1.衝突
街は、また再び現れたジャックの噂でざわめいていた。
新たに加わった犠牲者は女性ではなく男性、それも複数の人間が同時に襲われたことに対する人々の不安と恐怖は募る一方だった。女は未だ終わらぬ恐怖の夜に、男はどうせ襲われぬとたかをくくっていたために改めて不安に苛まれる。決して自分だけが例外ではないのだと知り、人々の長く眠れぬ夜が続いた。
そんな人々のざわめきの中を、一人の人間らしき存在が歩いていた。らしきというのは、あまりにそのシルエットが歪だったからだ。
丸い肥満の体に真っ白なコートとスーツを纏い、シルクハットを頭に乗せた眼鏡の紳士。顔のほとんどを占める大きな歯の見える口は、薄気味悪く常に笑みに歪んでいた。
「……気に入りませんネ♡」
負の感情があふれる街を男ーーー千年伯爵は一人歩きながらこぼす。愛用のかぼちゃの飾りがついた傘をくるくると回し、笑顔の下に不機嫌さを隠して彼は行く。
「アンノウンだかなんだか知りませんが、皆殺しにしちゃうせいでなかなかAKUMAを生み出す悲劇が生まれなくなってるんですよネ♡ 所詮は獣ですかネ♡」
千年伯爵は怒っていた。AKUMAを生み出す人間がアンノウンなる怪異によって狩られ、悲劇が用意できずにいるこの街の現状に。誰かが殺されたなら悲劇は生まれる。だが悲しむ人間まで狩ってしまったなら、もう悲劇は他人のものになってしまうからだ。知り合いの誰かが死んだなどというその程度の悲劇では、AKUMAは生み出せない。
今のところ、何故かこの街にのみアンノウンは潜んでいるため、AKUMA製造にさしたる弊害は無いに等しい。だがそれでも、何者かに終焉へのカウントダウンを邪魔されているということは、彼には到底無視できぬ事態であった。
「……気に入りませんネェェエエ♡」
ギリギリと傘を握る手に力を込め、誰にともなく憎悪のこもったつぶやきを漏らす伯爵。眼鏡の下のその目は、本物の悪魔と見間違わんほどに恐ろしく歪んでいた。
「この
誰かにこぼす、怨嗟の声。その憎悪は幾千年も前から彼の中にある感情であり、彼を動かす無限のエネルギー源だった。
「本当に、気に入りませんネェェェ……♡‼︎」
夜の闇の中、千年伯爵の怒りは大気を揺るがせ天候をも変えるほど荒れ狂っていた。
◆ ◇ ◆
わずかなうめき声とともに、アレンは目を覚ました。ボロ布を敷いただけでは硬い砂利の上には耐えられなかったようで、うまく寝付けなかった上に身体中が痛い。髪もボサボサで、やる気が微塵も出てこなかった。
だが、アレンが寝不足になっているのは寝床に不満があるからだけではなかった。
「……シェリーさん」
思い出すのは、さびれた教会での彼女との最後の会話。あの時に受けた拒絶の眼差しは、今もなおアレンの胸に深く突き刺さっていた。
信じたくなかった、彼女の正体が街を恐怖に陥れていた殺人鬼であったなどと。あの不器用ながらも優しい女性が、ずっとアレンを騙していたなどと。短い時間とはいえともに過ごした彼女の本当の姿に、気づくことができなかったなどとは、信じたくなかった。
結果、彼女とそれ以上顔をあわせることができなくなり、教会に背を向けて逃げ出した。借金取りに出くわすのを恐れて宿には止まらず、浮浪者のようにボロ布を抱えて、石橋を屋根代わりにして一夜を過ごすこととなった。雨はしのげるが、壁のない石橋の下では冷たい風が体に堪えていた。
「……いや、違うな。あの人の言う通り、僕が勝手に信用しただけだ」
騙したわけではないのだろう。嘘をついていたわけでもない、アレンがたまたま気づいただけで、あの人は何も変わっていないのだ。
アレンが勝手に、シェリーに聖女のような高潔なイメージを重ねていただけのことだ。そのことで、彼女に責めるのはお門違いだ。
ごろんと寝転がると、アレンは石橋の真下から空を眺める。スモッグのせいか曇り空が続く天を仰ぎ、これからどうしようかと自問する。
AKUMAの気配は以前に比べ、格段に薄くなった。あの夜までシェリーたちの目を盗み、何度か教会を抜け出して倒しに行っていたためだろう。もうあと何体かくらいで、この街からはAKUMAはいなくなるはずだ。
だが、もし終わっても気になることはある。この街に巣食う異形はAKUMAだけではない、アンノウンという未知の敵もいるのだ。正体も由来も、本当の名前も不明な人知を超えた怪人たちは、今もどこかに潜み、人々を狙っているのだろう。
