1.闇の迷い子
静かにさざめく水平線の向こうから徐々に煤けた陽が昇り、産業革命により発展したロンドンの街を薄汚れた光が覆っていく。高く伸びた時計塔の影が街を覆い、大きな針がゆっくりと時を刻んで行く。
時計塔の影が動いて行くに従って街には人の姿がちらほらと見え始め、訪れた“今日”を過ごす為に動き始める。それはこの街でなんども繰り返されてきた光景であり、人々がこれからも続くと信じてやまない光景であった。
大通りから少し外れたところにある寂れた教会もまた、そんな穏やかな風景の一部だった。それなりに長い歴史があるためか人通りの少ない通りに面したこの建物は壁にはヒビ、屋根は一部は剥げていてとあちこちに痛みが見られ、知らぬものが見れば無人の廃墟にも思えるほどの有様だった。
すると、教会の扉が軋むような音を立てて開かれ、一人の若い修道女が現れた。建物の影に隠れて顔はよく見えなかったが、庭へと進み出たことでようやくその顔立ちがあらわとなった。
その女性は、まるで人形のように美しい人だった。ベール状の頭巾から太陽の輝きのような金色の髪を二つに纏めて垂らし、その下からさらにガーネットのように鮮やかな瞳が見える。
精密な作り物のように整った顔立ちをした彼女は、肌寒い空気の中で息を吐くと扉の前で軽く背伸びをする。背を反らせたせいで大きく膨らんだ豊かな胸が強調され、脱力するとそれがゆさりと揺れる。多くの女性が羨むような体つきをしながらも憎らしさが湧かないのは、彼女の持つ何処か近寄りがたい神聖な雰囲気のせいであろうか。
朝方の淡い晴天をしばし見上げていた彼女は、教会の中から持ってきた箒を手に鉄の門の方へと歩いていった。
まず他の誰よりも最初に起きて箒を手にし、寂れた教会の掃除をすると言うのが物心つく前からの彼女の日課だった。少し前に往生した自分を拾ってくれたマザーや付き合いの長い妹分にせめてもの感謝をーーーというわけでもなく、ただ単に過ごしている場所があまりにもみすぼらしい為に何と無く始めたことだった。老朽化のために根本から直さなくてはこの教会のみすぼらしさはどうにもならないと言うのはわかっているのだが、なんとなく途中ではやめられなくなったと言うのが本音だった。
別に現状に不満はないし、毎日の掃除も全く苦ではない。ずっとこんな日が続くのだとしても、それはそれで一つの幸福の在り方なのだろうと割り切って、彼女は教会を囲む柵の扉に手をかけた。
「…………ん?」
だがふと、いつもは感じない重さを手に掴んだ柵から感じ、彼女は首を傾げた。と言うよりもこれは、何かが柵に引っかかっているような抵抗の感覚ではないかと、彼女は切れ長の目で柵の外を覗き込んでみる。
すると、無表情だった彼女の目がほんの僅かに見開かれ、そこに“いた”ものに釘付けになった。
「……さて、これはどうしたものでしょうか」
柵の外のそれから目を離さないまま、彼女は自身の顎に手を当ててふむ、と考え込んだ。
面倒なものを見つけてしまったと言うべきか、面倒なことになりそうだと言うべきか。どちらにせよこれをどうにかするには自分一人ではなんともならなさそうだ。
いつもとは異なる事態に彼女が内心困っていると、背後の教会の扉が再び軋む音がした。
「シェリー姉様? こんなところで何をしているですか?」
首を傾げる彼女に声をかけてきたのは、彼女よりも一回り幼い見習いの修道女、先ほど述べた妹分だ。肩までの長さの茶髪にクリクリとした大きな鳶色の瞳と、将来は美人になるだろうと漠然と思わせる可愛らしい少女だった。
「……ユノ」
「めずらしいですね。姉様でもそんな風にぼんやりすることがあるなんて、おどろきです」
