雪ノ下雪乃の消失   作:発光ダイオード

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窓から差し込む夕日が、ティーカップに注がれた紅茶に反射してきらきらと揺れる。そのカフェは天井が高く、床はタイル張りで格子窓は横に広く、壁掛けの大きなチョークボードには手書きのメニューが書かれていた。お茶には遅い時間だからか、他のお客はほとんどいない。

わたしは紅茶に口をつけ唇を湿らす。かちりと小さな音を立てて、ティーカップをソーサーに戻したあと、テーブルを挟んで向かい合わせに座る彼女を見る。

 

「あなたにお願いがあるの…」

 

由比ヶ浜結衣さん。いつも明るくみんなに好かれている、わたしとは真逆のふんわりとした女の子。アーモンドのようにくりくりとした瞳が、不思議そうにわたしを見つめ返す。

 

「お願い?」

 

「そう……、とても大切なお願い」

 

 

 

 

その日クリスマスイベントの会議は休みで、わたしは由比ヶ浜さんと一緒に、イベントで使う道具や材料を買いに行く約束をしていた。待ち合わせ場所は市の中心駅前の広場。少し早く着いて…、たしか10分くらい待ったと思う。由比ヶ浜さんは時間どおりにやってきた。

買い物にそれほど時間は掛からなかった。必要な物だけ手早く買い揃え、あとはのんびりとテナントを見て回る。雑貨や洋服を見かけるたびに、由比ヶ浜さんは吸い込まれるように駆けていく。仔犬みたいで可愛らしい。並べられた商品に目を輝かせながら、時々思い出したように振り返る。はにかみながら笑う姿に、釣られてわたしも微笑んだ。多分、久しぶりに由比ヶ浜さんと一緒に過ごしたということもあるだろう。それにクリスマス間近の賑やかな空気にあてられて、わたしは浮かれいてた。

そして……最後に立ち寄ったカフェで比企谷君の話聞き、わたしの心は一瞬にして現実へと引き戻される。

 

比企谷君も“わたしと同じように”前の世界の記憶を持っている。由比ヶ浜さんの話を聞いて、わたしはそう結論づけた。「比企谷君の言ってることは本当よ。だって、わたしもそうだもの」と言えば、由比ヶ浜さんはきっと信じてくれるだろう。

けれど……それを言うのは躊躇われる。わたしはまだ、迷っている。

 

「比企谷君に、伝えてほしい事があるの」

 

「なあに?」

 

短く息をついて、慎重に言葉を選ぶ。

 

「今でも本物が欲しいと思っているのなら、今日の夜7時に駅前まで来て欲しい……、そう伝えて」

 

「……それだけでいいの?」

 

意味が伝わりづらいと思ったのか、由比ヶ浜さんは訊き返してくる。

 

「それだけで、わかるはずよ」

 

けれど、わたしが返したその言葉は、ただ、淡々と冷たく乾いていたと思う。

 

 

由比ヶ浜さんと別れたあと、わたしは広場のベンチに座りながら、比企谷君が来るのを待っていた。夕日も沈みかけて、駅前は帰宅する人や買い物をする人で賑わっている。季節はすっかりクリスマスの雰囲気に染まり、近くのお店からはクリスマスソングが流れて聴こえる。広場のツリーにはイルミネーションが燈っていて、プレゼントをモチーフにしたオーナメントが飾られていた。見上げると、星のない曇天の空。遠く湾岸の工業地帯の明かりで、オレンジ色に濁っている。

 

どうしたらいいのか、自分でもわからなかった。

突然に別の世界に放り込まれ、最初は一刻も早く元の世界に戻ろうとしたけれど、その考えはすぐに暗礁に乗り上げた。戻りかたなんて全く思い浮かばないし、そもそも原因すらわからなかった。それに……あの世界に戻って、わたしはどうするのだろう。相手の言葉や本心が見えないことを思い煩い、ただ時間が過ぎるのを待っているだけの暗澹とした世界に戻って、わたしはなにをするのだろう。