警察組織も、あの怪人たちを相手にするために強力な兵器を開発しているようだし、何よりシェリーもいる。彼女が本来どのような人であったとしても、アンノウンを狩る存在であることは間違いない。アレンがいなくても、あの戦士たちがいれば撃退は可能のはずだ。対AKUMAの戦士であるアレンには、本来関わる余地などなかったのかもしれない。
だがそれでも、アレンの胸中には不安があった。
何か、とてつもないことが起ころうとしているような、そんな嫌な予感が。言葉では言い表せないそんな感覚が、アレンの心に燻っていた。
「……行こう」
やがてアレンは、考えても仕方がないというように頭を振り、勢いよく体を起こして立ち上がる。どちらにせよ、自分はAKUMAを倒すためにこの街に来た。彼らを狩り尽くし、救済したならばもうこの街に留まる理由はない。アンノウンのことは、彼女らに任せようとそう決めた。
だが、その時だった。
アレンの中の何か、第六感のようなものが、遠くから聞こえる“声”を聞き取った。
「ーーー‼︎」
それは確かに、悲鳴のような尾をひく甲高い声であった。
その声は、シェリーも感じ取っていた。
講堂に一人佇んでいたシェリーはビクンと体を揺らし、目を大きく見開いて硬直する。
「…………‼︎ 来た」
直立の姿勢のまま固まっていた彼女の体がブルブルと痙攣を始めた直後、変化が始まった。
シェリーの全身から淡い緑色の光が迸り、脈動するように強弱を繰り返して血管のように張り巡らされていく。指先まで光が宿った瞬間、彼女のシルエットが粘土のようにぐにゃりとゆがみ始めた。
指はより太く、そして爪は鋭い鉤爪へと。背は頭一つ分高く伸び、胸と肩、背中に翠の鎧のような外殻が生み出される。その下にはゴムのような皮のような黒い皮膚が生じ、その下では筋肉が異常に盛り上がっていく。腰にも外殻と同じ材質の金色のベルトが現れ、中心で翠の宝玉が輝きを放つ。頭も黒い皮膚に覆われ、顔にはカミキリムシのような二本角の仮面が装着されて、赤い複眼と強靭な牙が輝く。最後に肩から翠色のコートのようなものが生え、全身を覆うように広がってはためく。
ものの数秒で、シェリーは幾多もの異形を屠ってきた、おそるべき翠の怪人ジャック・ザ・リッパーへと姿を変えた。
「……ヴァアアア‼︎」
爪を振りかざし、天に向かって咆哮をあげるジャック。
彼女の中で、本能が叫ぶ。敵を、獲物を狩れ、全て喰らい尽くせと。彼女に宿った力が、彼女を突き動かす。
ジャックはその場で膝を曲げ、強靭な足をバネのようにしならせて大きく跳躍する。軽く数メートル飛び上がった彼女は講堂の屋根にまで達し、崩れてできた穴から外へとその身を躍らせた。
屋根の上に降り立ったジャックは膝をつき、研ぎ澄まされた感覚で狩るべき獲物の位置を探る。真っ赤な目を光らせるとジャックは音もなく跳躍し、悲鳴のした方へと駆け出していった。街の上空をかけていく異形に人々は気付かず、頭上にいるとも知らずに殺人鬼の噂話でわが身を震わせていた。
「……姉様」
街の陰に隠れ、すぐに見えなくなった姉の背を追いながら、ユノは一人教会の一室から外を眺めていた。
弱くて脆い姉が、どうか無事に戻ってきてくれることを信じて。
また、警察署でももう一人の戦士が動き出そうとしていた。
「ーーー港にて、アンノウンを多数確認!」
「G3-X、出動要請!」
通信を受けた職員が、セレナへと報告を送る。
セレナは強く頷き、自身の通信機をメンバーにつなげた。
「聞いたわね? G3-X、出動よ‼︎」
『了解!』
指令を受け、G3-Xをサポートするメンバーは揃って専用のトラックの荷台へと乗り込む。青く塗装された大型のトラックは、唸りを上げて煉瓦を組んだ道路へと乗り出し、爆走を開始した。
その荷台の中で、トラッシュは設置された鉄製の席に座り、用意されたスーツを順に纏っていく。籠手、肩当、臑当、胸当と、関節部分を除いた全身を覆う外装を体に取り付け、最後に仮面をつける。
顔の前面を面で覆うと自動的に後頭部にまで仮面が広がり、装着を終えたトラッシュは静かに息を吐く。
武装の準備は終わった、残った作業は集中することだ。落ち着いてイメージを重ね、G3-Xを完全に使いこなす自分を準備する、それだけだ。
