ユーノ・スクライア外伝 PARALLEL STORY   作:重要大事

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第51話前伝「魔都に誘われて 2」

新歴078年 7月11日

第97管理外世界「地球」

香港島 西部 ヴィクトリア・ピーク

 

 標高五五二メートルを誇る香港最高峰の山、ヴィクトリア・ピーク。中国人が太平山(タイぺンサン)と呼んでいたこの山は、ヴィクトリア女王にちなみイギリス人によってその名が与えられた。

 山頂そのものは通信施設などで占有されており、一般人の立ち入りは制限されているが、その周囲には公園や高級住宅地が広がり、これらが通称「ザ・ピーク」と呼ばれる区域を形成している。

 ユーノ達は、小狼(シャオラン)の案内で香港名物のケーブルカー「ピークトラム」に乗り込んでいた。

 最大傾斜角二十三度という急勾配を滑るように進む車両から、鬼太郎と浦太郎は窓越しに広がるパノラマビューを堪能している。

「おおー! いい眺めだぜ!」

「ケーブルカーなんて生まれて初めて乗ったけど、なかなか乙な乗り物だよね」

 楽しげな二人の声を背に、ユーノは隣に座る小狼(シャオラン)からヴィクトリア・ピークに纏わる歴史の一端を聞いていた。

「十九世紀半ばに、香港がイギリスの植民地となって以来、ヨーロッパ人が山頂に邸宅を建てて住むようになった。これには山頂からの眺めが素晴らしかったという理由のほかに、ヴィクトリア市の亜熱帯の蒸し暑さに比べると山頂は幾分涼しく過ごしやすかったという理由もあるんだ」

「へぇー、そうなんですねー」

 窓の外に目を向けるユーノ。切り立つ山腹に点在する白壁の邸宅が、歴史の重みを湛えながら静かに佇んでいる。

「しかし、この辺りは世界でも有数の高級住宅街・・・・・・もしかして小狼(シャオラン)さんって相当なお金持ちなんですか?」

 思いついたままに尋ねるユーノに、小狼(シャオラン)は僅かに頬を赤らめつつ「まぁ、そう言うことになるかな」と、肩を竦めた。

「それにしても、香港の植民地時代に築かれた歴史的な場所は興味深いですね」と、ユーノがさらに続けた。

「例えば、先ほどの邸宅の装飾パターン――どこか中国伝統の要素とヨーロッパ風デザインが融合した印象を受けました。こういった文化の混在は、考古学的にも重要なテーマですよね」

「確かに。特に建築に現れる異文化の融合は興味深い」と、小狼(シャオラン)も深く頷いた。

「それに近いものは、シルクロードで発見される遺物にも見られる。交易の痕跡が、陶器や金属細工、装飾品の模様に残っているんだ」

「そうなんですよ! 僕も以前トルコの遺跡を訪れた際、明らかに中国由来と思われる陶器を見たことがあります。あれは感動的でした」

 ユーノの話に、小狼(シャオラン)は思わず身を乗り出すように聞き入る。

「そんな経験があるなんて、ますますアマチュアだなんて信じられないぞ」

 口元に笑みを浮かべながら、小狼(シャオラン)の瞳はさらに輝きを増していた。

 

 そうして、ピークトラムで移動すること数十分――ユーノ達がやって来たのは山の中腹に佇む、大きな白い邸宅だった。青い屋根と白い壁が印象的で、どこか穏やかさと威厳を兼ね備えた佇まいだ。入口へと続く広々とした階段の両脇には、丁寧に手入れされた花壇が色とりどりの花で彩られている。周囲には庭木が整然と植えられ、微かに風に揺れる木々の音が耳に心地よい。

 “百万ドルの夜景”を背に、邸宅は静謐(せいひつ)と威厳を宿し、訪れる者を圧倒する。

「す・・・・・・すっげえ・・・・・・こんなとこに住んでるのかよ!」

「テレビや雑誌でしか見たことないよ、こんな立派なおうち。我が家のあばら屋がみすぼらしくて仕方ないね、店長?」

「あばら屋言うな! 誰の厚意で住まわせてやってると思ってるんだ!」

 浦太郎の不用意な言葉に、ユーノは軽く語気を荒らげる。だが、その一方で視線を邸宅の外観からふと空へと向ける。

「・・・・・・・・・」

 一瞬、ユーノの表情が硬くなり、その瞳には微かな警戒心が浮かんでいた。目には見えないが、空間全体に漂う圧倒的な力――それが彼の感覚を微かに揺らしたのだ。

「ユーノ君、どうかしたんですか?」

 すると、隣でその様子に気付いた藤隆が穏やかな声で問いかける。

「あ、いえ。なんでもありません」

 ユーノは表情を緩め、微笑みを浮かべてさらりと返した。そのまま自然な動作で視線を金太郎の方へと移す。

「いやー、実に見事ですなー。建築様式は中国風と英国風とが入り混じったものでしょうか?」

 建物の外観に目を留めた金太郎が、その特徴を的確に言い当てた。これには小狼(シャオラン)も「よくわかりましたね」と、感嘆する。

「この家は、何百年も前から先祖代々李家当主が守り続けてきました。若輩ではありますが、おれはこの家の現当主を務めています」

「それはまた・・・・・・すごいですね、小狼(シャオラン)さん!」

 ユーノは、僅かな動揺を押し隠すように、敬意を込めた声で称賛の言葉を送る。その称賛に小狼(シャオラン)は照れたように目を伏せるが、その仕草にはどこか誇りも滲んでいる。

「さあ、中へ入ってくれ。おれの家族を紹介するよ」

 淡い金色の装飾が施され、深紅のアクセントが目を引く格式ある門を潜り、一行は荘厳な建物の内部へと足を踏み入れる。玄関ホールに入った瞬間、小狼(シャオラン)が軽く振り返って言った。

「みんな、遠慮せずに」

 その言葉に促されるように一行が屋内へ歩を進めたその時――賑やかな声が弾けるように響き渡った。

「「「「いらっしゃ~~~い!!!」」」」

 声に驚き顔を向けたユーノ達の視線の先には、艶やかな衣装を纏った四人の女性がいた。どこか垢抜けた派手さと、場の雰囲気を一気に盛り上げるエネルギーを纏った彼女達は、新しいおもちゃを見つけたかのような興奮を隠せない様子で一行に近づいてきた。

「いいわね~、この髪きれ~!」

「すっごい二の腕と筋肉! カッチカチなんだけどー」

「この馬鹿面がチョーかわいい~♪」

「あ~ん、なんかこの人になら騙されてもよさそう♡」

 彼女達は黄色い声を張り上げながら、ユーノ達の周囲を楽しげに飛び回る。肩や二の腕に触れては笑い、頰に軽いキスを落としながらさらに賑やかに騒ぎ立てた。その無邪気な振る舞いに、一行の反応は分かれた。

「あ・・・いや・・・どうも・・・」

「・・・・・・」

 ユーノは彼女達に触れられた途端に委縮し、反応に困りとりあえず笑ってみる。そして、困ったような表情を浮かべ小狼(シャオラン)達の方を見る。小狼(シャオラン)は申し訳なさそうに小さく頭を下げこちらを見ている。

 金太郎に至っては大きな身体の耳から足の指まで真っ赤にさせて無言で耐えるように俯いている。

「おい・・・・・・これは夢か・・・・・・!」

「夢じゃないよ・・・・・・早くも香港もっこり大勝利宣言!! 長らく夢に見ていた僕の野望が、ついに成就したんだ!! くぅ~~~我が性欲に一遍の悔いなし!!」

 先の二人と比べると、鬼太郎は恥ずかしそうに頬を赤らめつつも、どこか抑えきれない喜びを宿した瞳で彼女達を見つめていた。

 一方、浦太郎は彼女達の手を掴むなり、抑えきれない興奮に身を委ねて飛び跳ね、歓喜の声をあげた。その表情は、さながら天にも昇るような幸福感に包まれており、握り締めた手の柔らかい感触を繰り返し確かめているかのようだった。

