α.飢えた獣たち
ーーー昔々、あるサーカスの一団にひとりぼっちの少年がいました。
ーーー少年は、生まれた時から一人でした。
異形の腕を持つ彼は両親からも忌み嫌われ、わずかな金銭で他の者たちの元へと売り渡されました。別れの言葉すらもなく、ただ物のように扱われた少年の姿はまるで意志の欠落した人形のように哀れで滑稽で、買い取ったものたちも、その異形の腕を蔑むように眺めるばかりでした。
ーーー少年は、愛を知りませんでした。
生まれた時から忌み嫌われ、蔑まれ、優しい言葉をかけてもらったことすらなかった少年は、誰かから愛されたことなど一度もありませんでした。毎日のように他のものにいびられ、いじめられ、傷だらけになりながらもただ漠然と生きるだけの彼の心は磨り減り、いつしか誰かを想うことすらも忘れていきました。
ーーー少年は、愛を欲しがりました。
皆に笑顔を向けられ、慈しまれ、想われるものを羨みました。それをもらえているある男が羨ましくて、嫉妬して。優しかった彼を、唯一自分を見てくれた男を、少年は、
ーーー少年は、男とともに行くことを決めました。
壊れてしまった男のために、少年は男の失った“友達”を名乗ることを決めました。男がコンビを組んでいた雑種の犬のーーーの名を、自分と犬をごっちゃにしてしまった男のために。もう一度、この人が笑ってくれるように。
ーーー少年は大切な人を失い、自分が愛されていたことを知りました。
男は死んでしまいました。少年を庇って。
失って初めて少年は、男が自分を愛してくれていたことを知りました。愛を知らず、愛することも愛されることも知らなかった少年は、二度と動かなくなった男を目の前にしてようやく悟りました。全てが終わった後で、全てを失った後で、少年はようやく愛を知ったのです。
ーーー少年は、愛した人を取り戻したいと願いました。
少年の元に、悪魔が囁きました。もう一度会いたくはないかと、もう一度あの男に愛して欲しくはないかと空っぽになりかけた少年の心に忍び寄り、少年はその契約に乗ってしまいました。
ーーー少年は、自らの手で愛する人を手にかけ、再び愛を失いました。
悪魔の契約は、大切な人を危険で悲しい兵器に変えてしまうものだったのです。大切な人は少年を憎み、兵器の本能に従って少年を殺そうと刃を振りかざしました。
しかしその時、少年の異形の左腕が動いたのです。悲しき兵器を殺すための武器が目覚め、大切な人だった兵器に襲いかかりました。少年が抵抗し止めようとする武器が迫る中、男はボロボロの体で少年を見つめ、口を開きました。
『ーーー、お前を愛している。…壊してくれ』
こうして、少年は自らの手で大切なものを壊し。
そして、もう一人の男に出会いました。
ーーー少年は、もう一度立ち上がりました。
もう二度と、大切なものを失わないように。もう二度と、立ち止まったりしないという誓いを守り抜くために。そして、自分と同じように悲しみの涙を流す人々を増やさせないために、悲しき哀れな生物兵器たちを救済し続ける終わりのない旅に、身を投じていったのですーーー。
「ーーハイ♡ そんなワケで、我々ノアの一族と忌々しい
暗い暗い闇の中に突如スポットライトの光が灯り、奇妙な人物の姿を照らし出した。丸々と太った大きな体に奇抜な意匠を施したシルクハットという、ピエロのような滑稽な格好をした男だ。エルフのように長い耳を持つ彼は、大きな口を常に笑顔に歪めてひょこひょことコミカルに動き回り、スポットライトの下で踊る。
彼の名は、千年伯爵。この世に終焉をもたらすため、人の魂と悲劇を機械の肉体に詰め込んだ兵器『
「アア、大好きなマナを自分で壊しちゃった哀れなアレン♡ 忌々しいイノセンスの鉤爪と共に、勝てる見込みのない長い長い戦いを挑む哀れで滑稽なアレン♡ 皆様もきっと、この道化を笑って眺めてきたことでしょう♡」
彼が誰に話しているのかはわからない。しかしその姿はあまりにおぞましく、ちょこまかと踊るように舞台を駆け回る姿を正気で見ている“人間”は一人もいないはずである。
それもそのはず、観客席にはまともな“人間”の姿は一人たりとして存在しない。観客席に座っているのは、明らかに生気を失った表情の老夫婦や若者、チェスの駒やトランプの姿をした異形、全身を鎧で包んだ大男に羽の生えた天使の姿をした人形……。そして、観客席の最前列には、黒色の肌に、額に十字形の聖痕を刻んだ十二人の青年たちが座り、千年伯爵の公演をさもおかしげに眺めていた。
と、そこで千年伯爵が動きを止め、くるりと振り返って眼鏡を光らせ、そこにいる者ではない観客たちに視線を向けた。
「デスが……ご存知デスか? 物語には必ず、表では語られない“裏話”というものがあるということを……」
そこで取り出される一枚のカード。鎌を持った道化が描かれたジョーカーのカードをゆっくりとひっくり返し、観客たちを恐ろしい目つきで見つめ続けた。
「これから話すのは“今”よりも少し前のお話。アレン・ウォーカーが忌々しいイノセンスに目覚め、これまた忌々しいクロスと出会い、そして別れたすぐ後のお話……。あの哀れな道化は何を見て、何を失ったのか、そんな語られない一場面」