……わたしにはわからない。

心の霧は晴れないまま、戻りたいというその気持ちは曖昧なものに変わっていった。

 

指先を温めるように、わたしは両手を口元に当てる。白い吐息が舞い、消えていく。

比企谷君はどうしたいのだろう…。最後に部室で見た彼の顔を思い出す。あのとき、あんな辛そうな顔をしていたのに、それでも戻りたいと思っているんだろうか。

……いや、考えるのはやめよう。

もし比企谷君が元の世界に戻りたいと思ってこの場所に来るなら、わたしもそれに協力すればいいだけだ。

でももし、こっちにいることを望んでいるのなら、その時はわたしも……。

 

遠くから陽気なクリスマスソングが聞こえてくる。

それから、広場に比企谷君が現れることはなかった。

 

 

 

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階段を駆け上がると、渡り廊下の屋上へ繋がる踊り場に達した。扉に手をかけると、それはあっさりと開いていく。風の抵抗を予想していただけに、拍子抜けした。言葉にはしないが、行くぞと心の中で掛け声して外に踏み出す。

長年雨風に晒され、まだらに黒く汚れた渡り廊下の屋上。西からの夕陽は特別棟に遮られ、地面に暗い影を落としている。東の空は、暗くなり始めていた。僅かな照りが廊下のガラス越しに降り注ぎ、夕闇の隙間のぽつんと明るなったところに、雪ノ下の姿を見つけた。

雪ノ下は手すりに寄りかかり、ぼんやりと遠くを見つめていた。愁いのある瞳は、夜の輝きを見せ始めたビル群へと向けられている。冷たい風が吹いて、彼女の艶やかな黒髪がなびく。首筋を切りつけるような冷たさに、俺は思わず身を震わせる。

 

「ゆきのん!」

 

由比ヶ浜が叫ぶ。しかし空の下で話すには、雪ノ下はまだ遠い。由比ヶ浜は数歩、彼女に近づいた。俺もそれに続いて、ゆっくりと歩く。階段を一気に駆け上がったせいで、まだ息が上がっている。

 

「雪ノ下……」

 

切れ切れの声で呼ぶ。返事は返ってこない。それでも声はちゃんと届いているようで、雪ノ下は風に煽られるようにゆらりと振り返る。黒々とした瞳が、俺たちにまっすぐ据えられる。

 

「記憶、戻ってたんだね…」

 

声こそおとなしかったが、由比ヶ浜の眼差しはしっかり雪ノ下に向けられていた。

 

「あなたこそ…」

 

その視線に、雪ノ下は目を逸らさない。鋭さを感じるその瞳は、夕陽のせいか潤んで見える。

 

「なんで言ってくれなかったの?」

 

「…それは、あなただって同じでしょ」

 

小さな、けれど冷たい声音に、由比ヶ浜は思わず唇を浅く噛む。その一言にこれほど強い拒絶か込められるのを、俺は初めて知った。

雪ノ下は、言うか言うまいか少し悩むような間を空けて、言葉を続ける。

 

「相手にどう思われるかわからないから、あなただって黙ってた……。

誰だってこんな話信じないだろうし、たとえ聞かれても“寝ぼけてたって誤摩化したりする”のが普通じゃないかしら?」

 

再び風が吹いた。手すりがついているとはいえ屋上で風に煽られるのは、僅かながらにも恐怖を呼ぶ。俺の顔はたぶん、強張っていたのだろう。雪ノ下は肩をすくめると、中庭に目線を落としながら言った。

 

「比企谷君だって、そうでしょう……?」

 

ギクリとする。雪ノ下は俺に記憶が戻っていることを知っていたんだ。

 

「……いつから気づいてた?」

 

「前に、カフェで由比ヶ浜さんから比企谷君の話を聞いたときに気づいたの。

本当は言わないつもりだったんだけれど……黙っていたことは謝るわ。それに…由比ヶ浜さんも……」

 

小さく頭を下げる雪ノ下を、由比ヶ浜は複雑そうな顔で見る。

確かに俺は最初こっちの世界に来たとき、動揺しながらもそのことを夢だと言って誤魔化そうとした。雪ノ下の言うとおり、こんな話を信じるやつなんていないと思ったからだ。

しかし、雪ノ下はどうなのだろうか……。雪ノ下なら由比ヶ浜に話したとしてもおかしくない。どうして言わないつもりだったのか。そうしなかったのは、本当に“相手がどんなふうに思うかわからないから”だけだろうか?