「すまないな。姉上達はこのとおりミーハーなところがあってな」

 小狼(シャオラン)は申し訳なさそうに視線を落としつつも、どこか苦笑いを浮かべながら肩を竦めた。

「あぁ・・・お姉様方・・・でしたか・・・・・・」

 ユーノは言葉を途切れさせながらも、何とか敬意を保とうと努めた。その視線が再び姉達へと向けられると、彼女達の華やかさに圧倒され、胸の内で小さく息を呑む。

 華麗なる一族――その言葉が、これほどまでに現実味を帯びて見えるとは思いもしなかった。

 

小狼(シャオラン)君! お父さん! おかえりなさい!」

 そこへ、四人の姉達より少し遅れて、奥からもう一人の女性が現れた。

 軽やかに歩くその姿は、まるで春風に舞う花びらのようだった。栗色の髪が柔らかな光を帯び、歩を進めるたびにふわりと揺れる。その瞳はビー玉のように澄み、微笑みには無垢な優しさが宿っている。

「ただいま、さくら」

「少し遅れちゃったかな?」

「うんうん、ぜんぜんだよ。ちょうどお夕飯の支度をしていたから――あ、そっちの人たちがさっき電話でお話してた?」

「ああ。紹介するよ、彼はおれや藤隆さんと同じ考古学者のユーノ・スクライア。こちらの三人はその家族の方々だ」

 小狼(シャオラン)が客人達を紹介すると、さくらと呼ばれた女性は一礼し、柔らかく丁寧な言葉で挨拶をした。

「はじめまして、小狼(シャオラン)君の妻でさくらと申します。小狼(シャオラン)君やお父さんからお話は聞いています。どうぞごゆっくり過ごしていってください」

 その言葉と共に浮かべた笑顔は、春の陽だまりのように暖かく、見る者を自然と魅了するものだった。

((ちょ、ちょうーカワええ――!!!))

 浦太郎と鬼太郎はさくらの姿を一目見るなり、心を射抜かれたかのように頬を赤らめた。

(なにこの子・・・・・・! さっきのもっこりシスターズと比べて童顔なのに、なんでこんなに胸が高鳴るんだろう!!)

(まさか世の中にこんな(マブ)い笑顔があったのか!? チキショー~~~! 俺もこの家に生まれたかったぜ!!)

 浦太郎と鬼太郎は完全にさくらの魅力に飲み込まれ、骨抜きとなった。そして、次第にその興奮は行動として現れた。

「はじめましてー!! 自分は桃谷鬼太郎って言います!!!」

 鬼太郎は勢いよく前に出ると、ぎこちなくも精一杯の敬意を込めて挨拶をした。

「いやぁ~、あなたみたいにプリティーで天使みたいな女性に俺は初めて出会い――」

「ちょっと! 先輩ってば! 初対面でそんなにガッつかないでよ!!」

 しかしすぐさま、浦太郎が鬼太郎を制しつつ、さくらに向き直る。

「これはこれは、初めまして。僕は亀井浦太郎と言います♪ 名前の如く、あなたは桜のようにとても美しい女性ですね。是非、今度僕とタイガーバームガーデンへデートに・・・」

「っておーい! ざけんじゃねーよ亀公! さくらちゃんは俺とだな・・・!」

「先輩にこんな美人は高嶺の花だよ! いいから僕に譲りなさいってば!」

「誰が出歯亀なんぞにヤラせるかよ!! 彼女の純潔は俺が守るんだー!!」

「えっと・・・・・・あの・・・・・・」

 人目を憚ることなく取っ組み合いの喧嘩を始める二人。当のさくらは目を丸くし、困惑の表情を浮かべておろおろしていた。

 すると、その間にするりと入った小狼(シャオラン)がさくらの手を引き、ユーノと金太郎が二人の肩をがっちり押さえ込む。

「「いい加減にしろ馬鹿共がぁ!!」」

 怒声と共に振り下ろされた拳骨が見事に炸裂。鬼太郎と浦太郎はその場で気絶し、額にはギャグ漫画でしか見たことがない巨大なたんこぶが浮かんでいた。

「だいじょうぶか?」

「う、うん・・・ちょっとビックリしちゃっただけだよ」

 小狼(シャオラン)が心配そうに声をかけると、さくらは小さく笑って頷いた。

 その後、ユーノは頭を下げ、さくらに深く謝罪する。

「さくらさん、この度はうちの馬鹿どもが大変失礼いたしました! 僕と金太郎でみっちり指導させていただきますので、どうかご容赦を!」

「いいえ、とんでもない! わたしは気にしていませんので。そんなに謝らないでください」

 さくらの穏やかな言葉と微笑みに、ユーノは少し緊張を解く。しかし、次の瞬間――

「!!」

 ユーノの視線がさくらに重なった刹那、空間そのものが震えるような厖大(ぼうだい)な魔力の奔流が、彼の全感覚を貫いた。

 それは静かに押し寄せる潮流ではなく、大気を引き裂きながら突如として現れる荒波――無限の深淵が彼の前に広がったかのようだった。

(なんだ、これは‥‥‥!)

 底知れぬ力の存在は、(あたか)も彼の存在を些末な塵とさえ感じさせるほどの威容を伴っていた。その魔力の膨大さは、彼がこれまで見知ったどんな魔術師のそれとも異なり、圧倒的なまでの孤高を示していた。ユーノの脳裏には、大海を漂いながらその深さと広がりに埋没する光景が浮かぶ。

(底が見えない‥‥‥。いや、それどころか、この力は空や海そのものを呑み込み、星々をも覆い尽くす勢いを持っている‥‥‥!)

 なのはやはやて――彼が知る最強の魔力保有者達の圧倒的な存在感でさえ、さくらの魔力の前では霞んでしまう。それはあまりに巨大で、あまりに寧静。だからこそ、彼女を取り囲む人々にはその力の存在すら感知できないのだろう。

(この魔力‥‥‥まさか香港の地に、こんな別格な存在がいるとは‥‥‥!)

 ユーノの思考は一瞬停止し、次に急激に回転を始めた。その時、ふとイギリスを訪れた際に聞いた話が頭をよぎる。

 かつて、クロウ・リードと呼ばれる不世出の魔術師がいたという話だ。彼は凄まじい魔力を操り、意思を持つ魔道具「クロウカード」を創り出したという。そして、そのクロウカードを全て集め、新たに作り替えた者がいる――それが、目の前にいる女性だという確信がユーノの胸に浮かんだ。

(そうか‥‥‥彼女が‥‥‥!)

 その思いがユーノの中で確信へと変わった瞬間、彼の中で何かが静かに音を立てて動き始めた。

 魔導死神として異なる道を辿ったユーノだけが、さくらの規格外の魔力を明確に感じ取ることができた。同じ魔力を持つ金太郎や浦太郎、さらには死神の力を有する鬼太郎でさえ、その次元の違いに圧倒され、感知することすらできない。

 ユーノは疾うに深淵を覗き込むような感覚に囚われていた。その力は、この星を覆い尽くし、意図さえあれば簡単に支配できるだろう。しかし、さくらからはその力を行使しようという意図が微塵も感じられない。むしろ、穏やかな湖面のような静けさと優しさが、彼女の佇まいに漂っていた。

