ユーノ・スクライア外伝 PARALLEL STORY   作:重要大事

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第51話前伝「魔都に誘われて 3」

新歴078年 7月12日

第97管理外世界「地球」

香港島 九龍市内 旺角エリア

 

「いやー。すっかり堪能してしまいましたー」

 金魚街、フラワーマーケット、バードガーデン――心安らぐ時間を過ごしたことで、ユーノは歩みが自然と軽やかになるのを感じていた。久方ぶりの休日に、彼の心はどこか柔らかな充足感で満たされていた。

「香港とひと口に言っても、我々の知らないことがたくさんありましたな」

「これでもまだまだ序の口なんですよ。時間があれば、もっとたくさんいいところを紹介したいんですけど」

 そう言うさくらの笑顔に、小狼(シャオラン)が「仕方がないさ。おれも気持ちはさくらと一緒だよ」と、軽く肩を竦めた。

「ま‥‥‥仮に時間があっても、おれはおれで、大学院の勉強が忙しいしからな」

「? なんだよ小狼(シャオラン)、おまえってまだ教授じゃなかったのかよ?」

 鬼太郎が意外そうに眉を上げた。その様子にユーノは微笑み、彼の誤解を正すべく口を開いた。

「鬼太郎君、教授になるのはそう簡単なことじゃないんだよ。まず大学院に進学して、最低でも五年以上在籍し、必要な単位を取得して研究指導を受けたうえで、博士論文の審査と試験に合格しなければならない。その結果、ようやく博士号を取得できるんだ。そして、大学に講師として採用され、研究や教育で成果を積み重ねていくことで、やっと准教授、そして教授になれる道が開けるんだよ」

 小狼(シャオラン)は塔和大学での単位取得を経て香港大学の大学院に進み、その傍らで考古学の授業を担当しているが、それも彼が特別に優秀であるからこそだ、とユーノが説明を続ける。

「へぇー。大学って大変なんだねぇ」

 浦太郎が感心したように呟いた。管理局に入局して学問の道を選ばなかった彼には、学び続ける生活の厳しさがどこか遠いものに感じられるのだろう。

「たしかに大変ではあるが、やり甲斐も感じてるよ。おれの場合は、かなり恵まれた環境だと思う」

 言うと、小狼(シャオラン)はさくらに視線を送り、穏やかな微笑を浮かべた。

 さくらが照れたように笑うと、静かな空気を破るように誰かの腹の虫が盛大に鳴った。一同の視線が自然と鬼太郎へ向く。

「うぅ・・・・・・今朝あんなに食ったはずなのに、もう腹の虫が鳴いてやがる!」

 その言葉に小狼(シャオラン)が腰を上げ、提案した。

「よし、この先をまっすぐ行ったところに美味しいお店がある。そこで昼食にしよう」

「何から何まで・・・本当にありがとうございます、小狼(シャオラン)さん」

 ユーノが感謝を伝えると、小狼(シャオラン)は軽く首を振った。

「いや。むしろ、おれの方こそ。ユーノとはこれから先も同じ研究者として、友達として仲良くしていけたら嬉しい」

 さくらの柔らかな笑みに見守られながら、ユーノは自らも心の底からこの友情を大切にしたいと思った。

「店長! それより早くメシにしましょう! 早くしないと餓死しちまいそうです!」

「わいもヘラペコやー。外に出るのはええんやけど、ずっーと鞄の中に入って隠れるのも大変やわー」

「仕方ないでしょ? ケロちゃんのその見た目じゃ、誰がどう見たってぬいぐるみにしか見えないんだから」

 互いに笑い合う仲間達の声が、旺角の喧騒に溶け込んでいった。

 そんな他愛のないありふれた幸せができるだけ長く続いてほしい――誰もがそう願っていた。

 

――チカラ、ホシイ――

 

 悪寒。それを感じた瞬間、ユーノの心臓が激しく脈打った。

 暗く深い闇の底から、どこか遠くで誰かが何かを唱える声が響いている。ユーノは立ち止まり、反射的に周囲の気配を探った。

 だが、その声の主らしき存在はどこにも見当たらない。姿はおろか、影すら感じられなかった。

「店長ー!」

「何してるの、早く来てください」

 先を歩く鬼太郎や浦太郎、小狼(シャオラン)達が振り返り、ユーノに声をかける。

 その声にハッと我に返り、ユーノは作り笑いを浮かべながら、生返事を返した。

「・・・・・・うん。いま、行くよ」

 

――チカラ、チカラ、ホシイ、ホシイ――

 

 途端に、周囲の喧騒が嘘のように掻き消えた。つい先ほどまで賑やかだった商店街の雑踏が、どこか異界へと消え失せたかのように音もなく沈黙している。車の走行音も、鳥の(さえず)りも、全てが虚無へと吸い込まれたようだ。

 不気味な静寂に包まれた空間で、全員の動きが止まる。鬼太郎は背を丸め、浦太郎は足元を確かめるように身構え、金太郎は分厚い拳を握り締めながら険しい視線を周囲に送る。小狼(シャオラン)とさくらは互いの距離を詰めるようにして臨戦体勢を取り、バッグから飛び出したケルベロスは鋭い目を光らせて空気の流れを読んでいる。

「おい亀公・・・・・・なんか妙じゃねーか?」鬼太郎の低い声が、沈黙を切り裂く。

「何かが居るのは間違いないね。それもタチの悪い何かが」

 浦太郎が目を細めながら呟き、いつになく慎重な態度で視線を巡らせる。

「気をつけろ。どこに何が潜んでいるか分からんぞ」

 金太郎が低く力強い声で警告を発し、握っていた手を解いて身構える。その大きな体が、一瞬で緊張感を全身に宿らせた様は、まるで巨木が嵐を迎えるような堂々たる構えだった。

「この気配・・・・・・かなり強いぞ」

「うん。でも、魔力とはなんかちょっと違うね」

 小狼(シャオラン)が警告を発すると、さくらの声が微かに震える。そんな折、ケルベロスが声を潜め、かつ低く震えるような調子で呟いた。

「こりゃ魔力とちゃうな。わいは覚えがある・・・・・・おおむかし、クロウ・リードと香港へ立ち寄った際に感じた、ごっつ邪悪な力や!」

 その言葉は、場の緊張を一層引き締める。

「やれやれ・・・・・・その手の輩に付け狙われる理由は、生憎と全く思い浮かばないんですけどねー」

 ユーノは自嘲気味に言葉を紡ぎながら、額に浮いた汗が顎先を伝い落ちていくのを感じていた。

 足元にできた水面が波紋を描き、静かな音を伴って彼らの動きを追うように広がっていく。

 

――ウマシカテ――

 

――ゴクジョウノ、チカラノカテ――

 

――ホシイィィィ――

 

 不気味な声が空気を切り裂くように響き渡る。

 その声は、どこからともなく湧き上がる波音に溶け込み、耳に直接訴えかけてくるようだった。

 刹那。眼前に押し寄せる大波が、彼らを飲み込もうとしていた。

 ユーノは即座に結界を展開し、危険が及ぶ前に全員を包み込む。緑の薄膜が柔らかくも堅牢な防御壁となり、襲い来る波の圧力を押し返した。

「「「「「「うわああああああああ!」」」」」」

 恐怖に満ちた叫び声が脈絡なく襲って来た波の轟音に掻き消され、微かに耳を打つ。

「ありがとうユーノ、助かった!」

 小狼(シャオラン)の声が張り詰めた空気を裂く。

「礼には及びません。あなた方に何かあっては、藤隆さんに会わせる顔がありません」

 ユーノの口調は冷静だったが、その額にはじんわりと汗が滲み出ていた。

 だが、波の猛威は留まるどころかさらに勢いを増していく。

「ま・・・また来たぁ――!!」

 鬼太郎が思わず叫び、恐怖の余韻が空気に漂う中、ユーノは僅かな間に波の動きと性質を見極めた。膨大な水量、その速度、破壊力――彼の鋭敏な観察眼が、全てを即座に計算していく。

