ユーノ・スクライア外伝 PARALLEL STORY 作:重要大事
新暦079年 6月30日
第1管理世界「ミッドチルダ」
ミッドチルダ中央南駐屯地内A73区画
機動六課 ミッドチルダ地上隊舎 部隊長室
昼下がり、はやてから呼び出しを受けたフェイトは、部隊長室の静けさの中で思わず目を細めた。はやては無造作に彼女にシュークリームを差し出す。それは、都内でも名を馳せる菓子店で手に入れた逸品だった。
「これなー、クラナガンでも超が付く人気のお菓子屋さんで三時間並ばないと手に入らないシュークリームなんよ。ささ、遠慮せず食べて食べて!」
その言葉にフェイトは思わず微笑み、感嘆の声を上げながらシュークリームに手を伸ばした。
「うわー、美味しそう。いただきまーす・・・・・・うん、このカスタードクリーム! すごく濃厚ッ!!」
フェイトの顔が綻び、はやても同様に目を細めながら、シュークリームを楽しむ。
「ん~!! さすがは超人気店いうだけあるわ。女の子の好みを分かっていらっしゃることで♪」
甘味の誘惑には、いかなる年頃の女性も抗えない。二人が美味に浸っているところへ、もう一人の来客を告げるブザーが鳴り響いた。
「どうぞー」
はやての許可を得て入室してきたのはユーノだった。
部屋に足を踏み入れた途端、シュークリームを頬張るはやての姿を見て、彼はやや呆れたように口を開いた。
「・・・・・・人を呼びつけていながら、自分は呑気にティータイムとは。仮にも機動部隊、それも部隊長という立場に就く者であれば、もう少し緊張感を持ったらどうなんだい? そんなんだから恋次さんに舐められるんだよ」
フェイトが思わず肩を震わせる中、はやては痛いところを突かれたかのように胸を押さえた。
「うぅ・・・・・・出会い頭に強烈なジャブを食らった気分やな。どうやろう、ユーノくんもひとつ?」
幼馴染だからこそ忌憚のないユーノの言葉には、はやても深く刺さるものがあった。まるで免罪符のようにシュークリームを一つ差し出すが、ユーノは冷静にそれを断った。
「心遣いだけで結構。残りはなのはにでも上げたらいい。きっと喜ぶよ」
ユーノの視線は鋭く、それがまるで、彼の心には効かないとでも言わんばかりだった。そしてユーノは、二人の座る応接用ソファに腰を下ろす。やがてフェイトも、口元のクリームを拭いながら、彼女の瞳は真剣さを帯びた。
「それよりはやて、私とユーノを呼びつけた理由は何なの? 何かアンゴルモア関連で新情報が入ったとか?」
フェイトの問いかけに、「察しがええな」と口にしながら、はやても口周りのクリームを拭って表情を引き締める。
「まだ確定はしとらんけどな、その可能性が高いいうことで本局から機動六課に出動要請がかかった」
言うと、はやては目の前のモニターに映像を映し出す。映されたのは、とある管理世界の光景だった。
「第92管理世界『マリシャス』のとある村落で、奇妙なことが起こっとるみたいや」
「奇妙なこと?」
ユーノが問いかけると、はやてはさらに説明を続けた。
「その村は、ほんの少し前まで何の変哲もない平和なところやった。せやけど、半年前にある現象が起こったのを境に、そこは“呪われた村”と呼ばれるようになったんや」
「呪われた村? 一体、何があったの?」
フェイトが訝しげに尋ねると、はやては懐から数枚の写真を取り出した。
「村で飼われている家畜に異常が起こったんよ。これがその証拠や」
フェイトとユーノの前に差し出された写真には、奇形の動物達が写っていた。鼻の長い真っ黒な仔犬、透き通る皮膚を持つ豚、二つの頭を持った牛――いずれも目を疑うほど異様な姿だった。
「これは・・・・・・」
二人の驚愕が言葉を超え、ユーノが尋ねる。
「合成では、ないんだね?」
「紛れもない事実や」
疑念を抱くユーノの問い掛けに、はやては重々しく頷き、さらに続けた。
「そして、この奇妙な動物が生まれるようになって程なく・・・・・・今度は人間もおかしくなり始めたんや」
「人間にも? 奇形の子供が生まれたりってこと?」
「いや、それ以上に酷い。言葉通り人がおかしくなるんや。理性や感情を失って、まるで悪魔に魂を乗っ取られたかのように怪物に変貌し、見境いなく人を手にかけて殺す・・・・・・原因も治療法についても一切わからへん。せやから管理局はやむを得ず、外からも中からも誰も出入りできんよう結界を施した」
「つまりは、ロックダウン状態ということだね」
「確かに、原因も分からない中で外に被害を防ぐためには必要な処置だとは思う。ただ・・・・・・村人の立場に立てば、何だか遣る瀬ない話だね」
出入りが一切許されない状況にあることを確認するユーノの傍らで、フェイトはその重みを痛感していた。緊急措置とはいえ、自由を奪われた村人達の境遇を想うと、胸が締め付けられるような思いが込み上げてくる。
はやては、二人の様子をじっと見つめながら、管理局員として、そして部隊の責任者としての命令を口にした。
「フェイト執務官には、先行してこの事件の調査にあたってもらいたい。スクライアアドバイザー、あなたは執務官と共に同行し、その知識と経験を最大限に活用して事態の収束に当たってください。事件の背後にアンゴルモアが関わっていれば、無論それの回収も行う。たとえ古代遺物(ロストロギア)との関わりが無かったとしても、管理局として決して看過できるものでもあらへん。迅速な事件の解決を上層部(ウエ)は望んどる」
はやての言葉に、二人は即座に立ち上がる。フェイトは上司であるはやてに向かって、姿勢を正し敬礼する。ユーノも協力者としての立場から、潔く肯(がえん)ずった。
「了解しました。フェイト・T・ハラオウン執務官、事件解決の為に迅速に対処します」
「奇形動物の出現と、謎の狂人化現象・・・・・・その因果関係にアンゴルモアが関わっているとすれば、これ以上の被害を出さないためにも、事件の早期鎮静化が急務だな」
「あれ?」
なのはは、隊舎を歩いている最中に、ユーノとフェイトが並んでどこかへ出かけようとしているのを目にした。足早に駆け寄り、問いかける。
「ユーノ君、フェイトちゃんもどこ行くの?」
「あ、なのは」
「これから異世界調査に向かうんだ。アンゴルモアが関与しているかもしれないってことでね」
「もしかして・・・・・・二人だけで行くの?」
なのはの目がぱちぱちと瞬(まばた)き、少し戸惑いを帯びた声で尋ねると、ユーノは少し不思議そうな表情を浮かべながら、「そうだけど?」と端的に答えた。
「へ・・・へぇー・・・・・そ、そうなんだ」
その言葉を聞いた瞬間、なのはは露骨に引き攣(つ)った笑みを浮かべる。明らかに拗(す)ねた様子を隠しきれない彼女の心情を察したフェイトは、慌てて弁明を始めた。
「な、なのは・・・・・・誤解しないでほしいんだけど、これは飽くまで仕事であって、深い意味はないからね?」
「う、うん。もちろんだよ、フェイトちゃん。大事なお仕事だもんね」
フェイトの言葉を受けて、なのははなおも引き攣った笑みを浮かべたまま返事をするが、内心はもやもやとした感情がぐるぐると渦巻いていた。そんな彼女に追い打ちをかけたのは、他ならぬユーノの一言だった。
「フェイト、そろそろ行かないとヴァイス陸曹長を待たせちゃうよ」
「あ、うん! じゃあね、なのは。行ってきます!」