そんな彼の隣にセレナは寄り添い、肩に手を添えて耳元に唇を寄せる。
「……いつもより、緊張してる?」
『……いつもは、一対一なんで』
「……そうね」
青年の緊張は仕方のないことと、セレナは静かに青年の手を握る。
自分にできるのは、彼の武器を作り上げたものとして完璧にオペレーターとしての任務を果たし、彼を勝利にまで導くことだけだ。そのことだけに、集中すればいい。
「大丈夫よ。私とG3-X、……そして、貴方自身の力を信じて」
『……はい』
覚悟を決める青年。
彼らを乗せたトラックは、土埃をあげて標的のいる地へと向かって行った。
◆ ◇ ◆
「ヴァアアアアアアアアアアアアア‼︎」
凄まじい咆哮とともに、両手でアンノウンの顔面を掴んだジャックは空中へと躍り出て、そのまま地面に向けて叩きつけた。蟻に似た異形は苦しげに悶えるが、ジャックが手首から伸ばした刃に喉を貫かれて動きを止める。
ジャックは苛立たしげに唸り声を上げるとアンノウンを再び持ち上げ、ブンと勢いよく放り投げる。放り出されたアンノウンは建物の壁に激突し、頭上に天使の輪を出現させて爆散した。
難なく二体を同時に倒したジャックだったが、勝利の余韻に浸る間も無く背後へと振り向き威嚇の咆哮を放つ。
敵はまだ大量にいる。蟻の習性は同じなのか、地面を覆い尽くして見えなくなるほどの数が群れをなしてジャックを囲み、ギチギチと牙を鳴らして近づいてくる。
ジャックの周囲にいくつも湧き上がっている黒煙は、これまで倒してきた敵が残したものだ。すでに両手でも数えきれない数を倒してきたが、未だ終わりが見えない。
「うわぁぁっ、助けてくれぇぇぇ‼︎」
「いやっ……嫌ァァァ‼︎ かっ、神様ァァ‼︎」
アンノウンの群れの向こうから悲鳴が聞こえる。救助のために近づこうとしても、敵の数があまりに多すぎて迂闊に動くことができない。時折みえる地面についた赤黒いシミは、間に合わず救えなかったものたちの残骸だ。
ジャックは、シェリーは思わず舌打ちし、近づいてきたアンノウンを憂さ晴らしのように突き刺し放り捨てる。
「シュゥゥゥゥ……」
怯える人間たちを前にしたアンノウンは、ゆっくりと嬲るように近づいていく。牙を鳴らし爪を見せびらかせ、逃げることもままならない餌の心に恐怖を刻み込む。
尻餅をついて壁に追い詰められていた男性に一体のアンノウンが襲いかかる。肩を掴んで壁に叩きつけると、蟻型のアンノウンは顔に向かって口から何かを吐き出した。ビチャビチャと汚らしい液体がかけられると、次の瞬間男性の様子に変化が訪れた。
「……ゴボ、ボボボボ……‼︎」
男性の口から、気泡が漏れる。陸地にいるはずなのに、まるで水中に引き摺り込まれたかのように息を詰まらせ、新鮮な空気を求めて首をかきむしりながら悶え苦しみ始める。
数秒も経たぬうちに、哀れにもアンノウンの犠牲となって“溺死”した男性は白目を剥いて倒れた。アンノウンは仕留めた獲物に満足気な唸り声をあげ、放り出された男性の四肢にかぶりついた。
その光景を見ていた一人の女性の瞳に、アンノウンの姿が映り込む。ガタガタと震え、身動きも取れない女性に嗜虐心を煽られているのか、その顔に自らの顔を近づけて覗き込む。口元から漏れる臭い息に、女性の顔が引きつった。
「ヒィィィッ」
もう終わりだ、そう思った女性がきつく目を閉じる。
アンノウンは大きく牙を開き、謎の液体を吐き出そうと喉奥に溜め込んでいく。だが。
「
凄まじい衝撃がアンノウンに襲いかかり、吹き飛ばして女性から強制的に引き剥がす。突然のことに女性は目を見張り、ついで傍に現れた一人の青年を凝視した。
「……早く、逃げてください」
白髪の青年、アレンはそう言ってへたり込んだ女性に促す。
命を救われた女性は呆然となりながら、アレンの左肩から生えた銀色の異形の腕を見て震え上がり、脇目も振らずに逃走を始めた。
アレンは礼も言わずに逃げ出した女性にはもう視線を向けず、再び集い始めたアンノウンたちに視線を向ける。獲物の捕食を邪魔されたからか、同類に害を与える存在に危機感を抱いたのか、先ほどよりも濃厚な殺気を放って近づいてきている。
アレンはイノセンスの鉤爪を前に構え、アンノウンたちを待ち構える。決して有効打たり得ないが、イノセンスの力は早々負けはしないはずだ、と身構える。
「シュルルルル!」