 深く息を吸い込み、魔力を丹田(たんでん)に集約する。彼の内に秘められた緑の輝きが、静かに脈動を始めると同時に、言霊が唇から解き放たれた。

「妙なる響き 光となれ 我が円のその内に 牢固(ろうこ)たる守りを与え給え」

 ユーノの唱えた言霊が空気を震わせた。直後、周囲を包む淡い緑色の膜が鮮烈な輝きを放ち始める。これは彼が得意とする強壮結界――外的な圧力を受けても容易には破れない高位の防御術式だ。

 だが、押し寄せる第二波は圧倒的だった。

 まるで津波そのものが意思を持つかのように猛り狂い、容赦なく結界を叩きつけてくる。衝撃が重なるごとに結界の表面には微かな(ひび)が刻まれ、亀裂が蜘蛛の巣状に広がり始めた。その光景は、いかにこの波が規格外の力を秘めているかを物語っていた。

「く・・・・・・転移っ!」

 結界が破られては元も子もない。この危機を瞬時に悟ったユーノは、研ぎ澄まされた思考で最善の行動を選び取る。彼は躊躇なく、自分を含む全員を瞬間転送するため、高位転送魔法【トランスポーター・ハイ】を発動した。その光景は(あたか)も時空を(たわ)ませるような壮麗な輝きに包まれ、彼らを近くのビルの屋上へと導いた。

「ふぅ~。店長助かったよ」

 浦太郎が声を上げ、安堵の息を漏らす。

「にしても兄ちゃん、結界に転移魔法って・・・・・・どんだけ高度な術使うんや!?」

 その驚きを隠しきれないケルベロスの問いに、ユーノは肩を竦めるような仕草で答えた。

「そうですか? 僕の中では大したことないと思うんですけど?」

「いやいや、大したことある!」

「そうですよ、ユーノさんのお陰でわたしたち助かったんですから!」

 小狼(シャオラン)とさくらが一斉に声を重ね、彼の力を評価する言葉を紡ぐ。二人の率直な感謝を前に、ユーノは少しだけ目を伏せながら静かに微笑んだ。

「それにしても店長、あれは一体・・・・・・」

 金太郎が視線を巡らせながら問いかけた、その時――。

「む!?」

 彼の眼鏡越しに映ったのは、言葉に尽くし難い(おぞ)ましい光景だった。

 ユーノ達が立ち尽くす屋上から見下ろすと、周囲のビル群の間を複数の水の渦が覆い隠している。波紋のように揺れ動くそれらは、見る者に強烈な不安を抱かせる不気味な動きを繰り返していた。

 勃如として、渦の中心から水が意思を持つかのように立ち上がり、一気に襲い掛かる。

「きゃあああああ」

「さくら!! うわああああ!!」

 複数の水流が一気に押し寄せ、小狼達は水の牢獄へと閉じ込められた。

小狼(シャオラン)さん!! みんなぁぁ!! のああああああああ!!」

 ユーノは咄嗟に声を上げるものの、四方八方から押し寄せる水圧は無慈悲だった。微かな抵抗も許さないその侵攻の中で、彼は夢の中で見た光景を反芻(はんすう)しながら、どうすればこの状況を打破できるか、必死に思索を巡らせた。

 だが、身体は酷く重く、水の抵抗以上に何かが彼を縛りつけているかのようだった。そのうえ、不可思議な力の干渉も加わり、思うように振る舞えない。

『ウウウ・・・・・・ウウウウウウ・・・・・・』

 唸るような音が水底から響く。これは――ユーノの(うめ)きではない。目には見えぬ、しかし確かに存在する敵の不気味な声が、水を通して耳朶(じだ)を震わせた。

 夢ではない。だが、夢の中のように、自分の身体が自らの意志通りに動かせない。それはユーノだけではなく、小狼(シャオラン)やさくら、他の仲間達にも及んでいるようだった。

(このままじゃ・・・・・・くそ、僕を試しているのか? だとすれば、とんだ思い上がりだ。僕の力を試すために、僕の周りの無関係な人を傷つけるなんてことは、たとえ神だろうが絶対に許さない!)

 ユーノは心中で憤りを燃やす。敵の目的が自分一人にあるのなら、これまでの攻撃は全て自分の力量を測るためのものだったのだろう。それでも、仲間を巻き添えにする無慈悲なやり口に、彼の胸中には怒りが沸き起こる。

(動け・・・動け・・・動け・・・動け・・・)

 周囲の仲間達が水中で必死に藻掻く中、ユーノは自身の誇りに懸けて、必ず全員を救うと心に誓った。両腕は重く、天を目指して差し伸べようにも、それだけで全身の力が吸い取られるようだった。

(動け、動け、動け動け動け!!)

 その強固なる意志は、鈍重な水の抵抗を少しずつ押し返し、ついに右手が震えながらも天を仰ぐように伸びた。

(動けぇぇぇぇ!!)

 そして、視界が水の揺らぎで滲む中、ユーノは最後の力を振り絞り、鬼道を放つ。

「は・・・・・・破道の・・・・・・三十三・・・・・・蒼火墜・・・・・・ッ!!」

 刹那、右掌から放たれた蒼炎が、水の層を貫き、牢獄と化していた水を粉砕した。

 次の瞬間、彼らは地上の空気を久方ぶりに吸い込みながら、水を吐き出した。全身はずぶ濡れになり、息も絶え絶えだったが、生存しているという事実だけが救いだった。

「ぷっは! はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・死んじゃうかと思った!」

「どえらい目にあったなー」

 息を整える仲間達に目を向けながら、ユーノは静かに彼らが無事であることを噛み締めた。その横で、小狼(シャオラン)が感謝の言葉を口にする。

「ユーノ・・・・・・ほんとうにありがとう、また助けてもらったな」

 ユーノは深く頷き、小狼(シャオラン)とその家族を守れたことに安堵の表情を浮かべる。だが、その安堵も束の間だった。

「店長! 喜ぶのはまだ早いみたいっすよ!!」

 鬼太郎の鋭い声が警鐘となった。

 直後、ユーノは本能的に高く跳躍する。不意打ちの攻撃が頬を掠め、微かな血筋が頬を伝う。

「店長っ!」

「大丈夫ですか、店長!?」

「ああ、大丈夫だよ」

 従業員達から心配を受けると共に、ユーノは腕で血を拭いながら、視線を攻撃が飛んできた方向へ鋭く向けた。

 すると、彼の目の前に広がる水溜りの奥底が、異様な変化を見せていた。

 その水溜りは、ただの地面に染み込んだ水ではなかった。異様に深い闇を(たた)え、常識を覆すように奥行きを広げていく。(さながら)ら水の底に巨大な何かが潜んでいるかのようだ。

小狼(シャオラン)さん・・・!」

 ユーノは小狼(シャオラン)の名前を呼び、その視線を追わせる。

「ああ。敵はあそこにいる」

 小狼(シャオラン)も気配を捉えたらしく、すぐにさくらと共に身構える。

 途端に、水底から何かが動き出した。波紋が円を描き、次第に大きく揺らめく。やがて、触手のようなものが水面を突き破り、空間を裂くように姿を現した。

「気をつけろ、ユーノ!」

「はい!」

 小狼(シャオラン)に促され、ユーノは全員を庇うように前へ一歩進み出た。冷たい水の揺らめきを凝視し、底から這い上がるそれの全容を見極めようと目を細める。

 ゆっくりと浮上してきた異形は、異様な形状を持っていた。目のように見える突起が――否、それが本当に目と呼べるかは分からない――異常に飛び出し、ギョロギョロと四方を見回す。その視線がついにユーノ達を捉えた瞬間、再び触手が放たれた。

