【完結】D.Gray-man ー太陽ノ聖女ー   作:春風駘蕩

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5.僕のために

 ズルリ、と異形の貫手が抜け、シェリーの体が地に落ちる。力の抜けた体がごとりと床を打ち、美しい金の髪が血の中に広がり、赤黒く染まっていく。

「ーーーぅ、あ…………」

 声は声にならず、ゴボッと口からどす黒い血の塊が漏れ出す。震える左手を胸に伸ばすと、ぽっかりと空いた穴を探り目を見開く。

 常に眩い光を放ち、命を繋いでくれた金の宝玉は、そこにはなかった。シェリーの見えないところでわずかな光を放っていたが、やがてその光も弱々しく消えていき、石ころのように沈黙した。

「わた、し、の……イノ、セ…ス……」

 指先から徐々に冷たく感じていき、体の芯にまでそれが伝わっていく。胸の穴から、切り株のように両断された右腕から命が溢れ出していくたびに、自分という存在が曖昧になっていくのを感じた。

「…………‼︎」

 遠く離れているアレンが何かを叫んでいるが、もはや微塵も動くことができないシェリーには答えるどころか聞き取ることもできない。キーンと耳鳴りが響いて、失った心臓の穴から流れ出す血流の音が異常によく聞こえてきた。

 刻々と、徐々に近づいてくる死を感じ取っていた。

 ーーーやっぱり、ダメでしたね。

 内心で自重じみた笑みを浮かべると、シェリーは光が薄れていく目で虚空を見つめる。視界までもが白くぼやけていき、意識にももやがかかったように遠のいていった。

 クイーンアントロードが興味をなくしたように闇の中に消えて行くのをよそに、シェリーはゴボリと血の塊を吐いた。

 ーーー私なんかが誰かを救うなんて、最初から無理だったんですね。

 ヒューヒューと妙な風音が聞こえる。肺にまで穴が空いているのか、薄い呼吸をするたびに空気が抜けている音が耳に響く。

 それがあまりにも、虚しく聞こえた。

 ーーーああ、なんて滑稽なんでしょう。

    必ず守るなんて大口を叩いておいて、無残に負けを晒して。

    取り戻すなんて言っておいて、手も足も出せずに這いつくばって。

    関係のないあの人まで、巻き込んで。

 わさわさと、傍観し王からお預けを食らっていたアンノウンたちが、血の匂いにつられて集まってきている音が聞こえる。牙を鳴らし、壁を爪で傷つける音が、この後の展開を容易に想像させた。

 だが、もうシェリーには何もできない。争う力は、戦う力は全て、大した抵抗もできずに奪われてしまった。

 ーーーどうして、私はこんなにも無様なんでしょうか。

    どうして、こんなにも愚かだったのでしょうか。

 音が近づいてくる。

 無様に転がる〝餌〟を前にした異形たちに囲まれて、シェリーはゆっくりと目を閉じて行く。

 どこかから聞こえてくるバリバリという咀嚼音は、切り飛ばされた自分の腕だろうか。さも美味そうに食いちぎっている音が、鈍く耳に響いてくる。

 もう、立てない。

 もう、戦えない。

 ここにいるのはもう、なんの力もないただの小娘だ。なんの抵抗もできずに食われるしかない、ただの矮小な人間だ。

 ーーー私は、何一つ救えない、守れない。

    結局私は、ただの化け物だったということなのでしょうか。

 その身一つで、たった一人で守ってきたはずだった。そのつもりだった。

 だが、彼女は英雄にはなれなかった。救うことなどできはしない、ただの醜い破壊者でしかなかった。たった一人の妹さえ、彼女は守ることも救うこともできなかった。そばにいるという約束も守れず、朽ちるのを待つしかなかった。

 それがたまらなく、悔しかった。

 ーーー……ごめん、なさい。

    ごめんなさい、ユノ。

    こんな、なんの役にも立たない姉で、ごめんなさい。

 不甲斐なさを心で詫び続け、シェリーはもう何も考えることもできず、全身に襲いかかるであろう痛みを予想して、全ての力を手放していった。

 だが、その時は訪れなかった。

「ぐっ……うっ……!」

 異形が牙を鳴らす音が聞こえるのに、それがなかなか近づいてこない。

 巨大な鉤爪を盾のように押し出した青年が、異形の進行を阻んでいるからだ。

「…………ウォー、カー……」

 驚愕の光景にシェリーの意識が強制的に引き戻される。わずかに目を見開いたシェリーはいやいやと力なく首を振り、瀕死の自分を必死にかなっている青年を凝視して困惑する。

 もう助けても無駄なことはわかっている。助からないことも、助けられないことも。

 なのに、なぜ逃げてくれないのか。

「……もう、いいん、です。もう……私は……」

「まだっ……終わってない……‼︎」

 シェリーの諦めを否定し、アレンは必死に耐え続ける。すでに疲労満杯で動きも鈍いというのに、異形の膂力に耐えられないほどに弱っているというのに、彼は決して引くことを選ばず、シェリーを背に立ちふさがり続けていた。

「あなたの思いは、尊く美しい‼︎ 誰より傷ついて、でも、誰かが傷つくことを嫌うあなたは、誰よりも優しい‼︎」

 シェリーは唇をかんで、わずかな声すら漏れ出そうになることに耐えた。まるで自分の心の痛みを見透かされたような気がして、思わず溢れそうになる泣き言を抑え込む。

「僕は、そんなあなただから守りたいと思った‼︎ 自分の全てを捧げて、戦い続けるあなたに憧れた‼︎ こんなとことろで、こんな奴らのために泣いて欲しくなかった‼︎」

 AKUMAのために戦って、AKUMAのために生きようと心に決めた青年は、もうどうしようもないほどに彼女に惹かれていた。その意志の強さを、気高さを、例えようもないほどに美しいと思った。

