すっかり夜の帳が降り、街頭が薄闇を照らしている。
今日のバイトを終えて、帰路を歩んでいる。終わるのが同じだった松原さんを家まで送り届けたので、帰るのが少し遅くなってしまった。
我が家――一般的なそれよりは少し大きめの一軒家――が見えてくる。日菜は、仕事が若干長引いて、帰るのが遅れると連絡を受けたので、まだ帰ってきていないはずだ。事務所で送ってもらうらしい。しかし、家には明かりが灯っていた。
両親は今日も帰ってこないはずなので、家にいる人物といえば、該当するのは一人だけだ。姉さんが家にいるのだ。考えてみれば当然のことだったが、今日はいつもより姉さんのことを考えていたせいか、勝手に気まずさを感じていた。その気まずさが、我が家だというのに帰宅するのを躊躇させる。
ただ、いつまでも家の前で不審者のように佇んでいるわけにもいかない。入ってしまえば、いつも通りだろう。
鍵を挿入し、家のドアを開ける。
リビングに行くと、やはりそこには姉さんがいた。妹と同じ浅葱色の髪の毛だが、その長さは妹のそれよりも大分長い。姉妹だから同じ瞳の色をしているが、姉さんの瞳は意思の強さ象徴するような力強さを湛えている。
物音に気づいたから、当然姉さんはこちらを振り向く。目が合う。目を逸らす。
こちらを向いた姉さんは、まだ制服だった。きっと、つい先程帰ってきたばかりなのだろう。荷物もリビングのソファに置いたままだった。
何も言わないわけにはいかないので、言葉を発する。
「……ただいま、姉さん」
「……おかえりなさい」
姉さんは、別に何にもないように、まるでこちらに興味など欠片もないようにそう言うと、視線をこちらから外す。これ以上話すことなどないと言わんばかりに。
極々最小限の挨拶。それを済ませた俺は、姉さんが何か行動するよりも早く、二階の自室へと急いだ。
パタン、と部屋の扉が閉まる音がする。
荷物を放り投げ、俺はベッドへと身体も放り投げた。普段あまりシフトを入れていない俺にとって、バイトの日というのはより一層疲労の溜まる日である。しかし、それはまるで自棄になったようにベッドに突っ伏しているのとは関係がない。先程の会話で、姉さんが俺と必要以上に会話を交わしたくないというのを、再認識したからだ。
本当はもっと姉さんと話がしたい。今日はバイトが忙しかっただとか、松原さんが名前で呼んでくれるようになっただとか、逆に、姉さんは今日どうだったのかとか、とにかく何でもいいから、会話による触れ合いをしていたかった。けれど、そんなものはここ何年かの長い間実現していない。
こんなことはいつものことだったが、今日は何故か姉さんのことばかり考えてしまう。授業中もどこか上の空で、友人にも普段よりボーッとしていると指摘されたのを思い出す。
おそらくは、今日は日菜がベッドに潜り込んできたからだろう。アイツは俺にとっての太陽だ。昔から変わらず懐いてくれているし、こんな俺にもいつも優しい。だから、そんな温かな関係があるからこそ、姉さんのことがより一層気になってしまったのだ。もしかしたら、松原さんのこともあるのかもしれない。向こうから距離を縮めてくれたのだ、素直に嬉しさを感じた。他にも、高校の友人と話すのに気苦労は感じないし、バイト中の他のメンバーも悪い人などいない。俺の周りの人間は、少なくとも、俺にとって居心地の悪くない空間を作り出してくれているように思う。姉さん以外は。
姉さんは、俺のことが嫌いなのか、と問われると、それに答えることはできない。はっきりとした答えを出したくないし、また向こうから、姉さんの方から突きつけられるのも嫌だった。俺は、どうしようもなく臆病な人間だからだ。
でも、姉さんは日菜に対しては俺に接するよりか、幾分か柔らかい態度をとっているのも、また事実だった。しかし、それも当然かもしれない。俺は、いつからか遠くへ行ってしまった姉さんに、歩み寄ろうとしなかった。これ以上の悪化が怖くて、踏み出すことをしなかった。その結果が、今の冷え切った関係だ。
そして、こうした冷え切った関係で生じた寂しさの埋め合わせを、日菜に求めている。まるで代わりにするかのように。表面上は何ともない素振りを見せるものの、ああしてスキンシップをしてくれる日菜に、かなり依存しているといっても過言ではない。妹は妹であるのに、姉さんの代わりにしていた。俺は臆病で、そして最低な人間だった。
自分勝手な贖罪のつもりなのか、だから俺は日菜には何かと身を捧げている。いや、つもりになっているだけかもしれない。日菜は要領がいいから、厄介事を起こすようなことはしないし、悩み事を抱えるようなことにもならない。俺がしている事といえば、時間のある時に送り迎えをするとか、一緒に買い物に付き合うくらいだろうか。それ以外を日菜が求めてこないというのもあるが。
この際はっきり言ってしまえば、姉にも妹にも、俺は必要のない人間なのだ。