フェイトは、なのはに見送られながら、ユーノと共にヘリポートへ向かう。
「い・・・いってらっしゃい・・・・・・」
ユーノは、恋愛ごとに鈍感なのか、あるいは気づいていても仕事モードに入っているために意図的に感情を抑えているのか、その態度は淡々としていた。その態度が、なのはの心の奥底にある不快感をさらに煽り立てた。
なのはの心には、徐々にどす黒い感情が燻(くすぶ)り始め、ちょうどその時、彼女の感情のはけ口となるかのように、偶然にも都合の良い存在が通りかかった。
「どうした? まるで浮気現場でも目撃したようなツラして?」
「何かあったんですか?」
事情を知らない恋次やフォワードメンバーが、無邪気に声をかける。
なのはは、その瞬間――いつもの屈託のない笑みとは異なる、どこか狂気じみた笑面を顔に貼り付けながら、ゆっくりと振り返った。
「みんな・・・・・・今日の午後の訓練、予定を変更して模擬戦にしようかと思うんだけど、どうかな?」
「え!?」
「な、なんで急にそんなこと?」
「というかなのは・・・・・・おまえ、瞳(め)が笑ってねーぞ! 誰でもいいからぶっ飛ばしてやりたいって顔してるじゃねえか!!」
恋次は、その手の直感が鋭かった。なのはの内に潜む荒々しい感情を見抜き、付き合えばとばっちりを受けることは間違いないと察した。
「いやだなあ恋次さん♪ 私がそんな危ないこと考えるわけないじゃないですか♪」
言葉では否定するものの、なのはの内に潜む白き魔王の片鱗は明らかだった。笑顔の裏に隠された感情が露わになった瞬間、全員が一歩後ずさりした。
*
第92管理世界「マリシャス」
ピレネー山 山間部
白き魔王が暴走を始めんとしている頃、ユーノとフェイトはヴァイスの操縦するヘリで目的地、カルネ村を目指していた。
「おっと! お二方、この先気流が乱れますんで、ちょいと荒っぽい操縦になります!」
操縦桿をしっかりと握りしめ、ヴァイスは後方にいる二人に向かって軽い調子で声をかける。
「私たちは大丈夫。ヴァイスは操縦に集中して・・・・・・」
フェイトが声をかけたその直後、突如として乱気流が襲いかかり、機体が大きく揺れる。煽られた衝撃で、フェイトは思わずよろめいた。
「きゃ!」
彼女の体が倒れかけたその瞬間、ユーノが素早く手を伸ばし、彼女をしっかりと支えた。
「だいじょうぶ?」
「あ、ありがとう・・・・・・」
フェイトはユーノに助けられたことにほっとする一方で、そのさりげない紳士的な振る舞いと彼の優しさに、思わず胸が高鳴り、顔を紅潮させる。それを見たヴァイスが操縦席からおどけた声を上げる。
「ひゅー! お熱いっすねー、お二人さん!」
「ち、違うから! これはそういうのじゃないから!」
「ヴァイス陸曹長! その顔、絶対あとでなのはやクロノに告げ口するつもりですよね!? ダメですからね!」
二人は慌てて否定し、ユーノは特に必死だった。恋人の前で妙な噂が立てば、命に関わると感じていたからだ。
やがて、目的地に向かう間、二人は任務についてお互いに考えを語り合い始める。
「そういえば、こうしてユーノと一緒に捜査に出るのって、初めてな気がする」
「ああ、確かにそうかもしれないね」
フェイトが執務官となって十年近く経つが、これまでユーノと一緒に捜査に出る機会はほとんどなかった。今回が二人にとって初めての合同捜査となる。
「でも、なのはには申し訳ないなあ・・・・・・」
出発前に拗ねていたなのはのことを思い出し、フェイトは苦笑を浮かべながら呟いた。
「これは任務だよ。なのはだって、それくらいのことは理解してるはずさ。もう大人なんだから」
「わかんないよ。なのはは拗ねると、本当に大変なんだから。それに知ってる? 子供よりも、大人が拗ねるほうが、始末が悪いって」
「浦太郎と鬼太郎と一緒に暮らしている僕からすれば、最早常識に等しいね。しかしだ、さすがにフェイトに嫉妬するなんてことはないだろ?」
「だといいんだけど・・・・・・」
フェイトも、ユーノも心からそう願う。なのはは、少女時代から大人びた一面を持っていたが、魔法関連で信頼できる友や仲間に恵まれたことで、少しずつ変化していった。彼女は大人になりつつも、時折子供じみた言動をすることが増え、それはなのはにとって良い変化とも捉えられた。しかし、時にその「拗らせ方」が手に負えなくなることもあり、フェイトとユーノはその一長一短に心を悩ませることも少なくない。
ユーノはなのはのことを頭の片隅に残しつつ、話題を変えようとフェイトに話しかけた。
「話は変わるけど、これから僕らが向かう村・・・・・・カルネ村って、前にフェイトが保護した子が暮らしている場所なんだっけ?」
「あ、うん。そうなんだよ。私も行く直前に思い出してね・・・・・・」
フェイトは窓越しに白銀の山々を見つめながら答えた。
「もう何年も会ってないなー。無事でいてくれるといいけど」
かつて保護した子供がどうしているのか。彼女の安否を気遣いながら、フェイトの思いはカルネ村へと馳せていた。
数十分後、ヘリは山間部にあるヘリポートへ到達した。ユーノとフェイトは機体を降り、見送るヴァイスに軽く手を振る。
「それじゃフェイトさん、ユーノ先生、気いつけてください!」
「ありがとう、ヴァイス」
「なるべく早く帰って来られるよう、善処します」
二人はヴァイスに見送られ、目的のカルネ村へ向かって歩き出した。降り積もった雪道を踏みしめながら、フェイトは局指定のトレンチコートで身を包んでいたが、寒さを完全に防ぎきれず、時折頬を撫でる冷たい風に肩を竦めた。
一方、隣を歩くユーノは、いつもの羽織と作務衣に帽子という装いで、まるで寒さなど感じないかのように平然としていた。
「ねぇ、ユーノ。前から思ってたんだけど・・・いつも同じ格好だよね? 他に服、持ってないの?」
「あるにはあるけど、最近はこれが一番体に馴染んじゃってね。公式の場であればともかく、日常生活で機能性を重視すると、今さら他の服を着る自信がないんだ」
「でも、せめてコートくらい着ないとここは寒いよ。私のでよければ貸すけど?」
「それじゃフェイトが風邪を引いちゃうよ。だいじょうぶ、この羽織は保温性にも優れているから」
ユーノはフェイトの気遣いに、逆に彼女を気遣う余裕を見せる。その姿に、フェイトは悔しさと呆れを感じながらも、ほんの少し微笑んだ。
「もう・・・・・・後で風邪引いても知らないからね」
「相も変わらず過保護だな、フェイトは」
「私はただユーノを気遣ってるだけだよ。なのはのためにもね」
談笑しながら、二人は雪道をひたすら進み、カルネ村への道を歩み続けていった。
*
ピレネー山 カルネ村
雨露風雪(うろふうせつ)に晒された険しい稜線を歩き続けたユーノとフェイトは、ようやく目的の村の出入口が指呼(しこ)の間に見えてきた。カルネ村は現在、奇形動物の発生や謎の現象によって凶暴化する住民たちが続出したため、局員による厳重なロックダウン状態に置かれている。そのため、村の入り口には局員が歩哨(ほしょう)のように目を光らせていた。
「機動六課ライトニング隊所属、フェイト・T・ハラオウン執務官です」
「同じくエグゼクティブアドバイザーのユーノ・スクライアです。調査のため、村内への立ち入りを許可願います」
