雪の残る街道を、青年は足早に歩いていた。
街道と言っても、王都付近に敷かれた道ほど立派なものではない。
小型の荷車が通れば、それだけで道が一杯になってしまうだろう。
しかし青年は、道の中央を我が物顔で歩くことができた。
人通りが少ない、というよりも皆無だったのだ。
「これで道は合ってるんだよな」
決して地理に明るい方ではなかったが、迷いようがない一本道だ。
道中の村で仕入れた情報によれば、街道を辿れば夕方までには目的地に着くとのことだった。
それでも道行く人をまったく見かけないとなると、不安にもなってくる。
既に太陽は折り返し地点を過ぎていた。
午後の淡い光を浴びて、眼前にそびえるフラヒヤ山脈が白く輝いている。
こうして遠目に見る分には、美しい光景だった。
「ずいぶん辺境まで来ちゃったなあ」
天気は良く、旅の気候には恵まれていた。
吐く息は白いが、この程度の寒さは歩いていれば苦にならない。
ただし陽が落ちれば話は別だ。
それまでにたどり着けなければ、凍える一夜を過ごす羽目になるだろう。
考えるだに恐ろしく、青年はさらに歩調を速めた。
やがて道脇に木製の看板が立ててあるのを見つけ、青年は足を止めた。
田舎道には場違いな真新しい看板に、くっきりとした文字が書かれている。
〈この先、ポッケ村〉
視界は開けていた。
前方に向かって街道は徐々に広くなり、緩やかな上り坂を形成している。
その先はまだ見えないが、目的地は近いとみて間違いない。
青年は荷物を背負い直し、ふうと息を吐き出す。
そして顔に若干の緊張を浮かべながら、再び歩き始めた。
* * *
ポッケ村は、王都から遠く離れた辺境の地に位置する。
大陸北方に連なるフラヒヤ山脈を臨む、雪山の麓に作られた小さな村だ。
青年が事前に仕入れていた情報によれば、昔は鉱山村として栄えたが、今は寂れた寒村であり、この地を訪れるのはハンターか行商人ぐらいだという。
外門と呼ぶには簡素すぎるアーチをくぐると、そこが村全体を見通せる高台であることが分かった。なだらかな傾斜を下った先は開けており、野菜や果物、日用雑貨を並べた店が立ち並んでいる。
店先のアイルーに呼び込まれた買い物客が、じっくりと商品を見定めていた。傍では母親らしき女性たちがにこやかに談笑し、その脇を子供たちがはしゃぎながら駆け抜けていく。
どのあたりが寂れているのやら。物の本が役に立たないことを痛感する。
青年は現場よりも書斎を好むが、自分の目で見たものを否定するほど頑なではなかった。
「やあ! ようこそ旅人さん!」
村を見渡していると、銀髪の男性に声をかけられた。
肩幅が広く、顔つきも精悍であり、屈強な印象を受ける男だ。
そんな男が大股で近づいてくるものだから、少し物怖じしながら会釈した。
「王立学術院からの客人とは、キミのことかな。遠路遥々、ご苦労だったね」
「こんにちは。あなたがポッケ村のハンターさんでしょうか」
いいや、と男は首を振った。
右の袖をまくりあげ、筋肉質な二の腕を見せてくる。
そこには深く抉られた傷跡が残っており、青年ははっと息を飲んだ。
「この通り、ハンターは引退した身でね。はは、気にすることはない。もう十年以上も前の話だ。今となっては、この傷も良い思い出だよ」
穏やかに笑う男と相対しながら、青年は改めて納得するところがあった。
ハンターという人種は、独特の雰囲気をまとっている。
青年が彼らと接する機会はそう多くなかったが、それは確かな実感としてあった。
彼らは一様に快活であるが、眼光は研ぎ澄まされた刃のように鋭く、そしてどこか現実離れしている。
身一つで強大なモンスターを狩る者たちは、くぐり抜けてきた死線の数が違う。それが貫禄というか、説得力と呼ぶべきか、そういう類のものを生むのだろう。
目の前の男も、既に現役を退いているとはいえ、一般人とは一線を画しているように思えた。
「村を案内したいところだが、まずは契約相手と顔を合わせるのが先だな」
「ポッケ村付きのハンターさんは、どんな方なんですか」
青年の依頼相手は、ポッケ村の専属ハンターだ。
G級クラスの実力者で、扱いの難しい太刀という武器の使い手らしい。
過去に学術院の依頼を何度かこなした実績もあり、信頼はできる。