姉は努力家だ。妥協を許さず、高みを目指し、それが出来る能力がある。小さいころから、諦めることが嫌いだったのを覚えている。そんな彼女の姿勢を受け入れてくれたのが、ロゼリアなのだろう。
妹は天才だ。姉とは逆に、諦めるという選択肢を知らない。やろうと思えば、何でも出来てしまうから。その延長線上で、暇つぶしのように始めたのがパスパレだ。最近は、活動の話をよくしてくれるから、それなりには楽しいらしい。
そして、俺は何もできない。姉さんや日菜のギターのように打ち込めることもない。学業の成績も、悪くはないが良くもないレベルだし、運動能力も困らない程度だ。一芸に秀でている所もない。
どうすることもできなかった。このまま、心が死ぬまで、日々をいたずらに消耗していくだけなのだろうか。
「……ん?」
自問自答の頭の中を打ち切るかのように、ポケットから振動が伝わる。スマホの通知だった。日菜だろうか。
『メッセージ:一件 弦巻こころ』
弦巻こころ。まさに天真爛漫という言葉が似合う元気ガールだ。簡単に出会いを説明すると、俺が公園で黄昏れていた時、「笑ったほうがいいわよ!」と、いきなり声を掛けてきたのが彼女だった。話を聞いていたが、個性的で面白い人物であったので、何となしに連絡先を訪ねたのだ。快諾だった。
そうした成り行きで連絡先を交換して以来、不定期に、思いつきのように連絡がくる人物だった。内容が気になるので、画面をタップして確認する。
『弦巻こころ:楽しいことを思いついたわ! 観月、明日は暇かしら?』
明日は土曜日である。午前中は学校があるから、午後なら暇だった。予定のない旨を伝えると、すぐに返信される。
『弦巻こころ:なら、△時に〇〇カフェまで来てほしいの! きっと、すごく楽しいわよ!』
彼女は楽しいことが好きなのだ。以前同じように呼び出されて会った時も、「世界中が笑顔になったらいいのに!」と語っていた。それを聞いているこちらも、自然と前向きな気持ちになってくるので、彼女にはそういう、人を惹きつける能力があるのだと思う。
『了解』とだけ短く返して、スマホを閉じる。一息ついたその途端、ドアが激しく開かれた。
「おにいーちゃーん!」
日菜が勢い良くドアを開けて、こちらに飛び込んでくる。避けると壁に激突しそうな勢いだったため、身を呈して受け止める。にしても、いつの間にか帰ってきていたらしい。スマホを見ていたせいで気が付かなかったのか。
日菜は、俺の胸元に顔を埋めている。
「おかえり、日菜」
「ただいまお兄ちゃん! なんであたしが帰ってきたのにベッドで寝てるのー!」
「ちょっとバイトで疲れてて」
「妹が帰ってきたら出迎えないと、お兄ちゃん失格だよ!」
「初めて聞いたよ、それ」
「今考えたからね! ところで、お兄ちゃん明日暇?」
嵐のように会話をぶつけてくる妹の言葉を受け流していたら、明日の予定を聞かれた。生憎だが、明日の予定は先程埋まってしまったのだ。
「ついさっき、明日の予定が埋まっちゃったんだよ……」
すると、日菜は埋めていた顔をあげて、こちらを非難するように眉尻を下げる。
「えー! 折角お兄ちゃんと買い物に行こうと思ってたのに!」
「じゃあ、今から断ってもいい」
弦巻さんには悪いが、妹の誘いを優先させたい。一度受けた誘いを断るのが如何に失礼かは重々承知しているが、他ならぬ妹であるのだ。日菜にはこちらの出来ることなら可能な限りしてあげたい。
しかし、妹はそれを良しとしなかった。数瞬悩むそぶりを見せたあと、密着させていた身体を離し、「それは相手に悪いからダメ!」と、出来の悪い兄に説く。
「学校のお友達との関わりも大切にしないと! お兄ちゃんぼっちになっちゃうよ?」
それは考えたくない。がしかし、察しの良い妹にとっては珍しく、遊ぶ相手を勘違いしているようだった。
「学校ではちゃんとやってるから、問題ない。まあ、学校の友達じゃないんだけど」
「誰?」
「学校じゃない友達」
「なんで、はぐらかすの!」
別にはぐらかしたつもりは無く、ただ何となしにそう口にしただけだったのだが、妹にとってはそう聞こえてしまったらしい。両手を腰にあてて、怒っているアピールをしていた。ただ、兄の交友関係をこんなにも知りたがるものだろうか。まあ、別に知られたところで問題もない。
「この前知り合ったんだ、弦巻さんって言うんだけど」
そう言った直後、日菜が一瞬、冷たい真顔になった気がした。けれど、そんなものは気の所為で、すぐにいつも通りに戻る。
「あー、女の子かあ! なるほど、なるほど……」
日菜は何かを察したように、お主も悪よのう、と言いそうな表情を作っていた。
「別に想像しているようなこと、何もないからな」
「ふーん? まあ、楽しんできてね、お兄ちゃん!」
そう言って、俺の部屋を出て行く。ちなみに、ドアは開けっ放しだった。