シェリー・T・サザンクロスの朝は早い。
日が昇るよりも早く起床して身支度を整え、町の人々が起き出す頃には玄関先や門の前の掃除を行い綺麗にしておくと、ようやくそこで起き出すユノのために朝食を用意する。
朝食が終わればシェリーは知人の邸宅で家事手伝いや子供達に文字や算学を教えたりする家庭教師の仕事をしに、ユノは街へと赴き靴磨きなど子供でもできる仕事で金を稼いで教会に入れる。教会に帰れば、眠りに就く前にシェリーはユノに文字や算学などの知識を教えていざという時の力を与える。そうしてその日を必死に生きてから、ようやく二人は仲良く一つの布団に入るのだ。
このような寂れた教会にお布施にくるような者どころか尋ねる者すら滅多にいないため残る理由などないのだが、慣れ親しんだ場所をできるだけ離れたくないという愛着が二人には残っていた。
そうして1日のほとんどを労働に費やして横になれば、疲労のために二人は一瞬で夢も見ないほど深い眠りに落ち、すぐにまた朝を迎えて再びシェリーが教会の掃除を行う。次の日も次の日も、シェリーは誰よりも早く目を覚まして箒を手に取り、愛しき我が家を丁寧に磨くのだ。
◆ ◇ ◆
「……それ、流石に働きすぎなんじゃないですか? 無理してないか心配ですよ」
「心配させてるのはアレンも同じです。それ外したら借金取りに見つかっちゃうですよ。気をつけるです」
ピエロの覆面をかぶり、カラフルで滑稽な衣装を纏ったアレンに向かって様々な大きさのボールを投げ渡しながら、修道服から地味な普段着に着替えたユノは呆れたように返す。アレンが渡されたボールを器用に足で受け止めてジャグリングの輪に加えていく度に、周りから感嘆の声が上がりチャリンチャリンと小銭が投げ渡されてくる。アレンは玉の上で器用にジャグリングしていたものをまとめると、ぺこりと観客に向かってお辞儀をし喝采を浴びた。
アレンが人目を引いて客を集めてくれるおかげで、ユノの方にも靴磨きを希望するお客が集まっていきいつもより多く銭が集まっていく。内心ほくそ笑むユノは、思っていたより芸達者なアレンに感心するように笑った。
「意外な特技なのです。サーカスにでもいたのですか?」
「あ…………はい、小さい頃に引き取られて、そのあとは養父と一緒に旅をしながら……師匠に会ってからは路銀稼ぎと借金返済のため、ですかね?」
「……改めて聞くと不憫すぎるのです」
半目で目をそらすユノは、以後は金銭について関わる質問はできるだけ避けようと心に決める。アレンが質問に答えた瞬間、どんより黒々とした雰囲気が溢れ出したためだ。
ただそれ以外にも、幼少の時と養父に関する答えの時にまた違った気配を放っていたため、なるべく昔についての詮索はよそうと考えた。
客足が落ち着き、暇ができた腕を組んだユノが一人会話に悩んでいると、アレンがふとユノに疑問の目を向けた。
「……ところで、どうしてお二人はあんなところで暮らしているんですか? 二人で暮らすにはかなり不便に思いますけど……」
アレンの問いに、ユノは少し悩むように首を傾けて考え込み、んーと声を漏らす。
「ユノは姉様と同じ時にあの教会に引き取られたですけど、あんまりわかんないです。でも、姉様もユノもちょっと前に往生したマザーにとてもお世話になっていたです。多分、その恩が忘れられないのです」
いってからユノは「それに…」とどこか寂しげにアレンの方を向き、儚げな微笑みを浮かべて頭をかいた。
「姉様一人ならともかく、ユノはあそこを離れては生きていけないです」
その言葉に、アレンは言葉を失った。