膠着状態にじれたのか、先頭にいたアンノウンの一体が、咆哮を上げてアレンに襲いかかった。アレンは自らも殺気を放ち、アンノウンを迎え撃とうと左腕を振りかぶる。
しかしそれは、頭上から食らいついた別の存在によって無理やり地面に押さえつけられることで止められた。
「ヴァアアアアアア‼︎」
「キシャアアアア⁉︎」
アレンのすぐ前に現れたジャックは踵に生やした刃をアンノウンの背中に突き立て、ぐりっとねじ込んで仕留める。
足元で爆散するアンノウンを踏み越えると、ジャックはアレンの方を睨みつける。射殺すような鋭い視線に、アレンはバツが悪そうに目をそらす。もう関わるなと言われ、追い出された翌日にこうして会ってしまって、かける言葉が見つからなかった。
そんな感情も、背後から襲ってきたアンノウンの咆哮で我に帰らされ、心の奥底に封じ込める。イノセンスで裏拳を繰り出すと、後退して自然とジャックと背中合わせの体勢になる。
図らずとも、共闘の形へと変わるアレンとジャック・ザ・リッパー。両者の耳に、タイヤが地面を滑る音が届いた。
「! あれは……」
見れば港の陸側、道路へと続く方から、青く塗られた一台のバイクが疾走してきた。赤いランプが光を放つその二輪車に乗っているのは、見覚えのある機械の鎧の戦士だった。
アレンは目を見開き、慌ててフードを深くかぶって顔を隠す。ジャックも若干姿勢を低くし、アンノウンの群れを陰に自らを隠す。気休め程度だが、この状況ではまず見つかりはしまい、厄介なことになる前に退いたほうがよさそうだ。
アレンたちには気づいていないらしいG3-Xはバイクからトランクケースのようなものを取り出すと、ロックを外して長い形状に変形させていく。数回の手順でトランクは大型の銃へと変わり、六門の大口径の砲門が輝きを放つ。
G3-Xは巨大な機関銃を構え、アンノウンの群れに向かってトリガーを引きしぼる。大口径の銃弾が放たれ、アンノウンたちの体を貫いてみるみるうちに数を減らしていく。
だが、三人の戦士が集っても戦況にあまり変化はなかった。
アレンとジャックは脅威となるほどの火力はないと気づかれ、包囲される形で徐々に追い詰められていく。
逆に、G3-Xの武器は確かに凄まじい威力だったが、至近距離からの攻撃はできないと学習されて波のように押し寄せられる。
「ぐっ⁉︎」
「シェリーさっ……ぐぁあ‼︎」
アンノウンに噛み付かれ、つい本来の声を漏らしてしまったシェリーを案じてアレンが振り向くと、その隙をついて別のアンノウンに殴りつけられる。
シェリーはアンノウンを払いのけ、アレンはかろうじて痛みに耐えるも、疲労が蓄積した体は徐々にいうことを聞かなくなっていく。
G3-Xもまた小銃で対抗するも数の暴力の前に徐々に追い詰められていき、波打ち際にまで追い詰められてしまう。
アレンたちは残った民間人を逃がすことには成功したものの、今度は自分たちが窮地に追いやられていた。万事休す、そんな言葉が三人の脳裏によぎった。
その時だった。
三人の戦士たちと異形たちが集う港に、一台の黒塗りのトラックが突っ込んできたのは。
「⁉︎」
突然の乱入者に、アレンたちはおろかアンノウンたちまで驚愕の表情で振り返り、警戒心をあらわにしてトラックから飛びのく。
後輪を滑らせ、黒塗りのトラックは港の広場の中心にまで入り込む。。一瞬ガタンと傾いたトラックは右側のタイヤを浮かせ、かろうじてバランスを保って停止する。その荷台の幕が、ばさりと開かれた。
煙を上げて沈黙したトラックの荷台から降りてきたのは、G3-Xに似た一人の戦士。しかしその色は光沢のある黒で、瞳の色は青、仮面には二股の角のようなパーツが付いていた。
何よりその戦士が纏っている雰囲気は、この場にいる何者よりも格が違っていた。纏う殺気もアンノウンを超える濃厚さで、戦士がその場にいるだけで空気が数段重くなったように感じられた。
たった一人の存在が、戦場の空気を一瞬で変えてしまっていた。
『あれは…………G4?』
セレナの声が、通信機から掠れた声として届く。トラッシュには何のことだかわからないが、彼女はあの黒い戦士が何者であるのか知っているらしい。だが、その割には声が引きつっていた。
「G4……」
トラッシュはそう、現れた戦士の名を口にする。
警察のものではない、黒塗りのトラックから現れた新たな戦士の異様な圧迫感に、その場にいた誰もが息を呑んでいた。