでいた思いが口をついて出た。

 

「あれ?比企谷君そろそろ私と話したい頃かなって思ったんだけどな」

 

雪ノ下さんはからかうように首をかしげた。真面目なのかふざけているのか分からない言葉に、俺は思わず口をつぐむ。

 

「雪乃ちゃんと会ったんだってね」

 

「えぇ、まぁ…」

 

「いろいろ聞いたよ。なんか面白そうなことしてるみたいだね」

 

雪ノ下さんは俺の表情を観察するように、じっとこっちを見つめてくるので、

 

「単に面倒なイベントってだけですよ」

 

と言って俺は苦笑をしてみせた。

実際作業は順調だが取り立てて面白いところはなく、備品の手配や書類の処理などただただ面倒なだけだ。まぁ、雪ノ下さんならそれすら面白おかしくしてしまうのかもしれないが。

 

「雪乃ちゃんって、ちょっと気難しいところあるじゃない?」

 

「まぁ…そうですね」

 

俺からすれば貴女も十分厄介ですけどね。などとは言えないので、黙っておく。

 

「なかなか丁度いい話し相手もいなくってね…だから雪乃ちゃんが家で誰かのことを喋るのって凄く珍しいんだよね」

 

雪ノ下さんは感慨深そうに言うと、コーヒーカップに手を添えて、その淵を指で撫でた。

 

「それでどうだった?」

 

「なにがですか?」

 

「可愛いいでしょ、雪乃ちゃん」

 

雪ノ下さんの口許がニコリと笑う。

 

「…性格は全然かわいくないですけどね」

 

「もう、素直じゃないなぁ」

 

今度は目も細めて、雪ノ下さんはからからと笑った。

 

 

ほどなく、店主が俺にもコーヒーを持ってくる。

白い湯気の立っているカップに指をかけ、口許まで運ぶ。ひとくち含んで、ゆっくり飲みくだす。確かに拘ってると言うだけあって、俺がいつも飲んでいるコーヒーとは全く違う味がする。普通ならここからさらに砂糖を二、三杯入れるところだが、甘党の俺でも無理なく飲むことができた。まぁそれでも俺の中でのマッ缶の地位は揺るがないけれど、たまにはこういうのも悪くない。そう思える程度には美味かった。

しかし、陶器のカップってのはそれだけで缶や紙コップのコーヒーよりも美味く感じるのはなぜだろうか…。

 

「それで比企谷君は、何で私が妹はいないって言ったのか訊かないの?」

 

俺がコーヒーについて想いを馳せていると、雪ノ下さんが訊いてくる。突然に不意を突かれたというか思わぬ先手を取られ、身体が僅かにぴくりと揺れる。

雪ノ下さんの目が少しだけ鋭くなった。

 

「雪ノ下からだいたいのことは聞きました」

 

「ふーん」

 

たしか雪ノ下に変な虫が付かないように葉山と付き合っている事にしたとかなんとか…。

そういえば、昔似たようなことがあった。そう、あれは俺がまだ純真無垢な小学生だった頃…

うわっ、お前背中に比企谷虫がついてるぜ。げっ、最悪だ。だれか取ってくれよ。やなこった。比企谷虫に触るとみんな腐っちゃうんだ。おいっ、やめろよ。みんな逃げろーっ。

…いや。これは違う、これは違う。別の思い出だった。

 

「まぁそれもそうだけど。それだけじゃないんだよね」

 

雪ノ下さんが小さく息を吐いたのを見て、俺は意識を再び雪ノ下さんに集中する。

この人は俺がそろそろ自分と話したい頃だと言うが、俺としては決してそう思っていた訳じゃない。たしかに気にはなっていたし、理由を教えてくれるならそれはそれで吝かではない。しかし、雪ノ下さんがそう簡単に俺の願いに応えてくれるはずもない。

雪ノ下と葉山のことはうちの高校でも噂されていた。変な虫が付かないようにと言うなら、妹は葉山と付き合ってると言えばいいはずだ。わざわざ妹はいないなんて、すぐにバレるような嘘を言う必要はない。

雪ノ下さんはコーヒーに口をつけ、こくりと小さく喉を鳴らした。手にしたカップを中空で揺らすのを、俺は黙って見つめる。

 

「ところで、比企谷君は私に妹がいたこと自体には驚かないんだね」

 

穏やかに聞こえるその言葉には、だけどどこか圧迫感があった。

笑顔と声色が一致しない…いや、正確に言うと、一致はしているが笑顔の仮面の奥に見え隠れする表情がとても冷ややかに感じた。

 

「ひょっとして比企谷君って、前から雪乃ちゃんのこと知ってた?」

 

強化外骨格のような、笑顔の奥の険のある眼差しが、じっと俺を睨みつける。

 

「いやっ…そういう訳じゃ

 

「だよねぇ。比企谷君と雪乃ちゃんが以前から知り合いだった形跡もないし、雪乃ちゃんはそれなりに有名だけど君は他校の噂を気にするタイプじゃないしね」

 

「……」

 

かぶされた言葉の圧力に、俺は黙り込む。ふたりきりのテラスに、重苦しい沈黙が流れた。

それからしばらくして、雪ノ下さんはおもむろにコーヒーに口をつけ、

 

「少し冷めちゃったかな」

 

と言った。かちりという音を立てて、コーヒーカップをソーサーに戻すと微かに笑う。

 

「ねぇ、私がどうして君に会いに行ったか分かる?」

 

「それは…平塚先生から話を聞いて…」

 

「静香ちゃんのお気に入りだから会いに行ったんじゃないよ。私はね、最初から君自身に会いに行ったんだよ」

 

笑雪ノ下さんは丸テーブルに右腕をのせ、僅かに身を乗り出して手の甲で頬杖をつく。

 

「なにか隠してることがあるんじゃない?」

 

透き通った声で、そう訊いてきた。

 

 

 

 


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