世の情勢はあまり良好とは言えない。技術革新によって文明が進歩する反面、上流階級と下流階級の人々の格差は大きくなる一方であり、裏町に行けば浮浪者や娼婦、乞食の子供達が溢れている。歳若い女性と幼い女の子には、行きづらい世の中なのだ。
つまりあの教会は、二人にとってマザーに遺してもらった最後の砦なのだ。あの場所から離れることは闇の中を灯りも無しに進むことと同義で、同時に二人が離れ離れになることを意味するのだろう。
「姉様は優しいのです。でもそれとおんなじくらい怖がりなのです。ユノがいなくなるのが、帰る場所がなくなるのが怖くて、それでいつも大事にしてそばにおいてないと不安で不安で仕方ないのですよ。その証拠に、夜はいつもユノを抱いて寝てるです」
「……なんとなく、わかります」
何を思い出しているのか、覆面の口元だけを開けて冷たい空気を入れたアレンが小さく呟く。汗をかいたその横顔はどこか寂しげに見えて、理由のわからないユノは首を傾げてアレンを見つめた。
視線に気づいたのか、アレンはハッと表情を変えて覆面をめくると、怪訝そうな表情のユノに愛想笑いを見せる。
「えっと……そんなに大変なのに、僕なんかを受け入れてくれたんですね。本当に、二人には感謝してもしきれませんよ」
「…………実はユノも不思議でならないのです」
プイと目をそらし、唇を尖らせるユノにアレンは「え?」と目を見開いて聞き返した。
「姉様が他人を受け入れるのは珍しいのです。ああ見えて姉様は人をあまり信用できない人で、滅多に近寄らせようとしないのです」
「えっ……そうなんですか?」
意外なユノの告白に、アレンはピエロの覆面を外しながら目を丸くした。確かにとっつきにくい雰囲気を持っている人だが、身内にまでそう言われるほどだったのだろうか。
「あの人は私と会う前に、色々と辛い経験をしているそうなのです。私だって最初の頃は話しかけづらくて苦労したのに、アレンはいきなり姉様と仲がよさそうで羨ましいのです。嫉妬するのです」
「そんな理不尽な……」
「ただの八つ当たりなのです。いいから黙って聞いてるです」
嫉妬するユノはじとっとした目でアレンを睨みつけるも、アレンにはそんな風には感じられないので戸惑うばかりだった。
確かにどちらかと言えば、時折じっとシェリーから視線を感じることはあったが、それは居候が何か粗相をしないか見張っているような厳しい目線であったように思える。無表情の冷たい美貌から放たれる視線は何かを咎められているようで、潔白であっても居心地が悪く感じるのだった。
しかしユノは、そんなアレンの考えをフンと鼻で笑って否定した。
「姉様があれだけアレンのことを信頼するのは、姉様がアレンに何か思うところがあるからだと思うのです。そうでなければ、ユノのいうことでもそう簡単に受け入れたりしないのです。……羨ましいのです妬ましいのです」
「……僕、会ったばっかりだと思うんですけど」
「知〜らな〜いで〜す」
ユノは拗ねたようにそっぽを向くと、靴磨きの道具を抱えてさっさとアレンの元から歩き去って行ってしまう。
一人残されたアレンは、腑に落ちないといった表情で首を傾げたまま道の端であぐらを掻き続けていたのだった。
◆ ◇ ◆
暗い裏通りを、一人の男が歩いていく。
その男は、ある悲劇を背負っていた。元は腕のいい機械技師だったのだが、仕事で不在の時に自宅に強盗に押入られ妻を無残に殺されてしまったのだ。それ以来酒浸りになり、借金を背負って何処かへ身をくらませてしまっていたのだが。
その男は今、裏通りの角で佇んでいる一人の女の元に近づこうとしていた。豊かな胸元を大胆に晒した、客を待つ一人の娼婦に向かって男が静かに歩みを進めていく。