二人は身分証を提示し、調査の目的を明かすと、局員は即座に応じた。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
局員が案内する堅牢な結界の唯一の進入口を通り、ユーノとフェイトは内部へと進入した。いよいよ、本格的な調査が始まる。
「ここからは二手に分かれよう。ユーノは奇形動物について調べて。私は人が凶暴化する原因を調査する」
「わかった。気をつけるんだよ」
「お互いにね」
フェイトはユーノを見送り、彼女自身も調査に向かおうとしたところで、局員が声を掛けた。
「テスタロッサ・ハラオウン執務官。村へ行く際はあちらをご利用ください」
局員の指さす方に目をやると、そこには時代錯誤とも言える幌馬車があり、年配の御者が葉巻を吹かしながらこちらを見ていた。
「わ、わかりました・・・・・・」
少し戸惑いながらも、フェイトは言われるがままに幌馬車に乗り込んだ。馬車は雪道を揺れながら進み、村の中心地へと向かう。フェイトにとって初めての馬車での移動は、予想以上に激しく揺れ、車内で寒さに耐えることになった。
(任務とはいえ、こんな馬車(モノ)が現役の田舎だとは思わなかったなー)
すると、御者の老父がぼそぼそと呟き、突然フェイトに話しかけてきた。
「・・・・・・お役所様も大変だなー。こんな辺鄙(へんぴ)な田舎村に来て」
「いえ、仕事ですから」
「そりゃあ仕事でもよぉ。あんたみてーな若い公僕さんも、ずいぶん命知らずな奴じゃよォ・・・」
揺れる車内で、フェイトは御者の哀れむような声を無言で聞き流しつつ、何かを思案していた。
「半月前、村の家畜がおかしくなったと思えば・・・今度は人間がおかしくなってよー。訳の分からないことが次々起こる。こんなことが出来るのは『悪魔』だけじゃ。神罰をも恐れぬ悪魔がワシらの生活を滅ぼそうとしているのじゃよ」
「そうですか・・・」
フェイトは冷静に、その言葉を聞き流した。事前に聞かされていた情報が現実に起きていることを再認識しつつ、同時に御者や村人たちが「悪魔」に原因を求めていることに対して疑念を抱いた。
(科学よりも信仰を重視する閉鎖的で排他的な土地・・・・・・今でこそ死神や魔導虚(ホロウロギア)を認識できるようになったとは言え、悪魔を信じられるほどの信仰心は私には無い。必ず原因と結果がある。それを探すのが私の仕事――)
と、自分がここに来た理由。自分の成すべきことを述懐し使命感を持って事件に立ち向かおうと心構えをした、その時だった。
「うわっ」
そう心に決めた瞬間、突然耳に届いた悲鳴にフェイトは反射的に顔を上げた。そこには、御者の背中に覆いかぶさるように何かが乗っていた。
「えっ・・・?」
「るっ・・・ッ、ルー・ガルー!!」
恐怖に引きつった御者の叫び声を聞くや否や、“ルー・ガルー”と呼ばれたものは狼のような唸り声を上げ、涎(よだれ)を垂らしながら御者の首に嚙みついた。
「ギャアアアア!」
直後、御者の首元から噴き出した鮮血が車内を染めた。フェイトはあまりに突然の出来事に動揺し、身動きが取れないまま、その凄惨な光景を凝視していた。御者が命を奪われ、手綱が放たれると、驚いた馬は狂ったように全速力で走り出した。
「おわっ、うおっ」
馬車が突然スピードを上げたことで、フェイトは馬車から放り出され、雪道に叩きつけられた。
「ぐあっ」
体を強く打ちつけられ、痛みが全身を襲う。フェイトは辛うじて意識を保ちながら、乱れた呼吸の中で周囲を見渡したが、ルー・ガルーの姿も馬車の影も、もうどこにも見当たらなかった。
「今のは・・・何だったの・・・?」
幸運にも一命は取り留めたものの、傷ついた体で雪道を歩くことが難しい状況に、フェイトは厳しい現実に直面した。
「村は・・・どっ・・・ち・・・だ・・・・・・」
何とか気力を振り絞って歩き出そうとするが、やがて力尽き、彼女は雪の上に倒れ込んだ。
「・・・あ・・・」
意識が遠のいていく中、ぼんやりと霞む視界の中に、微かに何かの影が映り込む。
しかし、それが何を意味するのかを考える余裕もなく、フェイトの意識は闇へと沈んでいった。
*
カルネ村 とある牧場
一方、フェイトとは別行動でユーノは当初の予定通り、奇形家畜の調査を進めていた。幽寂(ゆうじゃく)な村外れにある農場を訪れ、牧場主に案内されながら視察を始める。
「これが例の牛・・・ですか」
「ああっ、悪魔の呪いに決まってる! この牧場ももうおしまいだ!」
牧場主は完全に怯え切り、何かに取り憑かれたかのような表情を浮かべていた。ユーノは眉間に皺を寄せ、目の前にいる異様な姿の仔牛をじっと見つめた。頭が二つ、胴体が一つに、余計な二本の脚。歩くたびにバランスを崩し、足取りは不安定だった。
「何から何まで異常だな」
顎に手を添え、ユーノはこの異常事態の原因について思案する。
だが、この牧場で奇形動物が生まれたのは初めてではないらしく、牧場主がさらに語った。
「ついこの前は、おかしなヒヨコも生まれたんだ。悪魔だ・・・悪魔の仕業だ!」
さらに北部にある別の牧場では、一つ目のヤギも生まれていたという。ここまで来ると、確かに「呪い」や「悪魔」という言葉が頭を過るほどだった。
そんな時、牧場主が悲嘆そうに呟いた。
「ああ・・・これはアムラムラの呪いだ。そうに違いない!」
「アムラムラ?」
ユーノは眉を顰めたが、牧場主はなんとも奇妙な伝説を語り始めた。
この地域には「アムラムラ伝説」と呼ばれる、恐ろしい悪魔の言い伝えがあるという。遥か昔、男を誘惑することに執心していた妖艶な女がいた。その女がアムラムラだという。
彼女は罰として魔女によりロバに姿を変えられ、脚に大きな鉄球を付けられて夜な夜な歩き回るという呪いをかけられた。そして、恨みを募らせながら死んでいった彼女は、死後に悪魔と化し、この地に祟りをもたらしたとされているのだ。
(興味深い話ではあるが・・・・・・呪いやたたりなんて非科学的だ。この一連の出来事にアンゴルモアが関わっている可能性が1パーセントでもある限り、それを突き止めるのが僕の仕事だ)
ユーノは科学者として、迷信に囚われることなど論外だった。あらゆる現象には必ず原因がある。その科学的原則に基づき、ユーノは冷静に周囲を観察する。牧場の土壌、草花、家畜の飼料、薬剤――すべてを徹底的に調べ上げた。
(南米のアルゼンチンでも、似たような話を耳にした事がある。遺伝子組み換え大豆の生産が増加したのに伴い、農作業の際に使う除草剤の使用回数が増えた。しかしその除草剤はEU諸国が使用を禁じるほど効果が極めて強く特殊なものだった。こうしたプロセスを経てできた遺伝子組み換え大豆が家畜のエサになることが多く、それに伴い家畜の奇形も増加した。つまり除草剤の使用が奇形の原因となった)
地球で類似する話を脳内に記憶していたユーノは、今回の事例もそれに当てはまるものが無いかと調査を進めたが、彼の予想に反して、この地で使用されている農薬や家畜の飼料に異常は見られなかった。すべてが何の変哲もない、至って普通のものであることが判明したのだ。
(これだけ念入りに調べても怪しい点は見つからないとなると・・・・・・まさか本当に悪魔の呪いだと言うのか? それともこの状況がアンゴルモアによって固定された状態なのか?)