ユノと呼ばれた少女は姉の元へ駆け寄ると、冷えた彼女の手を両手で握ってその冷たさに申し訳なさそうな表情を浮かべる。もっと早く起きて彼女の手伝いをしたいと思っているのに、いつも自分が起きたときには姉は掃除を終わらせてしまっているのが、不甲斐なく思っていた。
シェリーと呼ばれた女性は妹分を安心させるように微笑みを浮かべると、ポンポンと目の前にある頭を撫で付けた。
「ええ、ちょっとどうしようかと思って困っていたの。聞いてくれるかしら?」
「あ……、ハイ! なんでしょう!」
姉に頼られたと満面の笑みを浮かべるユノに、シェリーは柵の外を見るように促した。
「さっき見つけたのだけど、“コレ”はどうしたらいいかしらね?」
「どれですか?」
愛する姉を困らせているものはなんだ、とユノは小さな身体で頑張って柵によじ登り、姉と同じ目線で柵の外にあるものを覗き込む。
そして、そこにあったものを目にしてギョッと目を見張って凍りついた。
柵にもたれかかるようにしてそこに“いた”のは、
さらに視線を動かすとその中には、一人の人間がくるまっていた。赤い裂傷が刻まれた顔と半開きになった口元はピクリとも動かず、白目を剥いた両目と老人のように真っ白い髪は生気を感じさせない。苦悶の中を這い蹲り、死に物狂いでここへ辿り着いたかのような姿で、その人間は柵に背を預け沈黙していた。
「きぃぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼︎」
夜も明けたばかりの早朝の街に、断末魔のような少女の悲鳴が響き渡った。
◆ ◇ ◆
「……本当に、助かりました。もう一週間はまともにご飯を食べられていなかったんです。本当に……ありがとうございます……‼︎」
硬いパンにかぶりつきながら、青年は正面のソファに腰掛けるシェリーに向かって深々と頭を下げて感謝の意を示す。対してシェリーはただこくんと頷くだけであまり反応を示さなかったが。
ユノが盛大に悲鳴をあげて気を失った後、シェリーは全く顔色を変えることなく門を開き、もたれかかっていた亡骸のような有様の青年を内側へ引きずり込んだ。その時、ほとんど途切れかけた呼吸音が聞こえたため、こうして教会の中へ招き入れ自分の分の朝食を用意したのだが、その途端青年はなにかに取り憑かれたかのように朝食のパンに食らいつき今まで貪り続けていたのだった。
シェリーも一心不乱にパンにかぶりつく青年を注意するようなことはせず、万が一喉をつまらせたりしないように常に水を用意していただけで、青年の咀嚼音だけが静かな空間に響き渡っていた。
ちなみに、邂逅一番に気絶させられていたユノはシェリーの背に張り付き、ずっと青年を睨みつけたままだった。
「…それで、アレン・ウォーカー様でしたか? どうしてあんなところでボロ雑巾のように転がっていたのですか。見たところ野良犬のごとく汚れていらっしゃいますが」
「んぐっ…………借金取りに追われて、路銀も精根も尽き果てていたところついには空腹に耐えられず…………おかげさまで一瞬見えた花畑には行かずにすみました」
さらっとこぼれたシェリーの毒舌には気づかなかったようで、青年・アレンはただただ命の恩人への感謝の気持ちで一杯になり滂沱の涙を流し続ける。ただしその間もパンには食らいついたままだ。
フーッと興奮した猫のようにアレンを威嚇しているユノは、姉の背に隠れながら青年をじっと観察する。
真っ白な髪から老人だと思っていたのだが、聞いたところ15歳だという。その割にはどこか落ち着いた、顔の左側に刻まれた傷痕とも合わさった修羅場慣れした雰囲気を放っていて、見た目とのちぐはぐさを感じさせていた。
「そんな年齢で借金持ちだなんて禄でもない人です。姉様もあまり関わられては……」