ふと、気配に気づいたのか娼婦が男の方に視線を向け、媚びるような表情を浮かべた。仕事の時間だ、せいぜい男の気に入るように啼いてやろうじゃないか、と。
「……旦那、あたいはそんじょそこら素人とはーーーえ?」
早速自分を売り込もうとした娼婦の表情が強張り、目が大きく見開かれる。
一本の街灯の光に照らされた男の、酒に浸って老いたように見える中年の姿が変わり始めたのだ。
肉体は異様に膨らみ、衣服を突き破って風船のように大きくなっていく。苦悶の表情を浮かべた男の顔の周りに鋼鉄がまとわりつき、全身からニョキニョキと砲門が生えていく。
それは間違いなく異質な存在ーーー怪物だった。
「…………ぁっ、あああ…………‼︎」
みすぼらしい男から変貌した巨大な怪物を前にした娼婦は、悲鳴をあげることすら忘れてその場に尻餅をつく。ガタガタと震える体はまともに言うことを聞かず、後ずさるのがやっとだった。
そんな娼婦に、怪物はぎょろりと血の涙の跡のような模様が浮かんだ目を向けて、小さく口を開いた。
『ーーー血ガ、足リナイ』
壊れたラジオから流れるような声で、怪物は呟く。鋼鉄の体に生えた砲の一つをガチャンと向け、娼婦に向かって苦痛と愉悦の混じったような表情を見せた。
『殺サセテ…………‼︎』
怪物に射竦められ、恐怖の檻で拘束される哀れな女。情けなく涙を流し、もはや声すらあげられなくなりながら、眉間を狙う巨大な砲口を凝視し続けていた。
その時だった。怪物と娼婦がいる裏通りに、コツ、コツと靴のかかとを鳴らす音が聞こえてきたのは。
怪物は娼婦から視線を外し、音のする方へ醜く歪んだ顔を向ける。ずんぐりとした重い鉄の体をゆっくりと回し、娼婦に向けた一本を除いた全ての砲門を傾けて停止する。
「ーーーこんばんは、“AKUMA”」
やがて現れたのは、一人の青年だった。
フードを深くかぶって顔を隠し、ボロボロのコートを纏った浮浪者のような青年が、浮遊する怪物を前に微塵も狼狽することなく歩み寄り、優しげな微笑みを浮かべていたのだ。
青年ーーーアレンは街灯の明かりの元へと近づくと、フードの下から怪物の顔を見上げる。わずかに覗いた白髪の間から覗いた赤い左眼が怪物をじっと見つめ、その“内側”を覗いた。
すると、アレンの視界の“色”が変わり、それまで見えなかった異様なものが目に入る。怪物の体に鎖で縛られるようにして、涙を流した女性の姿がそこにはあった。
それは、悲劇に縛られた哀れな人。魂を無理やり兵器に組み込まれ、使役された哀れな女ーーー男が失った、かつての妻の姿。
「ーーーイノセンス、発動」
瞬間、アレンの左腕が光を放ち、全く違う存在へと変貌を始めた。淡い緑色の中で腕が大きく膨らみシルエットを変え、表面が硬い鋼鉄に覆われていく。爪先は鋭く尖り鉤爪のような形に曲がっていき、街灯の光に照らされてその全貌をあらわにする。肩口からは淡い緑色の炎のようなエネルギーが発生し、アレン自身と左腕の異様さの差を際立たせていた。
それはまさに、異形の腕。目の前にいる怪物と負けず劣らずの、怪物の腕だった。
しかし、それに気づいたAKUMAと呼ばれた怪物はすぐさま全砲門を構え、アレンに向かって何発もの砲弾を同時に発射した。ドン、と大気が爆ぜ、咆哮と同じサイズの太い砲弾がアレンに襲いかかった。
アレンはその場から跳躍し、飛来する砲弾を紙一重で躱すと建物の壁を足場に再び跳躍する。AKUMAは娼婦を放って、アレンを追撃しようと体ごと砲門で狙いをつけ、続けざまに砲撃を放つ。