 額にじんわりと汗を浮かべながら、ユーノは脈打つこめかみを抑え、瞳を閉じて思考を整えた。そして深呼吸と共に再び瞳を開けると、笑みを作りながら返答した。

「あの、ユーノさん? どうかしましたか?」

 さくらの声には一片の邪気もなく、ただ純粋な気遣いが滲んでいる。

「いえ・・・・・・なんでもありません」

「・・・・・・・・・」

 その瞬間、小狼(シャオラン)の視線がユーノの表情を捉えた。一瞬にして変わったその顔つきを見逃さなかった彼は、心の中で新たな疑念を抱いた。

「ところで、ユーノさんたちお食事は?」

「まだなんです」

「よかったー! 人見知りの小狼(シャオラン)君がお客さんを招待してくれたんだもん! たくさんおもてなしさせていただきますね!」

 花の如き明るい笑みを浮かべ、さくらが嬉々として応じる。その表情に、場の空気が一気に和らいだ。

「おいおい・・・おれは別に人見知りってわけじゃ」

「でも小狼(シャオラン)君。昔からわたしや知世(ともよ)ちゃん、苺鈴(メイリン)ちゃん以外にお友だちをおうちに招待したことなんてある?」

「それは・・・・・・ない、です」

 さくらの指摘に、小狼(シャオラン)は否定しようとするものの、さくらが一枚上手らしく言いくるめられてしまう。そのやり取りはどこか微笑ましく、学会での堂々たる態度とは一転して、さくらの前ではすっかり主導権を握られている小狼(シャオラン)の姿がそこにあった。彼のどこか幸せそうな表情に、ユーノは意外性を感じつつも、柔らかな笑みを浮かべる。

(しあわせそうだな。見ているこっちが逆に元気をもらってしまう)

 そしてふと、ユーノの脳裏に遠い記憶がよぎった。大切な人――彼女は元気でいるだろうか。もう随分と会えない日々が続いている。元気でさえいてくれれば、それだけで十分だ、とユーノは心の奥底で思う。叶わぬ恋慕の傷が胸の内で微かに(うず)くのを感じ、そっとその思いを押し込めた。

「みなさん! ダイニングは奥の部屋です、こちらへどうぞ」

 さくらが明るい声で促し、一行は彼女に案内されてダイニングルームへ向かった。

 邸内は広々としていて、どこまでも続くかのような長い廊下が印象的だ。壁に飾られた絵画や調度品はどれも美しく、どこか時代の重みを感じさせる。

「ほんと広いウチだねー。いったい部屋がいくつあるのかな?」

 浦太郎が呟くと、鬼太郎が腹の虫を押さえながら続ける。

「それより腹減ったなー! 昨日食った活きネズミ共のお陰で見事に今朝下痢になって、体力ぜんぶ持ってかれちまったからな」

「ほえ!? も、もしかしてそれって・・・・・・三聴のことですか?」

 歩きながらさくらが恐る恐る尋ねると、鬼太郎は得意げに頷いた。それをきっかけに彼と浦太郎の会話はますます盛り上がるが、その間、ユーノの視線は自然とさくらに引き寄せられていた。

「・・・・・・・・・」

 彼女の無意識に漂わせる圧倒的な魔力が、再びユーノの感覚を刺激する。さながら底知れぬ深海に触れるような感覚だった。

「店長、どうかされましたか?」

 金太郎に声を掛けられ、ユーノはハッと我に返った。

「え・・・・・・あぁー、いや、なんでもないよ。それよりお腹空いたね」

 視線を正し、取り繕うように答えるユーノ。

 その様子を、小狼(シャオラン)は藤隆の隣からじっと見つめていた。彼の中で、一つの疑念が静かに形を成していく。

 小狼(シャオラン)の瞳には、目の前の謎めいた客人への関心と警戒心が交錯していた。

「すっかりうちとけちゃいましたね。さくらさんとユーノ君たち」

「そうですね‥‥‥」

(やはり・・・・・・おれの勘違い、じゃなさそうだ)

 藤隆は柔らかな表情を浮かべながら、遠くから見守るような視線をさくらとユーノ達に送る。彼の声には、どこか穏やかで深い信頼が込められていた。

 一方で、小狼(シャオラン)は僅かに眉を顰めた。藤隆の落ち着いた態度が、彼の疑念を一層深める要因となったようだった。

(ユーノ、おまえは一体何者なんだ?)

 

           *

 

同邸宅内 ダイニングルーム

 

 ダイニングに到着したユーノ達を待っていたのは、長いテーブルに所狭しと並べられた色とりどりの料理だった。湯気を立てる皿の数々が香港の家庭料理らしい温かみを漂わせながら、目にも鮮やかな盛り付けで食欲をそそる。

「うっひょー!! こりゃずいぶん美味そうだぜ!!」

「さくらさんの手料理、随分と久しぶりですね」

 鬼太郎が目を輝かせて椅子に腰を下ろし、待ちきれない様子で手を合わせる。その隣では藤隆が微笑みを浮かべ、懐かしそうに食卓を見渡していた。

 やがて、「いただきます」の掛け声と共に食事が始まると、料理を口に運ぶたびに、全員の顔がパッと明るくなる。

「うん‥‥‥美味しいです!」

「ああ、ほんとうに美味いな」

「よかったー! がんばって作った甲斐があるよー」

 嘘偽りのない感想を口にするユーノと小狼(シャオラン)の言葉に、さくらは安堵しとても嬉しそうにふにゃっと表情を緩める。

「かぁー!! うめぇー! なんだこの優しい料理は、今まで食ったことがねぇ!!」

「いやはや見事。さくら殿には心底感服致しました」

「はう~。そんなに褒められるとなんだか恥ずかしいですね・・・・・・」

 鬼太郎が飢えた獣のように料理を頬張る中、金太郎が感嘆の言葉を述べる。さくらは照れくさそうにしながらも、嬉しさを隠しきれない様子で微笑んでいた。

「いやあー、さくらちゃんの手料理は本当に美味しいや。素晴らしいのなんの! 特に、このエビシュウマイなんか・・・・・・」

 浦太郎が満面の笑みを浮かべながら、皿に乗ったエビシュウマイに手を伸ばそうとしたその瞬間――

「あれ? ない・・・・・・?」

 彼の手が目指した先は、料理の載っていない空の皿だった。さっきまで確かにそこにあったはずの料理が、いつの間にか消えている。

「変だな、さっきまでここにあったのに。誰が食べたんだ?」

 不審に思いながら、浦太郎はテーブルの下から聞こえてくる物音に気づく。恐る恐る覗き込むと――

「ん・・・? ヒィッ・・・!? 何だこれは!??」

 驚愕の声を上げる浦太郎。それを聞いた全員が彼の視線を追い、テーブルの下を覗き込む。

「いやー! 今日はいつもより豪勢な夕食やないかー、こんなんがまんできへんわー!」

 そこにいたのは、テディベアのような愛らしい姿をした人語を話す不思議な生き物――天使の翼とライオンの尻尾を持ち、さくらの料理を貪るように食べている。

「け、ケロちゃん!!」

 さくらは血相を変え、慌てて机の下からその不思議な生き物を引っ張り出した。周囲の視線を気にしながら、ケロちゃんと呼ばれたその存在・ケルベロスに小声で叱責する。

「もう、なんで大人しく部屋で待っていられないの!? お客さんがこんなにいるのに!」

「さくら! わいだってがまんしたんや! せやけど、こない美味そうな料理がぎょうさんあるのに、わいだけお預けやなんて、それは殺生っちゅうもんや!」

「だけど、お父さんはともかく・・・・・・ユーノさん達は魔法のこととか何も知らないんだよ!?」

 彼らのやり取りを黙って見つめていたユーノは、さくらが言い終えるのを待って、思念通話で語りかけた。

(大丈夫ですよ、さくらさん。僕も同じ“魔法使い”ですから)

 唐突に響いた念話の声が、さくらとケルベロスの意識を直撃する。驚きに満ちた二人の目が、一斉にユーノへと向けられる。

(ユーノ・・・・・・さん?)

(さくら、これは精神感応系の術や! あの兄ちゃんが魔力を通じてわいらの頭に直接言葉を送っとるんや!)

(ご名答です。僕達は思念通話と呼んでいます。そういうあなたは、稀代の大魔術師クロウ・リードが作りし封印の獣――ケルベロスさんですね?)