 立ち止まるな、歩き続けろといってくれた養父のような生き方を見ているようで、アレンは救われる思いだった。

 だから、そのままでいて欲しかった。折れることなく、屈することなく、歩き続けてほしかった。

「生きてください……ユノのために。貴女のために……‼︎」

 ピクリとも動かないシェリーに、アレンは涙をこらえて願う。

 顔も知らない誰かのためじゃない、化け物と罵る人々のためでもない、見たこともない神のためでもない。ただ一人、大切なもののために戦い続けた彼女自身の幸せを願ってアレンは叫ぶ。

 もう十分なはずだ、報われてもいいはずだ。もう十分、彼女は誰かのために戦ったはずだ。

 これ以上傷つけないでほしい。これ以上傷つかないでほしい。

 何よりも、誰よりも優しい女性の幸せを、少年は誰よりも、彼女自身よりも願っていた。

「ーーー僕のために‼︎」

 少年の声が、暗い闇の中に沈みかけていた彼女の意識を、貫いた。

 

 ーーー痛いのは、昔から嫌いだった。

    転んだだけでわんわん泣いて、自分で自分を慰めるのが常だった。

    でも両親に捨てられて、研究所に半ば強引に引き取られて、甘えることが許されなくなった。

    周りにいる誰もが私と同じで、痛いのが大嫌いな子達ばかりだったから。

    私よりも小さな子が泣いているのに、私がみっともなく泣いているなんて、惨めだったから。

    それから私は、自分の心を殺して生きてきた。

    辛くても悲しくても、絶対に弱音を吐いたりしない。

    嬉しくても楽しくても、絶対に隙を作ったりしない。

    そうして私は、心を殺して生きてきた。

    そうしないと私たちは、また汚い大人たちに騙されてしまうから。

    そうしないと私は、また大切なものを失うから。

    そうして私は、弱い私を隠して生きてきた。

 目尻から、雫が滴り落ちる。決して流すものかと堪えていた感情がはらはらと溢れ出して、自分の力では止められなくなる。

 意志の殻で固めた心がひび割れて、隠していた本心が次から次へと溢れ出して往く。そこにいたのは、かつて一人だった頃の自分と何も変わらない、ちっぽけな少女だった。

 ーーーでも、ダメだった。

    どんなに取り繕ったって、弱い私は弱いままで。

    大切なものは、何一つ守ることはできなくて。

    何も取り戻すこともできないまま、こうして終わりを迎えようとしている。

 なんとも滑稽な自分がおかしくて、自嘲気味に笑う。

 ーーーでも。

    でももし、願いが叶うなら。

    神様、どうかお願いします。

 どこにいるのかも、いるかどうかもわからない神様に願う。

 伸ばしたその手に、願いをつかむことを求めて。

 

 ーーー私は、この人たちの隣で、もっと一緒に生きたいです。

    ユノと、一緒に。

    あの人と一緒にーーー。

 

 枯れ果てたと思っていた涙が一筋、血だまりの中にこぼれた。

 ーーー我ガ名ヲ、呼ベ。

 声が、聞こえた。

 異形の手によって砕かれ、散らばっていた結晶が血に溶け、跡形もなく混ざり合っていく。

 すると溢れ出たシェリーの血だまりに波紋が生じ、その中で黒い影が蠢く。二本の角を生やした赤い瞳の異形、ギルスに似ているようでどこか違う怪人の姿が。

 恐ろしい姿なのに、全く恐ろしくなどない。なぜか懐かしい感覚を覚えるのに、それに違和感を覚えない自分がいる。シェリーはその異形がなんなのか、わかった気がしていた。

「…………イノセンスよ」

 朦朧とした意識の中で、シェリーは自らの血潮に呼びかける。

 不意に聞こえた声は、どこかで聞いた覚えがあって、どこか優しくて、無条件に頼れる気がした。

 ーーー我ガ名ヲ、呼ベ。

 影の中で、赤く光る二つの目がシェリーをまっすぐに見つめてくる。それはまるで、血の鏡面を境にして誰かが覗き込んでいるかのようだ。

 ーーー我ガ名ヲ、呼ベ。

 シェリーはそこで、ようやく気づいた。

 一人で孤独に戦い続けてきたと思っていたが、それは大きな間違い。

 自分を助ける者は、確かにいたのだ。一つは自分の胸で輝き、一つは超人の血として体を流れ、一つは帰るべき場所となってーーーもう一つは、忘れられない記憶として彼女の心を支え続けていたのだ。

 いつだって彼女は、大切なものに守られて戦い続けてきたのだ。いつだって、彼女は一緒に戦い続けてきたのだ。

 ーーー我が名を、呼べ。

    シェリー‼︎

 呼びかける声に、シェリーは血塗れのまま笑みを浮かべ、ゆっくりと両腕を天に伸ばす。祈りを天に捧げるように、高く高く伸ばしていく。

 それを合図に、溢れ出た彼女の血が蠢き、地面に大きな模様を描き出していった。

 

「ーーー来なさい、賢者の石(ラピス・フィロソフィカス)よ」

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