ドン、ドンと砲弾が炸裂し、無人の廃墟の壁が穴だらけになっていくが、アレンは身軽にそれを躱し続け、怪物を翻弄する。
焦ったのか、AKUMAは全ての砲門を一点に向けて一斉に砲撃を放つ。廃墟の壁で一際大きな炸裂音が響き渡り、街灯や砕けた瓦礫と粉塵が辺りに細かく撒き散らされて轟音が辺りにこだまする。
自身が爆撃して発生させた粉塵が視界を遮り、AKUMAはアレンの姿を見失って辺りをぎょろぎょろと見渡す。前方に伸ばしていた砲門を全方向に向け、どこから現れても狙えるように警戒を全開にした。すると、自身の頭上からカンと硬い音が聞こえ、AKUMAは大きく目を見開いた。
月をバックに、アレンが巨大な鉤爪を振り上げてAKUMAの上に立っていて、慈愛に満ちた笑みを見せていたのだ。淡い月の光を背負った青年は、硬直するAKUMAに小さく口を開いた。
「……
その言葉のすぐ後。
AKUMAの体に一筋の線が刻まれ、少し遅れてキンッと甲高い金属音が響き渡る。縦一文字に亀裂を走らせたAKUMAはあっけにとられたような表情を浮かべ、次いで体の内側から光を放ち、あたりを明るく照らす爆発を引き起こした。
アレンは爆風に耐えながら、何かに耐え忍ぶように虚空に目を向けて右手の拳を握る。左腕は元に戻さないまま、黙祷でも捧げるようにその場に立ちすくんでいた。
そこで、尻餅をついていた娼婦がようやく我に帰り、自分を狙っていた怪物が消えて知らない青年が立っていることに気づく。事情は知らないが青年が何かしたことを察したのか、よたよたとおぼつかない足取りでアレンの元へと駆け寄っていった。
「……あっ、ああ、ありがとよ…………ありがとよぉお………‼︎ いっ、命の恩人だよあんたは‼︎」
恐怖に震えていた娼婦はアレンの足元にすがりつき、コートのしがみついて泣き喚く。アレンは振り払うこともせず、ただそこに佇んでいた。
「れ、礼を……礼をしなきゃね! なんでも言っておくれ、あんたの頼みなら、なんだってしてやるさ‼︎」
「……お礼なら、必要ありませんよ」
小さく答えたアレンが、すがりつく娼婦の前に跪いて痩せた肩を抱き寄せる。娼婦が安心したように笑顔を浮かべ、アレンの胸にしがみつこうとした時、ふと気づく。
怪物はもういないのに、この青年は一向に異形の腕をしまおうとしない。それどころか、そのつま先を娼婦に向けているようにすら見えて、ひどく困惑した表情を浮かべた。思わず青年の顔を見上げると青年の赤い左目が、ーーーいつの間にか歯車のような部品がくっついた異形の目が娼婦の目を真っ向から射抜いた。
「ーーーごめんなさい。でもそれでは僕は騙せませんよ」
どこか悲しげに、アレンは鉤爪を構えながら娼婦にーーー擬態したAKUMAに告げる。
「……ぅっ……ぅおおおああああああああ‼︎」
娼婦が、人間では出るはずもない奇怪な雄叫びをあげてアレンに襲いかかり、顔の半分を銃のように変形させて突き出した。アレンの肩を万力のような力で掴み、決して逃さまいとガッチリと固定して眉間を狙う。
だが、その時にはもうすでにアレンの鉤爪は振り抜かれ、AKUMAの上半身と下半身は綺麗に二つに分かれていた。撥ね飛ばされた上半身と銃は宙を舞ってドチャッと石畳の上に無様に転がり、下半身はオイルを噴き出して倒れた。
「ちっ……チクショオォォオオォオオオ‼︎ ナンデッ、ナンデ分ガッダァァアアァア⁉︎」
残った上半身だけが耳障りな恨み言を吐き散らし、バタバタと暴れながらアレンを睨みつける。アレンは答えることなく、もはや終わりを待つだけのAKUMAをじっと見下ろしていた。