 ユーノが落ち着いた口調でケルベロスの正体を指摘した瞬間、さくらとケルベロスは驚愕とほんの少しの恐怖を宿した表情を浮かべる。

(ど、どうしてケロちゃんのこと・・・・・・?)

(兄ちゃん・・・・・・どこの回しもんや? 兄ちゃんだけやない、兄ちゃんが連れてきたそこのごっつい男も、スケベ眼鏡も、わいらが知っとるのとはちゃうがたしかに強い魔力を持っとる。おまけにわいのことを知っとるっちゅうことは、少なくとも一般人やない。魔術結社か、それとも・・・・・・)

 ケルベロスは鋭い目つきでユーノを警戒する。その視線には、主であるさくらを護るための決死の覚悟が浮かび上がっていた。

(やめろ、ケルベロス。この男は敵じゃない)

 刹那、静かだが毅然とした声がケルベロスの念話を遮る。声の主は小狼(シャオラン)だった。

 小狼(シャオラン)は彼らの念話に割り込むと、ケルベロスの誤解を解くと共に対話を図ろうと、双方の間を取り持った。

小狼(シャオラン)君は・・・・・・知ってたの? ユーノさんが魔法使いだってこと?)

(おれも今さっき気付いたところさ。魔力の波長がおれたちとは違うから、すぐにはわからなかった・・・・・・ただ、さくらの強い魔力の波動を感じ取れる人間はそうはいない。それでピンときたんだよ)

(なるほど、流石は李家当主ですね。鋭い洞察力に感服いたします)

 ケルベロスのつぶらな瞳が鋭さを失わず、ユーノに向けられる。

(せやけどわからへんな。なんでこの緑の兄ちゃんは、わいの正体を知っとったんや? やっぱり魔術結社の回し者ちゃうんか?)

(ご安心ください、ケルベロスさん。僕はどこぞの魔術結社とは全く縁のないただの駄菓子屋です)

 ユーノは穏やかに微笑む。だが、その笑顔の裏には鋭い知性が宿っている。

(実は、以前イギリスに滞在した際に、あなたの生みの親であるクロウ・リード・・・・・・その転生者である方に手厚く保護していただいたことがあるんです)

(エリオル君‥‥‥! エリオル君とお知り合いなんですか、ユーノさん!?)

 さくらの念話越しの驚きと共に、その場の空気が一瞬和らぐ。さくらと小狼(シャオラン)、ケルベロスにとってクロウ・リードと呼ばれる魔術師のことは元より、その生まれ変わりである転生者・柊沢エリオルは、今でも交友のある数少ない魔法関係者であった。

 小狼(シャオラン)もケルベロスも、ユーノの言葉が嘘ではないことを感じ取っていた。

(僕としても、誠実な形であなた方と信頼関係を築いていきたいと思っています)

 ユーノが静かに告げると、緊張感の漂う空間に微かな波紋を広げた。その柔らかな口調には、不思議と相手の警戒を和らげる力があった。

 さくらはユーノの眼差しの中に確かな誠意を見出し、小狼(シャオラン)とケルベロスもまた、徐々に表情を綻ばせていく。

(とりあえず、食事をしながら続きを話しましょうか?)

 

 こうして、食事を交えながらユーノ達はお互いの正体を明かし始めた。

 隠すつもりもなかったユーノの素直さは、小狼(シャオラン)達に予想外の印象を与えたらしく、彼らは驚きながらもその誠実さを受け入れていく。

 一方、さくらと小狼(シャオラン)が強大な魔力を持つ現役の魔術師であること、さらにはぬいぐるみのような姿をした関西弁で話す魔力持ちのケルベロスの存在を目の当たりにした金太郎ら三人は、しばし言葉を失っていた。

 藤隆は彼らの事情をある程度理解していたようで、あまり驚いた様子はなく、静かに彼らのやり取りを見守っている。

 やがて、最初の緊張が解けると、彼らの会話は次第に軽やかなものとなり、笑い声が部屋に響き始めた。

「いやー! なんや、わいの早とちりがバカみたいなやなー。兄ちゃんもほんま人が悪いでー」

「ユーノさんは何も悪くないでしょ? だいたい元はと言えば、ケロちゃんが食い意地張って部屋から出てくるから話がややこしくなったんじゃない」

「これを機に、少しはその食い意地を直したらどうなんだ?」

 さくらと小狼(シャオラン)がケルベロスの食い意地の悪さについて指摘すると、ケルベロスはすかさず反論した。

「それは聞き捨てならへんな! わいのは食い意地とちゃう! いつでも食べることに真剣なだけや!!」

「あんな、世間じゃそれを食い意地が張ってるって言うんだよ」

 ケルベロスの必死の主張に、鬼太郎が呆れたようにツッコむ。続けざまに、ケルベロスが食べようとしていたクッキーを根こそぎ奪い、自分の口へと運んだ。

「あああああ!!! わいのお菓子ィィィ――!! 何しとるんじゃこの赤鬼ィィ!!」

「誰が赤鬼だ!! テメーこそ俺が食いたかった(ちまき)、ぜんぶ食ったじゃねーか!!」

「この世は弱肉強食や! 食い意地が張っとるのはおどれも一緒やないか! ということで・・・・・・隙ありやッ!」

「させるかこのっ!!」

 ケルベロスが鬼太郎から菓子を奪おうと手を伸ばすも、鬼太郎も必死で防御する。一触即発の取っ組み合いへと発展した様子に、浦太郎が慌てて仲裁に入る。

「ちょ、先輩! ケロちゃんもよしなよみっともない!」

 一方で、藤隆は二人の騒ぎを目にしながらも微笑を浮かべる。

「お二人ともたのしそうで何よりです」

 その発言に金太郎が即座に返す。

「あれを楽しんでいるように思えるのは藤隆殿、あなただけですぞ」

 小狼(シャオラン)は大きく溜息を吐きながら、申し訳なさそうにユーノに向き直る。

「すまないユーノ、ケルベロスが騒がしくしてしまって」

「僕こそ鬼太郎がたびたびすみません。賑やかなのは嫌いではないんですけど・・・」

 そんなやり取りの最中、ホールクロックが低く響き渡る音を放つ。夜の二十時を告げる音だった。

「もうこんな時間か。すっかりご馳走になりましたが、そろそろ僕たちはお暇させていただきます」

 食事と談笑に満ちた時間は瞬く間に過ぎ去った。身支度を整え、帰路に着こうとするユーノを見て、浦太郎が慌てて声を上げる。

「えーっ。もうちょっと居ようよ。せめてこの香港式ミルクティーを飲み終えるまでさ!」

「ただでさえ迷惑をかけているんだ。図々しいにもほどがあるよ」

 ユーノがきっぱりと窘める声が響くと、一瞬場が静まり返る。窓の外では木々が風に揺れ、カーテンが静かに揺れる音だけが部屋を満たしていた。

 さくらはふと目を伏せ、何かを考える素振りを見せた。静かに息を吸い込むと、意を決したように顔を上げる。

「あ、あの! もし良かったらなんですけど・・・・・・今晩、うちに泊まっていきませんか?」

「え!?」

 予想もしなかった提案に、ユーノの思考が一瞬止まる。さくらの言葉はあまりに唐突で、冗談なのか本気なのかすら判断がつかなかった。

(泊まる・・・・・・? こんな大所帯で・・・・・・)

 頭の中でいくつもの可能性が巡る中、さくらの真剣な表情が視界に入る。その表情が、この提案が冗談ではなく、彼女の本心であることを物語っていた。それに気づいた瞬間、ユーノの心の中には小さな温かさが芽生えた。

「さくらさん・・・いいんですか!? 僕はともかく、面子は御覧の通り筋肉隆々のマッチョ男に変態もっこり男、おまけに元ヤンで食い意地の張った馬鹿ですが・・・・・・本当に、後悔しませんか?」