心の中で、呟く。

……いや、違う。

理由は他にもあるような気配がする。表情や仕草を見ただけで内心がわかるなんて思い上がってはいないつもりだが、いまの雪ノ下に迷いがあるのははっきりとわかった。雪ノ下が完全に俺たちを拒絶する前に、なんとか話を聞いてもらうしかない。

 

「いいや、お前の言うとおり、こんな状況じゃ言わないでいるほうが賢明だ。

……それに、謝らなきゃいけないのは俺だって同じだ」

 

「えっ?」

 

予想していなかっただろう言葉に、雪ノ下の表情は一瞬鋭さを忘れる。

すかさず一言、

 

「実は…俺も知ってたんだ。お前の記憶が戻ってたことを……」

 

と言う。一瞬の間を開けて、由比ヶ浜と雪ノ下が同時に口を開く。

 

「どういうこと?ヒッキー…」

 

「なにを言っているの…?」

 

人は二方向から攻撃されると判断能力が著しく低下するらしい。驚きと胡乱げな視線を同時に浴びて、俺の焦点は雪ノ下と由比ヶ浜の間を彷徨う。

いいから落ち着け。心の中で自分に言い聞かせる。ちらりと由比ヶ浜を見て、それからまた雪ノ下へ視線を戻す。

 

「ちょっと前に、雪ノ下さんから聞いたんだ」

 

「姉さんから…?」

 

雪ノ下の表情に鋭さが戻る。もともと険のある眼差しが、じっと俺を見つめ返す。

 

「雪ノ下…おまえ、四月に交通事故にあったらしいな」

 

雪ノ下さんから聞いた話では、下校中の雪ノ下に前方不注意の車が突っ込んできたらしい。幸い車との接触はなかったが、避けようとした拍子に転んで足首を捻って、大事を取って病院に運ばれたそうだ。

 

「そうなの?ゆきのん」

 

「…えぇ」

 

雪ノ下は硬い表情のまま応える。

 

「その時おまえは病院で、俺と似たようなことを言った。確か……今は十二月だとか、自分は総武高校の生徒だとか…。雪ノ下さんは事故のショックで記憶が混乱してるんじゃないかって言ってたけど、本当はそのとき……いや、奉仕部の部室を出てった時に記憶が入れ替わったんじゃないか?」

 

もし事故の後にこっちの世界に飛ばされたのなら、事故にあった時の記憶は残ってないはずだ。由比ヶ浜は、部室を飛び出していった雪ノ下を探している途中でこっちの世界に来た。俺も……気づいたのは翌日だったが、最後に見た雪ノ下は部室飛び出していく姿だった。

すべての原因は奉仕部にある……とすれば、雪ノ下も部室を出た後に記憶が入れ替わったと考えられる。

ほんの一瞬、雪ノ下はまじまじと俺を見た……すぐに元の表情に戻ると、わざとらしく首を傾げる。

 

「半年も前のことよ。いつだったかなんて、もうはっきりとは覚えてないわ。事故のことはなんとなく覚えているけれど……状況が理解できたときには、もう病院のベッドの上だったもの……」

 

声は次第に自嘲するように変わっていく。そして、

 

「うまく誤魔化したつもり、だったんだけれど……ね」

 

と言って、無理に笑おうとでもしたような、いびつな表情をみせる。

 

「最初は突然のことで混乱したわ。でも、いつまでも騒ぎ続けるわけにもいかないでしょう?