アンゴルモアの性質として、周囲の心を取り込み具現化する力がある。『特定の状態を固定化する』という能力を持つそれが、この地に悪影響を与えている可能性も否定できなかった。周囲の人々が悪魔の仕業だと信じるのも、決して非合理的ではないのかもしれない。
真相は未だ闇の中にある。その闇の中から真実という名の光を見つけ出すのは至難の業、雲を掴むような話だ。ユーノがどうしたものかと考えあぐねていた時、不意に、牧場主が叫んだ。
「な、なんだって!?」
牧場主は電話を受け、震えながら話している。ユーノは顔をしかめつつ、恐る恐る問いかけた。
「一体どうしたんですか?」
「あぁ・・・・・・まただ・・・・・・また出たんだよ! 今月だけで十人目だ!」
「出た? 何が出たんですか?」
「ルー・ガルーだ!! 俺たちは奴に殺されるんだぁぁ!!」
まるでこの世の終わりかのような絶望の声を上げた牧場主は、その場で取り乱した。
「ルー・ガルー・・・・・・?」
ユーノはその言葉を反芻(はんすう)する。事前にはやてから聞いていた「人が凶暴化する」という話が脳裏を過る。おそらくこの「ルー・ガルー」とは、凶暴化した人間を指しているのだろう。
奇形家畜、ルー・ガルー、そしてカルネ村に起こる異様な現象。果たしてこれらは本当にアンゴルモアによるものなのか? それとも、古くからの呪いなのか? ユーノは未だ明確な答えを見出せずにいた。
*
同時刻 カルネ村 東部
「うぅ・・・・・・」
意識を取り戻したフェイトが目にしたのは、見覚えのない天井だった。極寒の雪道に倒れていたはずの自分が、今は暖かな布団の上にいることに気づく。
「ここは・・・・・・?」
誰かに助けられたのだと理解すると、ゆっくりと身体を起こし、周囲を見渡した。部屋は最低限の生活道具しかなく、殺風景な印象を受ける。自分がどこにいるのか、どうすべきかを考え始めたその時、部屋の扉が音もなく開いた。
「気がつきましたか?」
フェイトは反射的に声の方へ視線を向ける。扉の向こうから入ってきたのは、銀色の髪を結った麗しい外見の若い女性。彼女は盆に乗せた温かい飲み物を手に、フェイトのもとへ歩み寄った。
「・・・・・・」
どこかで見覚えのある顔立ちだが、記憶が曖昧なフェイトは、女性をじっと見つめながらも思い出せないでいた。女性はそんな彼女の様子に気づくことなく、静かに温かい飲み物を差し出す。
「飲んでください。身体の中から温まりますので」
「あ・・・うん。ありがとうございます」
フェイトは差し出されたホットミルクを受け取り、どこか人間味の薄い女性の態度に戸惑いながらもお礼を述べた。女性は無表情のまま「お気になさらず」と応える。
(どこかで見たような・・・・・・)
フェイトはホットミルクを口にしながら、記憶の糸を手繰るように女性の後ろ姿をじっと見つめる。彼女の脳裏に、過去の記憶がぼんやりと蘇る。
それは、フェイトが執務官になって間もない頃、違法研究施設から救出した少女のことだった。ふとハッとしたフェイトは、再確認するかのように女性に問いかける。
「マートル・・・・・・あなた、マートルじゃない!?」
その名を聞いた女性――マートルは、スープを器に盛る手を一瞬止め、ゆっくりとフェイトの方へ振り返った。そして、驚きの表情を浮かべる。
「・・・・・・驚きましたね。私を覚えていらっしゃるなんて」
「覚えてるよ! 久しぶりだね・・・・・・何年振りだろう?」
自分がかつて救出した少女が目の前にいると分かると、フェイトは再会を喜び、柔らかな笑みを浮かべた。
「かれこれ八年にはなるかと・・・・・・あなたに助けてもらった時、私は十歳でした」
「そっか。もうそんなになるんだね。すっかり大人っぽくなったね」
「お陰様です」
マートルは淡々と食事の準備を進めながら応えるが、その表情にはどこか冷たさが感じられた。
「でも驚きましたよ。フェイトさんがこの世界に来ていることも、雪の中で行き倒れているとも思いませんでしたから。あなた・・・“アレ”に襲われたんじゃないですか?」
「! そうだ・・・御者のお爺さんが怪物みたいなのにやられたんだ。あれは一体――・・・」
「ルー・ガルーです・・・」
「ルー・ガルー・・・?」
フェイトは聞き慣れない言葉に戸惑いを覚え、怪訝そうな表情を浮かべる。マートルは背を向けたまま説明を始めた。
「この辺りじゃ大人も子供も知ってる怪物です。普通の・・・フェイトさんみたいな善良な人間に、ある日突然アムラムラと呼ばれる悪魔が取り憑き・・・凶暴なケダモノのようになるんです。夜も眠らず、痛みも怖れない。言葉も心も失って、人や家畜を襲うようになる・・・・・・そして悪魔は襲った相手に次々取り憑いていく・・・悪魔が次の人間や家畜に乗り移り、やがてルー・ガルーの身体から離れると、ルー・ガルーになっていた人間は死ぬ・・・・・・しかし次に取り憑かれた人間がまたルー・ガルーとなる――この村は悪魔に呪われています・・・・・・」
「・・・・・・だから管理局はこの村を結界で封鎖した・・・・・・?」
フェイトは眉を顰めつつ、マートルの言葉に応じた。彼女の語る内容には、どこか諦観が漂っていた。
「管理局だって万能じゃありません。医局の方や学者の人達が何人もこの村にやって来た・・・・・・だけど誰もルー・ガルーを治せなかった。それどころか、ルー・ガルーに食われ全員死んだ」
やがてマートルは、「どのみち死ぬなら悪魔に憑かれたのと同じですよ」と言うと、寸胴鍋で温めていたスープをフェイトに差し出す。
「フェイトさんも、それを食べたら早くここを出た方がいいですよ。でないと、またあなたを狙ってルー・ガルーが現れるかも――・・・」
フェイトはスープを受け取り、一口啜る。そして、スープに映る自分の顔を一瞬見つめた後、静かに決意を口にする。
「たとえそうだとしても、私は逃げるわけにはいかない。この村で起きている悲劇を一刻も早く終わらせる。それが私が此処へ来た理由」
言うと、フェイトは優しい表情でマートルを見つめた。
「マートルが私を助けてくれたように、今度は私がマートルを助ける番だよ」
その言葉を聞くと、マートルは顔を伏せ、呟いた。
「・・・・・変わらないですね。そういうところ。ほんと、あなたのそのひとりよがりの善意は」
「マートル? 何か言った?」
フェイトが問いかけるが、マートルは視線を逸らし、仮面を被ったかのような微笑を浮かべた。
「いえ、なんでもありません」
その時、バタンと扉が開き、複数の村人が押し入ってきた。先頭に立つのは、猟銃を構えた聖職者風の男だった。
「やっぱりここか」
突然の訪問と物騒な装備を目の当たりにするや、フェイトもマートルも吃驚した表情を浮かべる。
「マートル。ゲオルグ旦那の御者・ハンスが殺(や)られた・・・ルー・ガルーだ」
「知ってますよ」
「ハンスが乗せていたのはその女だ。渡してもらおう」
聖職者は峻厳な態度と冷徹な目でフェイトを睨み、猟銃の銃口を彼女に向ける。フェイトが身構えた瞬間、マートルがすぐさま間に入り、声を上げた。
「手当てした時にちゃんと調べました。この人は咬まれたり引っ掻かれたりしていません。悪魔は入り込んではいません」
マートルは悪魔が人間に憑依する際の特定の条件を知っていた。その知識をもってフェイトが悪魔憑きではないと主張するも、聖職者達は冷ややかな目でフェイトを見つめ続けた。
「ルー・ガルーは人を選ぶ。仲間になりそうなヤツはとどめを刺さずに逃がすんだ」
「何を根拠にそんなことが言えるんですか?」
マートルが食い下がるが、村の男達はフェイトを悪魔の仲間だと信じ込んでいる。
「こいつは管理局の人間だ! ワシ等を助けると言って見放して、誰も逃げられないように閉じ込めた!」
「悪魔の仲間にゃうってつけだぜ! 引きずり出せ!!」
男達は激しい怒りを抱き、局員であるフェイトを目の敵にすると、療養する彼女に暴行を加えようとした。
「ちょ・・・待っ・・・」
「お止めください!」
フェイトが必死に声を出そうとした瞬間、マートルが叫んだ。
「その人は・・・フェイトさんは善良な人です! かつて違法研究施設で捕らわれていた私を助けてくださった、私の恩人です! 村の習わしは関係ないはずです、違いますか!?」