しかし肝心の性格や人となりについては謎に包まれていた。
近年は街には出ずに、村で静かに暮らしているという噂もある。
「そうだな。キミの期待に応えられるハンターであることは間違いない」
「あの、他には」
「ははは、書士殿は慎重なのだな。取って食われはしないのだから、実際に会った方が早いさ。ほら、そこの家を訪ねてみたまえ」
「ありがとうございます」
青年は元ハンターの男に頭を下げ、逃げるようにその場を去った。
不安から少しでも情報を仕入れようとした魂胆を、見抜かれてしまったように思えたのだ。
男が示したのは、村の入り口からすぐ左に折れた先。
木材と石を組み合わせて造られた大きな家だった。
玄関口の脇に下された雪は、まだ新しい。
青年はしばらく逡巡していたが、右手で握り拳を作り、年季の入った戸を叩いてみた。
実際のところ、どんな人物が出てくるのだろう。
彼と上手くやっていけるだろうか、神経質な人じゃなければ良いなあ、王都嫌いのハンターだったらどうしよう、などと色々な思いが駆け巡っていく。
「……あれ?」
返事はなかった。
勘弁してくれと思いながら、今度は強めに叩いてみる。
やはり静かなままだ。留守にしているのだろうか。
あまり気は進まないが、もう一度さっきの男に尋ねてみるべきか。
そう考えて引き返そうとした、その時。
「はーい!」
明るい女性の声と同時に、勢いよく戸が開いた。
「……へっ?」
青年が当惑の声を上げたのも無理はなかった。
中から姿を見せたのは、青年と同じぐらいの年の女性だった。
他の村人たちと同じく、ポッケ村の伝統衣装に身をつつんでいるが、フードは被っていない。
紫みを帯びた薄い青色の髪が、ざっくりと一つに束ねられている。
王都では見たことのない、珍しい色だった。
「いらっしゃい。あなたが学術院の人ね」
「えっと、そうですけど……」
この人は誰だろう。
ハンターの奥さんにしては若すぎる。しかし娘にしては大人だ。
そもそもこの村のハンターが家庭を持っているなんて話はなかった。
「あの、ポッケ村のハンターさんはどちらに」
「私がハンターだよ。さあ入って入って。あっ、靴は脱いでね」
青年はますます困惑しながら、早口の催促に従った。
雪に濡れた靴を玄関口に置き、室内へ足を踏み入れる。
部屋の空気は外と変わらず、冷たく尖っていた。それもそのはずで、向かって右側にある二つの突き上げ窓は、どちらも開け放たれており、外の寒風が容赦なく吹き込んでいる。
「奥を片付けてたから、すぐに出られなくてごめんね」
「いえ、お気づかいなく」
ハンターを名乗る女性は、軽い口調で話しながら、突き上げ棒の回収にかかる。
青年は部屋を見渡した。居住スペースとしては、簡素な部屋だった。
まず目についたのは、部屋の左手側に置かれた大きなアイテムボックスだった。
学術院内の倉庫でも見たことはあるが、ハンターの場合は狩りに使う道具をしまうのだろう。蓋の裏側に埃が溜まっている。長らく開けっぱなしらしい。
ボックスの隣では、暖炉がパチパチと控えめな音を立てている。その上には小さなヤカンが乗せられ、いかにも雪国の村の風情を醸し出していた。
暖炉の右側、玄関から見て真正面には、奥へと続く通路が開いている。のれんに遮られて見えないが、奥にも部屋があるのだろう。
「好きなとこに座ってて良いよ」
女性は背を向けたまま話す。
青年はそそくさと暖炉の前に陣取り、腰を下ろした。
暖炉の向かい側に置かれた机には、いくつもの本が横倒しのまま積まれている。
机の脇には大きなベッドが置かれており、今はハンターが膝立ちで、布団を踏みつけていた。
「よいしょっと。お待たせ」
ようやく窓を閉め終えた女性は、そのままベッドに腰かける。
床に座っている青年からは、彼女を見上げる形となった。
「まずは自己紹介しましょうか。あなたの名前を教えてくれる?」
「シュレイド王立学術院書士、サクミと申します」
「私はポッケ村付きハンター代理のアイネ。よろしくね」
「しばらくお世話になります」
丁寧に頭を下げながらも、サクミはアイネの言葉を訝しく思っていた。
彼女がハンターだというのも信じられないが、気になったのは代理という言葉だった。