 凄まじい勢いで迫る触手。その刹那、ユーノの手元に微かな動きが走る。隠し持っていた仕込み杖を一瞬で抜き放つと、触手に向かって鋭い一閃を放った。

 弾丸の如く飛来した触手は、空中で正確に断ち切られ、切断面から不気味な液体が滴り落ちる。

「おおおおお!! 目にも止まらぬ早技!! やるなー兄ちゃん!」

 ケルベロスが驚嘆の声を上げるが、ユーノの眼差しは一切緩むことなく、次の攻撃に備えている。

 小狼(シャオラン)やさくらの安全を守るべく、ユーノは触手が再び襲いかかるたびにその動きを読み、仕込み杖の刃で正確に迎撃を繰り返す。そして、敵の動きを封じ込めるために最も有利と思われる位置へと身を移動させた。

「! そうか・・・・・・わかったぞ! ユーノ! あれは“蠱毒(こどく)”だ!」

 小狼(シャオラン)がその正体を見抜いたように声を上げる。

「せやッ!! 蠱毒や、蠱毒!! 緑の兄ちゃん、それは魔術やあらへん!!」

 ケルベロスも即座に応じ、記憶の奥底から同じ結論を引き出した。

「蠱毒、ですって?」

 ユーノは短く応じつつ、その言葉を鍵に記憶の中を巡る。脳裏に刻まれた膨大な知識の棚を素早く探索し、「蠱毒」という単語に纏わる情報を引き出す。

 

『蠱毒』

 

 それは、古代中国で行われた呪術であり、動物を利用する儀式的な手法の一つだった。

『医学綱目』にはこう記されている――ヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルなどの百虫を一つの容器に閉じ込め、互いに共食いさせる。最終的に勝ち残ったものが神霊として崇められる。

 この毒を飲食物に混ぜ、人々に害を与えたり、自らに福を呼び込む手段とする。その毒に冒された者は、様々な症状を経て、やがて命を落とす――。

 

「おそらく、あれは蠱毒によって生み出された異形の怪物・・・・・・『蠱獣(こじゅう)』だ。そして、それを生み出した“蠱毒師(こどくし)”がどこかに隠れているはずだ!」

 小狼(シャオラン)の言葉に、ユーノの目に閃きが宿る。

「なるほど――ありがとうございます、小狼(シャオラン)さん! 貴重な情報提供に感謝します!」

 暗中模索の戦いに光明が差し込んだ気がした。前方から再び触手が襲いかかる中、ユーノは小狼(シャオラン)へ一礼し、身構える。

【我ガ糧ニ・・・・・・糧ニナレェェ!!】

 蠱獣の奇声が響き渡ると、無数の触手が猛然と襲いかかってくる。触手は縦横無尽に動き、ユーノや小狼(シャオラン)達全員を狙っている。

「このやろう!! 舐めるんじゃねーぞ!」

「蠱毒だか何だか知らないけど、かわいい女の子以外から熱烈に迫られるのはごめんだね!」

「同感だ」

 スクライア商店のメンバー達は携帯していた武器を取り出し、触手を迎撃し始めた。

 一方、小狼(シャオラン)は鋭い眼光で触手を見据え、静かに(てのひら)を擦り合わせる。次の瞬間、空間から中華風の剣が現れた。

「はっ!」

 さくらを守るべく、小狼(シャオラン)は鋭く剣を振るい、迫り来る触手を一刀両断する。

「さくら、おれから離れるな!」

小狼(シャオラン)君・・・」

「安心しろ。おれが必ず守る」

 力強い小狼(シャオラン)の言葉は、不安に揺れていたさくらの心を瞬時に温めた。

思えば、小学四年生の頃――大魔術師クロウ・リードが創り出したクロウカードを巡る日常の中で、彼と出会った日々。数々の試練を共に乗り越え、紆余曲折を経て両想いとなり、やがて障害の伴侶となった。その記憶の一つひとつが、彼女の心に深く刻まれている。

 どんな困難が訪れようとも、小狼(シャオラン)がいれば乗り越えられる。今、この瞬間も、それを強く実感していた。彼の姿には、狼の名に恥じない雄々しさが宿っている。自分のために敵に立ち向かうその決然たる姿に、さくらは心を奪われ、気がつくと頬が薄紅色に染まっていた。

「やれやれ・・・・・・これじゃ家の中にいるのと変わらへんな」

 屋内外を問わず、機会さえあれば惚気が飛び出すさくらに、ケルベロスは呆れながらも諦めのような苦笑を浮かべる。

【我ガ糧ヲ・・・・・・クレエエエエ・・・・・・】

 再び蠱獣が声を発すると、触手は執拗にユーノを狙い続けた。攻撃を(さば)きながら、ユーノはその異常な執着に違和感を覚え、蠱毒師の目的について考えを巡らせる。

(それにしても、呪術で僕を殺そうだなんて・・・・・・見ず知らずの相手に呪い殺されるほど、恨みを強く持たれる血も涙も人間じゃないと思うんだけどな)

 だが、蠱毒師の動機を考える余裕は無かった。触手の猛攻を凌ぎつつ、ユーノは深く息を吸い込んで集中力を高めた。

 

――戦いなさい、それが宿命です――

 

 夜蘭(イェラン)の言葉が脳裏を過ぎると、ユーノは意を決して小狼(シャオラン)達に向き直った。

小狼(シャオラン)さん! さくらさん! 僕が触手を引き付けます。その隙に蠱毒の本体を攻撃してほしいです!」

「ユーノさん!?」

「だがユーノ! あれはかなり強い!」

「せや! 兄ちゃんが囮になって無事で済む保証はあらへん!」

 さくらと小狼(シャオラン)、ケルベロスが彼を止めようとするが、ユーノの決意は揺るがなかった。

「御心配には及びません、大丈夫です! 僕もそれなりに強いですから!」

 そう言い放つと、ユーノは触手を追うように前方へと駆け出した。目標に向けて高く跳び上がり、水中へと飛び込む。

 ざぶん、と大きな音を立てて、水の中に潜り込んだユーノ。そこは広大で暗い空間が広がっていた。その最深部には、蠱獣の巨大な本体が沈んでいた。

(あれだな・・・・・・!)

 視界に蠱獣の全貌を捉えたユーノは、小型の酸素ボンベを懐から取り出し、装着する。

「店長ぉー! 大丈夫っすかー!」

「気をつけてください、触手が後ろからやってきますぞ!」

 上空から従業員達の声が届く中、ユーノは一瞬だけ彼らに感謝の念を抱き、意識を再び敵へと集中させた。

 蠱獣は懐に飛び込んだユーノを執念深く追尾し、イソギンチャクの如く触手を大量に放ち、(から)め捕ろうと動きを加速させた。

「ユーノさん、待っててください! 今助けます!」

 さくらはユーノの危機を察し、星の意匠が施された鍵型のアクセサリーを取り出す。

 秘められた魔力を解放するべく、彼女の足元には緻密な紋様が刻まれた魔法陣が展開される。

 

「夢の力を秘めし鍵よ 真の姿を我の前に示せ」

封印解除(レリーズ)!」

 

 刹那。力強い言霊を唱えると、鍵型のアクセサリーは光の中で形状を変化させ、さくらの手に収まる魔法の杖となった。

「「「うおおおおおおお!」」」

 彼女が解放した魔力は凄まじいまでの圧を伴い、金太郎や浦太郎、さらには魔力を持たないはずの鬼太郎でさえ、その波動に当てられ、怯むような気配を見せた。

「すごい・・・・・・! さくらちゃん、見た目に反してとんでもない力持ってるよ!!」

「我々の知る魔力とは少し異なるようだな。どちらかというと、あの蠱毒の怪物と通じる何かを感じる」

「んなバカな! そりゃ熊公の勘違いじゃねーのか!?」

 金太郎の突拍子もない指摘に鬼太郎は即座に反論したものの、彼の胸にも何か引っかかるものがあった。

(けどなんだろうな・・・・・・この感じ、なんか似てるんだよな。俺や店長の中にある力とも・・・・・・!!)