彼女は全身でフェイトを庇い、必死に身の潔白を訴えた。しかし、聖職者は容赦なく猟銃をマートルに突きつける。
「誰に向かって口を利いているマートル? 誰の好意で貴様に衣食住を提供してやってると思っている? 自分の立場をよく考えて行動する事だ」
マートルは、この村では立場の弱い人間であり、聖職者の男に対して強く反論することができなかった。
「さぁ、連れていけ!」
険しい表情で命令を下す聖職者。その冷酷な言葉に、マートルは何も言い返すことができず、ただ沈痛な面持ちでフェイトを見つめるしかなかった。フェイトは無理やりベッドから引きずり出され、半ば強引に連行される。
最後までフェイトを庇い切れなかったマートルの姿に、フェイトは優しく微笑み、念話で語りかけた。
(大丈夫だよ、マートル。私は平気だから)
(フェイトさん・・・・・・)
(きっと大丈夫だから)
フェイトは気丈に振る舞い、少しでもマートルを安心させようと、穏やかな笑みを浮かべたまま聖職者達によって外へと連れ出されていった。
寒空の下に連れ出されると、フェイトは背中に猟銃を突きつけられ、両手を上げたまま彼らを刺激しないよう細心の注意を払った。指示通りに前を歩いていると、やがて地面に藁(わら)と薪(まき)が並べられた場所へと立たされた。
「・・・・・・私をどうするつもりなんですか?」
何をされるのか問いかけると、聖職者の男が冷然とした声で答えた。
「悪魔憑きの人間をただ殺しても、悪魔は逃げ出して別の人間に憑くだけだ。悪魔を殺すには――憑いた人間に閉じ込めたまま焼き殺すしかない」
聞いた瞬間、フェイトの背筋は凍りついた。自分がこれから火炙りにされることを悟り、動揺が隠せなかった。
「ちょっ・・・ちょっと待ってください! 生きたまま焼くってことですか!?」
「逃げ回れねぇように、膝を撃ち抜かせてもらうぜ」
いくらなんでも狂っている。彼らの狂気にフェイトは目を見張る。
これではまるで彼らの方が悪魔ではないか、そう思いつつも、ここで抵抗すれば命が危ないことは分かっていたが、この状況では逃げ場もなかった。
絶望感が襲う中、万事休すと思ったその時だった。
「うわあああっ」
断末魔の叫びと銃声が突然響き渡った。フェイトも他の村人達も、一斉にその方向へ顔を向けると、ルー・ガルーが村人の一人に襲い掛かっているのが見えた。
「るっ・・・ルー・ガルーだァ!!」
その瞬間、全員が恐怖に凍りついた。ルー・ガルーは村人を押し倒し、その喉元に牙を突き立てて嚙みついた。
「た・・・助け・・・ゴホッ・・・」
残忍にも村人の喉を食い千切り、ルー・ガルーの口元が血に染まる。聖職者達はその獰猛な怪物の所業に戦慄し、思わず動きを止めた。
「クソッ・・・」
「気をつけろ! 銃で殺しても悪魔に逃げられる! 生け捕りにするんだ!」
「脚を狙え!」
指示が飛び交い、村人達は猟銃を構えて発砲したが、ルー・ガルーの俊敏な動きには一発も命中しなかった。
「何をやってる!?」
「わ・・・わかってるが速――・・・」
動きを捕捉できずにいた次の瞬間、村人目掛けてルー・ガルーが再び襲い掛かる。
「うわあああ」
襲われそうになった瞬間、聖職者が放った一発がルー・ガルーの左肩を貫いた。
「この悪魔がッ!!」
ルー・ガルーは肩を負傷し、動きが鈍くなったところで、再び聖職者が銃口を向けた。
「脚を撃ち砕いてやー・・・」
引き金を引こうとした瞬間、金色のバリアがルー・ガルーを守った。
「な!?」
驚いた聖職者は目を見開く。フェイトが魔法でルー・ガルーを庇っていたのだ。
「何のつもりだ貴様!? 退(ど)くんだ!!」
「どんな理由があったとしても、人の命を奪っていい理由なんてありません」
「そいつは人間ではない! 悪魔に憑かれた異形の怪物だ!」
「違います! 私たちと同じ人間です! 今ここでこの人を見捨てたら、それこそ本当に悪魔に魂を売ることになる!」
フェイトは人命の尊さを守ろうと、ヒューマニズムに則り、ルー・ガルーを助けることが自分の正義だと信じていた。
しかし、村人達は多数の犠牲者を出した怪物を前に、彼女の行動を理解することができなかった。その混乱の最中、ルー・ガルーはどさくさに紛れて逃走を図った。
「ルー・ガルーが逃げるぞ!!」
「に・・・逃がすな! 追え!」
村人達は急いでルー・ガルーを追いかけるが、聖職者の男はフェイトを鋭く睨みつけた。その視線には、激しい怒りと侮蔑が込められていた。
「余所者が・・・・・・その身勝手な善意で我等を見殺しにするつもりか?」
「そんなつもりはありません。私は人として、自分なりの方法であなた達を救います」
「いつか貴様にも神罰が下るぞ」
聖職者は捨て台詞を吐き、ルー・ガルーを追って立ち去った。
ようやく難を逃れたフェイトだったが、その直後、突然異変が彼女の身に起こった。
(あれ? なんだか・・・・・・急に眩暈が・・・・・・意識が遠のいて・・・・・・)
不意に視界がぼやけ、体の自由が利かなくなる。両膝を地に付け、彼女の意識は徐々に闇へと沈んでいった。
*
カルネ村 西部
その頃、ユーノは農場を発ち、カルネ村の西部へと向かっていた。しかし、そこで彼が目にしたのは、まさに地獄絵図としか言いようのない光景だった。
雪に覆われた地面には、無数の死体が散らばっていた。老若男女問わず、彼らの身体には噛み千切られた痕が残り、出血多量で命を落としていた。
家々も荒らされ、生存者は一人として見つからない。
「酷い有様だ・・・・・・ここで一体、何があったんだ?」
その時である。ユーノの耳に人の悲鳴が飛び込んできた。
「うわああああああ!」
ユーノは一瞬も迷わず、その叫び声の元へと駆け出す。
「く、来るなぁぁあああ!!」
銃を乱射しながら、絶望的な叫び声を上げていたのは、フェイトと対峙した聖職者の男だった。彼の周囲には、すでにルー・ガルーによって殺された村人達の遺体が転がり、男一人が辛うじて生き延びている状況だった。
左肩を負傷しているにもかかわらず、ルー・ガルーはなおも激しい攻撃を続け、村人達を次々に血祭りに上げ、今度は最後の一人である聖職者に狙いを定めた。
「ウアアアアア!」
恐怖に駆られた聖職者は猟銃の弾を全て使い果たすが、ついには弾切れとなり、死を覚悟したその瞬間――
「ストラグルバインド!」
まさに天佑神助(てんゆうしんじょ)の如く、ユーノの放った拘束魔法がルー・ガルーの動きを封じ込めた。
「早く逃げて!」
ユーノの声に促され、聖職者の男は命を惜しんでその場から逃走する。ユーノは冷静にルー・ガルーを観察し、目の前の異形を分析し始めた。
「これがルー・ガルーなのか?」
ユーノは、これがアンゴルモアの力の影響を受けた姿なのか、それとも別の何かか、様々な可能性を巡らせながら考えをまとめようとする。
しかし、その推測を繰り返す中で、彼はまったく異なる結論に至った。
「いや、違う・・・・・・これはルー・ガルーなんてものじゃない。これは!!」
ユーノが何かに気づいたその瞬間、ルー・ガルーは強力な腕力で拘束魔法を破り、狂乱の状態でユーノに飛び掛かってきた。
すぐさまユーノは斬魄刀を抜き、迷うことなくルー・ガルーの首元を一閃。
斬られた瞬間、ルー・ガルーの喉からは血が噴き出し、真っ白な雪原が瞬く間に赤く染まる。
ルー・ガルーはそのまま息絶え、静かに倒れた。ユーノは刀についた血を振り払いながら、死んだルー・ガルーを見つめ、険しい表情を浮かべた。
「まさか、こんな迷信が罷り通ってる土地があるとは・・・・・・フェイトの事が気がかりだ」
幼馴染の無事を案じるユーノは、すぐに雪道を駆け出し、彼女の元へと急いだ。
*
謎の意識混濁症状から目を覚ましたフェイトの視界は酷くぼやけていた。しかし、次第に状況が見えてくると、彼女は自分の異変に気付いた。
(全身が痺れる・・・・・・動けない)
身体は横たわったままで、手足は何か強い力で拘束されている。拘束の感覚から、それが魔法によるバインドであることにフェイトはすぐに気づいた。
「あぁ・・・あぁ・・・」
薄暗い室内、暖房設備もなく、粗末な掘っ立て小屋の中で、彼女は助けを求めようと声を出そうとしたが、まともに言葉を発することさえできなかった。
(声が・・・・・・上手く出せない・・・・・・神経毒・・・・・・どこで?)