「ポッケ村のハンターさんは、かなりの腕利きだそうですね」
「照れるなあ」
「ベテランの男性だと聞いておりましたが」
「……性別は変えようがないから目をつむるとして、若いのはお互い様だと思うんだけど。あなた、いくつ?」
「この春で16になりますが」
「ほら。ちなみに私は17だから、よく覚えておいてよね」
何故か勝ち誇っているアイネからは、いかにも同年代らしい幼さを感じられた。
村に入ってすぐに話した男との落差も大きく、やはりハンターには見えない。
「……この村のハンターはしばらく留守にしているの。どこに行ったかは誰も知らない」
「じゃあ僕の依頼書に返事をくれたのは、もしかして」
「私だよ? 『ポッケ村のハンターとして喜んで引き受けます』って書いてたでしょ?」
「代理の文字が抜けてますよ!」
なんということだ。
代理を務めているなら、事前に教えてくれても良かったではないか。
「ねえ、何かがっかりしてない?」
「話に聞いていたのと違う人がいたんだから、がっかりもしますよ」
これでは騙されたようなものだ。
G級ハンターと聞いていたのに、実績があると思っていたのに。
よほど不満が顔に出ていたのだろう、これまで笑顔だったアイネが眉をひそめた。
「私だって、もっと偉い書士官クラスが来るものだと思ってたんですけど? 戸を開けたら年下の男の子で、当てが外れちゃったなー」
「ぐ……」
アイネは横目でこちらを見ながら、わざとらしくため息をついた。
どうやらこの人は、言われた分はしっかりと言い返すタイプらしい。
サクミとしては面白くない気分だったが、新米書士である事実は覆せない。
それに、むやみに言い合うのも不毛だ。
この場はこらえようと無言を通すと、アイネも意地悪な視線を引っ込めた。
「それで、書士さんの目的は何なの。学術院名義の依頼書には、フィールドワークの護衛って書いてあったけど」
「依頼書の通りですよ。僕は、将来的には書士官の地位を目指しています」
「へえ、エリート志向なのね」
書士隊を指揮する権限を持つ書士官の立場ならば、より自由に研究を深めることが可能だ。
書物だけでは分からないことも、書士隊に命じて直接調べさせることもできる。
「ですが学術院では、多数の書士たちがそれぞれの専門分野で活躍しています。その中から書士官になれるのは一握りのみ。僕は今までにフィールドワークを経験したことがなく」
「その点で、後れを取っているのね。それで高名なポッケ村のハンターに依頼をしたと。なるほど、これは責任重大ね」
「……話が早くて助かりますよ」
サクミが旅の途上で練ったそれらしい動機を、アイネは簡単に受け入れた。
決して嘘はついていない。書士官を目指しているのは、偽りのない本音だ。
しかしサクミが王都の外、遠くポッケ村を訪れたのは、自ら望んでのことではなかった。
「フィールドワークって、どういうことをするんだろう」
「具体的な予定を立てていません。僕は《外》のことには無知ですし、ベテランのハンターさんに一任するつもりでした」
「そうなんだ。じゃあ私の好きにして良いってことね。とりあえず狩りの見学でもしてみる?」
「危ないのでそれは遠慮したいのですが」
いきなり話が恐ろしい方向に向かい始めたので、サクミは慌てて釘を刺した。
極端な話、フィールドワークに出たという既成事実さえ作れれば充分なのだ。
危険を伴う狩りに付き合うなんて、とんでもない。
しかしアイネは、サクミの心情など知る由もなく、別の捉え方をした。
「ハンター代理の腕が信用ならない?」
「あなたを信用するしないの問題ではなくて、安全面の考慮を……」
サクミの弁解を聞かず、アイネはすっくと立ち上がり、壁に掛けられていた剣を手に取った。
人の半身ほどもある、巨大な剣。
その分厚い刀身は、燃え盛る炎のように赤い。
「な、何のつもりで」
「この《バーンエッジ》は、私が火竜を狩った証」
アイネは片手で剣を構えて見せた。
火竜リオレウスといえば、ハンター以外にも広く名を知られているモンスターだ。
大空を自由に飛びまわり、口からは灼熱の炎を吐くという、恐るべき飛竜の代表格。
そんな人智が及ぶとは思えない強力なモンスターを狩った?