 まるで既に知っている力のような、既視感に近い感覚――。鬼太郎は蠱毒の力と自分やユーノが持つ力の類似性に気づくと、無意識に震えが背筋を駆け抜けた。

 その頃、さくらは【夢の杖】と呼ばれる自身の魔道具を片手に、懐から薄ピンクに濃いピンクの縁取りが施された一枚のタロットカードのようなものを取り出した。

 そのカードの表面には、「THE WATERY」と「水」の文字が、それぞれ英語と漢字で記されている。それを高く掲げ、さくらはその秘められた力を解放した。

「水よ、邪悪なる魔を退ける鞭となれ! 『(ウォーティー)』!」

 杖の先端から解き放たれた魔力がカードに宿る精霊を呼び覚ます。

 人魚を思わせる優美な姿の精霊が現れると、その力で形成された水流が触手を持つ蠱獣本体を打ち据えた。

 だが、攻撃を受けた蠱獣は一瞬怯んだだけで、次の瞬間には怒りを増幅させたように触手をユーノへと向けた。

「がっ・・・。しまった!」

 蔦のような触手がユーノの身体を絡め取る。締め付けの圧力は瞬く間に増し、彼の動きを封じる。藻掻くうちに酸素ボンベが外れ、ユーノの口元から酸素が漏れ出した。

水龍招来(すいりゅうしょうらい)

 咄嗟に小狼(シャオラン)が、(いにしえ)より道教に伝わる【護符(ごふ)】と呼ばれる札を剣に(かざ)して術を発動させた。

「ユーノ! 今助けるぞ!」

 水で形成された東洋の龍が唸り声を上げながら召喚されると、強靭な触手と本体を狙い、激しい回転で切り裂いていく。

『ウウウオオオオ・・・・・・!』

 蠱獣は痛みに耐えかねた様子で触手を緩め、ユーノの身体から解放した。自由の身となったユーノは懸命に水上を目指して浮上し、飛行魔法を発動して空中へと逃れる。

「ユーノ!!」

「よかった! 無事だったね!」

「ていうか思いっきり飛んどるやないか! どんだけ高度な魔法使えば気が済むんや!?」

 小狼(シャオラン)とさくらは歓喜の声を上げる。ケルベロスは、驚きを隠しきれない表情で空を見上げていた。飛行魔法を駆使して優雅に宙を舞うユーノ。その堂々とした姿は、周囲に感嘆を抱かせるに十分だった。

 刹那、空中に浮かぶユーノへ向けて触手が鋭く伸びてくる。それは槍の如く、鋭利な一撃を放とうとしていた。

 ユーノが即座に防御の構えを取ったその瞬間、浦太郎が動く。

「僕のことを忘れられちゃ困るよ」

 かつては陸のエース・オブ・エースとまで称され、管理局地上部隊でも屈指の魔導師として名を轟かせた自分の存在を無視されることが気に食わなかったのだろう。

「ウォーターホイッパー!!」

 浦太郎の愛機・フィッシャーマンから放たれる高圧の水流が触手に向かう。それはしなやかな鞭のように振るわれた。

 しかし、浦太郎の予想に反して――水流は触手に触れる直前でその勢いを失い、効果を発揮することなく霧散した。

「な・・・に・・・!?」

 浦太郎の表情が驚愕に染まる。彼の十八番である水流魔法が、蠱毒の触手に一切のダメージを与えられない。この事実は彼の経験に大きな疑問をもたらした。

 触手はそのままユーノを目指して鋭く伸び続ける。すると今度は、金太郎が前に進み出た。彼の手には相棒である巨大な斧――アックスオーガが握られている。

「ダイナミックスラッシュ!!」

 常人には扱えない大斧の一撃が振り下ろされる。その斬撃は迫り来る触手を一瞬で断ち切り、触手は地面に無力に落下した。

「す・・・・・・すごい・・・・・・」

 小狼(シャオラン)の驚愕の声に続き、ケルベロスが吐き捨てるように言葉を放つ。

「こっちも大概バケモノやないか!」

「しっ、ケロちゃん!」

 ケルベロスの失言を(いさ)めるさくらもまた、その発言を否定しないあたり、内心では同意しているようだった。

「店長、お怪我は有りませんか!?」

「大丈夫だよ。相変わらず手際がいいね。小狼(シャオラン)さんとさくらさんも、先ほどはありがとうございます! お陰で助かりました!」

 空中に浮かぶユーノが感謝の言葉を述べると、小狼(シャオラン)は「構わないさ」と短く応じ、その表情を険しく引き締めた。

「それより・・・・・・敵は明らかに強い力を求めている。特にユーノ、お前に対しては異常な執着を示しているように見える」

「でも小狼(シャオラン)君、強い力なら魔力量の多いわたしが一番狙われる可能性が高いのに・・・・・・それを差し置いて、どうしてユーノさんを?」

「そこなんや。さくらの魔力は、今やクロウ・リードをも凌ぐ最強クラスや。おそらく、この地球上のどこを探しても、さくらを超える魔力を持つ人間はまず()らん! にもかかわらず、緑の兄ちゃんに執着する理由がわからへん」

 さくらが最強クラスの魔力量を誇る一方で、ユーノの魔力量は明らかに控えめだ。それにも関わらず、敵が彼に固執する理由を推理しあぐねる小狼(シャオラン)達。その中で、ユーノは空中で思考を巡らせ、一つの結論に辿り着いた。

「・・・・・・もしかすると、敵の狙いが分かったかもしれない」

「店長?」

 浦太郎がユーノの様子に気づき、上を見上げる。ユーノはゆっくりと地上に降り立つと、蠱獣を牽制しつつ、仮説を確かめるために実験を試みた。

(試してみる価値はある。もしも僕の仮説が正しければ、奴はひょっとすると――・・・・・・)

 呼吸を整え、できるだけ思考をクリアにするユーノ。

 やがて目を見張ると、翡翠色に輝くミッド式魔法陣を足元に展開させ、捕縛魔法を発動する。

「チェーンバインド!」

 蠱獣に向かって飛んでいく縛鎖は、本体に触れた瞬間に腐食現象によって効力を失った。ユーノは眉を(ひそ)めながら次の手に移る。

(ここまでは予想通り。問題はこの次だ)

 ユーノは仕込み杖を持ち直し、霊力を注ぎ込むと鋭く詠唱した。

「破道の三十二、『黄火閃(おうかせん)』!!」

 刀身を介して放たれた黄色い扇形の霊圧が蠱獣を直撃し、悲鳴のような唸り声を上げさせた。その瞬間、ユーノの目に確信の色が宿る。

「思った通りだ! こいつの真の狙いは、僕の中の『死神』の力だ!」

「死神の力・・・だと?」

「どういうことですか、ユーノさん?」

 ユーノの言葉に小狼(シャオラン)とさくらが疑念を抱く。不吉な響きを持つ「死神の力」という単語が二人を困惑させていた。

「昨日、少し話ましたよね? 僕や鬼太郎には死神の力、もとい『霊力』が備わっていると! 敵の狙いはその『霊力』だったんです!」

「せやけど兄ちゃん、それが今の攻撃と何の関係があるんや? そもそも霊力が狙いっちゅうんは?!」

 ケルベロスが焦り混じりの声で問い詰めると、ユーノは落ち着いた様子でこれまでの経緯を紐解き、状況を説明し始めた。

「今の攻撃は、僕達の力に対して蠱毒がどの程度の耐性を持つか見極めるためのものです。小狼(シャオラン)さんやさくらさんの魔術と蠱毒は力の本質が似ているのか、互いに拮抗する関係のように思えます。対して、僕や浦太郎の魔法の効果は触れる直前に打ち消された。そして、鬼道による攻撃は効果抜群だった。これらを踏まえて導き出される結論は・・・・・・異界の法則をこの世に適応させ、生命力をエネルギーに変換させることで物理法則を超越した力を操るのに長けた技ほど、蠱毒に対して有利に立ち回れる! そしてその最たる力である『死神の力』。それを取り込んで力を増大させるのが、奴の狙いなんです!」

