ご注意ください。
φ.少年と少女
少年はこれまで、誰かに名前を名乗ったことはなかった。
自分があの人の代わりになるのだと誓ったものの、未だ誰かのその名前を名乗るだけの覚悟はできていなかった。あの人の友達の名が、ひどく神聖で安易に口にしてはならないように思えて、自分が名乗ることでそれが穢れてしまいそうに感じていたのだ。
だから、少年はその名を口にはしなかった。誰にも名乗らず、教えず、それゆえにあの人に呼ばれる以外で耳にすることはなかった。
その日までは。
「ーーーねぇ、何してるの?」
ある肌寒い秋の日のことだった。
あの人とともに訪れた街で、広場の噴水の淵であの人とともに使う商売道具の手入れをしていた時、一人の少女が不思議そうな表情で尋ねてきたのだ。
金色の髪に、ルビーのような瞳をした綺麗な少女。歳は、少年よりも少し上といったところか。
少年は急に話しかけられたこともそうだが、少女の顔がひどく近い場所に近づいていたことに驚き、一瞬言葉を失って少女を凝視してしまった。
「……見て分かんねぇか、雑用してんだよ」
「それはわかるよ。なんの道具なのかなって思ってさ」
驚かされて若干不機嫌そうな顔になった少年に臆することもなく、少女はじっと無表情のまま少年に尋ねてくる。許可も取らずに隣に座った少女に少年は若干鬱陶しそうな表情を浮かべるも、少女は全く気にした様子はなく少年の手元に目を向けている。出会ったばかりだが、随分と図太い性格のようだということがすぐわかった。
「ジャグリングの玉と、ピン。それとフープ」
「それってピエロの使う? すごいね……」
少女は素直に感心しているようで、ほーと気の抜けた声を漏らしながら並べられている道具を観察している。
少年はうんざりとした顔で、少女から目を離した。
珍しい職業をしているためか、こういった世間知らずな子供が興味本位で近づいてくる。そして少年の実態を知ると皆、面白いように手のひらを返して逃げ去っていくのだ。
こういった手合いは、“赤腕”と呼ばれていた頃から身の回りに溢れるほどいたものだ。慣れはしたが、鬱陶しいことに変わりはない。
どうせこの少女も、“アレ”を見せれば気持ち悪さに自分で離れていくことだろう。
そう思って少年は、自分の左の袖を捲るとそこに隠れていたものをさらした。
「…………!」
少女はわずかに目を見開き、少年の腕を見つめる。
少年の腕は、異常だった。血を浴びたように赤く、血管が浮き出たような凸凹の肌をしている。指は人形のように節立っていて、どう見ても生き物の持つ体には見えない。挙げ句の果てには、手の甲には黒い十字架が埋め込まれていて、痛々しいことこの上ない。明らかに人のものではない、異形の腕だった。
「それって……」
「…………」
少女の問いに、少年は答えない。不機嫌そうな、それでいてどこか痛々しい表情でそっぽを向き、少女に左腕を晒していた。
この腕は嫌いだった。この腕のせいで親は自分を捨ててサーカスに売り飛ばし、団長や他のものには雑に扱われてきたのだ。唯一の例外は、あの人だけだった。
どうせこの少女も、あいつらと同じだ。そう思っていた。
だが、じっと少年の腕を見つめていた少女は、ややあってから深い息をついた。
「……そっか。じゃあ、私と同じだね」
少女はそう言って、自らの衣服の左袖をめくり、隠れていた腕を披露した。
不意の一言に訝しげな表情を浮かべていた少年はその腕を見て、大きく目を見開いた。
少女の腕には、醜く焼け爛れた跡があった。稲妻が走ったような形状に皮膚が引き攣り、赤黒く変色している腕は痛々しいというほかにないほどひどい有様だ。確かに、少年の腕と似ているといえば似ているかもしれない。
少女は呆然としている少年の顔を覗き込むと、小さな笑みを浮かべてみせる。
「私たち、なんだか似てるね?」
その言葉を聞いた瞬間、少年の中に衝撃が走った。
体に電撃を受けたような、体内で爆発が起きたような、そんな未知の刺激が少年の中で弾け、思考が停止してしまう。生まれて初めてのことに、少年は少女の目を凝視したまま凍りついてしまった。
「お…………オレ、オレは…………‼︎」
思わず少年は少女に向き直り、どもりながらも声を発する。少年の急な様子の変化に少女は驚いていたが気する暇はなく、少年はつっかえつっかえになりながらも、どうにか自分で呼吸を整え言葉を絞り出す。なぜだか動悸は激しくなり、まともに思考が働かない。今まで経験したことのない感情が心に芽吹き、体の中がみるみる熱くなっていく。
少女がキョトンとした顔で待つ中、ついに少年は突っかかっていた言葉を口にした。
「オレはアレン……、アレンだ‼︎」
初めて自分からその名を名乗ったアレンは、赤い顔で少女の目を見つめる。
少女は最初はあっけにとられていたようだったが、やがてその顔にわずかな笑みを浮かべると、アレンの赤い異形の手を取り、両手で包み込むように握って見せた。
「私はシェリー。……よろしくね、アレン」