「ハンターになりたての頃、アルコリス地方のココット村で修行していた時期があってね。さすがに手強かったよ。燃え盛る火球を潜り抜け、猛毒の爪を掠めつつ、最後は私が劇的な勝利を収めたってわけ」
口ぶりから察するに、アイネはこの武勇伝を話し慣れているように思えた。
それが嘘ではないことを、燃え盛る刃が如実に証明している。
仮に剣を見せられなかったとしても、サクミは彼女を疑わなかっただろう。
朗々と語るその姿は、一点の曇りもない自信に満ちあふれていたのだ。
「たしかに私は代理の立場で、本来の村付きハンターには敵わない。でもこの一年間、彼の代わりに、村の守り手を全力で努めてきたの。書士さんの力になる自信はあるよ」
「……申し訳ありませんでした」
サクミは素直に頭を下げた。
アイネは、彼女なりの矜持を持っている。
年齢や性別、ハンター代理という肩書きを気にしたのは、サクミの非礼だった。
もっとも、アイネの方は話すだけ話したら満足したらしい。
バーンエッジを立て掛けると、元の明るい表情に戻っていた。
「せっかくだから、私の目的も話しておくね。書士さんの依頼を受けた理由」
「それは少し気になっていました。報酬金も大した額は出せていないはずですが」
「上乗せしてくれても良いんだよ?」
「できません」
「検討する振りぐらいしてくれても」
今回のフィールドワークは、学術院から資金を出してもらっている。
しかし大部分は、王都からポッケ村までの旅費に消えてしまった。
おかげで肝心のハンターへの報奨金が、相場を大きく下回っていたのだ。
「お金もあるに越したことはないけど、それより欲しいものがあるんだよね」
「と言いますと?」
「あなた、博識なんでしょう。なんたって《王国の頭脳》にいるわけだし」
様々な研究機関を抱え、膨大な知識が集結する学術院は、俗に王国の頭脳と呼ばれる。
しかしハンターの口からこの通称が出てくるのは意外だった。
「私は書士さんから知識を盗みたいの。ハンターではない研究者の視点で得た知識を」
「……ハンターさんは勉強熱心なんですね」
「ありがと。本職の書士さんに言われると嬉しいもんだね」
誇らしげに笑うアイネを前にして、サクミの胸中には新たな憂いが広がりつつあった。
彼女の村付きハンターとしての矜持や、貪欲に知識を求める向上心には、感心している。
しかしアイネは学術院を、新米書士を買いかぶりすぎだ。
自分が持っている知識は、彼女を満足させられるだろうか。
自信は、まるでなかった。
* * *
冷たくも清涼な空気を吸い込んで、サクミは大きく伸びをした。
アイネの案内を受けながら、午後のポッケ村をだいたい回り終えたところだった。
「あれが書士さんの拠点だからね」
村に立ち寄ったハンターに貸し出すギルドハウスは、しばらく使われていない様子だった。
アイネの家ほどではないが、一人で使うには充分すぎるほどに大きい。
「滞在中は、ここを好きに使って。ルームサービスのアイルーは元キッチンアイルーだから、頼めばご飯も作ってくれるよ」
「あの、なんというか……」
「まだ足りないものがあったか。さあ、ハンターさんに何でも言ってみなさい」
「逆です、こんなに良くしていただいて、恐縮してしまって」
無償で宿を貸してもらえるのは、嬉しい誤算だった。
この村は物価もそう高くなさそうだし、残り少ない資金でもやっていけそうだ。
「良いの良いの。お婆ちゃ……じゃなかった。村長が決めたことだから」
「ああっ!」
「え、いきなりどうしたの」
「村長さんへの挨拶を、まだ済ませていませんでした」
しばらく滞在するつもりなのだから、集落の長には挨拶をしておくのが礼儀だ。
むしろ村を訪れたとき、まず一番に会いに行くべきだったのかもしれない。
「村長さんはどんな方なんですか」