「なるほど。つまり、死神の力・・・・・・霊力は、生命エネルギーを最も強く解放する力。ゆえにパワーバランスとして、蠱毒の上位に位置するというわけですな」

「逆に僕や店長が元々使って来た魔法は、プログラムによって構築された、いわば科学の領域にあるもの。だから蠱毒よりも下位にあるわけだね」

 ユーノの分析を聞いた金太郎と浦太郎は納得した様子で頷く。特に、浦太郎は不服そうな表情を浮かべつつも、事実として受け入れるしかなかった。

「理屈は一応解ったんだけどよ・・・・・・霊力が狙いなら、店長だけじゃねーはずだ! 俺だってそうじゃないのか!? 何で店長だけが・・・・・・」

 頭を掻きながら疑問を投げかける鬼太郎。確かに彼もユーノと同じ霊力を持つのに、なぜ敵がユーノだけを狙うのか、その理由が掴めない。

「それは単純に、霊力の濃さの問題だと思うよ。卍解を習得している僕と、そうでない鬼太郎とでは、同じ霊力でも濃度も大きさも違う。“霊威(れいい)”って言うんだけどね・・・・・・味の薄い食べ物より、濃い食べ物の方が旨味があると考えるのは、どこの世界でも一緒って事だね」

 噛み砕いたユーノの分かりやすい説明に、鬼太郎は納得したように頷く。

しかし、同時にそれは彼が蠱獣に見下されているという現実を突きつけるものであり、深い屈辱を覚えた。

「ヤロウ・・・・・・! この俺を下に見るとはふざけやがって!! おもしれー、テメーが見下した俺様の力、篤と見せてやる!!」

 一泡吹かせるべく、鬼太郎は怒りを燃やしながら斬魄刀を掲げ、力強く解号を唱える。

「熾きやがれ、『烈火』!!」

 刀身から炎が噴き出した瞬間、その形状は著しく変化し、「炎」の一文字が刻まれた巨大な大刀へと姿を変えた。

 

「おっしゃー! わいも久しぶりに燃えてきたでー!」

 ケルベロスは久しく溜め込んでいた力を解放できることに興奮し、身体を神々しい輝きで包み込む。

 刹那、背中から黄色がかった翼が広がり、その姿はライオンのような威厳を帯びた獣へと変貌した。猛々しい咆哮が周囲に響き渡る。

「うわあああ! ケロちゃんの姿が!?」

 浦太郎が驚きの声を上げる。ぬいぐるみのような愛らしい姿からの劇的な変化に、彼の目は釘付けだった。ケルベロスはその反応に満更でもない様子で、低い声を発しながら誇らしげに胸を張る。

「ふふーん。これが封印の獣・ケルベロスさまの真の姿や! あぁ・・・やっぱええーな、この姿を見せたときの周りからの熱い視線がなんとも――」

「はいはい、無駄口はそれくらいにしようね」

「って、さくら!! 久しぶりにこの姿になったのに、そないぞんざいに扱わんでも!?」

 長らく時を過ごした主からのつれない態度にケルベロスは酷く嘆きながらも、彼女を背中に乗せて翼を広げ、優雅に空へと舞い上がる。

「さあ、参りましょう。敵の本体は水の中です」

「はい!」

 金太郎の声に呼応し、小狼(シャオラン)は剣を握りしめて身構えた。

「やれやれ。せっかくの楽しい旅行を台無しにされた分、しっかり釣り上げさせてもらわなき・・・「行くぜ行くぜ行くぜえ!」

「ちょっ・・・ちょっと先輩、僕のセリフに被せないでよ!?」

 浦太郎の愚痴を遮るように、鬼太郎が烈火を掲げて突進を始めた。それによりペースを乱された浦太郎が慌てる。

 二人のやり取りに苦笑する中、ゴポゴポと水面にいくつもの波紋が広がり始める。泡が水の底から湧き上がり、不穏な雰囲気を漂わせる。

「フローターフィールド!」

 ユーノは地上戦での不利を減らすため、小狼(シャオラン)達の足元に魔法で足場を形成した。

「これで少しは立ち回りも良くなると思います。さくらさんや小狼(シャオラン)さんも狙われていますので、触手から上手く逃げながら攻撃してください」

「ありがとうユーノ、助かる」

 小狼(シャオラン)はユーノに礼を述べ、高い身体能力を駆使して魔法の足場へと飛び乗る。

「店長、我々にも出来ることはありますか?」

 金太郎が触手の動きを警戒しながらユーノに問いかけた。

「僕に纏わりつく触手への攻撃をお願いするよ。僕はその間に術者である蠱毒師を何としてでも見つけ出す。くれぐれも気をつけて、もしもの時は、僕じゃなくて自分の身を優先するんだ」

「承知――」

 金太郎はユーノの気遣いに応えるように、深くお辞儀をした。その横で、鬼太郎と浦太郎が不敵な笑みを浮かべながら並び立つ。

「じゃあ、僕らは僕らで蠱獣への攻撃を行いますね」

「けどよぉ・・・亀公の魔法は効かねーんだろ? 無理しねーで俺に任せておけって!」

 腕捲りし、前線に立とうとする鬼太郎を浦太郎が静かに引き留める。その仕草に隠された理知の光が、次の言葉に重みを添える。

「このまま引き下がれないよ。それに、先輩だけさくらちゃんの前でカッコつけさせるわけにはいかないしね」

「はっ、上等だぜ! どっちがさくらちゃんからカッコいいって言われるか勝負だ!」

 そのやりとりが交わされた途端、さくらの澄んだ声が緊張感を切り裂いた。

「みなさん、来ます!」

 彼女の言葉が指し示す先、波紋を広げながら湧き上がる水中の泡沫(ほうまつ)。その中心から激しい触手の束が蠢き、ユーノ達を喰らわんと迫りくる。浦太郎は躊躇なく跳び上がり、ユーノが形成した足場を利用して前進した。

「魔法を封じれば僕をどうにかできると本気でそう思った? “狡猾の亀”と呼ばれたこの僕を・・・・・・見縊(みくび)るな!」

〈Sonic Spire〉

 その言葉と共に、フィッシャーマンの鋭利な先端が光を纏い、浦太郎は一瞬の隙も許さぬ動きで触手へと突きを放つ。触手に接触した瞬間、蠱毒の力が拡散され、反発の波紋が広がる。しかし、それをも押し返す浦太郎の鋭敏な刺突(つき)は、確かな手応えを伴い、触手を深く貫いていた。

 その状況を掌握した浦太郎は、唇の端に薄い笑みを浮かべる。

「なるほどね。蠱毒は僕達の魔法を完全に打ち消すわけじゃなくて、あくまで効果が通りづらいだけなんだ。魔力が消されて通らないなら、『威力増強』や『魔法で発生した効果』をぶつければダメージを与えられる、ですよね店長?」

 空中に佇むユーノは、浦太郎の言葉を耳にし、静かに頷く。

「腐っても鯛とはよく言ったものだね。浦太郎の読み通り、蠱毒は魔力素外結合空間(AMF)に通じるものがある。金太郎のダイナミックスラッシュが効いていたことから、物理攻撃を全く受け付けないという訳ではなさそうだ」

