教会に戻ったアレンを待っていたのは、放ったらかしにされて怒り心頭のユノに任された掃除の仕事の山だった。
人手が足りなかったせいで手が回らず、久方ぶりに開けられた講堂で箒を手にし、三人は昼から大掃除を始める。塵や埃を掃くアレンの背にはユノの怨嗟のような小言がぶつけられていて、手間をかけた自分が悪いとわかっている分どうにも居心地が悪い。とは言っても、悪口程度の可愛らしいものだったが。
「……アレンのアホ。バカ。どれだけ心配したと思ってるですか」
「…………本当にごめんなさい」
プリプリと怒り罵りながら布巾で椅子を拭くユノに頭が上がらず、アレンはただ黙々と箒を動かして埃を集め、煙たい中で涙目になる。純粋に心配してくれていたことがわかるので、居心地悪く大人しくいうことを聞く他になかった。ただでさえ居候ということで肩身が狭い気分に陥っているのだが、今日は特に立場がなく感じた。
冷たい水で濡らした布巾を手を真っ赤にして使い、汚れを落として行くユノは膨れた顔のままアレンの方に寄り、アレンと同じように掃き掃除をしているシェリーに聞こえないように声を潜めて睨みつけた。
「……アレンが何をしてたかは聞かないです。けど、それで姉様が悲しむなら私はアレンを許さないですよ。バーカ」
「……はい」
本当に情けない。今度からは必ず警察がくる前に撤収し、彼女たちが起きる前に部屋に戻ろう、とアレンは心に決めた。
AKUMA退治はやめないと暗に考えているアレンに疑わしげな目を向けるユノだったが、アレンは必死に心のうちを覗かせまいと目をそらす。どうにもこの少女に見つめられると、考えていることを見透かされている気になって不安なのだった。
「何を二人で話しているんですか?」
傍目からは悪巧みをしているようなアレンとユノに、シェリーは箒をとんと床に立てて尋ねる。ともに過ごす時間もそれなりに長くなってきたためか、シェリーの表情に呆れの色が混じっているのがアレンにもわかってきた。
「なっ、なんでもないですよ⁉︎」
「姉様が優しい代わりに、ユノがきっちり怒ってるところですよ〜」
「……そうですか」
ユノの返答に、シェリーは興味をなくしたのかそのまま掃除に戻る。別に二人で一緒に怒る必要はないだろうとでも思ったのだろう。アレンとユノも目を合わせ、片方は片方に再び睨まれながら各々の作業を再開する、だが。
「っ……」
ふとした時、アレンは誰かがうめき声を漏らし、持っていた箒を取り落として甲高い音を立てるのを耳にした。
手を止めて振り向くと、シェリーが掲げた両手を凝視しながら眉を寄せ、それ以上の声を漏らすまいと耐えているような姿が目に入った。よく見れば、黒衣に包まれた彼女の両手がブルブルと細かく痙攣し不自然に固まっていた。
「! シェリーさん、大丈夫ですか?」
心配になったアレンが駆け寄って手を取ろうとすると、シェリーは珍しく狼狽したように払いのけて自分の腕をつかんだ。
拒否されたことに驚いたのか、目を丸くして言葉を失うアレンにハッとなり、シェリーは慌てて首を振った。
「え、ええ。問題ありません。今朝、少し重いものを持っていたので疲れが残っていたんでしょう」
「いえ……僕の方こそ急にすみません」
取り繕うように言い、アレンの厚意を無下にしたわけではないと説くシェリーに、アレンはやや遅れて納得したように頷く。そう言えばあまり、意識のあるうちにアレンの方から接触した覚えはなかったが、意外と男性に触れられるのは慣れていないのかもしれない。長く二人で暮らしていたのならなおさらだ。
悪いことをしたかもしれないと、自分の方に責任を感じるアレンにシェリーは黙って背を向け、落とした箒を拾い上げて少し離れたところで掃除を再開する。
気にはなったが、シェリーの様子からしてあまり深入りするのは良くないだろう、とアレンは距離を置いた。姉にユノがまた不安げな顔を向けていることには気づかず、アレンがその時言葉を交わすことはなかった。
結局、講堂の掃除だけで半日も費やしてしまい、道具をしまったアレンもユノもその日はクタクタに疲れ果ててベッドに突っ伏すのであった。
◆ ◇ ◆