誰かが毒を使い、声と手足の自由を奪ったのだと確信したものの、どのタイミングでそれを仕掛けられたのか見当もつかない。
だが、ひとつだけ脳裏に浮かぶ可能性があった。それは、彼女自身も無意識のうちに拒否していた最悪の事態だった。
(まさか・・・――そんなこと)
すると突然、小屋の扉が軋む音を立てて開かれた。
フェイトは慌てて入って来た人物を確認しようとするが、そこにいたのは――無表情でこちらを見つめるマートルだった。
「まーどぶ・・・・・・これぇは・・・いっだい・・・・・・」
痺れた舌で言葉を紡ごうとするも、まともに話せない。そんなフェイトを冷ややかな目で見下ろすと、マートルは静かに彼女の傍へ歩み寄った。
「フェイトさん。あなたは善良な人間だ。私が言うのだから間違いない」
「ど・・・どう・・・して・・・・・・こんだぁ・・・・・・?」
「フフフ、今まで考えたことありますか? 自分が助けた子供がそのあと、助けるよりも不幸な状況に陥っているかもしれないなんて」
不気味な笑みを浮かべ、マートルはフェイトの顔を見下ろしたまま、過去の出来事を具(つぶさ)に語り出す。
「あなたに保護されてしばらくして、身寄りの無かった私は管理局の保護施設を通して、この村へ引き取られる事になった。でもこの村の住民はクズ以下だったわ。外面ばかり良くて、私をまるで奴隷みたいに虐げた。あの聖職者・・・・・・ガウスは、崇高な職務に就いている身ながら、裏では権力を掌握して、富を独占しこの村を実質統治している。あの男の色眼鏡にかかれば、誰も逆らえなくなる。まして、先天的に強い魔力を有している私のような子供ならなおのこと・・・・・・」
マートルは嘲(あざけ)るようにフェイトの顎を掴み、再び言葉を続けた。
「イメージできますか? 毎日、陽が昇る前に叩き起こされ、馬車馬のように働かされる。そうして働いて得た利益はすべて奴らの懐に収まり、私には何も残らない。泣いても怒っても叱咤され、理不尽に暴力を振る舞われ、人間らしい扱いなんてされなかった。これじゃ研究施設に居た方がまだ真面だった。そうして心が壊れていく中で、私は自分の境遇を呪ったわ。同時にこんな目に遭うために生まれるくらいなら、いっそ死にたい。楽になりたい。でも、死ぬ前にあいつらに私がこれまで受けたのと同じくらいの苦痛を味合わせたい――心からそう願った」
話を一旦区切ると、マートルは懐から紫紺色の怪しげな結晶石を取り出した。それをフェイトの目の前に掲げ、堂々と見せつける。
「これが何か、わかりますか?」
フェイトはその石を見た瞬間、目を見開いた。
「あ・・・あんごる・・・も・・・あ・・・・・・!」
「さすがはフェイトさん。これが何かよくご存じですね。これを見つけてしばらくして、私が願ったことはすべて現実のものになった。理由もなく奇形動物が生まれ、人はルー・ガルーとなった。みんなが恐怖に慄きながら苦しむ姿を見た瞬間、私の中にこの上もない快感が生まれた! 嗚呼・・・私は今満たされているんだって! あれだけ憎かった村人が狂気に駆られ、喘(あえ)ぎ、喚(わめ)き、苦しみ、やがて絶望して死ぬ!! これを見るために私は生きてきたんだって、初めて自分の生を実感できた!!!」
猟奇的とも言える笑みを浮かべ、マートルは満足げに語った。フェイトは、目の前の人間がもはやかつて救った少女とは別の存在に変わっていることを痛感する。
すると突然、マートルは笑みを消し、フェイトを睨みつけながら低く呟いた。
「だけど、私にとって想定外の事が起きた。フェイトさん・・・・・・あなたが此処に来たこと。行き倒れていたあなたを見つけた瞬間、私の心の中に沈んでいたどす黒い感情が沸き上がった。あなたの無思慮な善意によって私はこうなってしまったのだ。だったら、あなたにはそれ相応の報いを受けてもらわないといけない」
マートルの復讐心は、村人だけでなく、フェイトにも向けられていた。彼女の中で八年間燻ぶっていた憎しみが、今、爆発しようとしていた。
「フェイトさん・・・・・・前にあなたは言ってましたよね。子供が自由に未来(ユメ)を見られない世界は、大人も寂しい。だから私がそれを変えるんだって」
言葉すら発することができないフェイトの顔を見つめると、マートルはおもむろにナイフを取り出し、それを高く振り上げた。
「なら、私からも一つ言わせてください――・・・」
そして、肉食獣のように爛々(らんらん)と危険な光を湛えた目でフェイトを見ながら、憎悪の声で言い放つ。
「私は、あなたの所為で自由な未来(ユメ)を見る権利を奪われた被害者なんだって!!」
ナイフは一瞬の間を置いて、フェイトの顔に向けて振り下ろされた――その瞬間。
「フェイトォォ!!」
扉を蹴破り、中に突入してきたのはユーノだった。瞬時にホイップバインドを発動し、マートルが手にしていたナイフを弾き飛ばす。フェイトにナイフが振り下ろされる直前、間一髪で彼女を救い出した。
「大丈夫かい?」
「ゆ・・・ユーノ・・・・・・」
フェイトの声は掠れ、まだ完全には回復していない。ユーノは彼女の状態を一瞥し、すぐに判断を下す。
「とにかく、ここから逃げるよ」
マートルを捕縛するよりも、まずフェイトの安全を優先することを決めたユーノは、彼女を抱きかかえ、素早く小屋を脱出する。
一方、マートルは、あと一歩で命を奪えるはずだった相手を仕留め損ねたことに激しい怒りを抱いていた。
「くっ・・・・・・私の邪魔はさせない!!」
小屋を出たユーノは、まずフェイトの手足を拘束していたバインドを解いた。続いて、麻痺していた彼女の口の動きを回復させる処置を施す。
「ありがとう・・・ユーノ・・・・・・助すけてくれて」
「礼には及ばないさ。しかし、とんだ目に遭ったね。ひょっとして彼女が例の・・・?」
「うん・・・・・・だけど・・・・・・」
フェイトは重い表情を浮かべ、言葉を続けることができなかった。別れてからの八年間、マートルがこんなに不幸な人生を歩んでいたとは、微塵も思っていなかった。彼女の心に押し寄せる無力感。
ユーノは、これ以上フェイトに追及するのは無粋だと判断し、話題を変えることにした。
「フェイト。例の狂人化現象について、分かったことがある。この辺りじゃルー・ガルーなんて呼ばれているみたいだけど、あれは悪魔のせいじゃない。“狂犬病”という感染症に罹(かか)ったんだ」
「狂犬病?」
その言葉にフェイトは反応した。幼少期、使い魔であるアルフを伴っていた際に、海鳴市で狂犬病のワクチン接種を義務付けられたことを思い出す。
「狂犬病は、吸血鬼や狼男といった民間伝承のルーツの一つと言われている。アンゴルモアは彼女の心を取り込み、その願いを具現化した。それによって奇形動物が生まれ、人々は狂犬病を発症した。おそらく、それがこのカルネ村で起きた惨劇の真相だよ」
ユーノの推理を聞き、フェイトは膝から崩れ落ち、雪の上に突っ伏すようにして愕然とした表情を浮かべた。