「店長、さりげなく僕たちのことディスりまくって自分の評価だけ高く見積もってない?」

 浦太郎と金太郎は、ユーノの皮肉めいた言葉に抗議の目を向けたが、その表情はどこか呆れと諦めが入り混じっている。

「お部屋はたくさん用意してあります。お父さんも今夜こっちに泊まる予定だったので」

「それに、この時間だと宿泊先のホテルまで戻るのは大変だしね」

 さくらと藤隆の柔らかな微笑みが場の空気を和らげる。その様子を見ていた小狼(シャオラン)もまた、ユーノに真剣な眼差しを向けて言葉を紡ぐ。

「ユーノ・・・おれはもっとお前と話がしたい。考古学のこともそうだが、お前の知ってる魔法についても。お前とはきっと親友になれる気がする」

 その純粋な願いは、子供のように真っ直ぐで無垢だった。ユーノは小狼(シャオラン)の言葉を受け止めると、自然と心が温かさで満たされていくのを感じた。

「・・・・・・ありがとうございます、小狼(シャオラン)さん。スクライア商店一同、一宿一飯の恩義に応えさせていただきます」

 香港の地で出来た友の厚意を無下にしたくない――その思いから、ユーノは小狼(シャオラン)達の申し出を受け入れる決意をした。

「このヤロウ!! 俺のいちご返せー!!」

「食べたものは返されへん!!」

 突然、再び喧嘩が勃発した。ケルベロスと鬼太郎が食べ物を巡って激しく言い争いを始める。その様子に周囲は呆れ顔を浮かべたが、ついに金太郎が業を煮やして声を張り上げる。

「喧嘩はいけませんぞ、仲良くして下され」

 その一言には、圧倒的な威圧感が込められていた。

「「うう・・・・・・はい・・・・・・」」

 たじろいだ二人は、金太郎の視線の下でしおらしく頭を垂れる。それ以来、二人が食べ物を巡って喧嘩をすることはなかった。

 

           *

 

 ゆめ。

 また同じ夢を見ている。

 ユーノは、ホテルで見たあの夢の空間へ再び引き寄せられていた。

「・・・・・・同じ夢、どうして・・・・・・」

 低く漏れた呟きには、困惑と微かな苛立ちが滲む。夢という無秩序の領域において、二度も同じ情景を繰り返すことがいかに異常か。いや――これは偶然ではない。この夢には何かしらの意図が宿っている。それだけは確かだった。

 廃墟と化した建物の中、剥がれ落ちた天井のコンクリート片が無惨に散らばり、苔むした壁が湿った闇を纏う。そこに満ちるのは、ただ静寂と冷気だけ。薄暗い光が天井の隙間から微かに差し込むものの、その光は無力にも空間を穿(うが)つことはなく、ユーノの足元にさえ届かない。

「おーい、誰か!」

 自身の心を震え立たせるように声を張り上げる。しかし、その叫びは音の亡霊と化し、ただコンクリートの冷たい壁を打ち、やがて空虚へと吸い込まれていく。

 反響だけが虚しく耳に残る。再び戻った静寂が、あたかも彼自身の存在を嘲笑うかのようだ。

「・・・・・・イヤな夢だ」

 吐き捨てるように呟いたその言葉は、無限に続く廃墟の空間に紛れ、どこへともなく消え去った。

 ユーノは足を止め、ふと目を伏せる。それから顔を上げると、天井越しに覗く薄闇を見据えた。そこには空など存在せず、ただコンクリートの隙間から光が糸のように垂れるのみ。

 

――オオイナルチカラ――

――チカラヲ、求メテ――

 

 刹那、突如として響く声。

 音ではない――言葉の形をした何かが、空間そのものから放たれる。身体を震わせる波動が押し寄せ、その不協和音のような響きが、ユーノの感覚を苛む。

 

――ウマシカテ――

――カテヲワガモトニ――

 

「!?」

 ユーノは背筋を伸ばし、周囲を見渡した。

 次の瞬間、足元に纏わりつく奇怪な感触――それは水でも影でもなく、名状し難い触感を持つ物質だった。それが粘性を伴いながら、彼の四肢をゆっくりと包み込んでいく。

「くっ・・・・・・。出てこい卑怯者、姿を現せ!!」

 怒りを込めて放たれたその言葉も、空虚な反響を繰り返すばかり。この空間において、ユーノはそれらに比べて、圧倒的に不利だった。魔力すら封じられたかのような無力感が彼を苛む。

 見えない触手は、彼を水底へと沈めるように力強く引き込んでいく。ユーノは必死に抗おうとするが、その力は彼の四肢を弄ぶように絡みつき、彼の身体は深い闇の中へと投げ込まれた。

 バシャンと、水面が激しく揺れ、跳ね上がった雫が冷たく彼の肌を打つ。

 次の瞬間、ユーノの視界は暗闇に飲まれ、冷たい衝撃だけが全身を駆け巡った――。

 

 

「ハッ!!?」

 夢から覚めたユーノは、ベッドから飛び起きた。その動作には、ただ事ではない焦燥が宿っている。反射的に自らの両手を見下ろし、自由に動かせることを確認すると、ようやく安堵の吐息を漏らした。

 鼓動はなおも激しく胸を叩き続けている。昨夜の宴の余韻など微塵も残らないほどに――。小狼(シャオラン)達の厚意で一夜を明かすこととなった李邸の静謐な客間。その柔らかなベッドは確かに安らぎを与えるべきものだったはず。しかし、現実はそうではなかった。

 ユーノはこめかみを抑え、額に浮かぶ汗を指先で拭う。だが、視界の端で捉えた右腕に微かな違和感が走る。おもむろに袖をめくると、そこには見覚えのない痣が浮かび上がっていた。黒紫に染まるその痕跡は、まるで何者かに力強く掴まれたかのようだ。

「・・・・・・これも夢のせい、なのか」

 誰に向けるでもなく呟いたその声は、空気の中に吸い込まれるように消えていく。ユーノの眉間に刻まれた皺が、その違和感への不安を物語っていた。

 窓を開け放つと、冷ややかな風が部屋の中に流れ込む。東の空にまだ夜の名残が漂う中、ユーノはぼんやりと外を眺める。月明かりは微かに庭園を照らし、しかしその光はどこか薄靄(うすもや)に覆われていた。

「四時過ぎ、くらいかな・・・・・・」

 声に出すことで時間の感覚を取り戻そうとする。だが、心の内にこびりついた夢の記憶は払拭されることなく、むしろ一層鮮烈な輪郭を持ち始める。

 ――予知夢。

 その言葉が、ふと頭をよぎった。ユーノはこれまで幾度となく、この不可解な現象に付き合わされてきた。夢の中で見た光景が、何の前触れもなく現実となる。それは紛れもなく、過去の数年間彼を翻弄し続けた運命の一端であった。

 深く息を吐き、ドアを静かに開く。眠りに戻れる気がしないまま、ユーノは寝間着姿のまま廊下へと足を踏み出した。

 廊下には夜の静寂が支配していた。微かに響く時計の針の音が、遠くから漏れ聞こえる。どこまでも続くようなその長い通路の中で、ユーノは自らの感覚を頼りに進むことしかできなかった。

「もしかして、香港に来たのは誰かが僕を呼んだからなのか・・・・・・」

 呟きはまるで空間そのものに問いかけるようだった。廊下の先から聞こえる針の音は、彼を誘うかの如く時折その音量を変える。

 右へ曲がり、さらに奥へと進んだ先――。不意に、目の前が光に包まれる。

「ここは・・・・・・?」

 眩しさに目を細めながら、ユーノはその先に広がる光景を見据えた。透明なガラスに囲まれたベランダのような空間が広がっている。天井から床まで全てが透き通り、足元に咲く花々、そしてその向こうに輝く満月までもが視界に収まる。