だからわたしは……こっちの世界のわたしを演じることにした。

こっちのわたしは母さんと姉さんの言うことを何でも聞く、聞き分けの良い子だった。そのせいか、ふたりともとても優しかったわ」

 

「ゆきのんは……」

 

由比ヶ浜の唇が少し動いた。

 

「ゆきのんは…それでよかったの?」

 

冷たい風にまぎれてしまって、その声はほとんど聞こえないくらいだった。

 

「いいもなにも、急にわたしの性格がかわったらみんな困るでしょう?」

 

雪ノ下の言うみんなというのが誰を指しているのかはわからない。しかし、次女とはいえ雪ノ下家の令嬢だ。その言葉や行動の全てに家名を背負っているとは言わないが、父親が県議会議員で、建設会社社長でもあるという事実はついて回る。雪ノ下に悪い噂が立てば、それはそのまま雪ノ下家の評判になるだろう。

雪ノ下の父親には会ったことはないが、立場から考えても世間体を気にする人間だろう。そしてあの母親も、同じタイプにみえる。自分の娘が奇異の目で見られることは避けたいはずだ。

家の面子を潰すのを嫌って黙っていたんだろうか…。責任感の強い雪ノ下なら、考えられなくない話だ。

 

雪ノ下は、ふっと短く息をつくと俯いて、微かに笑った。不意に、雪ノ下さんが重なって見える。

 

「正直に言って、気持ちが楽になった。なんだか胸の支えが取れたような気分だったわ」

 

それはまるで、心からの言葉のように聞こえた。

ああと思った。雪ノ下はずっと悩んでいたんだ。元の世界やこっちの世界……色々なことを考えて悩み、疲れ、どうしようもなくなって、今置かれている環境を受け入れた。これまでの悩みや葛藤を全て捨てて、なにも考えず、ただ両親や姉の言葉に従う……。きっと肩の荷が降りた気分だっただろう。それこそ、安寧の泥の中に沈み込んで、もうずっとこのままでいいとさえ思ったのかもしれない。

 

「ゆきのんは…戻りたくないの?」

 

由比ヶ浜は雪ノ下から一歩離れる。辛そうに表情を歪めながら、震える声でそう訊いた。

風が止み、渡り廊下の屋上は静まり返る。夕日に紛れるように、ひどく静かな声が届く。

 

「……いまさらそんなこと言われても、困るのよ」

 

「えっ?どういう……」

 

首を傾げる由比ヶ浜。雪ノ下は、ほんの少しの苛立を交えて、言った。

 

「それは比企谷君に訊いてみたら」

 

突き放すような言い方に、由比ヶ浜は思わず目を逸らす。そして、逸らした先に俺を見つけると、説明を求めるように見つめてくる。

どういうことだ?いったいなにを言ってるんだ…。

必死に記憶を掘り返してみるが、しかしなにも思い当たらない。気づかないうちに、俺は雪ノ下が戻りたくなくなるようなことを言っていたんだろうか……。

二の句を継げずにいると、耐えかねた雪ノ下が先に口を開く。

 

「あの日、比企谷君は来なかった。つまりあなたも元の世界に戻る気はなかった……そういうことでしょう?」

 

「ち…、ちょっと待て!あの日って……いったいなんの話をしてんだ?」

 

思わず言葉が詰まる。

説明を聞いてなお、俺の疑問は解けることはなかった。寧ろ余計に深まっていく。

 

「なにって……。由比ヶ浜さんから聞いたんでしょう?」

 

「いや、なにも……」

 

なにか、ひどい勘違いをしているんじゃないかという考えが頭を過ぎる。

雪ノ下も怪訝そうに表情を曇らせて由比ヶ浜を見るが、由比ヶ浜は、さっきの俺と同じような……困惑した表情で首を横に振った。

 

「……伝えてくれなかったの?」

 

「ごめん……なんの話…?」

 

「…………」

 

半開きになった雪ノ下の口がわなわなと震える。その表情と声にならない声に、苛立ちにも悲しみにも似た、愁いの色が滲み出す。

由比ヶ浜も頭がうまく働かないのか、ただ茫然と立ち尽くしている。

 

「雪ノ下、どういうことなんだ?あの日っていつのことだ?」

 