夜も更けた時、貸し出された屋根裏部屋で寝ていたアレンはパッと目を覚まし、布団の中から体を起こした。先ほど一度起きた時から何やら妙な胸騒ぎがしていて、落ち着かない気分になっていたのだがいまになってそれが顕著になり始めたのだ。
ベッドの縁に腰掛け、月の上がった空を小窓から眺めているうちに焦燥が募り、アレンは意を決したように立ち上がった。
手早く着替え、コートを纏い、小窓から外へ出ようと身を乗り出そうとした時だった。
「…………今日は、もううちにいた方がいいです。外に出たらダメです」
背後から聞こえたその声に、アレンの動きが止まる。振り返ると、屋根裏部屋と下の部屋をつなぐ扉からユノが顔を出しているのが見えた。月光が彼女の目に反射し、不満げな表情が暗い部屋の中に浮かんで見えた。
「……ユノ。寝てないとシェリーさんに怒られるよ?」
「誤魔化されると思ってるですか。そっくりそのままその台詞アレンに返すです」
「……参ったな」
アレンは苦笑し、ぽりぽりと頭をかく。やっぱりこの子は人の心を覗けるのだろうか、隠そうとしても無駄だということはよくわかった。
「どうしても僕はいかなきゃならない。これが僕の生きる理由で、昔父さんと約束したことなんだ。……だから、ちゃんとシェリーさんには謝っておくよ」
これは次は二人同時かな、と呑気に考えたアレンが窓枠を乗り越えようとした時、左手が何かに引っ張られるのを感じた。アレンが振り向くと、そこには両手で左手の袖を掴み引っ張っているユノの姿があった。
「……ダメなのです。行っちゃダメなのです…………‼︎」
アレンの服の袖を掴み、強く引っ張って懇願するユノ。しつこく引き止められて流石にアレンも顔をしかめるが、ユノの表情を見て訝しげに眉を寄せた。
ユノの顔は、月明かりの光の中にあってもわかるほど青白く、血の気の引いたひどい顔だった。目は大きく見開かれ、唇はわなわなと歯はカチカチと震えて音を鳴らし、深い恐怖に彩られている。見れば、アレンの袖をつかむ小さな手も小刻みに震えているのがわかった。
「行ったらアレンは、絶対後悔するです……‼︎ 見たくないものを見て、絶対に苦しむ羽目になるです‼︎」
「ユノ……?」
姉に心配をかけさせたくないと引き止めているのかと思ったが、どうにも様子がおかしい。アレンが行くことを本気で恐れているかのような、そんな必死さが感じられた。
「分かるのです! ユノには昔から…………嫌なこと、悲しいことが起こるってこと、怖いものが来るって見えるのです…………‼︎」
ユノの思いがけない告白に、アレンは目を見開いて言葉を失う。普通の人間なら一笑に付す話だが、ユノからは冗談を言っている雰囲気はない。
「……それって、予知?」
言葉にしながら、アレンは心の何処かで納得していた。今この時のことも、嘘を見抜いたり心を読んだりしたのではなく未来を予測したのならば、話は通じる。もしかしたら初めて出会った時も、未来での出来事を見て信用してくれたからシェリーに滞在を許してもらうよう説得してくれたのかも知れない。
ということは、何かが起こるのだろう。近い未来、アレンはとてつもない事態に遭遇し、辛い思いをするのかも知れない。
だが。
「……ごめん、君にはわからないかもしれないけど、僕は何を犠牲にしても助けたい人たちがいるんだ」
自嘲じみた笑みを浮かべ、アレンはユノの頭を撫でて詫びる。
左腕と左眼の力を得た時から、戦うことを決めていた。辛い目にも、死ぬ覚悟も決めて、AKUMAのために生きることを誓っていた。
「だからごめん。でも……ありがとう」
「アレンっ……そうじゃ、ない。そうじゃないのです……‼︎」
ユノは首を振り、必死にアレンを呼び止める。だがアレンは寂しげな微笑みを浮かべると、縋り付くユノの手を優しく外し、止める間も無く窓から飛び降りて行ってしまった。
後に残されたのは、虚しく手を伸ばして虚空を見つめる一人の少女だけ。その手が、ギュッと虚空を握りしめてパタリと落ちる。
「…………姉様、ごめんなさい」
アレンの去った部屋で、ユノは顔を手のひらで覆い、膝から崩れ落ちた。誰もいない、暗い屋根裏部屋で一人佇んでひくっひくっと肩を揺らし、不甲斐ない自分を恥じてただ姉に謝り続ける。