バッと両手を挙げた伯爵が、パチンと指を弾く。その瞬間、煌々と輝き伯爵の姿を闇の中に照らしていたスポットライトが一瞬にして消え、辺りは再び完全な闇へと戻った。
「さぁ…、それではイッツショウタイム♡‼︎」
◇ ◆ ◇
紅い月が、星ひとつ見えない闇の夜で輝く。
まるで空をナイフで斬り裂き血を滲ませたようなおぞましさを感じさせる夜に、一つの断末魔の悲鳴が響き渡った。
絶叫の出所は、人気のないくらい路地裏。迷路のように入り組んだ悪所の片隅で、一人の女が口と胸から血を吐いて倒れ、びちゃりと嫌な音を立てた。娼婦のものと思わしき胸元が大きく開いた煽情的な服装の女が、恐怖で引きつった顔で目を見開いたまま石畳の上に自身の肉体を横たえらせる。
その前に立っているのは、大柄な人影。しかしそのシルエットは明らかに人間のものではなかった。
見に纏うコートのようなものは昆虫の表皮のように光沢を放ち、痛々しい棘や突起が生えた気味の悪いもの。頭からは二本の触角に似た角が生えていて、倒れた娼婦をただじっと見下ろしている。
だらりと垂れ下がる腕からは長く鋭利な刃が伸びていて、付着していた赤い雫がポタポタと滴り落ちる。雫は真下の石畳の溝に溜まり、どす黒い水たまりの上に小さな波紋を生じさせていた。
するとふと、異形の背後が騒がしくなり始めた。ピクリと反応する異形の背後の道から、ドカドカと何人もの警官たちが集い、死体の前に立つ異形を鋭く睨みつけると拳銃を構えて怒号を発し始めた。
「いたぞ‼︎ こっちだ‼︎」
「今日こそ貴様の命日だ‼︎ 大人しくしろ、この化け物が‼︎」
血を滴らせる異形に臆することもなく、警官たちは勇ましく吠えて包囲を狭めていく。
異形はただ無言でそれを見つめると、次の瞬間ゆっくりと身をかがめ、凄まじい速度で空中に飛び上がった。目を見開く警官たちの頭上を飛び越え、異形は屋根を踏んで別の道へと消えていく。
「⁉︎ 逃げたぞ‼︎」
「追えぇ‼︎ 逃すな‼︎」
最前面にいた警部が叫び、仲間を走らせる。上空を跳んでいく異形の背中を追い、発砲しながらも道を熟知した警官たちはすぐさま異形の飛び立った方向にある道を特定し、挟み撃ちにしようと応援も要請する。
程なくして、異形はある道に降りていき、警部はニヤリと笑みを浮かべる。
「バカめ……その道は行き止まりだ。一番隊は裏の道へ‼︎ 二番から四番隊は正面で待ち構えろ‼︎」
警官たちは警部の指示にすぐに従い、異形を捉える包囲網を形成する。拳銃を構えた警官たちは路地の出口に並び、いつでも発砲できるよう弾を込め用意を完璧に整える。
完全な布陣に、警部は笑みを深めた。
「年貢の納め時だ…………
陣を整え、警官たちは声を殺してその時を待つ。するとやがて、路地の奥からコツコツと硬い靴を鳴らす音が響いて来た。
警官たちは冷や汗を垂らし、その音の主であろう異形が現れるのを待つ。そしてーーー。
「ーーーどうかなさいましたか。そんな物騒なものを持ち出して」
現れたのは、一人の修道女だった。
異形の登場を予想していた警官たちは呆けた顔になり、現れた修道女を凝視して戸惑いの表情を浮かべる。
顔は陰になってよく見えなかったが、見事な金髪が特徴的なまだ若い娘だった。顔の陰の中にルビーのような赤い瞳が見え、固まっている警官たちを静かに見つめ返している。
ハッと我に帰った警部は咳払いをすると、先ほどまでの気の抜けた態度を取り繕うように表情を改めた。
「あー、失礼。お嬢さん。こんな夜中に出歩くことは感心しないが聞きたいことがある。ここに緑色の格好の化け物が来なかったか?」
「化け物……ここへは内職の納品で来ただけですが、存じませんね」
修道女は無表情でそう答えると、首を傾げながら警部を見つめる。
その様子に警部は考え込む。
この娘の落ち着きっぷりはなんだ? “奴”を見ていないにしても、これだけの警官を前にして驚くことも慌てることもないなどあるのか?
(……まさか)
ふとある可能性がよぎった警部だったが、すぐにそんなわけがあるかとかぶりを降って否定する。そしてそんなことを考える自分に内心で疲れているのかと苦笑する。
その元に、一人の警官が近寄って来て耳打ちをした。
「……警部、この人は町外れの教会の娘です。確か火事で両親を……」
「……表情が変わらんのはそれか」
部下の報告に、警部はやはり考え過ぎかと頭を掻く。じっと見つめてくるままの修道女に向き直ると、安心させるように笑みを浮かべて手を振った。
「すまんな。今、凶悪犯を追っていて気が立ってたんだ。お前さんも、早いとこ帰れ。…殺人鬼がまた出たところだからな」
「……お気遣い感謝します」
ぺこりと頭を下げる修道女に、警部は気にするなと手を振り、次いで部下たちに声を張り上げる。
「奴はまだこの辺りにいるはずだ‼︎ 探せ探せ‼︎」
警部の号令で、再び騒がしく警官たちが走り出していく。
やがて静かになった道に一人残された修道女の娘は、ハァと小さくため息をこぼして警官たちが去った方を見つめた。
「……
その呟きは、怪しく吹いた風にかき消されるようにして闇夜に消えていった。
前回にもちょこっとだけ投稿して、煮詰まっちゃったんで書き直して再投稿しました。伯爵の言う通り、今回の話はアレンがまだ黒の教団に行く前のお話です。
温かい目でご覧になってください。