「そんな・・・・・・私はただ、マートルに幸せになってほしかっただけだった・・・・・・なのに、どうしてこんな・・・・・・私の何が間違っていたの!?」
フェイトは、自分の理想を信じて執務官として歩んできた。そして、苦しむ人々を一人でも多く救うため、努力を重ねてきた。
これまで担当した事件では、古代遺物(ロストロギア)の私的利用や違法研究の捜査の過程で幼い子供が巻き込まれるものが多く、フェイトはその度に彼らに救いの手を差し伸べ、助けられた子供から好意を持たれ、彼女の知る限り皆が幸せになったと聞き及んでいた。
彼女の思い描いた未来は、子供たちを幸せにするためのものだった。だが、マートルの現実は彼女の想像を遥かに超えていた。
涙が頬を伝い、手は冷たい雪の上に沈んでいく。ユーノは、フェイトの悔恨に満ちた姿を見つめた後、静かに諫めるように口を開いた。
「人の『縁』は大切だ。ただ一歩間違えると『怨』になり恨みを買うことになる。だから十分気をつけないといけない。フェイト・・・・・・僕が思うに、間違っていないと思っていたことが、君が犯した間違いなんじゃないかと思う」
「その通りよ!!」
刹那、甲高い声が二人の耳に飛び込んできた。振り返ると、そこには狂気じみた表情を浮かべたマートルが立っていた。彼女は憎しみに満ちた瞳で、特にフェイトを鋭く睨みつけていた。
「自分の賢さ・優秀さに自惚(うぬぼ)れ、人のために尽くす自分が大好きで、冒す危険に酔いれる。皆を幸せにしたい、Win-Winにしたい。でも、それらは所詮あなた個人の欲望なのよ! ひとりよがりの善意が相手を傷つけ、その親切が他人の重荷になることなんてこれっぽちも気づかない人間ほど始末の悪いものはないわ!」
「めて・・・・・・」
「善意や親切だけで、この世界の苦しみが救えるものなら、そんな簡単なことはない。あなたは人生をあまりにも単純に割り切っている!!」
「やめて・・・・・・もうやめて・・・・・・」
「善意や親切や思いやりは、時には罪悪を作ることさえあるんですよ! あなたはそれをもっと早く自覚すべきだったんだ、フェイトさん!!」
「やめてよぉぉぉぉ!!!」
フェイトに降り注ぐ言葉は、まるで彼女の心を撃ち抜く銃弾のようだった。今の彼女には、その攻撃を避ける術はなかった。できるのは両手で耳を押さえ、耳障りな言葉を聞かないように耳を押さえる事だけだった。
だが、どれだけ耳を塞いだところで、不都合な事実が覆るわけでもない。
現にマートルは、自尊心を木端微塵に砕かれたフェイトを執拗に攻め立て、彼女の心を抉り続けた。
「いいえやめないわ!! あなたにもしっかり償ってもらうわ。私の八年間分の恨み――今ここでねッ!!」
その言葉と共に、マートルは再びナイフを手に取り、フェイトへと襲い掛かった。ユーノがすぐに防御の態勢を取ろうとしたが、その瞬間、予期しない事態が起きた。
「がっ・・・・・・」
不意に、マートルの体に走る鋭い痛み。心臓を強く鷲掴みにされたような衝撃に、彼女は力なく膝を突いた。
「マートル? どうしたの、マートル!?」
フェイトは、その異常な様子に気付き、何が起きたのか理解できないまま声を掛けた。「うぅ・・・・・・震えが・・・頭がガンガンする・・・」
マートル自身も、この異変が何なのか把握できていないようだった。激しい頭痛と眩暈が襲い、彼女は苦しみ悶える。
「う・・・ゲエエエエエ!!」
突然、マートルは腹の底から逆流するように何かを吐き出し、さらに体液が全身から漏れ出すように流れ出した。彼女の状況は明らかに悪化していた。
「っ!」
その瞬間、ユーノは一連の異変を見て、何が起きているのかを理解した。険しい表情を浮かべながら、フェイトに重い真実を告げる。
「フェイト・・・・・・彼女は、狂犬病に冒されているんだ!」
「えっ!?」
「グガガガ・・・ガァ!」
信じられないという表情を浮かべるフェイト。
しかし、病状が急激に進行したマートルは、すでに正常な精神を失い、狂人となったルー・ガルーへと変貌していく。
「マートル、しっかりして!!」
フェイトは必死に彼女に呼びかけるが、時すでに遅し。マートルは動くものすべてを敵とみなし、今度はフェイトに向かって獣の如く襲いかかってきた。
「危ない!!」
ユーノは咄嗟にフェイトを庇い、その身を挺して彼女を守った。間一髪でマートルの攻撃を躱すと、彼女が落としたアンゴルモアの結晶を素早く拾い上げ、フェイトを抱えながらその場を急いで離れる。
「一旦引くよ!」
「でも・・・!」
フェイトは躊躇いの声を上げるが、ユーノは彼女を強引に連れ出し、二人はできるだけ遠くへと疾駆する。背後では、マートルが凄まじい咆哮を上げ、四つん這いになって狂乱状態で追いかけてくる。
どうにかマートルを巻くことができたフェイトとユーノ。しかし、フェイトはその場に立ち止まらず、すぐにマートルの救出をユーノに懇願する。
「ユーノ、早くマートルを助けないと・・・・・・! 急いで管理局の医療施設で運べばまだ・・・・・・」
「手遅れだ」
フェイトの言葉を即座に否定したユーノは、眉間に深い皺を寄せながら、厳しい現実を告げた。
「狂犬病の致死率は100パーセントなんだ。そして、今なお、狂犬病の特効薬はどの次元世界でも開発されていない。そういう病気なんだよ。一度発症してしまったら、終わりなんだ」
「それじゃ、マートルをこのまま見殺しにしろっていうの!? そんなの、絶対にできないよ! 何か方法があるはずだよ! ユーノなら、何か知ってるんじゃないの!?」
フェイトはユーノに縋(すが)るように声を上げ、彼の知識に一縷の望みを託す。しかし、ユーノは静かに首を振ると、淡々と続けた。
「確かに、発症後に唯一助かった例として『ミルウォーキー・プロトコル』と呼ばれるという実験的な治療法があるにはある。でも・・・・・・」
「でも・・・・・・?」
一瞬、フェイトの顔に希望が浮かぶ。しかし、ユーノの続く言葉は、彼女の淡い期待を無情にも打ち砕いた。
「狂犬病発症後の生還者は、僅か六名ほどしか確認されていない。この治療でも99.9パーセントは助からない」
「そんな・・・・・・じゃあ、マートルは・・・・・・」
フェイトは震えながら、地に膝を突いた。彼女の瞳から溢れた涙は、雪の上に静かに落ちていく。医療技術の最先端である管理局ですら助けられないと知り、フェイトのショックは言葉にできないほど深かった。ユーノはその痛みを理解しつつ、優しく諭すように言葉を続ける。
「フェイト、君は命を弄ぶ行為やそれを虐げる者を許さない人間だったね。だからこそ、想像してほしいんだ。治療が難しい患者を延命させるために、ベッドの上で意識もないまま管だらけにされて生かされ続ける。それはさながらスパゲティの如く――だから人は、それを『スパゲティ・シンドローム』と揶揄する」
現代医療において、たびたび目撃される病気の延命治療を嘲笑した言葉を例に挙げると共に、フェイトの目に浮かぶ疑問を見て、ユーノは冷静に続けた。