 ユーノは皮肉交じりに評価を口にしながらも、内心では不安を拭いきれなかった。

(とはいえ・・・現時点でデバイスによる物理攻撃を通しちゃいるが、蠱毒は未だ遭遇したことの無い未知の力。こちらの認識が常に正しいとも限らない)

 蠱毒の力の未知なる可能性を前に、早急に術者である蠱毒師の所在を突き止めなければならない。

 だがその矢先、蠱獣が再び唸り声を上げ、触手の数を幾重にも増幅させ、周囲を飲み込むように襲いかかってきた。

「鬼太郎! 私と息を合わせるのだ!」

「おっしゃー! まかせろ!」

 吼えるような金太郎の声が、戦場の緊張感を一層高めた。筋骨隆々たるその体躯と、接近戦の爆発力を有する鬼太郎の連携は、まさに暴風の如き威力を発揮する。

「ダイナミック・・・・・・」

「俺の必殺技・・・・・・」

 二人の力が重なる瞬間、咆哮にも似た声が戦場を貫く。

「「アタァッーク!!!」」

 黄色と赤が交錯する斬撃の閃光が触手を焼き尽くし、その威力に触手はたじろぎ、水中へと退避していった。その一瞬の静寂の中で、ユーノは鋭い視線を水底へ送り、目を凝らした。

(どこに潜んでいるんだ? 蠱毒師め、隠れていないでいい加減姿を現せ・・・・・・!)

 

「『水源(アクア)』!!」

 一方、さくらが『(ウォーティー)』とは異なる全体的に透明なカードを一枚取り出す。日本語で「水源」、英語では「AQUA」と書かれたカードの力は、言霊を唱えることで透明な輝きを纏い、夢の杖を通じて空間に解き放たれた。

 その瞬間、現れた水の鳥は渦を巻き、天へと舞い上がる。鋭く羽ばたいた後、そのまま深い水底へと滑り込むと、激しい流れを巻き起こして蠱獣の本体を揺さぶった。波紋が伝う水面の振動は、さくらの放つ魔力の精度と力強さを物語っていた。

「ナイスだぜさくらちゃん! ついでにこいつも・・・食らいやがれ!!」

 鬼太郎は足場を蹴り、熾烈波を放つ。水面から顔を覗かせていた触手がジュッと焼ける音を立て、高い悲鳴が響いた。

「いくぞ、さくら!」

「うん、小狼(シャオラン)君!」

 二人の声が重なり、その間に溢れる絆の強さが周囲の空気を震わせた。

雷帝招来(らいていしょうらい)!!」

「『螺旋(スパイラル)』!!」

 小狼(シャオラン)が護符を介して放った雷の(つるぎ)に、さくらの使うカード『螺旋(スパイラル)』の効果と融合する。形成されたドリル状の雷が水中を穿ち、蠱獣を飲み込んでいく。その破壊力は水底に響き渡り、激しく蠱獣を損傷させた。

「やったか!?」

「いや、まだあかん!」

 ケルベロスが低く唸り、警戒の声を上げた瞬間、触手が再び動き出す。その動きは前にも増して鋭く、さくらを狙って高速で飛来する。

「『反射(リフレクト)』!!」

 咄嗟に、さくらは『水源(アクア)』や『螺旋(スパイラル)』と同系統の透明なカードを掲げ、魔法障壁を発動する。触手は障壁に反射され、方向を変えながら消え去った。その隙を見逃さず、ユーノが攻撃の準備を整える。

「これならどうだい? 縛道の六十三、鎖条鎖縛!」

 ユーノが放った霊力の鎖が蠱獣を縛り上げる。鋭い鎖が触手を搦め取ると、次々にその一部を千切り取った。

火神(かしん)風華(ふうか)・・・招来!!」

「『(ファイアリー)』、『火焔(ブレイズ)』、『(ウィンディー)』、『疾風(ゲイル)』!!」

「わいのもおまけやぁ!!」

 怒濤の如くり出される小狼(シャオラン)とさくらの魔法攻撃に、ケルベロスの火炎放射が加わる。三者の魔力が交差し、強烈な一撃となって蠱獣を包み込む。

 凄まじい衝撃が水底を駆け抜け、身を(よじ)らせながら、かつて経験したことのない強力な攻撃を受けた蠱獣は、地響きの如き唸り声をあげながら水底で激しくのたうち回った。その振る舞いは獣そのものの苦悶を表しているかのようであったが、なおも抵抗の意思を捨てていなかった。

(李家当主である小狼(シャオラン)さんの力は相当だ。しかし、特筆すべきは――元来、戦闘向きではない性格のさくらさんが、これだけ高規格で強力な魔術を使っていながら、なおもケロッとしているなんて‥‥‥)

 ユーノは、その猛攻に臆することなく圧倒的な魔術を行使する小狼(シャオラン)とさくらの姿を、宛ら神話の一節を目撃したかのように見つめていた。特に、温和な性格を持つはずのさくらが放つ高度な魔術の威力に目を奪われる。

(これがクロウ・リードをも凌駕する、この地球で最も強い魔術師の力なのか!!)

 

【ウウウウウウウ!!!!】

 蠱獣は再び触手を振り上げ、辺り構わずその猛威を撒き散らし始めた。触手は水面や周囲の足場に激しく打ち付けられ、鋼線を断ち切りながら猛威を振るう。ユーノの作り出した足場も無差別に狙われたことで、戦士達は衝撃の渦中に巻き込まれた。

「「「「ぐあああああ!」」」」

小狼(シャオラン)君! みなさん!」

 さくらは巻き添えを受けた仲間達の安否を案じるが、その心配を掻き消すかのように、蠱獣が低く呻き、異様な声を放つ。

【ホシイ・・・・・・ホシイイ!!】

 その時、蠱獣は己の欲望を露わにするかのように、体ごと水中から浮上し始めた。勢いよく水を押し上げて塔のような形を形成すると、その構造を崩壊させ、ユーノ達全員を飲み込むほどの巨大な水の涙を放出した。

「さくら、飛ぶんや!」

「『飛翔(フライト)』!」

 ケルベロスに言われるがまま、さくらは即座にカードの力を解き放つと、美しいリボン状の翼を背中に宿し、空へと羽ばたく。

 しかし、その一瞬の隙を狙うように触手が飛来し、ケルベロスの身体に絡みつく。

「しま・・・・・・」

 ケルベロスは懸命に抵抗するが、その力は触手の猛威に押し負け、水面下へと引きずり込まれる。

「のおおおおおお!」

「ケロちゃん!!」

 さくらの悲痛な叫びも届かず、ケルベロスの姿は水中に消えた。

「ひどい・・・・・・許さない、あなただけは、ぜったいに!」

 じわりと溢れ出しそうな涙を堪えながらも、さくらは強い怒りを込めた声で宣言し、手に握る二枚のカードを掲げる。

「魔の者を囲み、その内に圧壊せよ!! 『包囲(シージュ)』!! 『破壊(ブレイク)』!!」

 さくらが強い語気で発した言霊は、蠱獣を完全に閉じ込める特殊な立方体を空間に出現させた。その空間が罅を刻むように軋み、内部の蠱獣を容赦なく圧壊させようとする。

「なんて・・・・・・力だ・・・・・・!!」

 本来争いを好まず穏健な彼女が見せた強い怒りの感情。その情念が彼女の放つ攻撃に色濃く反映されていた。無尽蔵とも思える魔力の奔流が渦巻き、周囲を圧倒するその光景に、ユーノは目を眩ませ、思わず息を飲んだ。