 その景色は現実離れした美しさを誇り、ユーノの胸に言葉にならない感動を呼び起こした。

 

「此処は良い景色でしょう――・・・・・・」

 

 柔らかな声が突然に響いた。

 思考を遮られたユーノは驚き、無意識に二、三歩後ずさる。彼の鍛え抜かれた霊圧知覚すらもすり抜けて現れる存在に、内心の警戒が膨らむ。

 夢の中で自分を拘束した忌まわしい触手の姿はない。代わりに、そこに立っていたのは、歩くたび鈴の音が鳴りそうなほど麗しい風貌を持つ女性だった。

「あなたは・・・・・・?」

 ユーノの問いに応えるその声は低く穏やかでありながら、静謐な力強さを孕んでいた。

()夜蘭(イェラン)

 その名を名乗った女性――夜蘭(イェラン)は、小狼(シャオラン)の母であり、先代の李家当主。その瞳には、静かなる湖面の如き深遠な光が宿っていた。

 彼女は一歩、また一歩とユーノに近づき、冷たくしなやかな指先でそっと彼の頬に触れる。その指先が、まるで火照った体温を吸い取るかのように冷却の感覚をもたらす。

「・・・・・・・・・っ!」

 刹那、夜蘭(イェラン)はユーノの内に秘められた何かを感じ取り、その場で硬直した。静かに触れていた指先が微かに震え、彼女の表情には一瞬だけ恐れの色が走る。そして、まるで畏怖するかのように一歩後退した。

 その動きにユーノは驚き、逆に自らの足を止める。目の前の女性――()夜蘭(イェラン)は、外見の静謐さとは裏腹に、魂の奥底に眠る異質で強大な力を直感的に悟ったのだ。

 夜蘭(イェラン)は震える右手を一瞥し、短く息を吐く。その仕草には、得体の知れない力の前に圧倒された驚きと、それを隠しきれない動揺が微かに滲んでいた。

「あなたの内に眠るその力――想像を絶するものです」

 夜蘭(イェラン)の声は低く静かに響いたが、その一言がユーノの心を深く抉る。彼女の瞳は、ただ見つめているだけでなく、さながらユーノの魂の奥底を覗き込んでいるかのようだった。その視線に耐えきれず、ユーノは少しだけ目を逸らした。

「名前は?」

「ユーノ・スクライアです・・・・・・」

 彼の声は微かに震えていた。夜蘭(イェラン)の持つ圧倒的な存在感と、それに裏打ちされた異質な妖艶さに魅了され、ユーノは言葉をうまく紡げない。それを察した夜蘭(イェラン)は、薄い微笑を浮かべながら、彼にもう一歩近づく。

「あなた、悩みごとがあるのですね?」

 その問いかけに、ユーノの心に小さな波紋が広がる。彼女の言葉には、ただの好奇心ではない、確かな洞察力が宿っていた。

「えっと・・・・・・その・・・・・・夢を、見ました」

 ユーノの声は次第に小さくなり、曖昧な記憶を探るように言葉を継いだ。彼の右腕には、夢の中で触手に絡まれた痕跡――奇妙な痣がまだくっきりと残っていた。夜蘭(イェラン)はその腕にそっと手を添え、指先で痣を撫でる。その瞬間、ユーノは不思議な感覚に包まれる。

「・・・・・・!」

 夜蘭(イェラン)が手を離すと、そこにはもう痣はなく、肌は元通りになっていた。目を見開くユーノに向けて、夜蘭(イェラン)は静かに語りかける。

「あなたが持つその力の正体が何なのか、私には到底理解し難いです。ただ・・・・・・強い力は困難を引き寄せるきっかけとなることがあります。特に、この香港では」

「はい・・・」

 彼女の言葉には重みがあった。ユーノは、再び右腕を見つめながら、胸に込み上げる不安を飲み込む。

「戦いなさい――それが、貴方の宿命です」

 ユーノは返答に詰まった。夢で見たあの恐ろしい存在――触手に囚われた感覚、全てが現実の脅威として迫ってくるのだろう。それを想像するだけで、胸が締めつけられる。

だが、ユーノは既に覚悟していた。魔導死神として目覚めたあの日から、彼の運命は既に決まっていたのだ。

 ――もう二度と、あんな無力な思いはしたくない。

 彼の胸に刻まれた後悔。守るべきものを守れなかった苦しみ。それが、彼を突き動かす原動力となっていた。夜蘭(イェラン)との出会いが現実なのか夢なのかは分からない。それでも彼女の言葉は、間違いなく現実の重さを帯びていた。

 ユーノは、内なる恐怖と向き合いながら、それを覚悟に変えていく。そして、真剣な表情を浮かべて深く頷いた。

「――――・・・・・・はい」

 ユーノの答えに、夜蘭(イェラン)は満足したように微笑み、彼を見送るように言葉を紡ぐ。

「朝が来ます。この道を真っ直ぐ行きなさい。彼らの元に戻ることができますよ」

 ユーノは頷き、夜蘭(イェラン)の言葉通りに歩き始めた。ふと振り返ると、夜蘭(イェラン)は深くお辞儀をして彼を見送っている。その姿はどこか神聖で、廊下の終わりまで進んでも、彼女は決して頭を上げることはなかった。

 

           ◇

 

7月12日――

李家邸宅 ダイニングルーム

 

 翌朝、夜蘭(イェラン)の導きに従い、元の部屋へと戻ることができたユーノ。しばらくして、ダイニングルームに向かうと、既に小狼(シャオラン)とさくらが待っていた。

「おはよう、ユーノ」

「おはようございます、ユーノさん」

「おはようございます・・・・・・」

 小狼(シャオラン)は新聞を広げながら、さくらはテーブルの上に朝食を並べながら、それぞれ挨拶を交わす。だが、ユーノの返事はどこか重く、浮かない表情が露わだった。

 その異変に気づいた二人は、心配そうな眼差しを向ける。

「どうした? 昨夜は寝付けなかったか?」

「何か悪い夢でも見ました?」

 二人の優しさに触れ、ユーノは少しだけ肩の力を抜く。そして、しばし沈黙した後に、思い切ったように口を開いた。

「実は・・・・・・」

 ユーノは、昨夜の夢の出来事をありのままに話し始めた。得体の知れない触手に囚われた感覚、夢でありながら腕に残った痕跡――。話し終えた時、彼の中には小さな不安が再び膨らんでいた。

 話を聞き終えた小狼(シャオラン)とさくらは、互いに目配せをした後、真剣な表情で口を開いた。

「ユーノが見た夢だが、おれもさくらも何日か前から同じものを見ててな」

「そうだったんですか・・・・・・」

 思いもよらない事実に、ユーノの眉間の皺が深くなる。

「ただ、正直なところ、わたしたちもそれが何なのか、はっきりとはわからないんです」

「少なくとも、魔術かそれに近いものに関係していることだけは確かだ」

 小狼(シャオラン)とさくらの声は沈み、室内に静寂が訪れる。強い魔力を持つ二人ですら正体を掴めない存在――それが、この地で蠢いているという事実に、ユーノの胸中は一層重くなった。

「できればあの夢が・・・・・・現実に起きないことが一番なんですけどね」

 ユーノの声は小さく震えていた。彼の切実な願いが言葉となり、空間に染み渡る。

 さくらは作業の手を止め、ユーノの顔を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、どこか不安ながらも決意の色が宿っている。

「ユーノさん、大丈夫です。もし何かあっても、わたしたちが力になります!」

「そうだな。おれたちも同じ夢を見ている以上、これはきっと何かの予兆だ。だからこそ、早めに手を打たないといけない」

 小狼(シャオラン)の言葉には、冷静な判断力と揺るぎない意志が感じられた。

 ユーノは二人の真摯な態度に救われるような気持ちになり、静かに頷いた。

「ありがとうございます‥‥‥心強いです」

 