雪ノ下は俯くと、気の強そうな顔をくしゃっとしかめた。

 

「あの日……ふたりでクリスマスイベントの買い出しに行った日、比企谷君に伝えてほしいって頼んだの。“まだ本物が欲しいと思っているなら、駅前まで来て欲しい”って…」

 

それは、元の世界で俺がふたりに言った言葉だった。こっちの雪ノ下が知らない言葉。それを言うことで、自分の記憶が戻っていることを俺に伝えようとしていたのか……。そう考えたとき、気づく。

 

「……そういうことか」

 

つまり雪ノ下は、俺が“雪ノ下に元の世界の記憶があるのを知っている”ことを知っていたんだ。

 

「さっきは比企谷君がなぜあんな事を言ったのかわからなかったけれど……そうね、話を聞いていないのなら当然よね」

 

雪ノ下は口許に皮肉な笑みが浮かばせ、中空に視線を漂わせる。

本物が欲しい……それを言えば、雪ノ下は俺がやってくると思ったのかもしれない。しかし、その言葉は俺に伝わることはなかった。きっと予想もしていなかっただろう。そして、俺が行かなかったことで、雪ノ下はこっちの世界で生きることを決めた。

膝が、微かにふるえる。寒いからじゃない。雪ノ下はずっと悩んでいた。ひとりきりで誰にも言えず、どうしようもなくなっていたときに俺が同じ状況にあることを知った。誰かに相談を持ちかけたとき、それに応えてもらえなかったとしたら……それはとてもきついことだ。

気付く機会はいくらでもあった。違和感は感じていた。それなのに気付かなかった自分への怒りで、心臓の鼓動が速くなって、膝がふるえるのだ。

ふと、何かを力いっぱい殴りつけたい衝動に駆られた。殴って、自分の手も怪我して、血を流してしまえばいいと思った。

 

いまさら言われても困まる。つまり、もう元の世界に戻る気はないってことか?

……いや、仮に雪の下の中でもう終わった話だったとしても、このまま引き下がる訳にはいかない。俺は自分のこぶしを強く強く握りしめる。声に力がこもる。

 

「由比ヶ浜は言わなかったんじゃない。知らなかったんだ」

 

眉をひそめ、雪ノ下は俺の言葉を繰り返す。

 

「…知らなかった?」

 

「そうだ」

 

「どういうこと?」

 

「由比ヶ浜は、確かにお前の頼みを俺に伝えようと学校まで戻ってきた」

 

あの日、由比ヶ浜が学校に戻ってくるのを、川崎が被服室から見ている。

 

「じゃあ、どうして……っ」

 

「その時、俺を探している途中で由比ヶ浜の記憶が戻ったからだ」

 

雪ノ下が口を開く間を与えず、俺は言葉を継ぐ。

 

「俺達の記憶は元の世界のもので、こっちの世界にいた頃の記憶はない。つまり、今の由比ヶ浜には学校に戻ってくる以前の、こっちにいた時の記憶がないんだ」

 

奉仕部の部員じゃなかったこと。葉山に彼女がいると噂になって、グループ内が不穏になったこと。俺と雪ノ下と三人で、クリスマスイベントの作業をしたこと。雪ノ下と一緒に買い物に行ったこと……。そのすべてを、ここにいる由比ヶ浜は知らない。

 

「……そんなことって」

 

雪ノ下はふらふらと手すりに寄りかかり、力なく目を伏せる。肩幅のせいか、雪ノ下は随分と小さく見えた。

 

「ゆきのん、あのね……」

 

由比ヶ浜は、なにかを言いかけた。

が、小さな口は僅かに動くばかりで声はない。やがて出てきた言葉は結局、一言だけ。

 

「……ごめん」

 

雪ノ下は地面にぼんやりと黒くこびりついた雨汚れを見つめていたが、やがて力なく首を横に振った。

 

「……いいえ。あなたのせいじゃないわ」

 

風は相変わらず吹き続ける。夕日は徐々に沈んでいき、雪ノ下の顔に陰を落とす。

 

 

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