【ウウウウウ・・・!!】

 その刹那、蠱獣は身を引き裂かれるような痛みに呻きながら、ケルベロスを排出した。幸運にも、彼は致命的な魔力の搾取を免れ、大した怪我も負っていない。だが、長い時間を共に過ごしてきた家族同然の存在に襲い掛かったその蛮行を、さくらが許すはずもなかった。

「あなたは間違えた。傷つける人を――わたしの目が黒いうちは、小狼(シャオラン)君も、ケロちゃんも、そしてユーノさんたちも傷つけさせない!!」

 彼女の瞳には強い決意と覚悟が宿っていた。無尽蔵の魔力を解放し、蠱獣を閉じ込めた空間を完全に破壊し尽くそうとする。まさに、その場に立つ者すべてを呑み込むような怒りの奔流だった。

【・・・ホシイ・・・チカラ・・・・・・ホシイ!!!!】

 だが、完全消滅を目前にして、蠱獣は再びその形状を変え始めた。膨張と収縮を繰り返し、ついには空間を破壊して外へ飛び出した。

「え‥‥‥!?」

 状況は一変した。

 さくらの瞳が捉えたのは、異様なまでに膨れ上がる蠱獣の身体。『包囲(シージュ)』の空間をも力ずくで破壊し、外界にその禍々しい姿を現す。その膨張は際限なく続き、そして次第にその身体を収縮させる。

「さくら! 様子が変だ、気をつけろ!」

 小狼(シャオラン)が咄嗟に声を上げる。言葉の端々には、目の前の得体の知れないものの脅威に対する警戒と緊張が滲んでいる。

 そして次の瞬間、蠱獣は急速に縮み込むと、その内部から悍ましい形状の生物を吐き出した。それは大型動物のような球体で、巨大な牙を持つ大口だけが付いていた。

 さらに、その異形の存在は一体だけでなく、無数に浮かび上がっていた。

 その光景を目にしたさくらは、愕然とした表情で言葉を失った。

「なに・・・・・・これ・・・・・・」

 さくらは愕然と立ち尽くし、呟く。

 彼女の本能は、それがただの蠱毒ではないと告げていた。蠱毒の力に異質な何かが混ざり合い、新たな恐怖を形成していることを直感的に理解する。そして、その危険性が尋常ではないことも。

 刹那、巨大な(あぎと)を持つそれらが一斉にさくらへと襲い掛かる。

「『(シールド)』!!」

 瞬時にさくらは防御のカードを発動。眼前に展開された盾が幾重にも守りを固める。

 しかし、敵の攻撃は彼女の想像を上回る力を持っていた。無数の(あぎと)が繰り出す激しい攻撃が、ついに盾を正面から貫き――ついには、さくらと背後の小狼(シャオラン)達を一気に吹き飛ばした。

「あああああああああああ!」

「「「「「うわあああああ!」」」」

 これまでとは比較にならないほどの絶大な威力。彼らの身体は宙を舞い、どうすることもできない。

「アクティブガード! ホールディングネット!」

 ユーノが即座に二重の魔法を展開。衝撃を吸収し、彼らの身体を捕らえる魔法が、辛うじてその命を繋ぎ止めた。全員が地面に降ろされ、一命を取り留める。

「大丈夫ですか!?」

「はい・・・・・・痛っ!」

 さくらが小さな声で答えたその顔には、険しい表情が浮かんでいた。左足に手を添え、痛みを堪えている。

「怪我したのか?」

 小狼(シャオラン)が満身創痍ながらも駆け寄る。

「ちょっと足を挫いちゃったみたい。ごめんなさい」

「謝ることじゃない。さくらはおれたちのためによく戦ってくれた。ありがとう」

小狼(シャオラン)君・・・・・・」

 二人の視線が絡み合う。その一瞬の静寂は、互いの信頼と感謝を言葉以上に物語っていた。だが、その様子を見ていたケルベロスが甲高い声で割り込む。

「って! 呑気に惚気とる場合か馬鹿夫婦! 状況よく見れ状況を!」

 その言葉に気づかされるように、再び視線が蠱獣へと向けられる。

【・・・ホシイ!!!! チカラガホシイ!!!!!!】

 蠱獣から放たれる負のオーラは、これまで以上に膨れ上がり、空間全体を浸蝕していた。先ほどまでとは桁違いの力。その異常性に誰もが圧倒され、戦意が薄れかける。

「くっそ・・・・・・どうすりゃいいんだ?!」

「よもやここまでか・・・・・・」

 疲弊しきった心身が、彼らを追い詰める状況にさらに重くのしかかる。まるで勝てる見込みがない状況に鬼太郎や金太郎が苦い顔を浮かべる。他の者も、皆この絶望的な状況を前に心が折れそうになる。

 次の瞬間、敗色濃厚な小狼(シャオラン)達を見据えた無数の口が三度(みたび)襲撃を仕掛ける。

 防御も回避もままならず、今度こそ年貢の納め時なのか――誰もが諦めかけた時だった。

 

「――激昂せよ 晩翠」

 

 静寂を引き裂く低い声が響き、鋭い斬撃が斜め下から宙を薙いだ。

 その軌跡は、ヒグマほどもある巨大な口を持つ無数の球体を瞬時に断ち切る。圧倒的な力の前に、蠱獣の異形は(たちま)ち崩れ落ちた。

 何が起こったのか――小狼(シャオラン)達が目の前を凝視すると、そこには直刀状の斬魄刀を手にしたユーノが立っていた。その姿は、戦場における無慈悲な審判者そのものであり、彼の瞳は蠱獣を哀れむかのように見据えていた。

「ユーノ!」

「ユーノさん、その刀は・・・・・・」

 小狼(シャオラン)とさくらが身を寄せながら、その手に握られた妖刀を見つめる。仕込み杖として親しんでいた道具とは一線を画すその異様な刀身――ただそこにあるだけで、素人目でも明らかに忌まわしい気配を放っていることが誰にでも理解できた。それは、ただの武器ではない、禁忌の力を宿す何かだった。

「出し惜しみするつもりはなかった。なるべく情報量が少ないうちに叩くつもりだった。だけど、その見通しの甘さがこんな事態を引き起こした・・・・・・ほんとうに、僕は愚かで罪深い咎人だよ」

 無数の口達を斬り伏せた後、ユーノは重く沈んだ声で言葉を紡ぐ。その声音には悔恨が滲み、彼自身が背負う重い十字架を暗に語っていた。

 しかし、彼の行為を無に帰すかの如く、斬られた蠱獣の身体が再び集まり始める。再度、無数の口を持つ『何か』に身体を形成する。そんな中、ユーノは静かに晩翠の切っ先を突きつけ、挑発的な一言を放った。

「僕を食べたいんだろ? なら、望み通り好きだけ食わせてやる」

 言葉の意味を理解したのだろう。蠱獣は狂喜の奇声を上げ、無数の口を持つ姿でユーノに襲い掛かった。

 刹那、何の迷いもなく無数の口を持ってユーノの全てを食らい尽くそうと、一斉に飛び掛かり――巨大な(あぎと)で呑み込んだ。

「ユーノ!!」

「「「「「「ユーノさん(店長)(緑の兄ちゃん)!!」」」」」

 (あぎと)に呑まれたユーノを案じた小狼(シャオラン)達の叫び声が辺り一帯に響き渡る。と、次の瞬間――・・・・・・

 

(いか)れ、『晩翠』」

 

 (あか)く染まる刀身が一閃し、(やみ)に光を刻む。その瞬間、顎の中で放たれた剣閃が閃光の如く(ほとばし)る。

翠華(すいか)”――翡翠斬の威力を保持した状態で繰り出されるその技は、無数の口を持つ球体を瞬く間に斬り捨てる。蠱獣は消失する前にユーノを呑み込もうと激しく跳ねるが、それよりも早く本体に刀身が触れた瞬間、全てが紅に染まる。