「エクソシストめェェェェェェェェ‼︎」
断末魔の声を発し、AKUMAは真っ赤な火を吹き上げて爆散した。辺りには歯車や破片が転がり、焦げ臭い匂いが辺りに充満する。
「…………哀れなAKUMAに、魂の救済を」
死してなお、機械の体に縛り付けられていた二人の魂を解放し、アレンはようやく右腕を元に戻して緊張を解き、深いため息をついて天を仰いだ。
決して疲れたからではなく、救済すべきAKUMAがまだ自分の計り知れないほど存在していることがどうしようもなくやるせなく、自身の前途の多難さに嘆息していたのだ。旅の途中、呪われた左目で擬態したAKUMAを見抜き、
「……早く、教団にたどり着きたいな」
エクソシストの精鋭達が集まる、AKUMAに対抗する組織『黒の教団』。そこへ行けば、今よりも早くAKUMAの元へ迎えるはずだった。
失踪した師匠にも、殴られる間際に行くように言われたし、借金取りの魔の手さえなければすぐにでも向かいたいところだった。…なぜか、そうそう辿り着ける自信はなかったが。
ままならない、と自嘲しながらシェリー達のいる教会へ戻ろうとした時だった。
「ーーー!」
ぞくりと背筋を走った悪寒に、アレンは咄嗟にその場から跳躍して距離を取る。その直後、数本の矢がアレンめがけてありえない速度で迫り、ドスドスッと地面に深々と突き刺さった。
「くっ……誰だ‼︎」
アレンは再びイノセンスを発動し、矢が放たれた方向に向かって声を張り上げる。あの矢は人間に出せる威力ではなかった。AKUMAがまだ残っていたならと思うと、アレンは自分の詰めの甘さに歯噛みする他になかった。
アレンの声に答えたのか、暗がりの中から足音が聞こえてくる。規則的な音の並びから、二本足の何かだと推測する。だとしたらまだ擬態したままなのか、とアレンは身構えたまま考え込む、が。
現れた“それ”は、AKUMAではなかった。
街灯を失い、月明かりのみが照らす暗闇の中から現れたのは、猫に似た顔。鋭く尖った眼や、明らかに大きさが異なる姿から豹であると思い直す。だが、その下にあるのは明らかに人間の体だった。
「…………なんなんだ、こいつは…………⁉︎」
アレンは戦慄の表情を浮かべ、現れた豹人間を凝視する。しなやかに伸びた肢体や骨格は人間に酷似していたが、その表面に張り付いているのは顔と同じ豹の毛皮だ。その上に蛮族が纏うような布切れが巻かれていたり、使っているのであろう弓矢が握られていることから、確かに知能を有していることがうかがえる。
明らかに人智を超えた異形。
だが、アレンが驚愕していたのはその容姿からではなかった。
ーーー内蔵された魂が、見えない……⁉︎
AKUMAは、人と機械と悲劇から生み出される。そのどれもが欠かせず、欠けていては生み出せない。
なのに、この異形からはアレンの左目を持ってしても人の魂が見つけられない。つまりそれはーーーこの異形は、AKUMAではないということ。
「ーーーグルルルル」
「…………‼︎」
聞こえてきた唸り声に、アレンはハッと我に帰る。異形はいつのまにか新たに矢をつがえ、アレンに照準を合わせていた。焦ったアレンがイノセンスを盾にして身構えた瞬間、ビュンッと凄まじい勢いでつがれた矢が放たれた。
ゴギン‼︎
と鈍い音が反響し、アレンの体がわずかに浮いた。身構えていたにもかかわらず、衝撃を真っ向から受けたイノセンスが弾き飛ばされ、頭上へと大きく振り上げさせられたのだ。アレンは大きく目を見開いてその威力の強さに戦慄すると同時に、強く悟る。
こいつには、イノセンスはまともに通用しない、と。