「ユノには、アレンを止められませんでした……アレンの思いを否定できませんでした……! ごめんなさい……ごめんなさい……‼︎」
夜の街を、アレンは一人跳ぶ。呪われた左眼を発動しながら、一瞬だけ感じたAKUMAの波長を感知しようと全ての感覚を研ぎ澄ませる。
アレンの左眼は、実はあまり有効範囲が広くない。姿が確認できる距離まで接近して初めて内蔵された魂が見えるのだ。辛うじて気配を感知できるが、あまり精度がいいとは言えない能力だった。
だからこうして、建物の上を足場にして駆け回る他にやりようがなかった。とはいえ相応に広いこの街で一つの対象を探し出すのはなかなか困難で、アレンのやり方も焼け石に水程度のことだった。
だが、決して無駄ではないことはわかっていた。
「……見つけた」
ポツリと呟いて、アレンは細い路地にいた浮浪者に向かって加速する。同時に左腕を解放し、巨大な鉤爪を携えて空中から襲いかかる。
気配を感じたのか、それともイノセンスに反応したのか、浮浪者はバッと身を翻してアレンの方を向き、みるみるうちに肉体を銃器に再構成し始めた。巨大な砲身が一斉にアレンに照準を合わせ、苦悶の表情が吼える。
しかし砲身が火を噴くよりも早くアレンは真っ直ぐ突貫し、鉤爪を槍のように突き出してAKUMAの体を貫く。AKUMAの中心に大きな穴が生まれ、破片が辺りに四散すると数秒も経たずに爆散する。
地面を滑りながら着地したアレンはすぐに立ち上がり、AKUMAの残骸の方を向いて黙祷を捧げるように目を閉じる。そして、再び屋根の上に跳び上がった。
察知したAKUMAは一体だけではない。まだ何体か残っていて、今も誰かを狙っている。望む望まないに関わらず、自身の殺人衝動を抑えられず人を狙ってしまう。アレンは思考は冷静に、しかし心は熱く自身を急がせた。
そうして戦いを何度も続け、最後の一体を救済した時だった。
燃えるAKUMAの残骸に冥福を祈っていた時、ふとどこかから鉄くさい匂いと獣の咆哮が届いたのを感じたのだ。匂いはAKUMAの装甲からではない、嗅いだことのある臭いだ。そして咆哮は、以前聞いたことのあるものに似ていた。
「……これは。こっちから?」
臭いの元を特定したアレンは、迷うことなくその場所へ足を向ける。だが、心がなぜかそれを嫌がり速度が鈍る。この先に何があるか見たくないと、走ることを拒絶していた。
ユノの予知が脳裏をよぎる。あの不吉な予言が心を縛り、引き止めようとしているのだろうか。だとしてもアレンは止まるわけにはーーー漂って来る血の匂いを、放置するわけにはいかなかった。
重い心を引きずり嫌な考えを振り払い、アレンは細く暗い路地を駆け抜ける。徐々に濃くなって行く鉄錆の匂いを辿り、アレンは行き止まりであるはずの通路へと入って行く。
そしてアレンは、激しく後悔した。ユノの忠告を聞かなかったことを、AKUMAを倒してすぐに帰らなかったことを、この路地に入ったことを。
「ーーー‼︎」
路地裏の奥を目にしたアレンは、大きく目を見開いて凍りついた。
そこは、一面真っ赤に染まっていた。地面も壁も、一面が鮮やかな紅色で覆われ、異臭を放っていてもとの壁の色が残った部分の方が少ないほどだった。
そこらに転がっているのは、まだ原形をとどめている人だったモノ。数体あるそれらのどれもが、喉や心臓、急所を貫かれた状態で乱雑に転がっている。小さな肉片は、切り裂かれた一部であろうか。
その中心に、“ジャック”はいた。
惨状を背景にし、自身の光沢のある表皮に深い傷をつけた怪人は、真っ赤に濡れた左手をだらりと下げ、右手には何かを掴んで目の前に持ち上げている。それが人であると気づいたアレンは、今度こそこみ上げてきた吐き気に耐えることができなかった。
「ぅっ……おえぇええ‼︎」
思わず膝をつき、胃の中のものを全てぶちまけてうめき声をあげる。AKUMAと対峙して、人が死ぬところは何度も見てきた。だがそれはAKUMAの血のウィルスによって炭化した者が崩れ落ちる姿であり、こんなにも無慈悲で残酷な現場ではなかった。
なによりもアレンの胸を痛めたのは、それをやったのが“彼”であると疑う余地がなかったことだ。
「……なん、だ、これ……」