「い・・・・・・一撃やと・・・・・・」

「すごい・・・・・・」

 小狼(シャオラン)達はその光景に目を見張り、驚愕の声を漏らす。あれほど圧倒的だった脅威が、一瞬で、しかも跡形も無く完全に消え去った。そしてそこには、ほぼ無傷のユーノが悠然と立っていた。

「僕は食用には向かないよ。味の濃すぎるものは、身体にとって有害でしかないからね」

 まるで無駄話のように、しかし冷徹な余韻を残して放たれたユーノの言葉。それが蠱獣への最後の宣告だった。

 蠱獣が討たれたことで、戦いは一旦の終息を迎えた。ユーノは(きびす)を返し、負傷した小狼(シャオラン)達へと駆け寄る。

小狼(シャオラン)さん、さくらさん、みんなも大丈夫かい?」

「ああ・・・・・・大丈夫だ」

「ユーノさんのお陰で助かりました。ほんとうにありがとうございます」

 そのやり取りの最中、鬼太郎が率直な感想を口にする。

「しっかし、相変わらずバケモノみたいに強いっすよね店長は・・・・・・」

 鬼太郎が感嘆の意を込めて呟いたその瞬間、不意に彼の視界が異様なものを捉えた。

「な・・・・・・っ」

 ユーノの剣によって斬り伏せられたはずの蠱獣の肉片が、どろどろと溶解し、漆黒の泥のように変貌していく。泥は地面へと広がり、水鏡のような光沢を纏いながら、不気味な静寂を伴って形を成していく。その中から徐々に浮かび上がるのは、人の輪郭を模した異形の存在であった。

「なんだろうあれ・・・」

 その場にいる全員が、その異質な光景に息を呑む。だが、ケルベロスだけは目を細め、警鐘を鳴らすような声を上げた。

「気ぃつけなあかん。あれからはごっつヤバい力を感じる」

「もしかして、あれが蠱毒師なのか?」

 満を持して姿を現した蠱毒師と思しきその存在は、托鉢僧(たくはつそう)の姿を彷彿とさせた。全身は梵字(ぼんじ)が記された包帯で覆われ、無数の呪符が吊り下げられた大きな数珠を首に掛けている。その姿からは異様な威圧感が漂い、周囲の空気を凍りつかせる。

「・・・待ッテイタ・・・オ前タチガクルノヲ、私ハズット、待ッテイタ」

「たち?」

 低く湿った声が空間を震わせる。まるで深淵から響くようなその音色と、その一言に込められた微かな違和感が、ユーノの胸中に不穏な影を落とす。単なる偶然ではない。蠱毒師の言葉は、この場に集った者達全員を標的としていることを明白に示していた。

「イズレマタ・・・機ガ熟スソノ時マデ・・・・・・再会ヲ愉シミニシテイル」

 淡々と告げられる別離の言葉。それと共に、蠱毒師の姿は静かに水の中へと沈んでいった。最後に残されたのは、薄暗い水面に揺らめく彼の影と、冷たく響く沈黙だけだった。

 

 気がつけば、ユーノ達は喧騒に満ちた香港市内に立っていた。眩いばかりのネオンが行き交う車の列を照らし、人々の雑踏が耳を打つ。しかし、ユーノ達はその雑踏の中で孤独な影となって立ち尽くしていた。

「元に、戻った・・・」

「みたいだな」

「今のは何だったんだ?」

「わからない。あれは一体・・・・・・」

 誰もが口々に言葉を紡ぐが、その答えはどこにもない。目の前で繰り広げられた出来事が現実なのか幻なのか、全てが曖昧な霧の中に溶けていく。

 だが、彼らは直感していた――この出来事が単なる偶然ではなく、やがて訪れる新たな戦いの序章であることを。そして、近い将来、再び蠱毒という脅威と相まみえる瞬間が訪れるであろうことを。

 しかし、そのことに触れる者は誰もいなかった。ただ、彼らの胸中に去りがたい不安と覚悟の影が、静かに揺らめいていた。

 

           ◇

 

7月13日――

香港 チェクラップコク島 香港国際空港

 

「この度は、お世話になりました」

 帰国の日。喧騒に包まれる空港の一角で、ユーノは深々と一礼し、小狼(シャオラン)とさくらに感謝の意を伝えた。

「いやー、しかし散々な目に合いましたね。特に昨日は」

 ユーノが苦笑混じりに言うと、小狼達も同じ表情を浮かべる。

 激動の出来事に心身を削られた彼らは、観光どころか疲労から夜も早くに床についた。それでも、家族旅行と呼ぶには程遠い内容だった旅が、不思議と悪くない記憶として刻まれたのは、無数のカートに積まれた土産が物語る。

「はぁ~。僕は結局、香港美女とのもっこりナイトを果たせなかったよ・・・・・・この次こそは必ずリベンジを果たしてみせる!!」

「どうやら日本に帰る前に、けじめをつける必要があるようだな」

 浦太郎の軽口は金太郎の耳を見逃さなかった。ボキボキと拳を鳴らしつつ、浦太郎の抗議混じりの悲鳴を尻目に鉄拳制裁を加える。

 その光景を若干引き気味に眺めながら、小狼(シャオラン)は手を差し出す。それをユーノがしっかりと握り返した。

「また香港に来るときはいつでも言ってくれ。歓迎する」

「いっぱいおいしい料理を作って待ってます」と、さくらも笑顔で言って来た。

 ユーノは柔らかく微笑み返しながら、言葉を紡ぐ。

「ありがとうございます。でも、きっとそう遠くない未来に僕達はまた会えると思います。多分、あの蠱毒師ともまた・・・・・・」

「たしかに、あれで全てが終わったとも思えない。だがなユーノ。たとえ蠱毒が再び襲って来たとしても、おれは必ずお前の力になる。友達として」

「その時は――よろしくお願いします」

 未来に待つ再会を信じ、苦難を共に乗り越えようと固く誓う二人。その場で深く一礼し、ユーノ達は背を向ける。

 

 彼らの乗った飛行機が徐々に香港の空へと溶けていく様を見上げ、さくらがふと呟いた。

「行っちゃったね」

「ああ」

 すると、隣で微笑むさくらの様子に、小狼(シャオラン)は首を傾げる。

「どうした?」

「うんうん・・・・・・」

 さくらは一瞬言葉を探すように視線を空に泳がせたが、すぐに顔を輝かせた。

「わたしね、すっごくうれしいんだ。小狼(シャオラン)君がユーノさんと仲良しになってくれたことが」

 小狼(シャオラン)は普段、内向的で心を許す相手が限られていた。そんな彼がユーノという信頼できる友人を得たことに、さくらは心からの喜びを感じていた。

 一方で、小狼(シャオラン)自身もまた、ユーノとの出会いが自分にとってどれほど大きな意味を持つかを、胸の内で噛みしめている。

「それとね、忘れないうちに言っておきたいことがあるの」

「?」

 小狼(シャオラン)は不意の言葉に少し目を丸くする。

小狼(シャオラン)君。お誕生日おめでとう――」

 今日は、小狼(シャオラン)の二十三回目の誕生日だった。さくらの柔らかな声に、小狼(シャオラン)は驚きと照れの混じる笑みを浮かべた。そして静かに言葉を返す。

「ありがとう、さくら」

 彼は穏やかな笑みを浮かべながら、そっと手を差し出した。

「帰ろうか」

「うん」

 さくらは迷いなくその手を取り、二人は静かに家路を辿り始めた。

 香港での数日は激動そのものだった。久方ぶりの危機感に晒され、能力を酷使した二人の身体には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。それでも、彼らの歩みには確かな意思が宿っていた。

 過ぎ去った日々を背負いながら、新たな未来への一歩を力強く刻み始める――。

 

 

 そして――物語は再び、世界を巡る。

 

 

 

 

 

 

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