だが、アレンの動揺を察知したのか、豹の怪人はバランスを崩したアレンにめがけて続けざまに矢をつがえて放つのを繰り返す。そのどれもが正確で、急所を狙った危険な一矢だった。
アレンは「くっ!」と呻きながらも地面を転がり、自身を狙う矢を躱していく。ガッ、ガッと石畳に矢が深々と突き刺さっていくのを紙一重で躱し続け、転がりながら体制を立て直して立ち上がる。再びイノセンスを前に構えると、今度は先ほどよりも前屈気味に姿勢を変えて駆け出していく。有効打にはならないとしてもイノセンスの硬度は並みの金属を凌ぐほどだ。真っ向から受けなければ早々先ほどのような無様は晒さない。
「うおおおお‼︎」
気合いを入れる雄叫びをあげ、アレンは豹の怪人の目前にまで肉薄し、前に出していた鉤爪を槍のように突き放つ。矢を放とうにも鉤爪に邪魔されてつぐことができず、鋭利な刃が異形の胸を貫こうと迫っていた。
だが、勝利を確信していたアレンの目の前で、豹の怪人の姿が一瞬で消え失せた。否、凄まじい速度で跳躍し、アレンの渾身の突きをかわして見せたのだ。
「なっーーー」
目を見開くアレンが、衝撃と共に真横に吹き飛ばされる。宙に飛んだ豹の怪人が繰り出した蹴りによって、アレンの体は木の葉のように軽々と撥ねられていた。アレンは口から血を吐きながら悶絶し、石畳の上を数回バウンドしてから壁に叩きつけられる。勢いが止まっても激痛から立ち上がることができず、アレンはうめき声をあげて身を震わせた。
豹の怪人は致命傷を負った獲物を前に余裕の態度を取り、じわじわと嬲るようにゆっくりと近づいていく。鋭い爪の生えた指を蠢かせ、牙の生えた口を開けてダラダラとヨダレをこぼす。反撃すらできないアレンは、怪人が迫ってくる様を睨みつけることしかできなかった。
やがて豹の怪人はアレンの眼の前で立ち止まり、顔を覗き込むように膝をついて顔を近づける。苦悶の表情を浮かべるアレンを満足げに眺めた後、五本の爪の伸びた右腕を大きく頭上に振り上げた。
アレンはとっさに、襲いくる痛みを予感して目を瞑る。
「くっーーー‼︎」
だが、その爪がアレンを切り裂く寸前、荒々しい風が裏通りを駆け抜けた。
「ーーーヴァアアアアアアアアアアアア‼︎」
「…………え⁉︎」
聞こえてきた咆哮に、アレンは閉じていた目を開いて声を漏らす。
その直後、腕を振り上げていた豹の怪人に何かが衝突し、砲弾のように軽々と吹き飛ばされ廃墟の壁に激突した。なんの防御の構えも取っていなかった豹の怪人は壁を突き破り、瓦礫と一緒くたになって転がっていく。
ズズゥゥン、と轟音が響く中、アレンは呆然と自身の窮地を救った存在を見上げ、声を失った。
そこにいた存在もまた、異形だった。コートをまとっているようにも見えるのだが、その表面は昆虫の表皮のような光沢を帯びていて、月明かりに反射して怪しげな光を放っている。袖先や裾から覗く四肢も同じような光沢を帯びていて、シルエットは明らかに人間のものとは異なっている。
何より異質に感じるのは、一瞬だけ振り向いたその顔立ち。額から水平に生えた触角のような角も、昆虫のような二つの真っ赤な複眼も、口元に並ぶ鋭く尖った牙も、全てがこの世ならざる異様さを物語っていた。
「あなたは、一体…………?」
戸惑いの混じった、アレンの問い。
それに翠の怪人は答えることなく、ただじっと廃墟の中から起き上がった豹の怪人を睨みつけ、くぐもった呼吸を繰り返して威嚇の咆哮を上げるだけだった。
「ーーーガルルルルルル‼︎」
「ーーーヴァアアアアア‼︎」
人の気配が皆無となった廃墟にて、二体の異形が咆哮を上げて睨み合った。