アレンは言葉を失い、凍りついた。目の前の状況が幻なんじゃないかと目をこらすも、現実が変わることはなかった。心拍が跳ね上がって呼吸が乱れ、気持ち悪さで視界もグラグラと揺れて足元がおぼつかなくなる。
血の海の中で、ジャック・ザ・リッパーはじっとアレンを見つめていた。頬の部分に刻んだ大きな裂傷や全身に刻んだ傷口からこんこんと鮮血を流し、手を汚す血を拭き取ろうともせず、まるで見せつけるかのようにその場に佇んでいるだけだ。
やがてジャックは、掲げていた人間の骸を放り捨て、アレンの方へと近づいていく。伏せているアレンの顔に怪人は静かに血に濡れた手を近づけていき、鋭い爪の並んだ手を開いてアレンの喉に触れようとする。
「ーーーヴァアアアアア‼︎」
だが怪人は突如咆哮を上げると、俯くアレンを飛び越えて彼の背後にいた存在に襲いかかった。
「ウォオオン⁉︎」
「ヴァアアアアア‼︎」
アレンに奇襲をかけるつもりだったのか、背後から大鎌を構えていた犬の頭の黒い怪人はあっさりと迎撃され、ジャックに撥ね飛ばされる。怪人は唸り声を上げて敵から離れると、場所が悪いと判断したのか路地裏からさっさと逃げ出して行った。
ジャックは一度不機嫌そうに唸ると、動けずにいるアレンを放置して犬頭の怪人を追いかけ始めてしまった。
知らぬうちに、再び窮地から抜け出したアレンだったが、もう今度は救われたと思うことはできなかった。
さっき触れようとしたのは、目撃者であるアレンを始末するつもりだったからかもしれない。それがなかったのは、単にそれより優先すべき敵が偶然現れたから。助かったのは、ただの偶然に過ぎなかった。
「そん、な……」
アレンにはまだ希望があった。殺された人は実は擬態したAKUMAで、彼は人知れずそれを退治して人々を守っていたのではないかと。ただの妄想だが、そう信じたかった。
アレンは呆然としたまま、怪人の引き起こした惨状を前に凍りつく。勝手な思い込みだったのかもしれない、でも自分がここにいるのは彼のおかげであるということは事実だった。なのに、その全てが偶然の果てであったという事実は、到底受け止められそうになかった。
どこからか聞こえてくるサイレンの音をうっすらと意識しながら、アレンはその場から逃げるように立ち去った。
◆ ◇ ◆
アレンは一人、陰鬱な気分で教会へ戻る道を歩いていた。
夜もすでに明けかけて、明るい日差しが徐々に強くなり始めている。まだ人の姿は見えないが、いずれ騒がしくなることだろう。その方がありがたかったが、文句は言えなかった。
シェリーはすでに戻っているだろうか、と叱られることを覚悟で考えながら教会の前にたどり着き、門に手をかけた時だった。
「…ウォーカー様?」
アレンの背に、シェリーの声がかけられた。
驚いたアレンは、まずいと一瞬慌てるもすぐに顔を引き締める。彼女には、心配も面倒ごともかけるわけにはいかない。
「えっと……つい目が冴えてしまって。外の空気を吸ってたんです」
「そうですか…」
シェリーは特に詰問するつもりはないようで、すぐに興味をなくしたように自分も門の方へと歩み寄った。若干、彼女の歩き方がぎこちない気がして、怪我でもしたのだろうかと心配になるアレンだったが、表情にも出ていない上すぐに普通に戻ったため、あまり気にしなかった。
「とりあえず一人でいたことには不問とします。……ユノも待っているでしょうし、朝食にしましょう」
「あ、はい。いただきます」
シェリーはため息を隠すことなくこぼし、アレンの前を横切って門を開ける。アレンも急に感じた空腹に自分で呆れながら、素直に彼女の後に付き従う。
だが、シェリーの後についていこうとしたアレンはふと違和感を感じて立ち止まり、ついで表情を引きつらせてその場で硬直した。
「……どうか、されましたか?」
立ち止まったアレンに、シェリーは振り返ることなく尋ねる。
対してアレンは、そのシェリーに返答する余裕さえなくしていた。嫌な予感が波のように押し寄せ、他の可能性を即座に潰して飲み込んでいく。そんなはずはないと思いながら、アレンはただシェリーを凝視し続けていた。
すれ違った彼女の髪からは。
血の匂いが、したのだ。