「竜人のオババ様って皆は呼んでるよ。今から数百年前に、このポッケ村を開いた人」
サクミが考えていたよりもずっと、ポッケ村の歴史は長かった。
村を作った当事者が、今なお現役で長を務めているのも驚きだが、それも竜人族なら不思議ではない。
彼ら竜人族は、人間よりも長寿で、博識だ。
根拠のない迷信に惑わず、物の考え方は合理的であり、学術院でも一目置かれている。
各地の集落では生き字引として、民を取りまとめる者が多いと聞いたことがあるが。
「あのマカライトが見える? お婆ちゃんはいつもあの辺りにいるの」
「ちょっと確認できないです。すみません、僕は視力が悪くて」
「私の目が良すぎるのかもね。付いてきて!」
軽快に歩くアイネの背を追って気づいたことだが、ポッケ村は実に複雑な地形をしている。
決して広くはないが、起伏の激しい土地であり、隅々まで回るには傾斜を上り下りする必要があった。
「どうして村長さんは、この場所に村を作ったんでしょうかね」
「私も不思議に思って尋ねたことがあるんだけどね。この地形と温泉があるから、雪が溜まりにくい場所なんだって」
「あれ、やっぱり温泉なんですね」
「もちろん。旅行者にも開放してあるから、落ち着いたら入ってみるといいよ」
村の中にはいくつか水辺があり、薄緑の水面からは湯気が立ち上っていた。
雪のちらつく露天風呂は、さぞ心地が良いことだろう。
温泉を横目に、緩やかな斜面を登った先、そこには特大の青い鉱石が祀られていた。
鉱山村だった頃の遺物だろうが、これほどに大きなマカライトは見たことがなかった。
「おお、よく来たね。待っておったよ」
ポッケ村の村長は、サクミの腰ほどの背丈しかない竜人だった。
すぐ近くにある守り石との対比で、余計に小さく見える。
竜人の年齢など見た目からは想像もつかないが、アイネが呼んだ通り、お婆ちゃんという表現がよく似合っていた。
声は高めだが、キンキンと響くような鋭さはなく、むしろ優しく包み込まれるような心地よさがあった。
「書士殿。このような辺境までご苦労だったね」
「挨拶が遅れて申し訳ありません。王立学術院書士のサクミと申します。これからしばらくお世話になります」
「丁寧にありがとうね。困ったことがあれば、いつでもオババを訪ねるがいいよ」
「ねえ、書士さんを連れていけるような依頼は出てない? 採集がなかったら、小型討伐でも良いんだけど」
挨拶が終わったと見て、アイネが前のめりに尋ねる。
すると村長は、そう尋ねられることを知っていたかのように、懐から三つ折りの紙を取り出した。
「雪山草摘みの依頼が来ておるよ。このぐらいが、雪山見学にはちょうどいいかもしれんの」
「やった! じゃあさっそく受注して」
「これこれ。今から出ては、帰りが夜になってしまう。それに書士殿も長旅で疲れておろう」
話が先へ先へと進展する状況に青くなっていたが、村長のとりなしで一命を取り留めた。
採集依頼が狩猟よりも安全なのは明白だが、それでも狩場に出向くことは変わりない。
出かける前には、ゆっくりと心の準備をする時間を取りたかった。
「それもそうね。出発は明日の朝にしようか」
「あの、明後日では駄目ですかね?」
「時は金なり、知は力なり。書士さん、私たちは一日たりとも無駄にはできないんだよ」
本当に、下手な書士よりも勉強熱心な人だ。
ハンターではなく、学術院の徒となる道の方が向いているのではないだろうか。
「ほっほ、共に励むとよい。ヌシらの交流が、互いに実り多きものになるよう、このオババも願っておるよ」
「ありがとう、お婆ちゃん。じゃ、またね!」
丁寧に一礼して村長と分かれた後、サクミはギルドハウスに向かって、来た道を引き返した。
隣を歩くアイネは、預かった依頼書に目を落としていたが、何かに気づいて立ち止まる。