 その後、藤隆と商店メンバー、ケルベロスが次々と集まり、朝のダイニングルームは賑やかな声で満たされていた。李家の四姉妹は既に仕事の都合で外出しており、テーブルには中華風のお粥が湯気を立てて並んでいる。

 ユーノは茶器を軽く傾けながら、今朝方の出来事――夜蘭(イェラン)との邂逅について包み隠さず話した。

「え・・・母上と!?」

 小狼(シャオラン)は驚きに目を見開き、箸を置いた。その反応にユーノは軽く頷き、苗字と雰囲気から彼女が小狼(シャオラン)の母であると見抜いていたことを淡々と述べた。

「やはりお母様でしたか。随分お若く見えましたけど?」

「でもお義母さん、どうしてユーノさんと?」

 さくらが首をかしげるのを横目に、ケルベロスが関西弁の調子で口を挟む。

「あの母ちゃんは、なに考えてるかわからへんことが多いからな・・・・・・未だにわいもあの雰囲気には慣れへん」

 夜蘭(イェラン)がユーノに接触した理由を巡り、軽い困惑が広がる。だが、その謎めいた存在感に慣れないのはさくらやケルベロスだけではなかった。

 ユーノは茶器を置き、静かに問いかけた。

「あの・・・小狼(シャオラン)さんのお母様は、どのようなお人柄なんですか?」

 すると、小狼(シャオラン)は一瞬目を伏せ、少し考え込むようにして口を開いた。

「厳しい人だ。父上が早くに亡くなって、以来女手一つでおれや姉上達を育ててきた。おれは長男だから、特に厳しく育てられたよ」

「わたしやお父さん、ケロちゃんにはとっても優しくしてくれるんですけど」

 さくらは柔らかな微笑みを浮かべる。小学生の時に一度会っており、結婚後は特に蟠りも無く、優しい気遣いを受けているのだという。

「ぼくもこっちのお母さんとは数回しかお会いしたことがないんだけど、何というかすごいオーラを放ってる感じがするね」

 藤隆もまた、素人ながらも夜蘭(イェラン)が放つ圧倒的な存在感を感じ取っていた。

 だが、その話題を遮るように鬼太郎が口を開いた。

「ところでよ・・・・・・その母ちゃんって、今いくつなんだ?」

 禁断の質問が放たれた瞬間、小狼(シャオラン)とさくら、ケルベロスは一斉に反応し、肩を竦める。

「ちょっと先輩、女性の年齢を聞くなんてデリカシーの欠片も無いわけ? あと、朝からがっつきすぎ」

「いちいちるっせーんだよ! そういう亀公だってほんとは気になってるくせによ」

 浦太郎が窘めるが、鬼太郎はお構いなしだ。

「姉ちゃん達や小狼(シャオラン)の歳を考えると、どんだけ低く見積もっても俺のばあちゃんと同じくらいになると思うんだが・・・・・・」

 こう言うことに関してはやけに勘が鋭かった。鬼太郎の推測に小狼(シャオラン)は渋い顔をし、短く答えた。

「年齢は・・・・・・考えないようにしてる」

 その場の全員が言葉を失う中、さくらとケルベロスが「それが正解や」と深く頷く。

 やがて会話が一段落すると、金太郎がふとユーノに話を振った。

「店長、今日は最終日ですが・・・・・・どちらへ参りましょうか?」

「え! ということは・・・・・・ユーノさん達、明日帰っちゃうんですか!?」

 聞いた瞬間、さくらが驚きの声を上げる。

「そうなんですよ。三泊四日の短い旅行なものでして」

 申し訳なさそうに説明するユーノに、浦太郎が深い溜息を吐いた。

「はぁ・・・・・・三日じゃ香港を味わい尽くすなんてできるわけないもんね~。やはり夜の香港、その魅力を堪能してこそ世界もっこりマイスターである僕がここに来た意味を見出せるというものだよ!! 一発も勝負しないでおめおめ帰国なんて、男が廃るってものだぁぁ!!」

 テンションが一気に高まる浦太郎に、周囲は若干引き気味だ。すると藤隆が茶器を片付けながら、ユーノに提案した。

「せっかくですしユーノ君、最終日はさくらさんと小狼(シャオラン)君に香港を案内してもらってはいかがですか? ぼくはこのあと外せない用事があるので、残念ながら一緒には行けないのですが」

 藤隆の提案に応える形で、ダイニングルームに明るい空気が広がった。

「おおー!! さすがはお父はん、グッドアイディアやな!!」

 その場の和やかさを際立たせるように、ケルベロスが高らかな声で称賛を送る。

 一方で、ユーノは思案深げな表情で茶器を傾け、提案に対する答えを慎重に選んでいた。

「お気持ちは嬉しいんですが、こんな豪勢な家に泊まらせて頂いた上に観光案内まで頼むのはさすがに・・・・・・」

 彼の口調には感謝と恐縮が滲んでいたが、さくらと小狼(シャオラン)はそれを一笑に付すかのように、快く応じた。

「いいえ。せっかくの旅行なんですし、わたしたちでよければ地元の人しか知らないおすすめのスポット、たくさん紹介しますね!」

「それにおれも今日と明日は休暇だったしな」

 その流れを受け、ケルベロスが得意げに笑みを浮かべ、二人をからかうように声を上げる。

「ま。若い夫婦が日がな一日家の中でいちゃこらするよりは、デートの口実こさえて外に出る方がよっぽど健全っちゅーもんや」

「け、ケロちゃん!!」

「おまえな、人前でからかうな!!」

 さくらと小狼(シャオラン)が同時に反応し、顔を赤らめながら抗議する様子に、場は一層温かい笑いで包まれた。

 ユーノは彼らのやり取りを目の当たりにしながら、自らの胸中を整理し、やがて静かに口を開いた。

「――――わかりました。では、昨日に引き続き、小狼(シャオラン)さん。さくらさん。お二人のご厚意に甘えさせて頂きます」

 直後、歓声を上げたのは鬼太郎だった。

「やっほーい! さくらちゃんと一緒に香港観光とは、こいつはツイてるぜ!!」

「できればそこに先輩が入っていなければもっとツイてるんだけど」

「んだとー!」

 鬼太郎と浦太郎のいつもの小競り合いが始まるが、藤隆が間に入り、柔らかな笑みを浮かべて仲裁した。

「まぁまぁお二人とも喧嘩はダメですよ」

 藤隆の穏やかな声が、再び場を静けさに戻す。

「では、朝ごはんを食べたらみんなで出発しましょう!」

 さくらの言葉に皆が頷き、その表情には期待と笑顔が満ちていた。彼女の笑顔は満開の桜の如く、どこか眩しく、周囲に華やぎをもたらしていた。

 

           *

 

九龍半島 旺角エリア 通菜街(つうさいがい)北部

 

 最終日のこの日、ユーノ達は小狼(シャオラン)とさくらの案内で、初日に訪れた九龍の露天商街へと足を運んだ。

 熱気と喧噪に満ちたこの地区は、昼間にはまた異なる趣を醸し出している。

「へー。この前は夜に来たけど、昼間だとまた雰囲気が違うんですね」

「ああ。女人街(ノイヤンガイ)は主に観光客が訪れる場所なんだが、今から行くのは金魚街という場所だ」

「金魚街?」

 珍妙な名を耳にした浦太郎が、おもむろに尋ねる。

「はい、名前の通り金魚がいっぱいの場所なんですよ!」

 小狼(シャオラン)とさくらの説明を受けながら、早速金魚街へと向かう。ユーノはその名に聞き覚えはあったものの、どのような光景が広がっているのか、期待と疑問の入り混じった表情を浮かべていた。