「ユノ。たとえどんな人を前にしてもそんなひどい言葉で突き放してはいけません。救いを求めてここへ辿り着いたというのならば、どんな畜生であろうと受け入れるのが神に仕える者の義務です」
「……言ってることは正しいですけど姉様が一番ひどいです」
ユノが姉の毒舌に戦慄の表情を浮かべていると、畜生呼ばわりされているアレンが居心地悪そうに頭を掻いた。
「……いえ、あの……。実はその借金は、もともと僕のものではなくて。背負ったのも不本意というか……」
「ご友人に背負わされた、とか?」
歯切れ悪く話すアレンにシェリーはピクリと眉を片方上げて尋ね、ユノはハッとしたように口元を手で覆って青年を凝視した。
小汚い見た目から浮浪者ではないかと思ってしまっていたが、本当は恐ろしく苦労している身の上なのではないか。その可能性に至ったユノは、今までずっと不作法な態度をとっていたことが恥ずかしくなりしゅんと落ち込んだ様子で俯いた。
「……ご、ごめんなさいです。事情も知らず勝手なことを」
縮こまるユノに、アレンは慌てて咥えていたパンを放り出し必死に言い直した。
「あっ……ち、違うんです‼︎ 僕に借金を押し付けたのは僕の師匠なんです‼︎」
「……………………はい?」
思わぬアレンの台詞に、ユノはぽかんと呆けて固まる。
聞き間違いだろうか、今この人は師匠に背負わされたと聞いたような気がするのだが。もしかして師匠ではなく司書と言ったのだろうか、もしくはシショウという人の名前だったのだろうか、とユノはフリーズしたように固まったままぐるぐると考え込んだ。
代わって、これまで一切表情を変えていないシェリーが尋ねる。
「……失礼ですが、聞き間違いかもしれないんですけど……師匠、ですか?」
「あ、はい。お酒が好きな人で大抵ツケや借金で飲み食いするんですけど、毎回僕のいない間に逃げて行くんで強制的に僕が背負う羽目になって……」
「…………」
気恥ずかしそうに笑うアレンに、ユノは頬を引きつらせながら苦痛に顔を歪める。
「……ち、ちなみに額を聞いても?」
「えっと……大きな声では言えないんですけど、このくらいですかね」
アレンが指で金額を表すと、ユノはその瞬間卒倒しそうになった。なんだそれは15歳の青年が背負っていい額じゃないというか15歳でも借金を背負っていいはずがないなんなんだこの人はっていうかこの人の師匠は悪魔か。
もう聞いているだけで、顔を合わせているだけで辛かった、胸が謎の痛みを訴えてきた。見るからに怪しい人と判断してさっきまで警戒して距離をとっていた自分をはっ倒したくなる気分だった。
自己嫌悪で苦い顔になっているユノをよそに、シェリーは相変わらずの無表情でアレンを見つめる。
「……返済の余地などはあるのですか?」
「あ、大丈夫です。この町の借金なんて全額に比べたらはしたものなので」
ユノは今度こそ泣いた。全額ってなんだはしたものってなんださっき聞いたのは一部なのかまさか世界中でおんなじくらい背負わされているのか。悲惨すぎる弟子の生き様に、ユノは人目も憚らず今度こそ泣いてしまった。
「…………大変ですね」
「もう慣れました」
安直な言葉ながらも気遣うシェリーに、アレンは枯れきった老人のような目で虚空を見つめて答える。
同情している様子もなく、シェリーはただ淡々と話を続ける。だが、さすがの鉄面皮もあまりに悲痛な話に流石に歪んでおり、よく見ればわかるくらいに眉間に皺がよっている。
すると、シェリーの修道服の袖がくいくいと軽く引っ張られ、背後に注意が向く。目を赤く腫らし、何かを決心した表情のユノは無表情のままのシェリーの耳に口を近づけた。
「姉様。あの……私がいうのもなんですけど、しばらくここにいてもらったらどうですか?」
「…………」