「あれ、依頼人はシンシアお姉ちゃんか」
「お知り合いですか。村長さんが取りまとめているなら、ポッケ村の方なのでしょうけど」
「うん。私が小さい頃、よく一緒に遊んでたお姉ちゃん。雪山草なら、普段は旦那さんが採りにいってるはずなんだけど」
横から依頼書を覗き込む。
村長が話していた通り、依頼内容は雪山草の納品だった。
薬の材料に使っているので補充したい、といった文言が書かれている。
「ちょっと会いに行ってみようか。書士さんも付いて来なよ、お姉ちゃんは美人さんだし」
「それは関係ありませんが。せっかくなのでご一緒しますよ」
「半年前に結婚しちゃったんだよねー。書士さん、惜しかったね」
「何がどう惜しいんですか。早く行きましょうよ、一日たりとも無駄にできないんでしょう?」
アイネに付いて路地裏を通り抜け、大通りから外れる。
急勾配に土を重ねて作られた古い階段を下り、村の低所へと辿り着いた。
そこは表ほどの賑わいはないが、小規模な店がいくつか並ぶ区画だった。
その右端の店頭に、一人の女性が佇んでいる。
商品は瓶詰めの粉末と、束ねられた草花がいくつか。薬効のある植物を取り扱う店らしい。
「いらっしゃい、アイネちゃん。何か入り用かしら」
「こんにちは。今日は買い物じゃなくて、依頼を受けてきたの」
サクミやアイネより十歳近く年上の、どこか儚い印象を与える女性だった。
全体的に細身ではあるが、前掛けに隠れたお腹は、それと分かるほどに膨らんでいる。
じっと視線を向けてしまい、アイネに咎められて慌てて女性に謝った。
「気にしなくて良いわ。アナタが学術院の……ふふ、すっかり噂になってますよ」
「噂、ですか」
「はい。王立学術院の方から直々に依頼されたんだって、アイネちゃん大喜びで。ここ数日間、村のあちこちで自慢してましたから」
その言葉に隣を見ると、アイネがバツの悪そうな顔をしている。
サクミの視線に気づくと、何か文句でもあるのか、と言いたげに睨んできた。
「それより、お姉ちゃんは表に出てきて大丈夫なの? 安静にしてないといけないんじゃ」
「そうもいかないのよ。うちの人が熱を出して倒れちゃってね」
「薬草屋の主人が、なんでこの大事な時に……」
アイネは呆れ顔だが、シンシアはゆっくりと首を横に振った。
「違うのよ。私があまり動けないから、その分まであの人が無理しちゃって。でも嬉しいの。熱を出すほど頑張ってくれたってことでしょう」
そう話すシンシアの表情は、夫への慈愛に満ちていた。
なるほど、新婚夫婦だという感想しか出てこない。
アイネはいよいよ呆れ果てたのか、口がぽかんと開いている。
「えっと……それで仕入れが滞って、雪山草が足りなくなったのね」
「急ぎじゃないのよ。ただ、在庫が少し心もとなくて。アイネちゃん、お願いできるかしら」
「任せて。そのための村付きだからね。明日この書士さんも連れて雪山に行くから」
アイネは自信満々に引き受けると、ついでにサクミのことにも言及した。
まあ、とシンシアは穏やかに微笑む。
「お手伝い、ありがとうございます。充分に気をつけてくださいね。アイネちゃんが一緒なら、きっと大丈夫だとは思いますが」
「ハンターさんとはぐれないように気をつけます」
「子供のお使いじゃないんだから。書士さんは心配性だなあ」
そんなことを言われても、楽観的になれるわけがなかった。
ハンターズギルドが狩場に指定している場所で、一人はぐれるような事態になれば、生きて村に戻ることはできまい。
誇張なしに、命がかかっているのだ。
「心配いらないって。雪山は綺麗なところだから、明日を楽しみにしてると良いよ」
当たり障りのない返事をして、サクミは遠景の山々を眺めた。
白き山脈には、夕暮れの赤みが薄く差し込みつつあった。