 やがて到着した先には、小さな商店が軒を連ね、軒下には透明な袋に吊るされた無数の金魚の群れが揺れていた。

「うおぉ――!! すげぇぇや、あっちもこっちも金魚ばっか!!」

 鬼太郎の歓声が通りに響き渡る。

「これは、見事ですね。本当に美しいです」

 ユーノはその光景に目を奪われた。金魚達の鮮やかな色彩は、まるで宝石が輝いているかのようだ。袋の中で泳ぐ魚達の柔らかな動きが、通り全体に涼やかな雰囲気をもたらしている。

 赤、黄、緑、青──多種多様な熱帯魚や金魚が泳ぐ光景は圧巻で、背後に灯るブルーライトがそれらの色彩を一層引き立てていた。

「見ろよ、この出目金! まるで熊みたいだ!」

「あ、ほんとだ♪ 目なんかそっくり」

「私の方がもっとつぶらな瞳をしている」

「厳つい顔の癖してなんちゅーギャップや」

 鬼太郎が金太郎を出目金に例えると、浦太郎がすかさず同調し、金太郎は自分の方がつぶらな瞳だと反論する。そのやり取りを見守るケルベロスがさくらのトートバッグから顔を覗かせながら、低い声で毒づく。

「こらケロちゃん、ダメでしょそんなこと言っちゃ! というか人前なんだから少しは大人しくして!」

 さくらが慌ててケルベロスを叱る一方、周囲に人目がないかと慎重に確認する。

 ユーノと小狼(シャオラン)はそんな賑やかな様子を少し離れた場所から眺めていた。

「従業員達もすっかりさくらさんやケルベロスさんと打ち解けてますよ。すごく楽しそうです。無論、僕も楽しませてもらっています」

「気に入ってもらえて良かった。この先にはフラワーマーケットもあるし、もう少し行くとだな・・・・・・」

 小狼(シャオラン)が次の予定を口にしようとした瞬間、その言葉をさくらの人差し指が優しく制した。

小狼(シャオラン)君、そこは着いてからのお楽しみにしとこう?」

 不意をつかれた小狼(シャオラン)が一瞬驚いた顔を見せるも、さくらのいたずらっぽい笑顔に釣られ、すぐに柔らかな笑みを浮かべて頷く。

「ああ、そうだな」

 そのやり取りに、ユーノは自然と微笑みを浮かべた。二人の息の合った様子は、見ているだけで心が温まる。喩えるなら、春の陽だまりの中にいるような感覚だ。

 心の底から「お似合いの夫婦だ」と思うその瞬間、ユーノの表情は優しい笑みへと変わっていた。

 

           *

 

九龍半島 旺角エリア 花墟道

 

 花墟道――フラワーマーケットロードと呼ばれるこの場所は、長さ三百メートルほどの小道に香港特有の風情を漂わせている。道沿いには商店が咲き誇る花々で埋め尽くされており、見る者を魅了する景色が広がっている。

 胡蝶蘭、百合、チューリップ、パンジーといった花々が所狭しと敷き詰められ、さらに苗木や球根が足元から天井まで積み上げられている光景は圧巻だった。

 中でもユーノ達を驚かせたのは、日本では高嶺の花ともいえる胡蝶蘭が、信じられないほど破格の値段で売られていることだった。一本数十円という値段に、さすがのユーノも思わず息を呑む。

「信じられない・・・・・・胡蝶蘭が見たことも無い値段で売られている!」

「わたしもここに来たときはびっくりしました」と、日本人であるさくらが相槌を打つかたわら、当時の驚愕を思い出す。

「日本で普通に買えば一万円以上するというのに、ここは花好きの楽園ですね」

 ユーノが驚嘆の声を漏らしながら店先を眺めていると、突然鬼太郎が声を張り上げた。

「店長!! これヤバいっすよ!!」

 大声で呼ばれたユーノが振り返ると、鬼太郎が手にしていたのは中国語で「食用」と書かれた花だった。

「見てください! 字がわかんないからアプリで調べたら・・・・・・食べられるって書いてるんっすよ!!」

 鬼太郎の興奮に、小狼(シャオラン)が冷静に解説する。

「それはエディブル・フラワーと言うんだ。食用花とも言って、ブロッコリーやカリフラワーと同じ役割で料理に出されるんだ」

「ちなみに、昨日の料理にもこれがあったんですよ」

 さくらが笑みを浮かべながら補足すると、鬼太郎は驚きながら大声で笑った。

「ま、マジかよ・・・・・・ぜんぜん気付かないで食っちまったぜ!! なーはははははは!!!」

「やれやれ。どこまでも極楽蜻蛉な思考してるよね、先輩は」

 そのやり取りを見て、浦太郎は呆れつつも笑いながら肩を竦めた。

「・・・・・・・・・」

 一見すると、この場面は平穏そのものだ。しかしユーノの胸中には、微かな不安が渦巻いていた。

 目の前の華やかな風景がまるで現実感を失い、どこか儚げに見える。それは夜蘭(イェラン)の言葉――戦いという宿命の予感――が、心の奥底に刻まれているからだ。

(なにも起こったりなんかしない・・・・・・きっと、大丈夫だ)

 ユーノは空を仰いだ。青々と広がる空の下で、世界はあまりにも平和に見える。それでも彼は、ささやかな願いを抱いていた――せめて、この束の間の平穏だけは壊れないようにと。

 やがてユーノは、小狼(シャオラン)とさくらの楽しそうな姿を見つめながら、自然と微笑みを浮かべた。このひとときを胸に刻みながら、彼は静かに足を進めた。

 

           *

 

九龍半島 旺角エリア 園圃街雀鳥花園

 

「ここが、バードガーデンだ」

 小狼(シャオラン)達の案内でユーノ達が次に訪れたのは、かつて「バードストリート」と呼ばれた公園――園圃街雀鳥花園だった。

「おお・・・・・・なんと素晴らしいのだ!」

 足を踏み入れると、澄んだ(さえず)りがあたり一帯を包み込み、軽やかな旋律が耳を(くすぐ)った。生き生きとした小鳥たちの声は、まるで空気そのものが歌っているかのようだ。金太郎はその美しい光景に心奪われ、無骨な体躯を忘れて目を細めていた。

「あの筋肉ゴリラ、顔に似合わずかわいいところあるんやなー」

「けどあれじゃ鳥だってかえって怖いんじゃねーか?」

 ケルベロスと鬼太郎が皮肉交じりに小声で囁き合うも、金太郎は全く気付く様子もなく、鳥たちを愛でるその姿に没頭していた。

 鳥たちは木製の籠の中で翼を広げ、跳びはね、羽毛を整える。どれもが独自の美しさを持ち、籠の一つ一つが命の展示室のようだった。

「はは、これはすごいなー」

 浦太郎は指に一羽の小鳥を載せ、柔らかな羽をそっと撫でながら微笑む。

「いやー。心が洗われるとは、まさにこのことですね」

「むかしは、もっと商店に小鳥が溢れていたんだが、開発が進んで無くなってしまってな。今は名残程度だが、この公園で小ぢんまりと行われているんだ」

 小狼(シャオラン)が静かに語る声には、一抹の寂しさが混じっていた。

「わたしが小学生のころ、旅行で香港に来たときは、今よりもっと広くて大きかったんですよー!」

 さくらが懐かしそうに呟くと、ユーノはこの地に彼女の記憶が刻まれていることを感じ取った。

「これも時代の流れなんですかねー。でも・・・・・・たとえどれだけ時代が移ろいでも、変わらないものはあります。形は変わっても、その本質は今なおしっかりと受け継がれています」

 ユーノの言葉に、小狼(シャオラン)は深く頷いた。

「街の姿は変わっても、そこに息づく思いは残る。それは、誰にも壊せないものだ」

 鳥たちの囀りは、この土地の記憶そのものが奏でる音楽を彷彿とさせる。ユーノは一瞬一瞬を刻み込むように深く息を吸い込み、周囲の光景を目に焼き付けた。

 街の変容に飲み込まれそうになっても、彼はこの場で感じた静けさと美しさが、心の奥底で支えになると信じていた。

 

 

 

 

 

 

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