「僕には、それが本当に人の尊厳を守っていることなのかどうか、わからないんだ。むしろ、僕から言わせればそれこそ命を弄ぶ行為じゃないかと思う。フェイト、君もそう思わないかい?」
ユーノの言葉は、単なる冷静な事実を超えて、フェイトに深い問いかけを投げかけていた。命を救うことがすべてではなく、どう生きるか、そしてどう死ぬかが大切なのだと。
だが、今のフェイトにとって、そのような哲学的な問いに向き合う余裕はなかった。ただ、自分が救おうとした人間が、逆に苦しんでいる。何よりその遠因が他ならぬ自分に合った事が。その事実に、彼女は打ちひしがれていた。
「・・・・・・狂犬病になった以上、死ぬのは避けられない・・・だけどあれじゃマートルが不憫だよ・・・神さまはなんでこんな残酷な運命をあの子に背負わせるの・・・・・・」
フェイトはか細い声で、マートルの運命を嘆いた。ユーノは視線を下げ、どこか乾いた声で応じた。
「神も悪魔も――そんなものは存在しないよ。“死”は単純に“死”なんだ」
まるで何度も死に直面した者のような、深い達観が込められていた。フェイトには、その言葉が妙に重く、説得力を持って響いた。
「・・・ただ、それでも。せめて死に方は選びたいよね・・・」
ユーノは静かにフェイトの涙を見つめ、彼女のために一つの決断を下した。彼女の願いに応え、マートルの苦しみを少しでも和らげるために――
*
カルネ村 北部 教会施設
狂犬病を発症したマートルは、理性を失いながらも、本能的に教会へと辿り着いていた。彼女は人間らしさを失っているにもかかわらず、まるで救いを求めるかのようにステンドグラスに描かれた神々を仰ぎ見ていた。周囲には、誰が用意したのか不明なバケツに大量の炭が入れられ、静かに蒸気を上げていた。
「理性や感情を失っても・・・最後に救いを求めるのは神なのか・・・」
そんなマートルの姿に、ユーノは静かに近づき声を掛けた。彼女は、グルルと獣じみた音を立てながら、ユーノに振り返り、歯を剝き出しにして威嚇する。
「僕は魔導死神だ。死神の名を冠する者の責務を果たす。だから送ってあげよう――・・・」
刹那、その言葉に反応するかのように、マートルは咆哮を上げ、ユーノに向かって猛然と飛び掛かる。
「君の望む天国へね」
言いながら、ユーノは冷静にペットボトルを取り出し、中の水をマートルに向けて放った。
「グアァッ! ギャァッ!!」
水がマートルの顔にかかった瞬間、彼女は恐怖に駆られたように声を上げ、苦しみながら地面に倒れ込んだ。ユーノは、その反応を見て予想通りの結果になったことに安堵する。
(興奮期の狂犬病患者は、神経系の炎症による病変で麻酔もアルコールも効かない。唯一水に対して激しい狂躁(きょうそう)反応を示し、かつては“恐水症”とも呼ばれていた。それが“吸血鬼は聖水を恐れる”という伝説になった一因かもしれない)
ユーノは知識を活かして即座に対応し、マートルが苦しむ様子を見届けると、教会の外に急いで出た。
外に出ると、扉に鍵をかけて彼女を閉じ込める。内側から扉を叩く音が聞こえ、マートルが脱出を図るが、ユーノはその音を押さえ込むように扉に体重をかけた。
やがて、叩く音が静まり、教会の中は静寂に包まれた。
「ユーノ・・・・・・」
近くで様子を窺っていたフェイトが、おもむろにユーノに声を掛ける。
「終わったよ」
そう言ってユーノは扉の鍵を外し、フェイトと共に恐る恐る教会の中を覗く。そこには、安らかな表情を浮かべたマートルの姿があった。
「この村の炭は良質だ。余計なガスも出ず、純粋な一酸化炭素による中毒で、苦しむことなく静かに逝けたんだ」
事前にユーノが仕込んだ炭が、彼女の最期を安らかにした。
「もしかしたら・・・・・・彼女が本当に望んでいたのは、復讐でも安らかな死でもなく、『救い』だったのかもしれない」
ユーノは静かにマートルの遺体を丁寧に回収し、遺体袋に入れていく。フェイトは、その静かな作業を見守りながら、手を合わせ、祈りを捧げた。
「安らかに眠ってね。マートル――さようなら」
そう言って、フェイトは遺体袋のジッパーをゆっくりと閉めた。その音が、彼女にとってマートルとの最期の別れの合図だった。
「ま・・・待て! 違うんだ、放せ!!」
ユーノとフェイトが任務を果たし、マートルの遺体とアンゴルモアを回収して現地を去った後、カルネ村に新たな悲劇が訪れた。
聖職者ガウスは、村人達から逃げ延びたと思った。だが、彼を待っていたのはルー・ガルーの恐怖に囚われた村人達による無慈悲で理不尽な制裁だった。
「たしかにルー・ガルーを追ったが、怪我はしてない! 調べてくれ! どこも咬まれてなどいない!!」
彼は必死に自らの無実を訴えるが、恐怖に染まった村人達は聞く耳を持たない。
「わっ・・・私は聖職者だぞ!? 悪魔に取り憑かれるなどありえん!! やめろ!! やめてくれっ」
ガウスの叫びは虚しく、彼は無情にも捕縛され、村人達に引きずられていく。そして、皮肉にも彼自身がフェイトに行おうとした火炙りの処刑を、自ら受けることとなった。
「ひぃっ・・・! 頼むっ助けてくれぇ!! あああああ!!」
その刹那、パーンという乾いた銃声が響き、彼の脚は撃ち抜かれた。倒れ込んだ彼に襲いかかったのは、烈火の如き炎だった。灼熱の炎が彼の体を包み込み、逃げ場のない痛みと恐怖が彼を飲み込んでいく。
「うあああああ・・・・・・!!」
ガウスの悲鳴が空に響き渡るが、誰一人として彼を救う者はいなかった。村人達はただ、恐怖と疑念の中で、業火に焼かれる彼の姿を見つめていた――まるで悪魔の裁きを見守るかのように。
登場人物
マートル
声:大西沙織
18歳。銀色の髪を結った麗しい外見の女性。フェイトが執務官になったばかりの頃に関わった事件で保護された子供で、しばらくは管理局の保護施設で暮らした後に身元引受先としてカルネ村に引き取られたが、そこで彼女は村人から虐げられる酷い環境に置かれるようになった。心身ともにボロボロになっていく中、アンゴルモアを手にした彼女はこれまで自分が受けた苦しみを村人に与えてほしいと願った事で奇形の家畜が生まれたり、人間がルー・ガルー(のちに狂犬病と発覚)へ変貌を遂げる一連の騒動が起きるようになった。
既に心が壊れていた事もあり、再会したフェイトを保護すると食べ物に混ぜた毒で彼女を動けない様にする。やがて軟禁した彼女にこれまでの境遇を口にしながら恨み節を口にするとともに彼女を手に掛けようとするも、救出に現れたユーノに阻まれ失敗に終わる。
終盤、彼女自身の狂犬病を発症してルー・ガルーとなる。最期はユーノの手によって一酸化炭素中毒による安楽死を迎えた。
ガウス
声:間宮康弘
ガウス村で暮らす聖職者でありながら、裏では権力を掌握して富を独占し、カルネ村を実質統治している。
マートルによって保護されたフェイトをルー・ガルーが取り憑いた悪魔と見なして火炙りにしようとするなど非道な面を見せたが、最終的に彼自身もまたルー・ガルーから生き残った事で村人に疑いをかけられ、自ら火炙りにされるという皮肉な結果を迎えた。