突然のユノの提案に、シェリーは無言で先を促す。ふとアレンに目を向けるが、彼は何かトラウマを触発されたようでブツブツと何かを呟いているばかりでこちらには全く反応していない。時折「…100ギニー……150ギニー……」と恐ろしい金額が呪詛のように聞こえてくるが、シェリーはちょうどいいと無視してユノの話に耳を傾ける。
「いえ、別に同情とかそんなんじゃないです。……ただ、ここにはもう姉様と私だけですし、男手があれば姉様も楽になると思うのです。最近、収入があまりよろしくないですよね? それに…………姉様にとっても、悪い話じゃないのです」
「…………さては、見たわね?」
若干咎めるような口調でシェリーが尋ねると、ユノはしゅんと縮こまって目を伏せる。
シェリーはしばらく妹分を無言で睨みつけていたが、そのうち大きなため息をついて視線を外し、ユノの頭を優しく撫でた。
「……事情はわかりました。ウォーカー様、よろしければほとぼりが冷めるまでこちらに滞在してはいかがですか? もちろん仕事を手伝っていただきますが」
「……230ギニー…………え? い、いいんですか⁉︎」
思わぬ提案にアレンは驚きながらも安堵と歓喜の表情を浮かべてシェリーとユノを凝視する。と同時に、別の可能性を思い浮かべて眉を寄せた。
「でも、僕みたいなどこの誰ともわからない人をおいておくなんて……何かあったらとか考えたり……」
「おや、何かなさる気なんですか?」
「そ、そういうわけじゃ……‼︎」
「冗談です。貴方がそんな不信心な方とは違ういい意味でのヘタレであることは目を見ればわかります」
さりげなくひどいことを言うシェリーに慌てて返し、アレンは今度は深々と頭を下げた。一飯だけでなく一宿まで気にかけてくれるとは、まるで聖女のような人だと感動に目を潤ませていた。
「……本当に、ありがとうございます。何か僕にできることがあればなんでも……!」
「期待しないでおきます。……それに、ジャックの脅威が去っていないというのにみすみす放って置くつもりもありませんからね」
「……ジャック?」
ふとシェリーがこぼした聞き慣れない単語にアレンが反応する。その単語が出た瞬間、シェリーは無表情にどこか張り詰めた雰囲気を、ユノはなぜか悲痛な表情を浮かべて目をそらす。
アレンもまた真剣な表情に変わり、雰囲気の変わった二人をじっと見つめた。
ややあってから、ユノが言いづらそうに口を開いた。
「……最近この町を騒がせている、殺人鬼です。女性ばかりを狙って襲いかかり、ズタズタに引き裂くという……ついた通り名が、“切り裂きジャック”」
痛々しそうにスカートを握りしめて語るユノにアレンは険しい顔になる。少女たちの不穏な表情はその殺人鬼へなにかしらの感情があるためなのか、どことなく張り詰めた雰囲気が漂っていた。恐怖や畏怖といったものではない、何かを抱え込んだ不穏な空気だ。
それがなんなのか、部外者であるアレンには問うことはできず、ただただ居心地の悪い時間が流れていく。
二人の放つ雰囲気に息を飲んでいたアレンだったがシェリーはすぐにその気迫を消してしまい、いつも通りの無表情に戻る。ユノの頭をもう一度撫でると、シェリーは座っていたソファから腰をあげた。
「……ジャックのことは置いておいて、ウォーカー様にお手伝いしていただきたいことは山ほどあります。後ほどお伝えしますのでそれまではゆっくりしていてください。……それと」
アレンに背を向けたシェリーは、妙な間を開けてからアレンの方に振り向いた。
「……貴方もお気をつけ下さい。狙われているのは婦人ばかりではないかもしれませんから」
そう不穏な言葉を残し、シェリーは言葉を失うアレンと目をそらしているユノをおいて部屋から退出して行った。