そのままの君が好き。 作:花道
特別な事なんて何もないかもしれない。
ただ、それでも毎日は楽しくてしかたなかった。
そう思えた。
本心だった。
心の底からそう思えた。
当たり前の日々が過ぎていく。
過ぎていく時間が惜しいくらいに今の生活を噛みしめている。
楽しい、と心の底から思っている。
こんな日がもう一度来るなんて思ってなかった。
だから、すごく感謝している。
止まっていた時間は確かに動き出した。
寝坊助の貴方の寝顔に視線を落とす。
眉にかかっている髪の毛にそっと左手で触れる。
陽乃は優しく微笑む。
今日も新しい日が始まる。
ーーーーー
そのままの君が好き。
ーーーーー
今日は2人とも休みだった。
陽乃の作った朝食を食べた後、2人で出かける準備を進める。行き先は特に決めてない。ただ、休みだから出かける事にしただけ。
陽乃は伸ばした髪の毛を一つにまとめるだけで、化粧はしなかった。服装もいつも通り黒で統一されている。
比企谷は髪の毛を少し散髪した。ツーブロックになった髪型は意外に似合っていた。比企谷曰く美容師に無理矢理やられたらしい。比企谷の服装も変わらず黒で統一されている。
財布、スマートフォン、腕時計。必要なものを確認して玄関に向かう。黒のハイカットを履き、比企谷を待つ。比企谷は背中に鞄を預けていた。
簡単な準備が整い、比企谷も玄関に向かう。
2人揃って家を出る。
心の中で陽乃は「行ってきます」と言った。
気温は少し低くなり、肌寒くなっていた。
カーディガンやパーカーはまだ必要ないが、もうそろそろ準備はしていた方がいいかもしれない。
あの時のように手は繋いでいない。今は恥ずかしくてそんな事は出来ない。あの時は少し自分に正直すぎた。
だけど、彼の隣を歩くだけで陽乃は嬉しかった。会話はなくてもいい。そんなものは必要ない。言葉にしないとちゃんと想いは伝わらないかもしれない。でも、言葉にしたら間違うかもしれない。何かを伝えるのは思いのほか難しい。
言わなければわからない。言ったとしても伝わらない。
そう考えると言葉は完璧じゃないのかもしれない。
だから世界には8000を超える言語があるのかもしれない。
そんな事を陽乃は考えてしまう。
あの時、いや、正確にはもっと前。この道が始まった当初にちゃんとこの想いを伝えていれば、喧嘩は起こらなかったかもしれない。間違えなかったかもしれない。だけど、それは結果論でしかない。そんな考察は無意味だ。そんなこと解っている。
では、正解はないのか?
そんな事陽乃には解らない。
わかるのはこれからも陽乃は生きていくという事だけ。
常識やマナー、知識、必要最低限の力は少なくとも母に与えられた。陽乃はいまだに母に助けられて生きている。
努力は無駄じゃなかった。後悔もしていない。そう思いたい。
でも時々、一ヶ月のうちに何回もこんな事を考えてしまうのはどうしてだろう。
本当は後悔しているのだろうか。母は落胆していた。父はなにも言わなかった。雪乃には悪い事をした。比企谷には迷惑をかけた。いろんな感情が心に浮かんでは消えていく。
たった一度の挫折は思ったよりも傷が深い。
挫折なしの人生にありがちなことだ。一度くらい挫折を経験していた方がいい。
負けなしの人生なんて色彩がない。面白みがない。
たいしたことじゃない。いつものことだ。
そう言い聞かせた。
だからいつか、この傷も癒える時が来るのだろう。
太陽が眩しい。
不意に、
陽乃の左手が比企谷の右手と繋がれる。
驚いたように、陽乃は比企谷は見る。
比企谷は視線を向けない。
耳は赤く染まっていない。
顔は背けている。
少しだけ笑みがこぼれる。
ーーー君はいつもそうだね。
いいタイミングで君は手を差し伸べてくれる。
だから、甘えてしまう。
でも、今はこう思いたい。
ーーー君に出逢えて本当に良かったーーー。
♯10 〝今まで〟生きてきて、
放って置けなかった。
弱りきった陽乃さんを放っていたら、そのまま死んでしまうんじゃないかって思ってしまった。
そう思ってしまった。
だから、一緒に居ようと思った。
せめて、その傷が癒えるまでは俺がずっと一緒に居ようって思った。
あの時より華奢になった身体。伸びた髪の毛。魔王のような覇気はそこには存在しない。
変わり果てた姿を見て、俺はただ驚いた。
これが本当にあの雪ノ下陽乃なのか、と。
誰もが見惚れた姿はそこにはなかった。
誰もが惹かれたカリスマ性はそこにはなかった。
俺が
本当は雪ノ下に連絡するのが正しい選択なのも分かっている。
でも俺はその選択をしなかった。
〝あの人〟に今の陽乃さんを合わせたら、きっと俺は後悔するから。
俺たちの間にはまだ壁がある。
当たり前と言われたら、当たり前なのかもしれない。
陽乃さんが意図しているのか分からないが、作っている空白がある。そして、その空白には俺は触れられない。
隣を歩く陽乃さんの表情がどことなく暗いのは多分、今家族の事を思い出しているからだろう。
一緒に住み始めて九日。一週間と少し。
まだまだ俺たちの距離は遠い。
でも、少しずつ、だが確実に距離は短くなっている。
陽乃さんの身体はまだ華奢なままだ。アルバイトも楽しそうに行っている。家を棄てて、大学も辞めて、得てきた人脈やその他全てを棄てて、後悔がないなんてそんな事は無い筈なのに、楽しそうにしている。
笑ってる筈なのに、心の霧は晴れていない。
駆け抜けた日々。重ねた痛み。俺では決して経験出来ない事だ。
痛みを知ったその瞳から溢れ出した涙。
心が痛かった。どうして、あの時、俺は助けに行かなかったんだと後悔した。もう二度と逢えないとどうして決めつけたのか。俺には陽乃さんの日常がどんなものだったのか分からない。分からないけど、手を差し伸ばすくらいは出来た筈だ。それをしなかった自分を悔いた。
〝約束〟した筈なのに、俺は果たせなかった。
憧れがあった。
後悔があった。
悔しさがあった。
雪解けはまだ遠い。
だけど、あなたの隣には俺が歩いていく。
これからも歩いていく。
だから、あなたの手をこの手でしっかりと握る。
後悔だけはしたくない。せめてこの気持ちに嘘偽りは一切無いと信じたい。
立ち止まって動けないなら俺が背中を押す。
もう二度とあなたを離さない為にーーー。